Nerv付属病院303号室。
繊細そうな容貌をした少年が、暗い表情で病室の前に立った。
そして、躊躇いがちにドアをノックする。
「・・・・・・アスカ、入るよ」
返事が返ってこないことは百も承知だが、シンジは声をかけた。
医療機器が刻む規則正しい音だけが支配する病室で、部屋の主は、何時醒めるともしれない眠りについている。
「アスカ・・・・・・」
シンジはベッドの傍らに立つと、そっと少女の名を呼ぶ。
「お願いだから、起きてよ」
自分に背を向けたまま眠るアスカの肩に、シンジは手をかけた。
「ねぇ、アスカ・・・・・・起きてよ」
シンジはそっと、アスカの肩を揺さぶる。
そうすれば、彼女の目が覚める気がしたから。
そうすれば、自分を見てくれる気がしたから。
「ねぇアスカ、起きてよ! いつもみたいに僕を馬鹿にしてよ! みんな怖いんだ! 僕を助けて! ねぇ、アスカ!」
懇願する声が熱を帯び、少女の身体を揺さぶる手に力を加える。
だが、アスカが目覚めることはない。
「アスカ!!」
ばさっ!
不意に、何の抵抗もなく、アスカの身体が仰向けになった。
「っ!」
ボタンの外れたシャツがしどけなく広がり、肌が露わになる。
シーツよりも白い肌。
早熟な双丘。
刹那、シンジの時間が止まった。
・・・・・・誰も、僕に『こころ』を向けてくれない・・・・・・
・・・・・・アスカも、『こころ』をくれない・・・・・・
・・・・・・だから、身体だけでも欲しかった・・・・・
・・・・・・だから・・・・・・
・・・・・・穢す・・・・・・
ぴちゃり。
生ぬるい欲望が、右手を汚した。
「・・・・・・最低だ・・・・・・俺って」
新世紀エヴァンゲリオン・補完
最後の奇跡 <1>
終わりの、はじまり
戦略自衛隊の強行突入と虐殺。
MAGIへのクラッキング。
Nervは、未曾有の混乱の中にあった。
「・・・・・・悪く思わないでね」
シンジを殺そうとした戦略自衛隊の兵士を、実力で排除すると、ミサトはシンジの腕を掴んだ。
「シンジ君! ケイジに行くわよ! 初号機に乗って!」
だが、シンジは蹲ったまま動こうとしない。
「シンジ君!」
「・・・・・・放っておいて下さい、ミサトさん・・・・・・僕はもう、生きていたくないんです」
シンジは、弱々しい声で拒否する。
ミサトは、少年のそばに跪き、俯けた顔を両手で包み、無理矢理自分の方を向かせた。
「シンジ君!」
シンジの虚ろに濁った目を見据えて、ミサトは叱咤する。
だが、反応はない。
「助けて・・・・・・僕はもう、死にたい」
「甘ったれるな!」
怒声と共に、ミサトはシンジの胸倉を掴んだ。
「高々、十四年しか生きてない癖に、人生に悲観するんじゃないわよ! 確かに、生きてれば、辛いことや哀しいことが沢山あるわ! でもね、それ以上に、嬉しいことや楽しいことがあるのよ!」
「僕は・・・・・・要らない子供だから・・・・・・必要じゃない人間だから・・・・・・」
ミサトの言葉など聞こえないかのように、シンジはぽつりと呟く。
「カヲル君の方が、よっぽど必要な人間だったのに・・・・・・僕が、殺した・・・・・・」
初めて『好きだ』と言ってくれた少年。
カヲルを殺してしまったことが、シンジの心を責め苛む。
「放っておいて下さい・・・・・・ミサトさんだって、『他人』なんだから・・・・・・」
ぱんっ!
ミサトの平手が、シンジの頬を捉えた。
「あなたは、私やアスカのことを何だと思ってるの?!」
怒りを湛えたミサトの瞳から、涙が零れる。
シンジの表情が、僅かに変わった。
「血が繋がってないから『家族』じゃない?! 『他人』だから心配しちゃいけないの?! ふざけないで!! 私は前にも言ったはずよ! 仕事や同情だけで他人と一緒に住めるほど、物事割り切れる人間じゃないって! アスカだってそう! トウジ君やケンスケ君だって、あなたがエヴァのパイロットだから一緒にいたんじゃないでしょう?! 確かに私達は、『サードチルドレン』を必要としていたけど、それ以上に『碇シンジ』という『家族』を、『友達』を必要としてたのよ! それなのに、あなたは『自分は必要じゃない人間だ』って、そう言うのね!」
自分の気持ちが、まったく通じていなかったことが悔しくて、ミサトは唇を噛み締め、シンジを睨み据える。
「渚カヲルだってそう! 彼はシンジ君を生かしたくて、死を選んだんでしょう?! 彼は、自分よりもあなたの存在価値の方が大きいと言ったのでしょう?! それなのに、あなたは『友達』の『こころ』を・・・・・・彼に貰った『生』を無駄にする気なのね?!」
シンジはショックだった。
ミサトの言うとおりだ。
『君達は滅びるべきではない・・・・・・だから、僕を消してくれ』
あの時、確かにカヲルはそう言った。
(カヲル君は、僕に『生きろ』と言ってくれたのに・・・・・・)
(カヲル君は、僕を『友達』だと言ってくれたのに・・・・・・)
(僕は、カヲル君の気持ちを理解していなかった・・・・・・)
カヲルを殺してしまった罪悪感で、シンジは彼の『こころ』が見えていなかった。
「・・・・・・ミサトさん」
シンジは、自分のために涙を流す女性の瞳を、初めて見返した。
何時だって、誰かの『優しさ』が欲しかった。
他人の『こころ』が欲しかった。
その癖、自分は誰にも『こころ』を開かなかった。
誰にも『優しく』しなかった。
裏切られて傷つくのが、怖かったから。
拒絶されるのが、怖かったから。
周囲に阿れば、誰も自分を拒絶しない。
上辺だけの優しさをみせれば、誰も傷つかない。
でも、その分だけ、自分がどんどん空虚になる。
今まで、その繰り返しだった。
それなのに、そんな自分を、ミサトは『必要』だと言ってくれる。
今まで、ずっと欲しかった言葉。
誰もくれなかった言葉。
初めて貰った言葉。
たった一言が、こんなにも『こころ』にあたたかい。
シンジは、顔を俯けた。
その身体を、ミサトはそっと抱きしめる。
あたたかな、人のぬくもり。
(・・・・・・僕は、馬鹿だ)
(僕を好きでいてくれたのは、カヲル君だけじゃなかったのに・・・・・・)
(ミサトさんの言うとおり、みんな『碇シンジ』を見ていてくれたのに・・・・・・)
(傷つきたくなくて、裏切られるのが怖くて、それに気付かなかった・・・・・・ずっと気付かない振りをしていた)
涙が溢れる。
「ごめんなさい、ミサトさん・・・・・・」
シンジは、ミサトの背に自分の腕を回し、抱きしめ返す。
「ありがとうございます」
やっと、自分の居場所をみつけた。
そんな気がした。
「シンジ君・・・・・・」
ミサトはシンジの身体を放すと、再び彼の顔を、正面から見つめた。
これから自分が言うことは、この少年にとって、残酷な言葉だ。
でも、言わなければならない。
「シンジ君、エヴァに乗って」
エヴァ、と聞いて、シンジの身体は、怯えたように震える。
「私、最低よね。『サードチルドレン』ではなく『家族』としてのあなたが必要だと言っておきながら、こんなことを言うのだもの」
ミサトの滑らかな頬に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「いくら罵ってくれても構わない。でも、今だけお願い。エヴァに乗って。アスカを助けて」
「・・・・・・アスカを?」
訊き返してから、シンジは気が付いた。
戦自が、チルドレンの抹殺をしようとしていることを。
「アスカは?! アスカはまだ病院ですか?! あのままじゃアスカは!」
「シンジ君、落ち着いて。アスカなら、取り敢えず大丈夫よ。弐号機に乗せて地底湖に沈めたわ。シンクロはできないけど、エヴァの中が一番安全だから」
動揺を露わにするシンジを諭すように、ミサトは告げた。
「でも、これからどうなるか判らないわ。だから、あなたにはエヴァに乗って、アスカを助けて欲しいの」
黙り込んだ少年に、ミサトは哀しげな表情を向ける。
「もし・・・・・・もし、嫌なら、乗らなくてもいいわ。私達は、今まで、あなたを無理矢理エヴァに乗せて、沢山傷つけた。だから、あなたがこれ以上傷つきたくないっていうのなら、私達に止める権利はないわ」
逃げてもいい、と言外に告げられ、シンジは弾かれたように視線を上げた。
「でも、あなたがエヴァに乗らなければ、アスカは死ぬ。アスカだけじゃない。サードインパクトが起きて、みんな滅びるわ」
アスカが、死ぬ?
太陽のように輝いている少女。
何時でも真っ直ぐで、自信に溢れている少女。
わがままだけど、時に不器用な優しさを見せる少女。
憧れて 恐らくは、恋して いる少女。
「シンジ君が考えて・・・・・・自分がどうしたいのか。どうすれば後悔しないのか。自分で考えて決めて」
「僕は・・・・・・」
ミサトの言葉に、シンジは目を閉じる。
(アスカは僕に『こころ』をくれなかった。でも、それは僕がアスカに『こころ』をあげなかったから)
(それなのに、僕はアスカの『こころ』だけ欲しがった)
『こころ』がもらえなかったから、たくさん傷つけた。
『こころ』がもらえなかったから、穢した。
だから、アスカに嫌われるのは当然のこと。
(だから・・・・・・謝りたい)
彼女を傷つけてしまったこと。
彼女を穢してしまったこと。
(そして、許されるのなら、アスカの笑顔がもう一度見たい)
「僕は・・・・・・」
(アスカを死なせたくない)
(僕には、アスカを助けるための『力』がある)
(アスカだけじゃない。僕は、僕の大切な人達を守ることができる『力』がある)
アスカ
ミサトさん
リツコさん
日向さん
青葉さん
マヤさん
冬月さん
トウジ
ケンスケ
洞木さん
ペンペン
・・・・・・綾波・・・・・・そして
父さん・・・・・・
シンジは大切な人達の顔を思い浮かべる。
もう、誰も失いたくはなかった。
(逃げちゃだめだ・・・・・・大切な人を守るために)
(逃げちゃだめだ・・・・・・カヲル君に貰った『生命』を全うするために)
(だから、エヴァに乗る)
シンジは、再び目を開けた。
「僕は・・・・・・僕は、大切な人を守りたいんです」
その表情は、何かを吹っ切った、決意に満ちたものだった。
「ミサトさん。僕を、初号機のケイジまで連れていって下さい」
「・・・・・・いいのね?」
ミサトは、確認するように問う。
「はい」
シンジはそれに、穏やかな微笑で応じた。
「ありがとう、シンジ君」
ミサトも微笑んだ。
「行きましょう、ケイジへ」
*
*
*
タンッ!
乾いた銃声が、通路に響く。
ミサトは、人を殺すことを躊躇わなかった。
シンジもまた、何も言わなかった。
誰かを犠牲にしなければ、大切な人を守れないことを知っているからだった。
「ちっ!」
ケイジへの直通エレベータの前に、戦自の兵士の姿を認め、物陰に隠れたミサトは、鋭く舌打ちを漏らした。
(敵は3人・・・・・・無傷で突破は難しいか)
「ミサトさん」
シンジが心配そうな表情で、ミサトの顔を覗き込む。
「大丈夫よ・・・・・・ちょっち、キビシイけどね」
ミサトは、少年を安心させるように微笑んだ。
「・・・・・・お手伝い、しましょうか?」
不意に、背後から、人を喰ったような男の声が掛かる。
振り返ると同時に、引き金を引こうとしたミサトは、声の主の姿を認めた瞬間、凍り付いた。
「うそ・・・・・・」
思わず、呟きが零れる。
視線の先には、死んだと思っていた、最愛の男が立っていた。
「か・・・・・・じ・・・・・・?」
(嘘・・・・・・生きてた・・・・・・)
歓喜と驚愕で、ミサトの身体が震える。
「・・・・・・加持さん?」
シンジもまた、驚愕の眼差しを向ける。
「幽霊じゃないぜ。足はちゃんとある」
戦自の戦闘服を着た加持は、いつもの男臭い笑みを浮かべる。
「悪かったな、葛城。事情があって、死んだことになってたんだ」
ミサトの身体の震えは、いつの間にか、怒りの波動に変わっていた。
彼女は、銃を左手に持ち替えると、加持に近付き、力任せに男の頬を張った。
そして、怒声を上げようとする。
だがその前に、加持の手が彼女の口を覆った。
「後にしろ」
笑みを収めた加持は、低く言い切る。
「後でなら、いくらでも殴られてやるし、罵倒されてやる。今は、初号機のケイジに行く方が先だ」
その一言は、ミサトに冷静さを取り戻させた。
ミサトは不発に終わった怒りと、加持が生きていたことに対する喜びを押し込め、軍人の表情に戻る。
「・・・・・・手伝う、って言ったわね」
「ああ」
「先行して。援護するわ」
「判った」
それだけで、二人の意思は通じた。
「シンジ君」
二人のやりとりを黙って聞いていたシンジに、加持は突然、声をかけた。
「はい?」
「自分で、決めたのかい?」
「はい」
はっきりと、加持の目を見て答える少年の表情は、今までの、オドオドと他人の機嫌を伺うようなものではなかった。
「そうか・・・・・・じゃあ、行くか」
加持はそう言うと、おもむろに通路へ出た。
刹那、戦自の兵士達は、一斉に加持へと銃口を向けるが、自分達と同じ戦闘服を認め、すぐに警戒を緩める。
それこそが、ミサトと加持の狙いだった。
加持が発砲した瞬間、ミサトが物陰から躍り出て、引き金を引く。
二人の見事なコンビネーションの前に、ものの数秒で、戦自の兵士達は事切れた。
「行くわよ!」
三人は、エレベータに駆け込んだ。
幸いなことに、エレベータは稼働していた。
だが、乗っている間が、いつもよりやけに長く感じる。
「シンジ君、呼ぶまで下りないでくれ」
ケイジに着く直前、加持はシンジを自分の後ろに庇うようにして、エレベータの脇の壁に身を寄せた。
反対側では、ミサトが同じように壁際に身を寄せている。
軽やかな電子音と共に、扉が開いた。
ミサトと加持は頷きあうと、銃を構えてエレベータを下りた。
だが、見える範囲に、敵の姿はない。
「シンジ君、来て」
ミサトの声に促され、シンジはエレベータを下りた。
「葛城三佐!・・・・・・なっ! 加持一尉?!」
突然、聞き慣れた声で呼ばれ、ミサトは振り向く。
「日向君?!」
マコト、シゲル、マヤのオペレータ三人組が、駆け寄ってくる。
「一体これは・・・・・・?」
シゲルが、混乱を露わにした表情で訊く。
死んだはずの加持が、戦自の服を着て、ミサトを援護しているのである。驚かない方がおかしかった。
「ごめん、訳は後で。それより、現状は?」
「副司令の指示で、発令所は放棄されました。現在、戦自は本部の63%を制圧。こちらとしては、これ以上の手はうてません。地上では、セカンドチルドレンがシンクロを取り戻し、量産型エヴァシリーズ九体と交戦中です」
マコトが代表して、その質問に答える。
「アスカ、意識を取り戻したんですか?!」
シンジが勢い込んで訊く。
「ああ。でも、病み上がりの上、敵が多すぎる」
日向は暗い表情で言った。
「ミサトさん、すぐ出ます!」
シンジは、アンビリカルブリッジへ駆け出そうとする。
「でも、ベークライトが」
ミサトは、視線を初号機に向ける。
紫の巨人は、硬化ベークライトによって固められていた。
「自力で排除して出ます」
「シンジ君・・・・・・」
はっきりと言うシンジに、ミサトは驚いたような視線を向ける。
今まで見たことのないような、大人びた表情。
そこに勁い意志を看取って、ミサトはゆっくりと頷いた。
(大丈夫。シンジ君は、やってくれる)
「判ったわ。シンジ君はエントリープラグへ。みんな、初号機の起動準備、急いで!」
ミサトの一声で、全員が動き出す。
管制室に駆け込んだオペレータ達は、即座に初号機の起動シークエンスを開始した。
「非常時ということで、一部チェック飛ばします・・・・・・LCL注水」
マヤが、マシンガンのようなスピードで、キーボードを操作しながら言う。
「シンジ君、聞こえる?」
ミサトは、初号機のシンジに呼びかけた。
「はい」
プラグスーツに着替える間もなくエントリーしたシンジが、モニターに写る。
「一度出たら、こちらは何もできないわ。装備はプログナイフだけ・・・・・・ごめんね」
「はい」
ミサトの辛そうな表情を和らげようと、シンジは微笑んだ。
優しい心遣いを見せる少年の姿に、ミサトは不意に、泣きたくなった。
それを振り払うように、無理矢理、笑顔を作る。
「シンジ君。アスカを連れて、生きて帰ってらっしゃい・・・・・・あなた達は、私の大事な家族なんだから」
「パルス及びハーモニクス、すべて正常。シンクロ率97.2%。S2機関、作動中。初号機、起動します」
マヤが報告する。
「はい・・・・・・行って来ます、姉さん」
シンジは微笑んだ。
しみるような、綺麗な笑顔で。
それに後押しされるように、ミサトは口を開いた。
「エヴァンゲリオン初号機、発進!」
*
*
*
「時は満ちた」
ゲンドウは、蒼銀色の髪と深紅の瞳をもつ少女に語りかけた。
「来い、レイ・・・・・・ユイの許へ導いてくれ」
そして、『約束の日』は訪れる・・・・・・
Ver.1.0 1998.03.28
Ver.1.1 1998.04.17
Ver.1.2 2007.10.11
感想・ご意見などをおまちしております。 ぶらざー玲