新第壱拾参使徒との戦闘報告は、一瞬の内に世界を駆け巡った。エヴァ2体の損失とエースパイロットの負傷。安全保証理事会は、事態の深刻さとそこから引き起こされるパニックを怖れ、この情報をトップシークレットとした。そして情報の発信を厳しく制限し、極秘と言う闇の中に情報をしまい込む事にした。確かに一般大衆に不安が広がる事は防げるのかもしれない。しかしすでに情報を知っている国家首脳たちに取っても、この一件は重大事であるのだ。
そのためネルフはまた一つ仕事を抱え込むことになった。ネルフに事態の説明を求める各国の要求が相次いだのだ。
『緊急事態への対応策を説明せよ!』
各国の要求は一言で言えばこれに尽きる。使徒に対する対策のため、ネルフに大きな権限と予算を与えてきたと言う思いが各国にはある。従って、対使徒戦に対する対応をネルフが示すのはああたりまえだと言うのが各国の主張である。もちろんネルフとしても、その責任に対しては異論はない。しかしネルフにしてもなお、各国に示せるような『対応策』など持ちあわせてはいなかったのである。来るべき使徒の特性を予測し、虎の子の大エースを温存したのだ。それにもかかわらず事態は最悪に近い方向で推移してしまった。この上、何かが出来ると言うのなら、責任者である葛城ミサトは飛んでいって教えを請うただろう。アスカの存在だけでは、自分はおろか各国の首脳を納得させることなど出来ない相談だったのだ。
ネルフには、シンジの復帰まで使徒の来襲が無いことを願うと言う、極めて受動的な対策しか残されていなかった。
ミサトは何本目かの電話に答えると、小さくため息を吐いた。ヒステリックな詰問に答えるのは骨が折れる以上に神経を擦り減らす。それでなくてもミサトには頭の痛い問題が存在しているのだから。ミサトは何度目かのため息を吐くと、これも一日で習慣と化した、シンジの収容されたICUをモニタする映像を呼び出した。
そこには、運び込まれた時と変わらぬシンジの姿が映し出されている。彼のわずかな生は、その体につなぎ込まれた細いチューブの数々で何とか保たれている。何度見てもその姿を正視できず、ミサトはそっと瞳を閉じた。
エヴァの爆発は、シンジの救出作業に大きな影響を与えた。有線無線、全ての通信が遮断されたため、初動が著しく遅くなったのだ。そして連絡が付いた後も、爆発で巻き散らされた瓦礫の山は、救援の大型機の進入を困難にした。結局、本格的にシンジの救出活動が始まったのは使徒殲滅から3時間が経過してからだった。しかし、せっかく始まった救出作業も遅々として進まなかった。
本来ならプラグにはパイロットエントリー用のハッチが有ったのだが、今回はちょうどその辺りを中心に折れ曲がったため、ハッチはてこでも動かない状態になっていた。そして中の状態がどうなっているのか分からないため、闇雲にプラグを切断するわけにも行かず、外部からの超音波探索が必要となった。最後にはプラグ自身の頑丈さが今度は仇となり、作業開始から2時間を経て、プラグの中からシンジが救出されることとなった。
大量の出血にLCLの循環停止と血液の混入による酸素不足。そして、爆発の衝撃で飛散した部品によるいくつもの傷跡。かろうじてシートの固定が失われていなかったため、シンジがプラグ内でシェイクされる事は避けられた。ほんの少しの幸運のおかげで命を保つ事が出来た。それだけが不幸中の幸いと言えるだろう。
だからといってシンジの状態が安心できるものでは無いことは確かだった。シートに固定されていたとは言え、そこを支点に様々な加重が加えられた。そのため骨折箇所は両手で数え切れないほど存在していた。しかしそれ以上に深刻だったのは、酸素不足の状況にシンジが置かれていたと言う事実だった。救出が優先されたたことと、プラグの損傷から細かい情報は失われていた。そのためどれくらいの間、シンジが酸欠状態に置かれたのかは不明である。植物状態/脳死と言う最悪の状態に陥る危険性が高かったのだ。
そのためシンジの容体は地方の救急病院の手に余り、応急手当をした後すぐにシンジの体はネルフに運ばれることとなった。
関係者にとって永遠とも思われる時間。シンジの家族も急の知らせを聞いて駆けつけていた。そんな中シンジ治療の総指揮をとっていた赤木リツコからシンジの容体の報告がなされた。
『脳は一応正常に機能している。ただし、酸欠の後遺症がどう言った形で現れるかは不明』
『外傷は未だ予断を許さない状況にあるが、峠は越えている』
そこには期待した希望の見える情報は無かった。
「あれから三日か……」
そう呟きながら、ミサトはカメラをICUの外の映像に切り替えた。そこには初日から変わることなく、三人の少女の姿が映し出されていた。その三人の視線は一様にICUの中に向けられ、その中で起こるどんなことも見逃すまいという意志を見せていた。そこに三人の思いの強さ……ミサトはそれを感じていた。そして同時に、三人の純粋さもまた感じていた。
夜を徹してICUの前に居続ける彼女たちに、家族たちは何も言わずに着替えと食料の補給をしていった。家族の居ないアスカにはシンジの家族が差し入れをしていた。シンジの両親やレイコの両親がどういう思いでここに訪れるのかは判らない。そして昏々と眠り続けているシンジにどういう言葉を掛けているのか。それはミサトには想像のできない事だった。
三日と言う時間以上に三人は、その顔に疲労の色を濃く映し出している。返ってくるかどうか判らない者を待つ不安、それが彼女たちの精神を時間以上に蝕んでいた。それでも彼女達は、頑としてその場を離れようとはしなかった。
ネルフにとって、マナとレイコ、この二人がどうなろうと別に問題は無かった。冷たいようだが、この二人が倒れたところで彼らの関知するところではないのだ。しかしアスカの方はそうはいかない。何しろシンジが戦えない今、まともな戦力と言うのはアスカだけなのである。その彼女が、シンジ救出からこの方ずっとICUの前を離れないで居る。傍目でもその疲労の蓄積はただ事ではなく、今この時使徒の襲来が有った場合、戦力低下は避けられない状況にあった。
本来なら次なる使徒の襲撃に備え自宅で待機、休息が必要な状況なのである。しかし“心”の比重の大きなエヴァの特性もあり、ミサトは、アスカに待機命令を発せないでいた。
「甘いっていうのは分かって居るんだけどね……」
それにしてもそろそろ限界である。モニタに映し出されたアスカの顔に、『今晩は自宅に帰って休養を取ること』と命じよう。ミサトがそう決意したとき、彼女の元に一本の連絡が入った。それは、もう一人の怪我人、相田ケンスケが意識を取り戻したと言う連絡だった。その連絡を受けたミサトは、とりあえずケンスケに合うため自室を後にした。
ミサトがケンスケの病室を訪れたとき、中に居たのはケンスケとマユミだけだった。マユミは、ミサトの固い表情を見て、機密に関わる事かと席を外そうとした。しかし、『聞いて欲しいことが有る』と言うミサトの言葉に、マユミは病室に残る事になった。
ミサトは自分を見つめる二人に向かって深々と下げた。
「まず最初に相田君には謝らせて貰うわ」
その姿にマユミは訳も分からずおろおろし、一方のケンスケは冷たい視線をミサトに向けていた。
「そうですね。はっきりと説明して貰いたいですね。
どうして俺に説明してくれなかったのか」
「それは……」
そんなことが言えるはずが無い、ミサトはそう考えていた。
「ミサトさん、言えない理由で作戦を決めているんですか?
それとも、俺ってそんなに信用が無いですか」
「そんなことはないわ!」
ミサトは大きく頭を振った。彼女とて、ケンスケを信用していなかったわけではない。それでも『あなたを犠牲にする』などと、面と向かって言える程彼女は図太くはなかった。
「なら、何故事前に説明をしてくれなかったんですか。
それから勘違いをしないで欲しいんです。
俺はミサトさんの判断は間違っていないと思っています。
確かにシンジが使徒に犯される危険を冒すわけにはいきません。
そんなことぐらい理解しています。
その上で、どうしても避け得ないことなら、俺かトウジのどちらかを選ぶ。
喜んでとは言いませんが、甘んじて受けいれるつもりはありました。
それがみんなを……マユミを守ることになるんですからね」
自分を守るために死をも厭わない。そう言いきるケンスケに、マユミは責めるような視線を向けた。自分の望みは生き残る事ではなく、ともに生きていく事なのだとマユミの目は語っていた。
「マユミ、勘違いしないでくれ。
別に自分の命を軽く見ているわけじゃない。
俺だって死にたくないし、マユミと一緒に生きて生きたい。
誰かに任せられるんだったら、誰かに任せておくさ。
でも、他にいないんだな……これが」
悲壮さを感じさせない笑顔で、ケンスケはマユミを見た。十代である事を想像させない男の顔に、ミサトは自分の認識の間違いをはっきりと理解した。
「言い訳はしない。
あなたの考えているとおりだから。
ごめんなさい……私にはそれしか言えないわ」
再びミサトは深々と頭を下げた。その姿に、ケンスケは小さく微笑んだ。
「もう良いですよ。
すべては終わったことですから。
ただ次からはこう言うことがないようにお願いします。
ところでミサトさん……」
これが本題とばかり、ケンスケの表情が厳しいものに変わった。
「シンジの奴……どうなんですか」
おおまかな事情はマユミから聞いているのだろう。ただ、彼女にしてもごく限られた情報しか与えられていない為、そこから伝え聞くケンスケは何も知らないのと同じだった。
「……命は取り留めた……今はそれだけ。
いつ目を覚ますのか、本当に目を覚ましてくれるのか。
誰にも分からない状態よ……」
「そうですか……」
肌で感じていたネルフを包む緊張感、自分が恐れていた状況を聞かされ、ケンスケは言葉に詰まっていた。ここまでの話を総合すると、シンジの負傷は自分を助けたために他ならない。
「惣流は……どうしてます……」
「ずっとシンジ君の居るICUの外に居るわ。
でも、それも今日まで。
今夜は帰るように私が命令するわ」
「そうですか……
出来れば一服盛って、無理矢理寝かせてやって下さい。
でもないと、惣流は寝られないでしょうから」
てっきり反対されると思ったミサトは、思わぬケンスケの言葉に驚いて彼の顔を見た。それにケンスケは苦笑をもって応えた。
「まるで反対して欲しいような顔をしてますね。
でも、今の俺達には惣流の力が必要なんです。
あいつがまともに戦えないようじゃ、誰も助からないんです。
今はショックを受けて冷静に考えられないのは仕方ないんですが。
いつまでもそれじゃ困ります。
シンジが戦えない今、惣流の敗北は人類の敗北になりますからね」
「相田君に指揮を任せた方が良いぐらいね……」
これは皮肉では無い。ミサト自身、今の自分のふがいなさを恥じていたのだ。
「そのうちそう言う立場に立ちたいですね。
でもその前に、みんなが生き残らなくちゃ始まりません。
憎まれ役だって必要なんですよ。
ミサトさん、今はミサトさんがその役にならないといけないんです」
耳に痛い言葉だとミサトは感じた。本当に遠慮なくずけずけと言ってくれると。しかし、それが返ってありがたかった。誰かに叱咤されなければ自分でも収まりがつかなかった。そして本来ならその役目を負うべき、彼女の上司達は国連対応で忙殺されていたのだ。
「ありがとう……
真摯に受け取っておくわ」
ミサトはそう言って、ケンスケの病室を辞した。ケンスケはミサトの前では気丈に振る舞っていたが、彼自身の受けた精神的なショックも計り知れないものがある。とりわけ、シンジの容体が悪いと聞けばなおさらである。もちろんそれに気づかないほどミサトも鈍くはなかった。とはいえ、ミサトはケンスケの事を心配はしていなかった。何しろケンスケの横には、彼を支えるマユミの存在が有るのだ。彼が傷つき疲れているのなら、それをやさしく癒すのは彼女の権利だとミサトは思っていた。
「辛いな……」
思わずミサトはそう呟いていた。辛いのは自分ではない。今のアスカの状況こそ辛いのだ。何の慰めを掛ける言葉もなく、そしてすべての責任がアスカの肩に掛かってくる。そしてそんなアスカを支えられる人は、今生死の狭間を彷徨っているのだ。
ミサトは気付かないうちに胸の十字架を握りしめていた。
病室の前に佇む少女達に言葉はなかった。ただガラス越しに見える少年の姿を見つめること、それだけが彼女達に出来ることだった。
シンジは、全身に傷を負い、何カ所も骨折し、軽度とは言え熱せられたLCLで全身に火傷を負っていた。感染症を避けるため、彼の病室は無菌状態に保たれる必要が有った。そのため、少女達は彼の近くに近寄ることは出来ず、窓ごしその姿を眺める事しか出来なかった。
シンジの容体は楽観を許すものではなく、いつ意識が戻るのとも分からない状態にある。シンジの回復を信じる少女達は、ガラスごしに少年の回復を祈りつづけていた。
そんな中、アスカは隣に座っているレイコとマナの顔を伺った。二人とも、その顔には疲れの色が色濃く現れている。時々休養は取っているが、多分まともに眠れていない事は想像に難くない。もちろんアスカも例外ではない。
『休養を取る』
暗黙の合意のうちに、交代で休みを取ることになっている。だからと言って、仮眠所に行って仮眠を取ろうとしてもどうしても眠ることが出来ないのだ。シャワーを浴びて、体にまとわりつく不快感だけは流し去ることは出来る。しかし、どうしても体の要求の通りには眠りにつくことが出来ないでいた。
『シンジが目を覚まさなかったら……』
一人になると、悪いことだけが頭の中を駆けめぐってしまう。アスカは、薬の力を借りようかとも考えた。しかし、自分が眠っている間の事を考えると、怖くて使うことが出来なかった。そのため仮眠室で横になっても、まんじりともせずに時間だけを過していた。
パイロットとして、これではいけないことは分かっている。鏡に映る自分の顔はしっかりと疲労の色が出ているのだ。隣に居る二人の少女と同じで、目の下にはしっかりと隈が出ている。唇は渇き、肌も荒れてきている。食欲もない……このままではまともに戦うこともできない。
シンジが戦えない今、自分が頑張らなくてはいけないことは分かっている。ひいてはそれがシンジの為になることも分かっているのだ。しかし、それでもアスカは自分に気力を奮い起こすことが出来ないで居た。
残っている使徒を考えれば、その戦いが絶望的なものになることは分かっていた。単にEVAの操縦についてだけ言えば、14歳のあの頃の方が今に比べて上手く扱えていたのだ。量産機と弐号機では根本的に何かが違っている。それでも強いてあの頃に比べて勝っているところを探すとしたら、それは精神の安定に他ならない。しかし、唯一とも言えるそのアドバンテージも、今の状態ではとても当てになる物ではなかった。
こんな時、使徒が襲ってきたらどうすればいいのか。
アスカは一つ深呼吸をした。そしてガラス窓の向こうにいるシンジの姿をじっと見つめた。シンジが収容されてから三日経つ。しかし、その間一度もシンジが自発的に体を動かしたことはなかった。医師の話では、今骨折している骨がくっつき、リハビリを始めることが出来るようになるまで最低で1ヶ月は必要と言うことだ。しかしあくまでそれは骨折に限った話なのだ。シンジの意識が戻らないため、それ以上の障害が分からないのが現状である。それどころか、本当にシンジの意識が戻るのかどうかも分かってはいない。
アイツに勝てるのか……
アスカは、次に来る使徒が第壱拾四使徒だと、漠然と感じていた。何故そう感じたのかは分からない。しかしその予感は、確信に近い形でアスカの頭の中に存在した。もし、次に襲来するのが第壱拾四使徒ならどうすればいいか。はっきり言って自分が勝てる確率は無いに等しい。もう一体動けるエヴァが居たとして、乗るパイロットは鈴原か相田なのだ。彼らが加わったとしても、勝算に目立った差など出てこない。
自分の能力を過剰に評価するのは命取りである。勝てないのなら勝てないのなりにどうすればいいのか……
自分に出来ることはせいぜい時間稼ぎだろう。N2爆弾では足を止めることが出来ないのは、先の戦いで零号機が証明している。なら、その時間稼ぎ・足留めをどうすればする事が出来るのか。N2爆弾よりも大きな爆発……たとえばエヴァの自爆……その考えにたどり着き、アスカはぶるっと一つ身震いをした。
零号機の自爆で、確かに第壱拾六使徒は殲滅することが出来た。しかしその後に残されたのは、廃墟となった第三新東京市ではなかったか。今度もし、同じように7号機を自爆させたとしたら、被害もまた同程度となるであろう。それでも敵を殲滅できる保証は無い。足止めがせいぜいだろう。
やはり……
アスカは、シンジには11号機を持ってここから脱出して貰うべきだと確信した。そして少しでも時間を稼いで、シンジの回復を待った上で使徒を殲滅する。それが自分たちに残された手段だろう。そのためにはやはり自分が時間を稼ぐしかない。
でもそれは、シンジに永遠の別れを告げる事を意味している。多分シンジは自分のしたことに怒り、悲しんでくれるだろう。頭では理解できても、自分の取った行為を納得はしてくれないだろう。ひょっとしたらそのことが原因でシンジの心に大きな傷を作ってしまうかもしれない。やはりシンジには横で支えてくれる人が必要なのだ。
アスカはもう一度隣に居るレイコの顔を見た。この子は自分と同じように……ひょっとしたら、今こんな事を考えている自分以上に、シンジの事を想っているに違いない。彼女だったらその役に適任だろう。何しろ、打ちひしがれていたシンジは、彼女達の力で立ち直ったことがあるのだ。ならば今度もシンジを任せられるのではないか……
『いつまでもここにいるのは未練だろう』アスカはそう考えるようになっていた。そして、ここでこうしてシンジの顔を見ていると決心が鈍るとも。だったら自分がしなくてはいけないのは、シンジにお別れを言うことだ。今なら……自分の心を打ち明けていない今なら、シンジの傷も少しは軽くなるだろう。
『よし!』
アスカはそう呟くと、勢いよくベンチを立った。疲れているのだろう、レイコとマナは緩慢な動作でアスカの行動を目で追った。その視線を意識しながら、アスカは決定的な言葉を口にしようと努力していた。
言わなくちゃいけない……
たとえそのせいで二人に責められることになったとしても、それはエヴァのパイロットである事を選んだ自分が負わなくてはならないものだ。
「大和さん、あなたに一つ聞いておきたいことが有るの……」
アスカの問いかけに、レイコはゆっくりと視線をアスカへと向けた。
「ねえ、シンジが私の事を好きなのは知っているわよね。
それでもあなたはシンジの事が好き?」
アスカの言葉に、レイコの顔色が変わった。何故、今こんな事を聞かなければいけないのか。しかも彼女は自分の気持ちなど分かっているはずである。それでもレイコはアスカの問いにしっかりと答えた。
「ええ、シンジさんの気持ちが、今誰に有るかと言うことは関係有りません。
私自身が誰を好きなのか?
大切なのはその気持ちだと思っていますから」
『ああ、羨ましい』
こんなに一人の男性を一途に思うことが出来る。アスカはレイコを羨ましく思えた。
「でも、それは横恋慕よ」
レイコにとって最も辛い言葉。それをアスカはあえて口にした。
「知っています……それくらい。
だからといって自分の気持ちを偽ることは出来ません」
「私に勝てると思っているの?」
「多分駄目なのかも知れませんね。
アスカさんと再会する前でも、シンジさんは私を受け入れてくれませんでしたから。
でも、それでも私はシンジさんが好きです。
それは不幸なことかも知れません。
他の人を好きになれば楽になれるのかも知れません。
でも、今の私はまだ駄目なんです。
あきらめが悪いんです」
何をこんな時に、そう感じたマナは二人の話に割って入ろうとした。しかし、それは二人の真剣な視線の前に失敗していた。
「私が戦いで死ねば、シンジはあなたの所に帰ってくるわ」
「そう言う身勝手なことは考えないんです。
アスカさんを忘れさせる自信はありますが、悲しい思いをして欲しくありませんから」
「……奇麗事を言うのね」
「これが私の本音ですから。
だから、シンジさんは私のことを気にかけてくださいます」
「そうね、あの優柔不断男は真剣に悩んでいるわね。
どうやったら、後腐れなく別れられるのかを」
「酷い、そんな言い方無いじゃないですか!!」
アスカの言葉に、真っ先に反応したのはマナだった。あまりの酷い言い方に、マナは黙っていられなくなってしまった。
「なぁんだ、厚い友情のために、涙で失恋を我慢した妹か。
そんな意気地なしには割り込んで欲しくないわね」
「そんな言い方は酷いですよ!」
「マナ……少し黙っていてくれる?」
「でも……」
アスカによって油を注がれたマナの炎は、冷静なレイコの一言でいきなり鎮火された。マナを黙らせたレイコは、穏やかな顔をアスカへと向けた。
「意味の無いお話は止めませんか?
私は、シンジさんがアスカさんを選んでも恨みはしません。
それに、シンジさんよりも好きな方が現れるかもしれません。
そのときまでは、シンジさんのことを思いつづけていますから」
「……あたしには理解できない考えね」
「ええ、私にもアスカさんの考えは理解できませんから。
どうして、シンジさんをあきらめようとなさるのですか?」
レイコの言葉に驚いたのは、何もアスカだけではなかった。
「レイコ、どういうことなのよ!」
「マナ、少し黙っていて欲しいと言ったでしょう?」
「それは、そうだけど……」
いつもなら絶対に収まりがつかないのだが、今日のレイコにはマナは逆らえなかった。
「アスカさん、あなたがどう考えようと、シンジさんとの間の糸は切れないんです。
あなたが繋いだ手を放そうとすればするほど、シンジさんはその手を強く捕まえます。
決して一人で落ちることが出来ないことを忘れないでください」
「あ、あたしは、別にそんなことを言っているわけじゃないわよ!」
「なら、いまさらどうして私達の関係を持ち出すのですか?
シンジさんとのことは、私達二人だけで決着をつけることではないはずです。
シンジさんは、私の気持ちをご存知ですよ。
一度、ちゃんと告白しましたから」
静かに言葉を続けるレイコに、アスカは完全に圧倒されてしまった。
「気の利いたことが申し上げられないのですが、
人のために死ぬことは勇気と申しません。
本当の勇気は、どんなになっても最後まで一緒に居られるよう足掻く事だと思っています」
「あんたは、その勇気があるって言うの?」
「それが無くて、どうしてここまでついて来られますか?
ここが戦場になることぐらい、はじめから分かっていたことなんですよ?」
「……強いのね?」
「私は強くなんかありませんよ。
でも、そう見えるとしたらシンジさんのおかげですね。
アスカさんもそうなのではありませんか?」
「え、ええ、そうね……」
レイコの笑みに負けた気がしたアスカは、そっぽを向いてその言葉に同意した。
「アスカさんがパイロットのお勤めを果たすのなら、
留守は私とマナで守ります。
必ずアスカさんの帰ってくる場所を守って見せますよ」
「だから安心して行ってこいと言うのね?」
「それが、力を持たないものの仕事ですから」
柔らかく微笑んだレイコに、アスカは小さくため息を吐いた。どうも彼女と話していると、自分が子供に思えて仕方が無い。
「分かったわ。確かにレイコの言う通りね。
あなた達は、シンジの横にいてあたしの戦い振りを見ていなさい!」
「御武運をお祈りしております」
そう言って顔の前で手を握ったレイコに、アスカは気が早いと笑った。
「よしてよ。
まだ使徒が現れたわけじゃないんだから。
あたしはただ、パイロットとして待機任務に入るだけだから」
「それでも、ご無事を祈るのは私の役目ですから」
そう繰り返したレイコに、アスカは照れたようにあさっての方向を見上げた。
「こ、こんどさ、時間が出来たら3人でデートしましょ。
こいつに、責任の重さを実感させてやらなければいけないからね」
「……私も混ぜてくださいよぉ」
3人と言う人数にマナは文句を言ったのだが、残念ながらマナの文句はアスカに却下された。
「だめよ、両側に一人ずつ。
3人目の入る余地なんて無いんだからね。
あんたは、家でシンジに甘えなさい」
「……思いっきり甘えてやるから!」
「それが、“妹”の特権だからね」
妹を強調したアスカに、マナは唇を尖らせて不満を表した。
アスカは自分のマンションに帰る前に、一番冷静に話が出来る相手として赤木リツコの元に立ち寄った。自分の考えを伝え、この先のことを相談するためである。こう言う時ミサトでは、感情が先に立って話がまとまらなくなる。
「リツコ……いい?」
アスカは遠慮がちに声を掛けると、すさまじいほどに散らかったリツコの部屋に入っていった。そこではようやく一息ついたのか、リツコがぐったりと肘掛け椅子に持たれかかっていた。
「いいけど……そこのコーヒーを持ってきてくれる?」
なり振りかまっていられない状況に有ったのは良く分かっているが、チルドレンの健康管理も彼女の仕事であるのだ。2体のエヴァが失われ、同時に二人のチルドレンが病院送りになったのだ。物理的な仕事のほかに、彼女の心労がいかばかりかうかがい知れると言うものだ。
アスカはいつ煎れられたのか分からないコーヒーをカップに注ぐと、リツコのところに持っていった。
「ありがとう、アスカ……それで私に“どの”用なの?」
アスカは傍らに積み上げられたたばこの吸い殻を傍目に、小さくため息を吐いた。
「これから自宅に帰って眠るつもりだけど……
薬……くれない?」
「ミサトに命令されたの?」
リツコにしたら、アスカが自分でこんな事を言い出すとは考えられなかった。となれば、こんな事をアスカに言うのはミサトしか有り得ない。ある意味残酷な命令では有るが、ようやくミサトも心を鬼にしてでも出さなくてはいけない命令を出せるようになったのかと考えていた。
しかしアスカは、そんなリツコの考えを首を横に振って否定した。
「違うわ、ミサトは何も言っていない。
レイコに送り出されちゃったのよ」
「レイコ……?」
そんな子居たかしらと言うのが、正直なところだった。
「副司令代理のお嬢さん。
そして、あたしの当面のライバルよ」
「あ、ああ、あのレイコさんね……」
そう言われて、ようやくリツコは目的の人物に思い当たった。もちろん、彼女の中の疑問にはまだ答えは無かったのだが。
「そ、それで薬を出せばいいのね?」
「ええ、気が昂ぶって眠れそうに無いから」
分かったと言って立ちあがろうとしたリツコを、アスカは待ってと押しとどめた。
「もう一つ……重要な話が有るの。
リツコ、いえ赤木博士。
次に使徒が使徒が来る前に、ここを放棄する準備をして欲しいの」
爆弾とも言えるアスカの言葉を、リツコは比較的冷静に聞いていた。それはリツコの中にも有った案であるのだ。使徒と戦っていく上で守らなくてはならない第一はシンジとエヴァなのである。本部の存在など代わりが利くものであるのだ。MAGIオリジナルを失う事は惜しいのだが、データのバックアップは容易に行えるし、再建も可能である。しかし2体しかないエヴァのすべて、もしくはパイロットとしてのシンジが失われた時に人類は使徒に抗がう方法を失ってしまう事になるのだ。
「ありがとう、アスカ……」
頭のいいアスカの事だ、すべてを分かった上で言っているのだろう。リツコにはそれが理解できた。だからこそリツコには、感謝の言葉以上にアスカに掛ける言葉はなかった。
「リツコ、なにか勘違いしているんじゃないの?
あたしは、必要だと思うから申告しただけのことよ」
「そ、それは、そうだけど……」
「リツコの反応を見る限り、その案は誰も言い出していなかったようね。
まったく、作戦部は何をやっているのかしら?」
呆れたように吐き出したアスカに、リツコは苦笑でそれに答えた。
「砦を守ると言う意識が強いのでしょうね」
「シンジとエヴァ、それが無事なら使徒と戦えるのにねぇ」
「あら、あなたはそこに居ないの?」
「んっ、優先順位の話をしただけのことよ。
リスクマネジメントって奴を言っているのよ。
もちろん、あたしはシンジが復活するまで負けるつもりは無いわ!
っと訂正。ずっと負けるつもりなんて無いわ!」
力強いアスカの言葉に、リツコの顔にもようやく笑みが浮かんだ。
「それを聞いて安心したわ。
じゃあ、アスカの上申は、私からミサトに伝えておくわ」
「お願いするわね。
結構ミサトに話すのって骨なのよね」
「そう言うことよ。
そんな面倒をする前に、あなたは体を休めなさい」
「分かったわ。ありがとう、赤城博士」
「今までどおり、リツコで良いわよ」
「分かったわ、リツコ。恩に着るわ!」
ばいばい、アスカは明るくてを振ってリツコの部屋を後にした。
ジオフロントを出た瞬間に自分を捕らえた日差しに、アスカは『暑いな』と感じた。どうやって自宅まで帰ろうかと思案しているところに、思いがけず後ろから『やあ』と声を掛けられた。
「え、えっと……」
いつも良く見る顔なのだが、とっさに名前が浮かんでこない。そのアスカの様子に、声を掛けた方は瞬間寂しそうな表情を浮かべたが、直に気を取り直して笑顔でアスカに話しかけた。もちろんアスカはその笑いが少し引きつっていたのを見逃す事はなかったが……
「青葉だよ、アスカちゃん。
赤木博士に頼まれたんだ。
『送って上げて欲しい』ってね」
青葉は長い髪を掻き上げながら、わざと男らしい笑みを浮かべた。
「外は暑いし、アスカちゃんはVIPだからね」
「はあ、VIPね……そんな扱いには思えないわね」
そう言いながらも『まあ、その方がいいか』とアスカも考えていた。なまじ堅苦しい扱いをされるより、名前は度忘れしていたが知っている人に送ってもらった方が気は楽である。
「で、車はどこ?」
にっこりと笑ったアスカに、青葉は『こっちだ』と手招きをし、彼の車のところに連れていった。
「悪いね、本当ならもっと気の利いた車で送ってあげたかったんだけどね」
そう言って何の変哲も無い……と言っては多少の語弊が有るが、青葉はごく普通に保安部が使用する公用車にアスカを案内した。
「いつも電車で通勤しているからね。
急に電話が掛かってきたから用意が出来なかったんだ」
「いえ、良いんです。
かえって迷惑を掛けたみたいで……」
それでも良く利いた冷房が気持ちいい。アスカはほっとした気持ちで、助手席に体をもたれさせた。
「いや、もう一時間早くお声が掛かっていれば、家に帰って車を取ってきたんだけどね。
アスカちゃんみたいな美人を乗せるなんて、これを逃したら無いかもしれないからね」
「……おだてたって何にも出ませんよ」
「違う違う、俺は正直者なんだ。
俺の審美眼は確かな事は保証するよ」
「……青葉さんが保証してくれてもねぇ」
「……違いない」
そう言うと、青葉はわずかに苦笑を浮かべた。
「それに、私にこんな事を言っているのがばれたら奥様に怒られますよ」
「あれっ、俺が結婚しているのを知っていたの?」
『名前すら覚えていないのに』暗に青葉の目はそう物語っていた。
「名前はど忘れして出てこなかっただけです。
ちゃんとみなさんの……青葉さんの事は知っていますよ。
大恋愛だったんですって?
でも、相手がマヤじゃなかったなんて驚き」
思いがけない名前が出たことで青葉は左手で頭を掻いた。
「やっぱりそう見られていたんだなぁ。
マヤちゃんとは良い同僚の関係だよ。
素敵な女性だと思うけど……でもそれだけだよ。
やっぱりね、こういう仕事をしていると、仕事から切り離される空間が欲しいものなんだ」
「そんなものなんですか?」
『理解できない』そう言う表情をアスカは浮かべていた。
「ああ、やっぱり戦いに明け暮れるようになると日常ってものがなくなってくる。
俺がこんな事を言ってはいけないが、ネルフは綺麗なだけの組織じゃない。
やっぱり家に帰ってまでそんなことを思い出したくないからね」
その言葉に少し納得が行き、アスカは言葉を続けた。
「奥様ってどんな方なんですか?」
「ん、ああ、なんて言ったらいいのかな?
元気が洋服を着て歩いているような女性だよ。
有り余るエネルギーで元気を周りに振りまいている。
一緒にいると俺まで元気が出てくる。
そう言う女性だよ」
そう言って自分の妻のことを語る青葉を見て、アスカは『ああ、いいな』と感じていた。青葉の浮かべる嬉しそうな表情の向こうに、その元気いっぱいの奥さんの顔が透けて見える様な気がした。
「奥様の事を話す青葉さんって幸せそうですね。
妬けちゃうぐらいですよ」
「ちがうよアスカちゃん。
“幸せそう”なんじゃない“幸せ”なんだよ」
「はあ、ご馳走様……」
してやったりと言う青葉の表情に、きっと素敵な関係なのだろうとアスカは想像した。自分も相手に……シンジに……元気を与えられる存在になりたかったと。青葉と彼の妻の関係は、アスカにとって一つの理想形で有る。うれしそうに妻の事をかたる青葉に、アスカは少し元気を分けてもらった気がしていた。
『ここにきて良かった……』
シンジだけではなく、こうして何気無く触れ会う人たちの優しさ。それを確認できただけでも、アスカは青葉に送ってもらって良かったと思っていた。過去には色々とあったが、今こうして生きている世界は捨てたものではない。ならばこの世界を守るため、自分に出来る事をしよう。アスカはまた一つ戦う理由を見つけた気がした。
元々歩いて帰ろうかと思っていた距離である。ほど無くして二人の乗った車は、アスカの住むマンションに着いた。時間にして10分にも満たない短い時間では有ったが、それでもアスカの心を和ませるのに十分な時間であった。
「次の機会には俺のロードスターに乗せてあげるよ。
ちょいと日差しさえ我慢すれば、自然が直接感じられてこんなのより断然いけているぜ」
青葉はアスカの側のドアを開けながら、次のデートの約束をするかのように言った。
「遠慮しておきます。
お隣の席は奥様の専用席なんでしょ?」
ふわりと、羽のように軽く車から降りたったアスカは、自然な笑みを青葉に向けて言った。アスカが浮かべたその笑みに、青葉は自分が不覚にも見とれていた事に気が付いた。そして少しばつが悪そうに鼻の頭を掻きながら、そして少し照れ臭そうに口を開いた。
「まあ、確かにそうなんだが……
ユリカ……あっ、これはカミさんの名前なんだけどね。
ユリカが『私が見て奇麗な子だったら許してあげる』って言ってね。
今のアスカちゃんなら、ユリカも文句を言わないだろうしね」
「知りませんよ奥様に怒られたって。
でも、今の言葉……有りがたく受け取っておきます」
アスカはそう言うと、ペコリと青葉に向かって頭を下げた。そしてそのままきびすを返して、マンションのエントランスへと歩き出した。その儚げな後ろ姿に、青葉は声を掛けるべきかどうか戸惑った。『大丈夫』『元気を出して』などと言う言葉が意味を持たないのは分かっている。しかし、自分の頭にはそんな陳腐な言葉しか浮かんでこない。結局青葉が言葉を探しているうちに、アスカの姿はエントランスの中に消えていった。
「くそっ」
車から降りた青葉は、思わずタイヤを蹴飛ばしていた。
「何処で狂ってしまったんだ……この世界は……」
ぶつけることの出来ない怒りは、青葉の心の中で空回りをしていた。
続く