第1話

漆黒の夜よりもなお暗く
迸る鮮血よりもなお紅く
絶海の海よりもなお蒼く
天高い雲よりもなお白く
優しき心を持つものよ
そなたの瞳は冷たい風の吹きすさぶ中
哀しき心を持つものよ
その魂は陽溜まりに戯れる黒き翼

渾然と化したかの者の身に訪れるのは
自らの罪を罰する為の断頭台
それとも明かりの灯らない長い回廊

混沌にたゆとうかの者の心に訪れるのは
海に照り映える幾千の炎
それとも咲き乱れる花の永遠とも思える世界

 


 

「監視は付けなくていいのか。」
「必要無い。」
司令室でモニターの一つを見ていた冬月がゲンドウに尋ねた。
「今は一人でも人手が惜しい。あんな臆病者の屑にそれを割くわけにはいかん。」
「しかし、我々のことを多少なりとも知っているのだぞ。」
「だからどうだというのだ。やつに出来ることなど、何一つ無い。」
「・・・そうか。」
「ああ。」
ゲンドウは見ていたモニターを切り替えた。
そこにはぼろぼろになった初号機がケイジにつながれていた。その隣の画面にはさらに酷い弐号機の姿が見て伺えた。
両機とも、最後の戦いを終えその役割を全うしたはずだった。
ではなぜ今ここにあるのか。
ゲンドウの不敵な笑みが見えなかったのは冬月にとって幸いだったというほか無かった。

「いなくなっちゃたのねぇ。」
「ミサト、そのことはもう禁句よ。口を慎みなさい。」
「いいじゃない今日ぐらい。ここはあなたの部屋で誰に聞かれるわけでもないんだから。」
そう言われてもリツコはコンピューターの画面から目を離すことはなかった。
そんなリツコをよそにミサトは言葉を続けた。
「あんな事がなければねぇ・・・」
遠くを見つめる目はどこを見てだろうか。
忽然と姿を消し、今なお生死すら判らない男の姿か。
自ら去っていきその存在すら無かったことにされてしまう少年の姿か。
隣に座る親友は未だモニターを見つめていた。

「ケンスケ、お前はラッキーやったやろ。」
「だな。これであいつがいればよかったんだが。」
「せやなぁ。あれから行方わからんって、どういうこっちゃ。」
「さあな。とにかくさっさと今日のノルマこなしてしまおうぜ。」
「この新しい脚にも早い事慣れなあかんしな。」
ケンスケとトウジはジオフロントの一角で、言い渡されたストレッチその他を黙々とこなし始めた。
そのことがなにを意味するのか判らないまま。
そこでは以前、ある男が西瓜を大事にしていたことも知らずに。

「絶対許さない。」
病院の一室でそう呟いた少女がいた。
その少女の瞳には恨み、怒り、そういった光が灯っていた。
「絶対許さない。」
衰弱している体をその想いだけでここまで維持できるものだろうか。
自分が一体何を何故そこまで憎み怒っているのか、理解しているのだろうか。

—–

数日後、日本の背中と呼ばれる山奥で数人の樵がその場ににつかわない少年を見たという。彼らに詩才があれば、その少年を評してこう言ったであろう。
「彼の瞳は深い哀しみと狂気を帯びていた。」と。
あいにく少年は現れた時と同様、忽然と消えてしまったので、その真偽を確かめる術は誰も持たなかった。

その少年が次に姿を現したのは妖怪が住むと言われた町であった。
埃にまみれ、飢えで痩せこけそれは酷い状態であったという。一目見た幼子は妖怪が現れた、と今も夢に見るらしい。
「僕は、やっぱり要らない子なんだ。」
そう呟きながら歩く少年に心の優しい老婆が何事か説こうとしたが、少年の瞳の奥に映るものを見てやめたという。
「あんな瞳をするんじゃ。わしらには到底わからん事してきたんじゃろう、若いのにのぉ。南無南無・・・・・・」
結局そこでも少年は二日ほどで姿を消した。
心ない者は「妖怪にでもさらわれたんだろう。」と噂した。

「この海を越えれば日本の最北・・・か。」
道無き道をただ歩き、埃にまみれたその姿は以前の面影を少しも残さず、飢え痩せこけた体は人間の知恵を持ってしても到底生きているとは思えなかった。
それでも彼は二本の脚で今なお、否、此の時代だからこそ、様々な人々の怨念の渦巻く山の麓にいた。
そこで荒れ狂う海をじっと見ていた。
生きとし生ける者の母、海。
それを見ても彼の心にはなんの感銘も浮かばなかった。
否、母だからこそ、なにも浮かばなかったのか。
それでも彼には多くの時間があった。
死に逝くための時間が。
「逝こう。どうせ行く当てはないんだ。」
両の手首に残る数本の赤黒い線を見て、少年は再び歩き始めた。
とりあえずは海に浮かぶ小舟に向かって。
その先にある何かに向かって。

疲労などとうの昔に越えていた。
飢えなどすでに感じることすら出来ない。
自分がなぜ、ここまで来たのか、それすらも判らなくなっていた。
少年は小舟と引き替えに北の地を踏んだ。
小舟に宿る魂が彼を生かそうとしたのか。
もしそうだとするとその小舟の魂は報われないことになりそうであった。
少年は小高い丘の上に立つやいなや、大きな木の下にとうとう座り込んだ。
「ここまでか。」
ゆっくりと瞼を閉じる少年。その瞼の裏に映るモノが悪夢より酷く、それ故自分を苦しめ、哀しませ、狂気に至らせることを知りながらも。

少年は思い出した。
一世紀半も前に此処で義と勇に満ちた狼達が散っていったことを。
その時三百年にも及ぶ時代が完全に終わりを告げたことを。
「僕も、此処で、逝く事が出来るんだ。」
か細い声で呟く。
そして再び瞼を開く。その瞳にはやはり何も映っていない。
「駄目だな、僕は。僕は、ただ、逃げ出した、だけなんだ。
そう。すべてに裏切られ、すべてを壊して、逃げ出したんだ。
そんな僕が逝く所なんて、きっと、ない、よ、ね。」
すでに涙すら出なかった。
そして今度こそ、瞼を閉じた。
閉じることになりそうだった。

—–

「誰?」
少女は異様な気配に気がついた。
そしてその異様で、か細い気配をたどって行ったのだった。
「誰?」
少女は木陰の奥に座る浮浪者のような者に恐る恐る近づいていった。
そして見た。
その者がまだ同い年ぐらいの少年であることを。
そして思い出した。
その者を以前見たことがあることを。
その者を本気で好きになったことを。
「シンジ!?」
少女の手が震える。
少女の脚が震える。
少女の声が震える。
もう二度と逢えないと
もう二度と名前を呼ぶことは無いと
もう二度と名前を呼ばれることが無いと
そう思っていたのだ。
それが今、崩れ去ろうとしていた。

少女は少年の前にしゃがんだ。
少女は震える手で少年の腕をそっとつかんだ。
少年の腕は軽かった。
少年の腕は細かった。
「どうしちゃったのよぉ。」
訳も分からず涙が出た。
久々に流した涙だった。
「ねえ、シンジ、シンジ、シンジぃ、シンジぃー!」
少女の涙は少年を濡らす。
少女の体は大きく震える。
「お願い。お願いよ。起きて、シンジぃ。」
少女の再三にわたる嘆願が少年の耳に届いたのか、届かなかったのか。
少年は三度瞼を開いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マナ・・・」
少女は顔を上げた。
そして何度目になるか判らないが少年の名を呼ぶ。
「シンジぃ!!」
それでも少年の瞳は何も映さない。
「・・・マナ・・・最期に逢えて・・・よかった。」
か細い声がさらにか細くなっていた。
「な、なにいってるの?
わ、わたし、わかんない。」
少女の涙は未だ止まることを知らない。
「・・・ごめん・・・僕逝かなくちゃ。」
「えっ?!」
「・・・逝かないと・・・君まで・・・不幸にしちゃう。」
「ど、どこに行くの。せっかく逢えたのに、どこに行くっていうのよぉ。」
少年からの返事はない。
その瞳は急速に光を失っていく。
「だめぇー! いっちゃだめぇ!」
少女の必死の嘆願も、今度は届かなかった。
そして少年の瞼は閉じられた。
「シンジぃーーーーーーーーーーーー!!!」
少女の絶叫は狼達の耳にも届いた。

—–

ひとしきり絶叫し、落ち込み、哀しんだマナは自らやるべき事を思いついた。
死なせはしない。
その一言がどれだけ大変で、そしてシンジにとってどれだけ無意味なことか、その時は知る由もなかった。

マナは無茶を承知でシンジを自分の住んでいる家まで背負っていった。
幸か不幸か、シンジの体重は極限まで落ちていたため、日々訓練を重ねる彼女にとってそれほど困難ではなかった。
恨めしく思っていた訓練にこのときばかりは感謝した。
問題はその後である。
シンジの体は衰弱などという生やさしいモノではない。
しかもマナが知る限りではシンジはネルフの人間である。よそに助けを求めるわけにもいかない。
マナは基地に行き、唯一親切にしてくれている医師から薬を手に入れることにした。
とりあえずその者から病人を介抱する方法を一通り習った。
曰く、知り合いに病人がいる。曰く、戦場でいつ怪我人に遭うか判らない。
このことを一日で覚えるのである。否、覚えなくてはいけなかった。覚えたことを利用してシンジを助けなければならなかったからだ。
それでも彼女は真剣に話を聞き、メモを取り、医師を相手に実際の動作までやった。
「どうしたんだい?いつもは訓練がいやでここに逃げ込んでくる君が。」
そう言われても彼女は怯まなかった。
そして先生が放送で呼ばれることをきっかけにマナは帰ることにした。
「じゃ、マナ君。よかったら明日も習いに来るかい?」
「おじゃまでなければ。」
「そうかい。午後からは比較的時間があいてるから、そのころ来るといいよ。」
「わかりました。今日はどうもありがとうございました。」
「礼にはおよばんよ。医者として当然のことをしたまでさ。じゃ。」
「それじゃあまた明日。」
マナは先生が出ていったのを確認すると先ほどのメモを取りだし、机の上に広げた。
「衰弱には・・・これと、これと、これと・・・」
必死で薬品の入った瓶のラベルを調べるマナ。
自分の家で、自分が好きになった少年が死にかけているのである。ここまで来て、なりふりかまってる余裕はなかった
「明日も来るし、これぐらいで十分かな。」
そう言ってマナは取り出した薬品を大切にポシェットにしまうとそそくさと診察室を出た。誰にも気づかれないように。もし気づかれても悟られないように。
ここでも日頃の訓練は生かされた。
監視カメラに感情や直感というモノがあれば、もしかしたら彼女も怪しまれたかもしれなかった。それほどの技術を駆使して彼女は自分の家に向かった。
皮肉にも彼女は彼女が否定したい全てを使ってシンジを助けようとしていた。
そしてそのことに気付く余裕など全くなかった。

彼女が家に帰ったとき、シンジにはすでに生命の鼓動というモノが感じられなかった。唯一の救いは微かに - それも本当に微かに - シンジの不規則な息づかいが聞こえることであった。
あわてて薬を処方しようとするマナ。
だが彼女が持ち帰ってきたのは - 当然といえば当然だが - 錠剤か粉末の薬だけで、衰弱しきったシンジがそれを飲む、なんて言うことは到底不可能に思えた。
それでも彼女は粉末の薬をシンジの口の隙間から流し込み、そして白湯はいったん自分の口に入れ、口移しでシンジに飲ませようとした。
躊躇ってなんか、いられない。
その想いが彼女を突き動かす。
そして彼女は初めてシンジに口づけをした。

不思議と恥ずかしさはなかった。
そんなことは問題でなかった。
お願い、生きて。生きて私の名前を呼んで。
それだけが彼女の願いであった。
それは第三新東京市でシンジと別れて以来の願いであった。

シンジがマナの家に運び込まれて二日目。
シンジは未だ目を覚まさなかった。
反対にマナは一睡もしていなかった。
「シンジ、お願い、わたしの名前を呼んで。」
すっかり肉がそげ落ち小さくなった手を握り彼女は呟いた。

朝食と昼食を兼ねた簡単なご飯を済ませ、マナはこっそりと家を出た。
心配には違いなかったが、これしか助ける方法がないのだ。
悲痛に迫られながらも彼女は家を後にした。

彼女が基地の診察室に入ったとき、医師はすでにいた。
「こんにちわ。マナ君。顔色が悪いよ?診てあげようか?」
「いいんです。そんなことよりも、昨日の続きお願いします。」
マナが十分隠したつもりでも、悲痛な声は医師の耳に届いた。
医師は胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえ、ズボンのポケットからすっかり珍しくなってしまったオイルライターを取り出し、両手で火を付け口元に持っていく。診察室の中に、まずオイルライターの香りが漂い、そして煙草の紫煙が広がっていく。
「マナ君。何を隠しているんだい?誰にも言わないから、言ってごらん?」
この基地に来てからほんとに幾度目かの優しい言葉をかけてもらい、マナは突然泣き出した。
「ほ、ほら、泣いてないで。泣いてちゃ何も解決しないだろう?」
医師もあわてた。それほどまでにマナが感情をここまでむき出しにするのが珍しかったのかもしれない。
「ほ、ほんとに、ほんとに誰にも言いませんか?」
「ああ。」
「約束してくれます?」
「ああ、約束する。」
そこまで聞いて彼女は泣くのをやめた。それでも赤くなってしまった目は痛々しかったが。
「わたしの好きな人が死んじゃうかもしれないんです! 先生、助けてください!」
マナの告白に一瞬たじろいだ医師であったが、すぐに気を取り直した。
「で、その患者は今どこに?」
「わ、わたしの家です。」
「わかった。」
それだけ言うと医師は大きなバックにとりあえず必要な物を詰め込み始めた。
「で、どういう状況だい・・・って聞くまでもないか。昨日君が言ったことが全部当てはまるんだね。」
マナは小さくうなずく。
医師はさらに必要であろうと思われる薬を全て詰め込んだ。
「準備は出来た。さあ、君の家まで案内してくれ。」
「はい。」
マナは未だ涙声であったが、その声の裏に安堵の気持ちがあったのは隠せなかった。
「この子でもこんな事があるんだなぁ。」
医師はマナに聞こえないように呟いた。

流石の医師もマナの家に案内されて驚いた。
ぱっと見死んでいるようにしか見えなかったのだ。シンジが。
それでも彼は必死の手当をした。
両手両足の裂傷。全身のわたる重軽度の打撲傷。栄養失調とおそらくは睡眠不足から来る重度の衰弱。さらに両手首にある数本の切り傷。
これで生きていたのだ。そのことこそがまさに不思議でしかなかった。奇跡でしかなかった。普通の人間にとっては。
2時間の診察を終え、疲労しきった医師がコーヒーを求めた。
「いやぁ、これだけすごいのはモグルでしか見たこと無かったよ。正直言ってすさまじいばかりの生命力だね、君の恋人って言うのは。」
そこまで言って医師はシンジを見た。昨日まで不規則であった呼吸が多少ましになってきている。
マナは「恋人」のところで照れていた。
「まだ、というか、もう、というか、恋人じゃないんです。」
マナはしどろもどろになりながら言った。
「そうか。」
煙草の煙をぷかっと浮かべて医師は言った。
「じゃ、俺はそろそろ帰るよ。」
コーヒーを飲み終え煙草も携帯の灰皿に捨てた後、医師は来るときに持ってきた鞄を持って立ちあがった。
「先生・・・」
マナは再び泣き始めた。それでも言葉を続けようと必死になる。
「あ、あり、ありがとうござ、ございました。」
「そんなに泣くなよ。かみさんに怒られるじゃないか。」
医師はあさっての方向を向いてそう言った。そんな彼を見てマナも泣きじゃくる顔で微笑んだ。
「じゃ。処方箋はそこに記してあるとおりだ。しっかり看病するんだよ。」
「はい。本当にありがとうございました。」
マナは医師が出て行くまで深々と頭を下げていた。
その日の夜。マナようやく眠ることが出来た。

「それにしてもあれはいったい誰だ?昔のマナ君の仲間は全滅した、と聞いているが。」
診察室でコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせる。
「ま、マナ君の頼みだ。ここは一つ余計な詮索はしないでおこう。詮索してる暇もないことだし。」
そう言って煙草の火を消したとき、患者が診察室に運び込まれてきた。
意識もなく全身の出血は相当な物であったが、こんな物は見慣れていた。ほぼ日常茶飯事といってもよかった。
「しかし彼は・・・・・・。いや、さっきしないと言ったところだったな。」
医師の頭に正に瀕死と言う言葉が当てはまる少年の姿が浮かんでは消えた。

マナがシンジを見つけて一週間が過ぎた。
その日も彼女は朝起きて、昼を過ごし、夜を迎えた。
シンジは未だ目を覚まさない。マナに顔に苛立ちと焦りの色が浮かび始めた。
「なんで?
なんで目を覚ましてくれないの?
・・・・・・
お願い、答えて、シンジ。」
この日数度目の、この一週間で何回口にしたかわからないセリフとともに、マナはシンジの未だ細い細い手を握ったまま眠った。
頬に大粒の涙を残したまま。

翌朝。
マナはまたベッドに寄りかかったまま寝ていることに気づかされた。
体中が痛い。
当然である。無理な体勢で寝ていたのだから。
マナはとりあえず大きくのびをした。
そして鏡を見た。
ひどい顔。とてもシンジには見せられないよねぇ。
とりあえず洗面所に行き顔を洗った。ずいぶんすっきりしたように思う。
これなら何とか。
洗面所にある鏡を見てマナは納得した。
その時であった。

ごそごそっ

洗面所の鏡に映るベッドの上で何かが動いた。。
「シンジっ!」
マナは洗面所から飛び出た。
そこにはベッドの上に半身起こしてるシンジの姿があった。
「シンジぃー!」
マナはそのままベッドまでかけていく。
「気が付いたのね。よかったぁ・・・よかっ、た・・・よか・・・」
最後の方は涙声になってまるで聞き取れなくなっていた。
それでも彼女はよかった。この一週間の苦労が報われたのだ。ここで涙の1リットルや2リットル、どうということはなかった。
その後のシンジのセリフを聞くまでは。
「・・・・・・マナ・・・」
「シンジぃ」
「・・・・・・なんで、助けてくれたの?」
マナの頭の中は真っ白になった。

—–

「なんで、って・・・そんな・・・」
マナの顔からは涙も、感情も消え失せていた。頬を伝う涙を拭うことすら忘れていた。
「シンジ、あなた死にかけてたのよ?それを、なんで助けたって・・・そんな・・・」
マナは言葉を紡ぐことが出来なかった。
人が人を助けるのは人間として当然のことである。そのことを頭から否定されて彼女は呆然としていた。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・ぼくはね。」
2人の間を長く沈黙が支配したが、それをうち破ったのはシンジだった。
「・・・ぼくはね、死のうと思っていたんだ。でもなぜか死ねなかった。」
シンジの瞳には相変わらず光が灯っていなかった。
マナの瞳からあふれ出る涙がいっそう増した。
「それであの海を渡って運が良ければ海流に巻き込まれると思ったんだ。それも駄目だった。」
シンジの呼吸が若干荒くなる。
マナはそのことに気づきながらも、何もできなかった。
「丘の上に登ったんだ。そこで僕の命運はつきたと思った。」
2人の間を風が通り抜ける。
まるで2人の生き方を分かつかのごとく。
「やっと死ねる。と思った。ほっとした。」
シンジは大きく呼吸をした。
数週間ぶりの言葉の発声は、彼にとってつらい作業であったに違いない。
その様をマナは黙ってみていた。
「そこへマナが現れたんだ。最後に逢うことが出来て、ほんとによかった、と思った。これで悔いはなかったんだ。」
マナは大きく泣き始めた。
涙が次から次へと出て止まらなかった。
止める術も全くわからなかった。
それでも彼女はシンジに訴えた。
「わ、わたしはね。ずっとずっとずっとずっとシンジに逢いたかったんだよ。でも、もう絶対逢えないと思って、それで、シンジを思い出すだけでもいいとおもって。」
もうマナの顔はぐしゃぐしゃになっていた、
「それで思い出すたんび、あの丘に行ってたの。そしたら、そしたら・・・・シンジぃ、あなたがいたのよ。それもぼろぼろで、もう死にそうで、それでわたし、わたし、わたし・・・」
マナが喋っている間中、シンジはうつろな瞳をしたまま彼女を見つめていた。
万が一彼女が冷静でシンジの顔を見て喋っていたら彼の瞳の変化に気が付いたかもしれなかった。
「わたし一生懸命看病したわ。だって、シンジに元気になって欲しいもん、シンジと喋りたかったんだもん、シンジと・・・シンジと・・・」
その後は言葉にならなかった。
一週間分の涙が一斉に出てきたから。
一週間分の苦労は言葉に代えることもできなかったから。
その様をシンジは黙ってみていた。
「・・・・・・・」
涙が小康状態になったとき、マナは肩に弱々しい力が加わるのを感じた。
はっとなって顔を上げたその時、シンジの口が動いた。
「・・・」
「えっ?なにっ?」
「ごめん。」
まだ完全ではなかったが瞳に弱い光をともしたシンジがマナの目の前にいた。
「マナ、ごめん・・・」
マナの表情が固まる。そこには先ほどのようなネガティブな印象はなかった。その証拠に口元がだんだんにっこりとゆるんできている。
「シンジだ。」
「?」
「わたしの知ってるシンジだぁ、シンジが帰ってきたんだぁー!」
そのままシンジの胸元に抱きつき何度目かの涙を流した。
シンジは自分の胸の内で大声で泣く彼女を、そっと抱き留めた。

2人はしばらく抱き合っていた。
マナは自分の好きなシンジが帰ってきたことに喜んで。
シンジは自分を必要としてくれる人がいることに喜んで。
そしてどちらからともなく距離をあけた。
最初に言葉を発したのはマナであった、
「へへっ。いっぱい泣いちゃった。」
「ご、ごめん。」
反射的に謝るシンジ。そんな彼を見てマナはくすっと笑った。
「ど、どうしたの?」
「ううん。なんかシンジ君だな、って、思って。」
「そ、そうかなぁ。」
「そうよ。そのすぐ謝るところなんか正にそうって感じ。」
「ご、ごめん。」
「ほらぁ、また謝るぅ。」
「あ、えと・・・・」
言葉に詰まるシンジの唇にマナはそっと人差し指をあてた。
「いいの。今は何も言わなくても。
シンジ君は楽にして。今お薬持ってくるね。」
そう言ってマナは台所に向かった。マグカップにポットからお湯を少し入れて水で薄めて持ってくる。
「ちょっと熱いかもしれないから、気をつけてね。」
そう言ってマナはシンジにマグカップを渡すとベッドのサイドボードから薬を取り出した。袋の端をピーッと破る。
「はい。これ口に含んで、マグカップのお湯で流し込んでね。」
そう言っていったんマグカップを受け取り、そのかわりに薬の入っている袋を渡した。シンジがそれを口に含むのを確認すると、今度はマグカップを渡す。
シンジはそのままマグカップのお湯を飲み始めた。
じっと見ているマナ。
そんな彼女の視線に気が付かず、シンジはマグカップのお湯を全部飲みきった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
シンジの呼吸が荒くなる。
「だ、大丈夫?」
「う、うん。」
「そう。じゃシンジはそのまま横になってるのよ?わたしはちょっと出かけてくるけど、じっとしててね。」
「学校?」
「ん?まあそんなとこ。」
マナはそう言うと出かける準備をし始めた。とはいえ財布とカギを持つだけの簡単な準備だったが。
シンジは横になったとたん、体中の全ての感覚が消えて行きそうなのを自覚した。まだ体が全快していないことと、薬の影響であること、などとは気が付かなかったが、目下の所それでもかまわなかった。
「じゃ行って来るね。夕方には帰るから。」
「あ、うん。」
マナはそのままドアを閉め、カギをかけていってしまった。
一人残されたシンジはぽつりと呟いた。
「・・・まだ・・・生きて・・・いるのか・・・。
ぼ、ぼくは、なにを・・・したら・・・いいんだ・・・・・ろ・・う」
そして再び深い眠りにつくのであった。
そう。夢も見ない程に。