使徒と生身の人、その戦いが戦いとなり得るのか。それは誰の目にも明らかなことだった。生身で使徒と戦えないからこそ、人はエヴァを作ったのである。だがシンジとアスカの二人は、いっさいの武器も持たず“二人”の使徒の前へと歩み出た。そこには、“人型”をした使徒が、感情の全く浮かばない顔を二人に向けていた。
「ずいぶんと辛抱強く待ってくれたんだね。
二人には感謝するよ」
そして敵とも言える使徒に向かって、シンジはその場に似合わない感謝の言葉を贈った。だがシンジに感謝の言葉を贈られても、二人の使徒は表情を全く動かさなかった。そんな二人に、シンジは小さくため息を吐いた。
「今更、何も話すことは無いというのかい?」
「いや、そう言う訳ではないのだけどね……」
ようやく帰ってきた言葉は、たぶんに困惑の含まれた物だった。そのことに気づいたシンジとアスカの二人は、どういうことかと目線を交わした。そんな二人に構わず、使徒のうちの一人、渚カヲルは聞きたいことがあると切り出した。
「もしよければだけど、僕の疑問に答えてはくれないか。
どうしてシンジ君は、僕たちのことに気づいたのかい?」
「それが、カヲル君の疑問なんだね?」
「まだ、僕たちのことをそう呼んでくれるんだね」
「僕にとっては、リリスでもタブリスでもないよ。
綾波にカヲル君、それが僕にとっての二人の存在なんだよ」
シンジの答えに、カヲルは少し嬉しそうな顔をした。
「それで、僕の疑問に対する答えはどうなっているのかな?」
「僕が、いつでも君たちのことを考えていたからだよ。
だから、どんなにわずかな気配でも感じることが出来たんだ」
「それだけかい?」
「あとは、アスカにしたいたずらかな?
カオルさんが声を掛けるまで、アスカはずっと違和感に悩んでいたんだ。
でも、あの後アスカは何も言わなくなった。
いくら何でも、それは不自然すぎるだろう?」
「シンジ君、君を含めて騙したつもりだったのだけどね」
カヲルは、シンジに向かって驚いて見せた。そんなカヲルに、今度は自分の質問に答えて欲しいとシンジは言った。
「どうして、アスカの側にいようと考えたの。
アスカを殺し、エヴァを消し去る……
僕が入院しているときこそチャンスだったのに」
「僕たちにとっては、シンジ君が入院していようが居まいが、
計画を遂行することの難しさは変わらないよ」
「だったらなぜ、何もしなかったの?」
「力押しだけが能じゃないからね」
それなりにうまくいきかけたのだと、カヲルは嘯いた。
「現に、惣流さんは自分の思いに疑問を抱いていた。
あそこでシンジ君と別れる道を選んでくれていたら、
こっそりと、二人の生きる世界をすり替えるつもりでいたのさ」
「ずいぶんと消極的な方法を選んだものだね」
「でも、誰も傷つかない方法でもあるんだよ。
君たちが自分たちの意志で別れてくれれば、それですべてが丸く収まるんだ。
エヴァに固執した惣流さんがネルフに残り、君はエヴァから離れた世界に戻ることになる。
そこで、君の居る世界を分離すればおしまい。
シンジ君は、エヴァの存在しない世界で生きていくことになるはずだった」
なるほどと、カヲルの考えにシンジは納得した。
「でも、僕たちはお互いを選んだよ。
結局カヲル君達は、時間を無駄にすることになった」
「僕たちにとって、時間というのは大きな問題じゃないさ。
この世界が破綻を迎える前に、障害となる物を取り除けばいいのだからね」
カヲルはそう言うと、シンジの隣に立つアスカの顔を見た。意外なほど、その表情は優しい物だった。
「いい顔をするようになったね。
君が幸せなのは、今の僕にも分かるよ」
でもと。
「申し訳ないが、それもすぐに終わることになる。
エヴァもない君たちでは、僕たちに敵うはずがないからね」
「問答無用なのかい、カヲル君……綾波」
シンジは、一言も言葉を発していなかったレイを見た。だがシンジの呼びかけにも、レイは何も答えてはくれなかった。
「君は知っているはずだよ。
この世界は、君の望んだ物とは違っていることを。
僕たちは、君の望みを叶えるために世界を再構築した。
そこに、彼女が横やりを入れたんだ。
だからこの世界は、成り立ちからして奇形なんだよ」
「だから、作り替えると言うんだね?」
シンジの言葉に、それは違うとカヲルは首を振った。
「今更作り替えるような力は僕たちにも無いよ。
だから、ひずみの元を取り除くのさ。
そうすれば、世界は自分の力で正しい姿へと戻っていく」
「アスカを消すと言うんだね」
「それにエヴァに関わる全てをだよ」
「僕が認めないと言ってもかい?」
「残念だけどね、それがシンジ君のためでもあるんだ」
その点は一歩も譲るつもりはない。カヲルははっきりと言い切った。
「カヲル君は、僕が引くつもりが無いことを知っているのだろう?」
「ああ、僕たちはずっと君に選択肢を与えてきたんだ。
でも君は、僕たちの望む選択はしなかった」
「だったら、僕の選ぶ答えも分かっているはずだよ」
シンジの言葉に、確かに分かるとカヲルは同意した。しかし同時に分からないのだともカヲルは口にした。
「勝ち目がないことぐらい、シンジ君も分かっているのだろう?
前の戦いにしたって、レイが手を貸さなければ君は死んでいたんだ。
君たちが自分の力だと思っているエヴァにしたところで、僕たちの手の内にあるんだよ」
「そんなことは分かっているよ。
それでも、僕はアスカを選んだんだ。
そして、僕は負けるつもりはない!」
「やれやれ、リリンの考えることは分からない」
カヲルはそう零すと、軽くその右手を振った。ただそれだけのことで、アスカの体は近くの塀に押しつけられた。その手を離さないようにと掴んでいたシンジの努力も無駄だった。ATフィールドでアスカを壁に押しつけたカヲルは、シンジに向かってもう一度同じ言葉を繰り返した。
「ほら、シンジ君には何も出来ないんだ。
勝ち目がないことは、これで分かってくれただろう?」
ATフィールドで壁に押しつけられたアスカの表情が歪む。だがシンジは、アスカの方へ駆け寄ろうとはしなかった。それどころか、その視線はカヲルに向けられたままだった。
「見損なったよカヲル君、そんなことで僕に勝ったつもりで居るのかい?」
「じゃまなのは彼女だけだからね。
彼女を守りきれなかったところで、シンジ君、君の負けになるのではないのかい?」
「言っただろう、僕は負けるつもりなど無いって。
それに、そんなことじゃアスカを殺すことは出来ないよ」
アスカを殺せないと言うシンジに、カヲルははっきりと驚いて見せた。
「寡聞にして、リリンがATフィールドを展開できるとは聞いていないのだがね」
「もちろん、僕たちは使徒じゃないからね」
「なら、どうして彼女を殺せないと言うんだい?
僕がもう少しだけATフィールドを広げれば、
彼女は壁と僕のATフィールドに挟まれて圧死することになる」
「そう思うのならやってみればいい。
そうすれば、僕の言っていることが本当だって分かるからね」
やれと言ったシンジに、カヲルはにやりと口元を歪めた。
「何かの駆け引きのつもりだろうけど、残念ながら僕には通じないよ。
何しろ僕は彼女を殺すことをためらわない。
そして今、シンジ君の許しも得たんだよ。
だったら何をためらうことがあるだろうか!」
「だったら、さっさとすればいい。
それとも、アスカを殺せない理由でもあるのかな?」
「そんなものはないさ。
せいぜい、自分の言葉に後悔するがいい」
そう吐き捨てると、カヲルは壁に押しつけたアスカの顔を見た。なぜか、心なしかアスカが楽になっているように感じられた。
「シンジ君もああ言ってくれたからね。
遠慮無く君を排除させてもらうことにするよ」
「やれるものなら、さっさとやりなさい!」
「やれやれ、僕にはリリンが分からないよ」
そう言いながらも、カヲルの心に小さな疑念が生じていたのも確かだった。目の前の二人は、リリンの中では誰よりもATフィールドを理解しているはずだ。その二人ならば、今置かれている状況がいかに絶望的な状況なのか分かるはずなのだ。しかし二人は、絶対大丈夫だと言い張っている。死を前にして、自棄になって居るとも思えなかった。
そこまで考えて、ばからしいことだとカヲルは思い直した。何を言われようと、どんな策があろうと、リリンのATフィールドは脆弱な力しか持っていないのだ。その証拠に、リリンは簡単な武器でお互いを殺すことが出来るのだ。そしてその武器は、自分たち使徒には通用しない。もう一度ばからしいと自嘲したカヲルは、本当にアスカを殺そうとATフィールドを広げた。これで、壁に押しつけられたアスカは、無惨な死に様をさらすはずだった。だがカヲルの予想に反し、アスカの身には何も起きなかった。
そんな馬鹿な。手加減をしたつもりなど無いのだが、カヲルはさらに心の壁を広げた。だが結果は変わらなかった。いや、むしろアスカは先ほどまでより楽になったように見えた。その状態に困惑したカヲルは、思い通りにならない理由をレイへと求めた。彼女が、アスカを殺させないように邪魔をしているのではないかと。だが、自分と同じように困惑するレイの姿に、それがとんでもない誤解だとカヲルは知らされた。
「どうしたの、あたしを殺すのじゃなかったの?」
いつの間にか、アスカはカヲルの拘束を抜け出していた。そして自由になった右手で、乱れて額に掛かった髪をかき上げた。
「あなた達が何を考えているのか当ててあげましょうか?
なぜ、あたしを殺すことが出来ないのか。
まさか、あたし達があなた達と同じぐらいにATフィールドを使えるのじゃないかって?」
違うのかと言ったアスカに、二人からは何の答えも返ってこなかった。そんな二人に、アスカはふんと鼻を鳴らした。
「当たらずとも、遠からずってところかしら。
それとも、あたしを殺せなかったことがそんなにショックだったのかしら?」
アスカの挑発に答えず、カヲルとレイはお互いの顔を見合わせた。そしてレイが頷くと、今度は自分の番だと前に進み出た。
「……私は、そんなことを信じないから……」
ふわり。その瞬間、レイの髪が風に揺れた。だが変わったことはそれだけで、シンジとアスカ、二人には何の変化も起こらなかった。
「……どうして?」
圧倒的に有利な状況が、予想もしない形で覆ったのだ。その精神的動揺はいかほどの物だろうか。さすがの二人も、感じた驚きを隠すことは出来なかった。そんな使徒二人に、アスカは勝ち誇ったように宣言した。
「あんた達は、人……あんた達の言い方で言ったら、リリンかしら?
リリンを甘く見すぎているのよ。
ATフィールドが完全でないことぐらい、過去の戦いが証明しているでしょう?」
「だからと言って、リリンが生身でATフィールドに対抗したことはないはずだよ」
「対抗できるという事実が重要なのよ。
スケールの問題は、後から付いてくるだけだわ」
そう言って、アスカは胸元から小さなペンダントを取り出した。
「これは、あたしのママを殺した物の欠片。
そう言えば、何のことか分かってもらえるかしら?」
「まさか、それ自体がロンギヌスの槍だと言うのかい?」
「言ったでしょう?
リリンを甘く見すぎているんだって。
確かに、アメリカのエヴァは失ったわ。
でもね、ロンギヌスの槍自体は運び出されていたのよ。
だてに、マッドな科学者を抱えている訳じゃないのよ」
そう言いながら、アスカは心の中で舌をぺろりと出していた。
「当然同じ物をシンジも持っているわ。
ATフィールドを無効化するロンギヌスの槍。
それを使えば、あたし達でもあなた達に対抗できると思わない?」
「……僕たちを殺すというのかい?」
「あなた達がそう望むのならね」
「君たちは、どう考えるのだい?
少なくとも僕たち使徒は、倒すべき敵じゃないのかな?」
アスカの真意が話からなかったカヲルは、自分たちを倒すつもりではないのかと確認した。そんなカヲルに、アスカは苦笑を返した。
「少なくともシンジは、あんた達と争いたいとは思っていないわよ。
いえ違うわね、むしろ共存したいと願っているわ。
そしてあたしも、それが一番良い方法だと思っている」
「やっぱり、よく分からないのだけどね」
後顧の憂いを立つためなら、自分たちを生かしておくべきではないのだ。使徒のカヲルにも、そのことは理解できた。それなのに、命を狙われた二人は、自分たちを殺すべきで無いという。それどころか、共存を望んでいるとまで言い切ったのだ。二人の考えは、既にカヲルの理解を超えていた。
「あんた達の計画は、エヴァに絡む物全てを消滅させることよね」
「君という存在を含めてだよ」
「あんた達の存在もでしょう?」
カヲルの訂正にも、アスカは動じなかった。
「それって、あたしと心中しようってことでしょう?
ファースト、あんたはそれでいいの?」
突然話を向けられたレイは、驚いたように目を見開いた。
「それでいいのって、聞いて居るんだけど?」
「……あなたには、関係のないことだわ」
そして何とか繰り出されたレイの言葉に、アスカは盛大なため息を吐いて見せた。
「あんたって、昔から変わらないわね。
以前のあたしなら、あんたの考えていることは分からなかったわ……
と言うか、分かろうとも思わなかったわ。
でも、今のあんたの気持ちだけは分かるの。
ファースト、あんた今、嬉しいんでしょう?」
「……そんなはずない」
否定したレイに構わず、アスカはカヲルに話を向けた。
「ところであんた!カヲルだっけ?
あんたは、あたしと一緒に消えても良いと考えているの?」
「僕の考えていることも分かるのだろう?」
カヲルの答えに、アスカはぶるっと体を震わせた。
「そう言うのって、何か背筋が寒くなるのよね。
あんたになんて、共感したいとは思わないわ!」
自分はシンジの物だからとアスカは付け加えた。
「そのことを置いておくとしても、あんた達も消滅を望んでいない。
あたし達も、あんた達を殺すことを望んでいない。
だったら導き出す答えなんて決まっているじゃない」
「それが、共存というのだね」
理解したかという顔をしたアスカに、カヲルはそう答えた。
「そう言うことよ。
あんた達とあたし達の差は驚くほど小さいわ。
外見は変わらず、あんた達にはATフィールドがある。
そして、あたし達には知恵がある」
「なにか、僕たちの頭が悪く聞こえるんだけど。
それは、何かの気のせいなのかな?」
「あたし達に手玉に取られていて、賢いなんて言わないでね」
「それは、君たちが僕たちの持っている優位を覆したからさ」
あっさりとしたカヲルに、アスカもあっさりと「あっそう」と返した。
「とにかく、あたし達には共存と言った道があるのよ。
そして、シンジもそれを望んでいる……
だったら答えは決まっているでしょう?」
そう言って、アスカは魅力的な笑みを浮かべたのだが、あいにくカヲルにはその笑みは通じなかった。
「シンジ君が望んでくれるのは分かったよ。
ところで君は望んでくれないのかい?」
「夫婦はね、同じ希望に向かって歩いていくのよ。
だからシンジの望みは、あたしの望みでもあるの。
あんたも、リリンの中に混じって生きていこうというのなら、
そのあたりを理解することね」
「僕たちは、共存を受け入れたわけではないのだがね。
それに、世界の修正を諦めたわけではないよ」
「その力もないくせに、まだそんなことを言っているの?」
そう言って、アスカは胸のペンダントを弄んだ。有る意味示威行動を取ったとも言えるアスカに、もう少し時間が欲しいとカヲルは持ちかけた。
「時間?どのくらい時間が欲しいの?
あんまり待たせるようなら、こちらから殲滅に乗り込むわよ」
アスカのドスのきいた脅しに、珍しいことにカヲルのこめかみに冷や汗が一筋伝い落ちた。
「で、どれくらい欲しいの?」
言ってみなさいと迫るアスカに、カヲルは苦し紛れに明後日と言う期日を持ち出した。
「あさってね。
まあ、それぐらいの猶予はあげましょう」
アスカはそう言うと、シンジの方へと振り返った。
「シンジもそれで良い?」
「ああ、このことはアスカに任せたからね」
「じゃあ、これで決まりね」
シンジの答えを確認したアスカは、カヲルとレイの方へ振り返るとびしっとカヲルを指さした。
「あんた達がどこをねぐらにしているのかは知らないけど、
さっさと帰って、無い知恵を絞って相談してきなさい!」
あまりにもあまりの傲慢な言い方に、横で聞いていたシンジも思わず苦笑を浮かべていた。だが心理的優位さのおかげか、二人の使徒はアスカの命令に従った。
「そうさせて貰うことにするよ。
ところで、明後日はどこに行けばいいのかな?
さすがに、ネルフ本部というわけにはいかないだろう」
確かにそうかと、アスカはふむと考えた。そして良いことを思いついたと、ぽんと手を叩いた。その時のアスカの表情に、またやっかいなことを思いついたなとシンジはこれからアスカの言い出すことを予想した。
「あたし達が一緒に会っても不自然じゃないところ。
だったら学校というのが一番適当じゃない。
と言うことで、お昼を頂きながらその答えを聞かせて貰いましょうか。
場所は、屋上北側の一等地と言うことで」
「が、学校なのかい!?」
「どうせ、今まで通ってきていたんでしょう?
だったら、別に問題ないじゃない」
「いや、問題は大ありだと思うのだけどね」
「場所を指定しろと言ったのはあんた。
だから指定してあげただけよ。
文句が有るのなら、自分で場所を決めなさい!」
びしっと指を突きつけられたカヲルは、アスカの迫力に折れることになった。
「分かったよ惣流さん。
明後日のお昼に、屋上にお邪魔することにするよ」
「ちゃんとお弁当を忘れないように!」
そこまで要求するのか。抗議したいところを我慢して、二人はアスカの命令に従った。
「じゃあ、これで消えさせて貰うことにするよ」
「……明後日会いましょう」
そう言い残して、使徒二人は現れたのと同じように夜の闇へと紛れて消えていった。シンジとアスカの二人は、彼らの姿が完全に見えなくなるまでじっとその姿を見送った。そして、二人の姿が完全に消えたところで、シンジはアスカの元に駆け寄った。アスカの体が崩れ落ちたのは、丁度そのタイミングだった。
「アスカ大丈夫!!」
崩れ落ちたアスカを抱き留め、シンジは大丈夫かと大声を上げた。そんなシンジに、だめだとアスカは弱音を吐いた。
「体のそこかしこが痛いのよ。
あのばか、本当にあたしを殺すところだったわよ」
「でも、それも計算の上だったんだろう?」
「そりゃあね、それぐらいのことは覚悟していたわよ。
でも、痛い物は痛いのよ」
だんだんアスカの声に、甘えたような響きが含まれてきた。シンジにもそれが分かったのだろう、よいしょとアスカの体を両手で抱き上げた。
「このままうちまで連れて行ってくれるの?」
両手をシンジの首に回し、アスカはお願いと甘えた声を出した。
「誰かに見られたら恥ずかしいんだけどね……」
「それでもお願い」
アスカの強いお願いに、シンジが抗しきれるはずがない。アスカのお願いに折れたシンジは、仕方がないとそのままの格好で歩き出した。
「でも、アスカは用意周到だったんだね。
いつのまに、そんなペンダントを用意したの?
それに、リツコさんはやっぱりすごいんだなぁ」
そして歩いているときの話題は、先ほどまでの使徒二人とのやりとりだった。シンジは、とっておきとしてロンギヌスの槍を持ち出したアスカに、素直にすごいと驚いて見せた。だがアスカは、ぺろりと舌を出してはったりだと打ち明けた。
「そんな都合の良い物が有るはずがないでしょう?
だいたい、リツコの顔なんてここしばらく見ていないわよ。
あれは、ライフ情報を記録したペンダントよ」
「えっ、そうなの?」
「話に信憑性を持たせるには、何か小物があった方が良いでしょう?
だから、双方知っているロンギヌスの槍を持ち出したのよ。
人は納得できる理由が与えられたら、それ以上真相を追求しない物なのよ」
計算ずくというアスカに、シンジは素直に感心した。
「やっぱり、アスカに任せて良かったね……」
「まっ、人には向き不向きがあるから。
あんたみたいな馬鹿正直じゃ、交渉ごともまとまらないわよ」
「交渉って、僕には恐喝に思えたけど?」
馬鹿正直と言われたことに腹を立てたシンジは、せめてもの仕返しとそう言い返した。だがアスカからは、それも交渉術だと言い返された。
「だって、あの場で下手に出る理由がないでしょう。
こちらが圧倒的に有利なら、それを生かすのが普通じゃない。
へたに下手に出たりしたら、かえってうまくいかなくなるわよ」
「さすがアスカだね。
僕なんかじゃ考えつかないほどいろんなことを考えて居るんだ!」
素直なシンジの賛辞に、へへとアスカは鼻の頭を掻いた。そして感心するばかりのシンジに向かって、一番の功績はシンジにあるのだと口にした。
「僕?僕は何もしていないよ。
アスカに言われたとおり、平然としている演技をしただけだから」
「その演技も必要なことなのよ。
でも、シンジの一番の功績は、あいつらの考えと、
ATフィールドの性質を理解したことなのよ」
だから自分が無事でいられたのだと。そう言ったアスカに、なるほどとシンジも頷いた。
「カヲル君達の行動には、いろいろと不自然なことがあったからね。
病院で暇な時間は、ずっとその理由を考えていたんだ。
綾波やカヲル君が、本当に僕たちを殺したいと思っているのかって。
ATフィールドはね、取り込まれた使徒から脱出出来たのがきっかけなんだ」
「その点は、レイコやマナに感謝しないといけないわね。
でも、どうしてリツコに教えてあげなかったの?
発生できなくても干渉できるってのは大きな意味があるわよ」
「それも、ベッドの上で考えがまとまったんだよ。
でも、本当にうまくいくとは思わなかったよ」
良かった良かったと顔をほころばせたシンジだったが、いきなり腕をつねられてアスカを取り落としそうになった。
「何するんだよ。
危ないじゃないか!!」
それでも何とか踏ん張ったシンジは、危ないとアスカに文句を言った。だがアスカにしてみれば、シンジの思いつきに命を賭けたわけである。つねるぐらいではまだまだ足りなかった。
「あんたねぇ、無事で済んだから良かったような物の。
下手したら、あたしはぺっちゃんこにされていたのよ」
結果オーライではないと、アスカはもう一度文句を言った。そんなアスカに、仕方がないだろうとシンジは言い返した。
「他に方法がないって言ったのはアスカじゃないか。
それに、確認するって言っても方法があった訳じゃないし……」
「あたしは、そんなことを問題にしている訳じゃないの。
自分でも疑っていたことに、あたしの命を賭けさせたことよ!!」
「懸かっていたのはアスカの命だけじゃないよ。
アスカにもしものことがあったら、僕だって生きているつもりはなかったんだから!」
「あたしの後を追うつもりで居たの?」
「ああ、その覚悟だったよ!」
はっきりと言い切ったシンジに、あのねぇとアスカはあきれた。
「あたしは、そんなことをして貰っても嬉しくないわよ」
「僕だって、一人残されても嬉しくないよ」
「じゃあ、逆に聞くけど。
シンジが先に死ぬようなことがあったら、あたしに後を追って貰いたい?」
その質問に、うむとシンジは考えた。
「あたしの人生は、シンジと一緒に終わらなければいけないと考える?」
「……僕は、アスカに生き残って貰いたいと思う……」
「でしょう、だったらあたしが同じことを考えることぐらい分かるでしょう?」
「でも、さっきはアスカ一人を逝かせるつもりはなかったんだ」
「あたしは、その気持ちだけで十分よ。
もともとあたしが蒔いた種でしょう。
だったら、命を賭けても刈り取るのはあたしの責任なのよ」
もちろん、死ぬつもりなど無かったとアスカは笑った。
「あたしには、まだまだ沢山することがあるの。
だから、こんなところで死んでなんか居られないわ!」
「沢山すること?」
「そう、沢山することがあるの。
シンジと結婚することでしょう。
二人の赤ちゃんを作ること、タイタンを完成させること。
ほら、大きなことだけでもこれだけあるでしょう?」
「確かにそうだね……まだまだ沢山やり残したことがあるんだ」
「そう言うことよ。
だから、簡単に死んだりなんかしないわ」
そう言ったところで、アスカは急に顔を赤くすると、シンジの胸を指先でなぞった。
「それでね、大きな目標を達成するのにはまだまだ時間がかかるの……
でも、小さな目標なら簡単に達成できると思うわ」
「小さな目標?」
そう言って聞き返してきたシンジに、アスカはますます顔を赤くして「バカ」とつぶやいた。
第二使徒と第十七使徒が現れたことを、二人はネルフに話さなかった。本来彼らの置かれた立場、ネルフの役割を考えれば、それは背信とも言える行為である。そのことは分かっていたが、彼らの目指す解決のため、敢えて自分を信用してくれている人たちに対して、使徒の存在を隠したのである。
そしてレイとカヲルに対して二人の決めた期限、お昼休みがやってきた。シンジとアスカの二人は、目で合図をすると机の中から弁当箱を取りだし、別々に屋上へと向かった。もちろん、クラスの誰もが、彼らが一緒に昼食を取っていることなど承知していた。だが、そのことを指摘しないのがマナーとばかり、誰も敢えて口にしなかったのである。もちろん、のぞきに行こうなどと言う剛の者など居るはずもない。
ただ今日に限って言えば、のぞきをした者は貴重な瞬間に立ち会うことが出来ただろう。何しろ、ある意味人留の存亡を賭けた戦いが、何の変哲もない高校の屋上で繰り広げられることになっていたのだ。
その人類の存亡を賭けた戦いの片方の当事者、シンジとアスカの二人は、せっぱ詰まった様子も見せずのんびりと屋上で腰を下ろしていた。二人の手には、シンジの作ったお弁当があった。二人は、包んであったハンカチをほどくことなく、程なく現れるだろう強敵を待った。
「ねえシンジ、あの二人どんな格好で現れるかしら?」
「どんな格好って……」
学校の制服と言いかけたシンジだったが、それがとんでもない勘違いだと気づき、慌ててそうだなと考え直した。
「やっぱり、学校なんだからあっちの格好じゃないのかな?」
「でもさ、もう正体がばれているのよ。
アァスカッって現れたら、ちょっと嫌すぎない?」
そう言われて、シンジは快活に駆け寄ってくるレイの姿を想像した。そして、アスカの言っていることに納得してしまった。
「確かに、ちょっと嫌かな」
「でしょう。
あのレイが、どこかの三枚目キャラになって現れるのよ。
後からみんなに、教えて上げたい位よ」
「じゃあ、カヲル君はどうなんだい?」
「カヲル……ああ、パンパース君。
あのすかした男がお漏らししたってのも、なかなか笑えるわね」
「なにか、こう考えるとあの二人も苦労して居るんだね」
その光景を想像したのか、シンジはしみじみと潜伏した二人のことを思った。もちろん、苦労の方向がずれていることは、思っていても口にしなかった。
「どっちにしても、このことをばらしたら二人ともお笑いキャラね。
コクレンにこのことを報告したら、お偉いさん達どんな顔をするかしら?」
「使徒は驚異じゃなく、愛すべき対象だと思うんじゃないのかな?」
「確かに、意外とすんなりと共存することが決まったりして」
アスカはそう言うと、けらけらとおなかを抱えて笑った。二人の後ろから、困ったような声が掛かったのはちょうどそのときのことだった。
「お願いだから、現れにくくなる話題はやめてくれないかい?」
「……碇君の意地悪」
本来なら、すぐにでも戦闘態勢に入らなければならないところである。しかしアスカは、遅いと文句を言っただけで、それ以上何もしようとはしなかった。そんなアスカに、珍しくカヲルが言い訳をした。
「君が言うとおり、どちらの姿で現れるべきか迷ったんだよ」
「で、結局そっちの姿というわけ?」
「一応、真剣な戦いの場だからね。
さすがに、あっちの姿はうまくないだろう?」
そう言って、カヲルとレイの二人は、アスカに指さされた場所へと腰を下ろした。もちろん二人の手には、アスカに指定されたお弁当が握られていた。それを見たアスカは、興味津々に誰が作ったのかと問い質した。
「コンビニで売っているお弁当を詰め直しただけだよ」
「でも、それだけの作業はしたってことよね」
「ああ、遅れを取った罰だとあきらめてね」
「殊勝な心がけと褒めて上げるわ。
じゃあ早速お昼をいただきましょうか」
カヲルとレイにしてみれば、やや力んで現れたところもあるのだ。そこにきて、アスカから出たのは食事をしようと言う言葉である。二人が大いに拍子抜けしたことは言うまでもない。
「まずは、交渉ごとだと思ったのだけどね?」
だからカヲルが、そう口にするのは極めて自然なことだった。だがそんなカヲルに向かって、アスカはお弁当の包みを開きながら、ちっちと指を振って見せた。
「人間、おなかがすくといらいらする物なのよ。
そうすると、交渉の場がどうしてもぎすぎすした物になるの。
ちょっとした言葉の行き違いから、殺し合いになるのは嫌でしょう?」
それからと、アスカは一緒に食事をすることも大切なのだと続けた。
「共存していくためには、こうして人の習慣を習うのも必要なのよ」
「まだ、共存すると答えたつもりはないのだがね」
そう言いながらも、カヲルもまたお弁当の包みを広げていた。当然その横ではレイも包みを広げているのだが、固く結ばれていたのかなかなかうまくほどけないようだった。それを察したシンジは、レイに向かって貸してみろと声を掛けた。
「いいの?」
「綾波が苦労しているみたいだからね」
そう言って笑ったシンジに、レイは照れたように俯いた。そして小さな声で、ありがとうと感謝の言葉を口にした。それを横目に、アスカはカヲルの弁当を覗き込んだ。
「それって、誰が詰めたの?」
「僕だけど、どこかおかしいかい?」
何か変かと言うカヲルに、アスカは逆だと答えた。コンビニ弁当を詰め直したという割には、とても綺麗に収まっているのだ。
「さすが、シンジの影響を受けているだけのことはあるわね。
まあちまちまと、丁寧な仕事だこと」
「こういうことは、レイは大ざっぱだからね」
まるで君のようにと、そう言ってカヲルは口元を歪めた。
「あ、あたしは大ざっぱじゃないわよ」
「おや、僕は君の持ってきたお弁当の中身を知っているのだけどね」
その言葉に、アスカはぎちっと固まった。当然、女役はレイがしていると思っていたのだ。だが、今の話を聞く限り、自分にまとわりついてきたカオルは、目の前にいる男と言うことになる。それまでどっしりと座っていたアスカの位置が、ざざっとシンジの方へと近づいた。
「アスカ、どうしたの?」
苦労の末お弁当の包みを解いたシンジは、少し顔色を悪くしたアスカに、何かあったのかと尋ねた。
「……共存について、心配する必要がないと思っただけよ」
しかしアスカから帰ってきたのは、意味不明の言葉だった。だからシンジは、もう一方の当事者に、何か話したのかと問いつめた。だがカヲルも、良く理由は分からないのだと口にした。
「ただ、お弁当のことを話しただけだよ。
彼女が気分を悪くするようなことはないと思うのだがね」
首を傾げたカヲルに、本当にそうなのだろうとシンジは矛先を納めた。
そんなやりとりがあったせいか、それからの昼食会は落ち着いた物となった。何しろ、一番うるさいはずのアスカが、もくもくとお弁当を掻き込むことに専念したのだ。残った3人で会話が弾むはずがない。そして、そんな食べ方をすれば、お弁当などあっという間に無くなってしまう。
「綾波、カヲル君……お茶はどう?」
「……ありがとう」
「頂かせて貰うよ」
そして最後は、シンジの用意したお茶を飲むことで昼食会は終了した。残るは、対決の第二ラウンドのみである。お弁当を包み終わったアスカは、それをシンジに渡すと立ち上がってスカートに付いた埃を払った。それに倣って、レイとカヲルもまた立ち上がった。
「猶予時間は過ぎたわ。
共存を選ぶのか否か、答えを聞かせて貰いましょうか?」
今更変な工作は許さないと、アスカは二人に向かって答えを迫った。
「その前に保証が欲しいのだけどね。
僕たちが共存を選んだとき、誰が安全を保証してくれるのかい?」
「唯一使徒を倒すことの出来るチルドレン。
そのあたし達が保証するわ」
「君たちが裏切らない保証は?
周りの圧力に負けて、考えを曲げることもあり得るだろう?」
「そこまで疑いだしたら、あたしにあげられる保証は無いわ。
逆に聞いてあげる。
どう言った保証なら満足するの?」
逆に聞き返してきたアスカに、それが問題なのだとカヲルは言い返した。
「こういうことには、条件を付ける必要があると物の本に書いてあったからね。
だから、取りあえず身分の保障という条件を付けてみたんだよ」
そう嘯いたカヲルに、アスカはがっくりと肩を落として見せた。
「あんたねぇ、要求条件ぐらい決めてきなさい。
交渉って言うのはね、こう、お互いのせめぎ合いがあるものなのよ。
あんたの方に、こうしたいという要求がない限り、交渉のしようがないという物でしょう!」
「ふむ、これでまた一つ賢くなったと言うことだね。
僕たちに、後見人を付けるという条件はどうだろう?」
「却下!!
答えが見えているし、だいたいそう言う条件は、こちらが付ける物なの!」
「なるほど、難しい物だねぇ……」
などとふざけたことをカヲルが口走った物だから、アスカはシンジにこのまま殲滅したくなったと耳打ちをした。
「ほら、一応人とは違うんだから。
短気は損気って言うだろう、気長に構えるのが重要だよ」
「じゃあシンジが代わってよ。
どうせ答えを聞くだけなんだから、あんたでも構わないでしょう」
「それって、いい加減じゃない?」
「構わないわよ。
相手がいい加減なんだから……」
そういう物かというつっこみは我慢して、それならばとシンジが“交渉”を引き継ぐことにした。
「アスカが疲れたという言うからね。
僕が変わりに答えを聞くことにするよ。
カヲル君達の安全は、僕が保証するよ。
共存を選ぶのかどうか、答えを聞かせてくれないかな?」
「ならば、共存を選ぶことにするよ」
「ありがとう、カヲル君と綾波の決断に感謝するよ」
「いやいや、シンジ君達の方が英断をしたといえるよ。
なにしろ、場合によっては全人類を敵に回しかねないのだからね」
あっさりと交渉がまとまっただけでなく、にこにこと握手まで交わしているのだ。まとまったことは嬉しいのだが、さすがにこの違いはアスカの腹に据えかねた。握手を交わす二人に、ちょっと待ってとアスカが割り込んだ。
「おや、お互い望み通りの結果になったと思うのだけどね。
惣流さんは、何か気に入らないのかい?」
「結果は問題ないわ。
でも、やけにあたしとシンジで態度が違わない?」
「僕にとって、シンジ君は特別なリリンだからねぇ」
よほど殴ってやろうかと思ったのだが、交渉がまとまった直後にいきなり決裂というのも問題がある。何とか暴力を思いとどまったアスカは、深呼吸をしてレイへと右手を差し出した。
「話はまとまったわ。
仲良くしましょう、ファースト」
「あなたとなれ合うつもりはないわ」
「良い根性だと認めてあげるわ」
自分と握手をしなかったレイに、アスカはにやりと笑って見せた。だが、そんなアスカの笑みも、すぐに引きつることになった。レイは、くるりとシンジの方へ向きを変えると、握手しましょうと手を差し出したのだ。
「あ、綾波、そう言うあからさまなのは……」
そういって困ったシンジの手を、レイは嬉しそうに握った。その後、アスカが荒れたのは言うまでもない。こうして、子供達4人による、人類の歴史に残る協定が成立した。
続く