第32話 揺れる想い

世界を震撼させた北米大陸の出来事から早半年、すでに人々はその出来事を記憶の彼方に追いやろうとしていた。それは、セカンドインパクトから続く忌々しい出来事を早く忘れたいと言う心理が、その後使徒の動きがまったく無い事に後押しされたとも言える。アパラチアでのフィリップス氏の行動は、一つの美談として広められ、これによって使徒の事件は終結したとの見方が一般的となったのである。人々は一日も早く使徒、そしてそれにまつわる騒動を忘れ、早く生活の復興に取り掛かりたいと願っていたのだ。そのためには使徒という存在と同時に、その迎撃を可能たらしめたエヴァンゲリオンもまた不要とする必要もあった。

もちろん未だ終結を迎えていないと考えるのは、何もネルフに限ったことではなかった。報告された使徒の数が合わないことは周知の事実であり、確認されていない以上、堅い岩盤の下に彼らが埋葬されたということも言えないのだ。エヴァンゲリオンの持つ軍事的な価値はさておき、使徒の殲滅が未確認である故、その永久凍結、もしくは廃棄が時期尚早であるのは国連首脳の間でも共通の認識として持たれていたのだ。

それでも、とりあえずの区切りと言うことで、一連の使徒との戦いの記録は関係各国へと公開された。もちろん一般大衆レベルに公開された時には、当り障りのない部分のみが選択されていた。しかしその記録は一大センセーショナルを巻き起こした。先の使徒戦においては、ネルフならびにゼーレが厳重に情報を管理したため、その戦闘がマスコミに載ることはありえなかった。そのため、世界のほとんどの人たちにとって、エヴァンゲリオンの戦いが初めて見る、そして想像を絶するものであったのだ。

巨大ロボットと未知なる生物との戦い、それはある意味娯楽映画的な映像でも有った。よく出来たCG映画なら、それぐらいの芸当が可能だとも思われていた。だが、そこには現実のみが持ちうる迫力があったのだ。それは記録映像のみが持ち得る迫力と言い換えてもいいかもしれない。初め人々は、その圧倒的な力に快哉を唱えたが、次第にあまりにも大きすぎる力に恐れを抱くようになっていた。それでも、その巨大な力を使わなければ倒せない敵がいるのならまだ良かった。しかし、使徒の侵攻のない日々が続けば、危機感は持続できるものではない。しかもエヴァンゲリオンの維持に莫大な費用が掛かると成れば、その不要論が出てくるのも仕方のないことだった。しかも、純粋経済的に得失を議論されると、インパクトを伴わない使徒の襲来より、莫大なコストを消費するエヴァの存在の方が影響が大きいとの評価も出ていた。ただこの経済的評価については、余り議論が成されることはなかった。それは、そこから欠落した人的損害を評価する際、その損害が“どこ”で発生するのかという事が避けて通れなかったためである。エヴァを維持することによる損害は、主に開発途上国、もしくはセカンドインパクトで社会基盤に大きな損害を負った国に限定される。だが使徒による損害は、確率的に言えばあまねく平等に存在しているのだ。つまり、この経済評価に対して意見する際、彼らは必ず人的損害への対応を口にしなくてはならなかったためだ。

その不要論に対して、ネルフの考え方が否定的かと言うと必ずしもそうではなかった。もちろん使徒の殲滅が確認されていない以上、表立ってその廃棄・凍結を口にするわけにはいかないが、心の中では早く手を切りたいと思っているものは意外なほど数多く居たのである。そして意外なことに、エヴァンゲリオンを不要と考えるものの多くが、先の使徒戦からネルフに関わってきた者ということだった。彼らにとって、エヴァンゲリオンはやり残していた宿題であり、そして忌まわしき過去の産物なのである。そしてそう考えるうちの一人が、作戦部長である葛城ミサトであり、メインパイロットの一人である惣流アスカだった。

2019年、時はかつての日本ならもうすぐ桜の咲く季節を迎えようとしていた。

***

つかの間、もしくは仮とは言え、平和になりさえすれば、人々はすぐに以前の生活を取り戻す。それは第三新東京市においても同じことだった。形ばかりとなった春休みを前に、学生達は悲しい別れと新たな旅立ちへの思いを胸に思い思いの時を過ごしていた。そしてそれは、チルドレンとそれを取り巻く人たちにとっても例外ではなかった。

「アスカッ!
今日も病院に寄っていくの?」

いそいそと帰り支度を進めている友人に、渚カオルはそう声を掛けた。学校帰りに遊びに行くでもなく続けられる友人のその行動は、半年前から決して変わることなく、彼女にとって大切な儀式ともなっていた。

「ん…ああ、そりゃあね」

声を掛けられた少女、惣流アスカは、少し浮かない表情で声を掛けてきた少女に答えた。その視線の先では、栗色の髪をボーイッシュに纏めた少女が、首を傾けるようにしてアスカの顔を見つめていた。

「なあに黄昏てんのよ。
彼との間…うまく言ってないの?」
「そんなことはないわよ。
ちょっと考えることがあってさ?」
「どうやったら、うまく別れられるか?
なんだったら、みんなに内緒で私が引き取ってあげようか?」
「冗談っ!!
あたしは降りる気はないわよ。
それに、もしあたしが降りたとしても、あんたに順番は回らないわよ・
あたしの後の待ち行列には、まだたくさん並んでいるんだから」
「アスカ達が別れるのを待っている人がたくさん居ることぐらい知ってるわよ。
だから内緒で引き取るって言ったのよ」

どこまで冗談なのかはわからないが、多少はアスカの表情がほぐれてきたところを見ると、カオルの言葉も無駄ではなかったようだ。

「だぁめよ、そう言う姑息な考えは」
「だぁってぇ、アスカならともかく、レイコちゃんには勝ち目が無いんだもの」

そのカオルの言葉を聞いて、アスカは思わずため息が口を吐いて出来た。あっけらかんと言われるからいいようなものの、それは結構気にしている問題でも有るのだ。

「あんたねぇ、本人を前にしてそれを言うぅ?」
「事実じゃない。
あの子、アスカとためを張る美貌でしょ?
成績はいい方だけど、それも許容範囲じゃない」
「何よ、その“許容範囲”ってのは」
「優秀すぎる彼女ってのはマイナスなのよ。
だって、どうしても引け目を感じちゃうじゃない。
それにアスカの場合、ハンパじゃないしぃ。
で、レイコちゃんってその分家庭的でしょ?
なんか、健気さが前面に出ちゃって、もぉうお姉さま堪らないって感じ!」
「あんたの彼女にする訳じゃないんでしょ。
あんたがさかってどうすんのよ!」

げしっと、アスカは危ない妄想を始めようとした友人の頭にげんこつを入れた。その目の前では、決まりが悪いのか、舌を出して照れ隠しをしているカオルが居た。

「いったいなぁ、期末が済んだ後だからいいような物の、頭が悪くなったらどうしてくれるのよぉ」
「壊れたテレビと一緒よ。
叩けば直るわよ」
「アスカの場合ぃ、直そうとしてたたき壊しそうな気がするんだけど?」
「ほっほう~、そんなことをどんな口をして言うのかな?」
「こんな口ぃ!」

いいいっと、両手で口を広げて見せたカオルに、アスカは呆れたように呟いた。

「カオル……あんた女捨ててない?」

アスカと歩いていると、確実に人目を引くのだ。それが男なら、周りから嫉妬の目が、そして女なら遠慮のない比較が加えられる。そのような環境下で、どこかのお笑い芸人よろしく、自分の口に指を突っ込んで両側に引っ張って見せれば、女を捨てていると言われても仕方がない。だが、言われた方も負けていなかった。

「私は、アスカと違って清らかな“乙女”よ!」
「誰が、そっちの話をしているのよ!!
それに、私だって……まだよ」

最後の方が小声になったのは、周りの視線にさすがのアスカも恥ずかしかったのだろう。

「ふ~ん、アスカって結構奥手なんだ」
「あんた、自分のこと棚に上げてない?」
「へへんっ!!心にいくつもの棚を持つ女と呼んで!!」
「……ったく、口の減らない子ね……」
「それで世間を渡っているからねぇ~
やぁっぱ、アスカみたいな美貌が無い私としては、何かウリがないといけないのよ。
私みたいなのを飾っておいても面白くないでしょ?
だったら場を盛り上げる努力ってのが必要なのよ」
「何であんたみたいのしか、周りに居ないのか……」

トホホと言う表情をアスカは作って見せたが、実のところアスカはカオルに感謝もしていた。彼女の親友であるところの某ヒカリ嬢は、怪傑黒ジャージの相手が忙しくて少し疎遠になっていたのだ。そのせいか、二人の間は進展していると聞いているのだが、最近少しふっくらとしてきたその姿に、シャレにならないよぉ~とアスカは内心呟いても居た。そんなこんなで、カオルが編入してきてこの6ヶ月、芸能人にじゃれつくように自分に近寄ってきたカオルが、今ではアスカの一番の話し相手になっていた。もっとも、その会話が噛み合っているかというと若干の疑問は残るのだが。

「そりゃあ、アスカって近寄りがたいでしょ?」
「そう?自分ではそんなことは思ってないけど」
「だぁって、そんだけ綺麗だと、あたしみたいにタメはれないと、隣に立つのも嫌になるじゃない」
「……そうね……」

さっきと言っていることが違うじゃないか。そんな抗議を込めたアスカの視線も、自分の世界に突入しているカオルには何の効果も与えなかった。

「やっぱりアスカもそう思う?
それにさ、アスカってやっぱり難しそうに見えるのよ。
他人を寄せ付けない感じってやつぅ?
実体はこんなに面白いのにねぇ」
「……あたしにはあんたの方が面白いと思うわよ」
「アスカには負けると思うよ」

嫌みが嫌みとして通じない相手はやりにくい、もっともだからと言ってアスカはカオルを嫌うことはなかった。それは、もともとカオルが人なつっこい性格をしていると言うこともあるのだが、彼女が編入してきたときの騒ぎにも原因があった。

彼女が編入してきた時期も時期、何しろアメリカで砦が崩壊した直後のことなのだ。それに合わせるようにしてやってきた“渚カオル”と言う名前の転校生である。しかも、殆ど差をおかずに転校してきた“綾波レイ”が居れば、性別の違いがあったとしても、その存在を疑わない方がどうにかしている。ネルフは直ちに行動を開始し、とても穏便とは言えない方法で二人の身柄を確保した。使徒相手に通用するとは思えないが、戦自の協力の下に重兵装をした小隊を学校に送り込んだのだ。結局は、身元が確認され、その身の潔白が証明されることになったのだが、そのせいで転校生二人は、全校、いや、全市民の知るところになったのである。もっともその時のことは、本人達には一番に忘れたいことだろう。特にみんなの前で失禁までした綾波レイの場合は……

「まあ…いいけどね」

そう言ったアスカの視線の先には、下駄箱のところで佇んでいるレイコがいた。

***

カオルとの馬鹿話で曖昧になってしまったが、アスカが黄昏て居た理由の一つがレイコの存在だった。別にレイコが目障りというわけではない、アスカ自身彼女のことをどう思うかと聞かれれば、間違いなく“好き”だと答えられる。問題なのは、レイコが見せたシンジへの思いなのだ。アスカ自身、目覚めたときにシンジへの思いをはっきりさせていた。シンジの存在無しには、どんなに自分にとって心地の良い世界でもアスカは受け入れることは出来なかった。だから、シンジが全身に大やけどを負い、整形しても完全には元には戻らないと言われても気にはならなかった。自分たちのつながりが、そんなことではないとアスカも知っていたからだ。

だが、すべてに優先して、それこそ自分を犠牲にしてまでシンジを看病する姿を見せられると、自分のあり方に疑問を感じてしまうのだ。もちろんそれはアスカの勝手な思いこみであり、レイコにはレイコの事情が有るのかも知れない。だがアスカの目に映るレイコの献身ぶりは、とても自分では適わないと思わせる物だったのだ。

「アスカさん、どうかしました?」

レイコの言葉に、アスカは自分がいつの間にか彼女のことを見つめていたことに気が付いた。

「ううん、別に……」

取り立てて何も言うことはなく、アスカはそう言ってごまかした。まさかシンジのことで、自分とレイコを比べていたなどとは言うことは出来ない。結局二人は言葉が続かなくなり、黙って病院への道を歩き続けた。前世紀ほどではないが、自己主張を取り戻そうとしている季節は、柔らかなそよ風で少女達の頬を撫でていった。黒と金、違った色合いを見せる二人の妖精を、町ゆく人は眩しそうに見送っていた。

「……シンジさん……良かったですね」
「……そうね……」

皮膚移植も成功し、少なくとも服を着ている限りではシンジは以前と変わらぬ姿を見せるようになった。骨折や傷ついた内臓も、特に後遺症もなく完治している。リハビリも順調で、今では大抵のことなら一人で出来るようになっていた。パイロットへの復帰はまだ先のことなのだが、取りあえず日常生活には困らないところまでたどり着くことは出来た。それもすべて、この二人の少女を含めた周りの人たちの献身的な努力が有ったからのことだった。

「もうすぐ退院ですけど、そうしたらアスカさん……どうします?」
「どうしますって?なにが?」

ついつい自分の考えに陥りがちなアスカは、レイコに声を掛けられてもとっさに答えることが出来なかった。

「何だと思います?」
「う~んと……」

そう言ってにっこりと笑い掛けてきたレイコから、アスカは考える振りをして顔を逸らした。曇りのない笑みを浮かべる彼女に、なぜか引け目を感じてしまうのだ。

「……退院記念パーティ?」
「惜しいですね?
それは、私たちが心配しなくてもお兄ちゃんが無理やりにでも開きます」
「確かにね……とすると……」

アスカにも、手ぐすねを引いて酒を買い込んでいるムサシの姿は容易に想像が着いた。それを後ろから煽っている副司令代理の姿もだ。

「……シンジのこと絡みよね……」
「もちろんそうですけど、それだけではありません!」
「……降参!教えて」

結局、アスカにはレイコの質問の意味が分からなかった。シンジが退院することと、自分が何かをする事の間の関係が浮かんでこなかったのだ。そんなアスカに、レイコはくすりと小さく微笑んだ。

「アスカさんが、シンジさんの家庭教師をすること、忘れたんですか?」
「……そう言えば……」

もともと出席日数の少ないシンジだが、6ヶ月の入院生活がそれにとどめを刺した。つまり単位不足、あるいは出席日数不足による留年である。だが、そこは世界の英雄にそんな汚点をつけるわけには行かない。そんな政治判断が働き、補習を行うことで“特別”に進級を認めるという温情判断が下されたのだ。しかもその補習は、3年の正規の授業とは並行して行われることになっている。そしてその教師の役に抜擢されたのは、他ならぬアスカであった。

「で、どうするんです?
シンジさんの部屋でするんですか?それともアスカさんの部屋ですか?
私としては、アスカさんのお部屋をお奨めしますよ。
だって、マナったらどこで覗いているか分からないんですよ」
「……なんで……」

そのレイコの種明かしを聞いたとき、思わずアスカはそう聞き返していた。アスカには、シンジを好きでたまらないはずのレイコが、自分たち二人の仲を取り持とうとするのかが理解できなかった。だが、レイコはその質問を誤解して受け取った。

「マナって、そう言うことが好きですから」
「違うわ!どうしてあたしとシンジの仲を取り持つようなことを言うのよ。
レイコは、あなたシンジのことが大好きなんでしょう?
だったらどうしてあたしとシンジが二人っきりになることが我慢できるのよ!」

はぐらかされたと感じたのだろう、アスカの声は大きくなっていた。

「シンジさんが好きだから……では納得してもらえませんか?」
「出来るはず無いでしょう!!
言ってることと、やってることが矛盾しているじゃない!!
シンジが好きなら、何で私を出し抜こうとか考えないの!!」

そしてアスカが不安に感じるもう一つの理由、それはレイコが自分に対して取る態度だった。自分に勝るとも劣らないほどシンジを思っているレイコが、必ず一歩引いて、アスカを立ててくれるのだ。欲しい物ならどんなことをしてでも手に入れる、少し極端な喩えではあるがアスカはそう考えるところが有った。アスカの価値観においては、それが真理なのである。そんなアスカに、今のレイコの態度が理解できるはずはなかった。

「どうしてですか?」
「あんた、シンジが好きなんでしょう!!」

しかもアスカは、レイコがただ大人しいだけの少女でないことを知っていた。

「ええ、大好きです!」
「だったらどうして、あたしにシンジを譲るような真似をするのよ!」
「それがアスカさんの感じている不安ですか?」
「あたしはっ……気味の悪いことは嫌なのよ」
「だったら、本当の事とは別に、アスカさんの気に入る答えを言えと仰るんですか?」
「そんなことは言っていないわよ。
あたしは、あんたが何を考えているのかが知りたいのよ!!」

興奮から顔を紅潮させ、アスカは大きな声でレイコに詰め寄った。だが、熱くなるアスカとは対照的に、レイコは至って冷静にアスカを受け止めていた。

「私が何か企んでいるんじゃないかと言う事ですね。
だったら答は簡単です。
はい、深慮遠謀、権謀術数を練っています。
でも、その中身は聞かないで下さいね。
アスカさんにばれたら意味がないですから」
「……じゃあ、これもその一つというわけ?」

レイコに釘を刺され、一瞬言葉に詰まったアスカは、辛うじて言葉を続けた。

「お好きなように考えて下さい。
ところで、私も質問していいですか?」
「……何よ……」
「アスカさんは、本当にシンジさんのことが好きなんですか?」
「……っ、なんで……好きよ、あんたに負けないぐらい」

アスカの答えは、レイコにとって余分な物がくっついていた。レイコにとっては、自分の思いを他人と比較する事が信じられないのだ。

「アスカさんがシンジさんを好きなことに、私の思いと比較することが必要なんですか?」
「……物のたとえよ……それぐらい好きって事」
「そうですか……ならいいんです」

そこでレイコは、あっさりとその話題をうち切った。アスカからすれば、ほっとしたところも有るのだが、一方であっさりとしすぎるレイコに不安を感じるほどだった。だが病院に着いてしまったため、その話題はそこで終わりとなってしまった。先に行けと言うレイコに、何か釈然としない物を感じながらアスカはシンジの待つ病室へと歩いていった。

「自信がない……迷っている……
だから他人のことが気になるのね……
……私も同じか……」

エレベータに消えたアスカを見送り、レイコはつぶやいた。

「……ただ、好きと言うだけではだめなのかなぁ……
辛いですね……シンジさん」

レイコもまた、アスカとは違った悩みを抱えていた。

***

レイコに、自分が悩んでいることを見透かされていることぐらい分かっていた。冷静で居ようとするのだが、落ち着いているように見えるレイコを相手にすると、どうしても苛立ちを抑えることが出来ないのだ。それはアスカの側に、ある種の後ろめたさが有るからかもしれない。ただ好きだだけで済んでいくのなら、どんなに気が楽だろう。ことあるごとにアスカはそう考えていた。そしてそんなことを考え始めると、いつもは逢いたくて堪らないはずのシンジに逢うことが、気の重い仕事に感じられてしまうのだ。

それでも、ひとたび病室に入ってしまえば気持ちも変わる。シンジと唇を重ね、抱きしめられてしまうと、心臓は早鐘をうったように飛び回るし、アスカの中の女はシンジを欲した反応もする。もしここが病室でなければ、そしてすぐにシンジの家族がやってくるのでなければ、このまま抱かれてしまいたいとさえ考えるぐらいにだ。そしてそれがアスカの独りよがりでないことは、シンジの自己主張している男性器官が教えてくれた。シンジも自分と同じように感じている。その思いは、更にアスカの中の女を刺激することとなった。

アスカは、シンジが退院したのなら、すぐにでも自分たちは関係を結ぶだろうと思っていた。今までの関係を考えると、それはとても自然であるし、お互いの望んでいることでもある。だが一方で、そのことはアスカの悩みの一つともなっていた。いや、悩みと言うより恐れと言った方が正しいだろうか。関係してしまったら、自分は今以上にシンジに依存してしまうのではないかと……
いつでもシンジのことを考え、そしてシンジが身近にいないと不安になる。シンジが他の女を見ただけで不安に陥り、楽しげに話しているのを見れば裏切りだと憤慨する。現に、以前は認めていたレイコとの関係ですら、今では苦痛に感じるようになっている。これが更に酷くなるのなら、それはもう病的としか言い様がないだろう。

そしてアスカは、自分の進路に迷ってもいた。シンジが好き、愛している、それだけですべてが終わるのならそれで良かった。だが、少しでもシンジの側を離れてしまうと、自分を取り巻いている世界が急に色褪せてしまうのだ。自分で選択したこととはいえ、高校での学習は退屈きわまりない。シンジと一緒に、進級、進学していくという考えは、確かにアスカにとって魅力的に響いている。しかし、そのことは裏を返せば、シンジ以外のことには魅力的感じていないという意味である。

しかしそれは、アスカにとって仕方のないことでもある。レイコやマナのように、普通の家庭に育っていればまだしも。幼くして大学を卒業し、ネルフドイツではパイロットの傍ら研究も行ったアスカには、今の状態は普通とは感じられない世界なのだ。常に新しいことに挑戦し、そして自分を更なる高みへと押し上げていく。その道筋をダンチェッカーによって示されているのだ。魅力的な世界が目の前に開けているのに、どうして今の場所でとどまっていられるだろうか。
オーブ・フィリップスと言う優秀な研究者を失ったことで、ゲイツはビジネスに大きな損失を被っていた。だが、アスカが加わりさえすれば、その優秀な頭脳はもとより、高いBIACとの親和性の高さを生かして、新しい応用を見つけることが出来るのかも知れないのだ。ダンチェッカーからは、アスカの参加は早い方がいいと言われていた。もちろん、彼もアスカとシンジの関係を知っている。だから今すぐにとは言わなかったが、それでも時間とともにその損失はアスカにとっても大きくなるとダンチェッカーは言っていた。およそのリミットは1年、それを超えるようならアスカは貴重な機会を失うことになるとも。

今は、ゲイツもダンチェッカーも面と向かってアメリカへ来て欲しいとは言って来ない。だが人の口伝いに、彼らがアスカに期待しているのは聞こえてくるのだ。そしてアスカ自身、彼らの役に立てるという自負も持っていた。更に言えば、周りの情勢はアスカに有利に働いている。エヴァの不要論すら出ている今、アスカがアメリカに渡ることはさほど難しくなくなっていた。ただ一つ、シンジと離れることを厭わなければである。

アスカは、自分の腰に回されたシンジの腕を指で辿った。その腕は、6ヶ月の入院生活のせいで、すっかり筋肉が落ちていた。それは足の筋肉も同じ、半年前まではしなやかに鍛えられた体をしていたシンジも、今は見る影もなく肉を落としていた。だがそれも、リハビリが終わり、そして以前のようにトレーニングを始めればいずれは元に戻るだろう。半年、いや一年も経てば、背中に残る火傷の跡だけが今のシンジを伝えるものと成るだろう。そのとき自分はどこに居るのだろうか。シンジの腕の中に居ても、最近アスカはそんなことを考えるようになっていた。

「もうすぐ……みんなが来るね……」

アスカの髪に顔をうずめ、くぐもった声でシンジはアスカに話し掛けた。レイコが、病院の入り口で待っているのはそのためでも有るのだ。

「うん……」

シンジに促されるように、アスカはシンジの膝から立ち上がった。特にやましいことをしているわけではないが、乱れた服装をしているのはばつが悪い。アスカは立ち上がると、部屋にある鏡で身支度を整えた。そんなアスカに、シンジが声を掛けた。

「もうすぐ退院するだろう?
そしたらアスカの部屋に行きたいんだ」

シンジの言葉に、アスカの心臓は大きく弾んだ。迷いがあったとしても、そのこと自身、アスカも望んでいることだった。だが、その次にシンジから発せられた言葉は、アスカの予想を裏切っていた。

「そのとき、アスカに教えてもらいたいんだ……
アスカが今、何に悩んでいるのか……」

アスカは、結論をつけるときがやってきたことを悟った。

続く