シンジが旅立ってから2年が過ぎた2018年4月。ようやく復旧のなったエヴァンゲリオン量産機の起動試験が、本部でも行われようとしていた。すでにドイツ支部が起動試験を行っていることを考えれば、本部としての面目は1機を復旧させたドイツに比べ、本部は2機同時と言うことで守られた。いずれにしても、どうでもいいような面目でしかないのは確かなことなのだが。
その試験に望んだリツコは、最後の確認のためマイクをとった。彼女の目の前では、今まさに二人のパイロットがエヴァンゲリオンに乗り込んだところだった。
「鈴原君、相田君準備はいい?」
「ハイ、リツコはん」
「いいですよ、リツコさん」
パイロットの同意を合図に、エヴァンゲリオンの起動手順が開始された。約3年ぶりの試験に、オペレータ達の間に緊張が走った。
「初期コンタクト異常なし」
「パルスおよびハーモニクス正常、シンクロ問題なし」
順調に進んでいく起動手順に、リツコはどうしてこんなことをしているのかと情けないものを感じていた。今更エヴァを動かす必要などどこにもない。世界には、エヴァでなければ戦えない相手など存在しない。それでも、自分たちはこうしてエヴァを動かそうとする。リツコには、それが人の業に思われてならなかった。
使徒の脅威がないとされる現在において、ネルフの予算は厳しく制限を受けていた。そのせいで、豊富にノウハウの蓄積された本部ですら、量産機の復旧に2年という時間を浪費していた。いや、本部だからこそ2年で住んだとも言えるかもしれない。事実、ドイツ以外の支部では、未だ起動にたどり着けるほど復旧が進んでいないのだ。さらに付け加えれば、復旧したとしてもそれを動かすパイロットの目安も付いていないのが現状である。本部にしたところで、たまたま志願してくれた人材が、かつてチルドレンとして集められていた少年たちだったおかげだったので、起動にまでこぎ着けたと言える。その点、正式なチルドレンを擁したドイツとは条件が異なっていた。
「絶対境界線まであと0.5、0.4、0.3、0.2、0.1」
「ボーダラインクリア」
「エヴァンゲリオン7号機、8号機起動しました」
意外とあっさりとした起動に、実験場全体に安堵の空気が広がった。それもそうだろう、過去にはあまたの暴走を引き起こしたエヴァンゲリオンなのである。いくら技術が進んだとはいえ、壊れ物にさわるような注意が必要なことは変わっていなかったのだ。静かにたたずむ2体のエヴァンゲリオンを見つめ、赤木リツコは伊吹マヤに状況を尋ねた。
「マヤ、データは?」
「はい先輩。
4thチルドレンシンクロ率23%、6thチルドレンシンクロ率19%を記録。
ハーモニクスは誤差範囲です」
「そう、じゃあ今日の試験はここまででいいわ」
リツコはスタッフに実験の終了を告げたあと、二人のパイロットとの通信を開いた。
「鈴原君、相田君ご苦労様。今日はこれでいいわ」
モニタには3年前にくらべて逞しくなった、鈴原トウジ、相田ケンスケの姿が写し出されていた。
起動試験が終わった後はデータの整理が必要となる。それも2年前とは異なり、追いつめられるような緊迫感とはほど遠いものだった。それもそうだろう、次の試験の日程は未定なのだ。あわてて解析をしなければならない理由などどこにも存在しなかった。そんなのんびりとした空気の中、サーバーからコーヒーをマグカップに入れ、マヤはそれをリツコに手渡した。
「ありがとう、マヤ」
どういたしましてと、マヤは自分もカップを持って、リツコの隣の椅子へと腰を掛けた。
「無事起動してよかったですね先輩。
でもあんまりシンクロ率上がりませんね。
やっぱりアスカって凄いなあ。
ドイツでは40%を超えている見たいですよ」
純粋にアスカの成績を喜んでいるマヤに、リツコは少し苦笑を浮かべると、持っていたコーヒーを飲み干した。そしてカップを食器入れへと戻して、それは違うとマヤに言った。
「美味しかったわよマヤ……確かにアスカはすごいわね。
でも今は起動すれば管理上問題ないのよ。
逆にアスカの高すぎるシンクロ率は問題だわ」
「どうしてですか先輩。
あのときは1%でもシンクロ率を上げることに頑張っていたじゃないですか」
分からないと言うマヤに、今は時代が違うのだとリツコは諭した。
「いいことマヤ。
私たちに戦うべき相手はいないの。
もう使徒はいないのよ」
なにか言おうとするマヤを手で制し、リツコは言いたいことは分かっていると言葉を続けた。
「それに、通常兵器の役に立たないエヴァは扱いに困るのよ。
特にS2機関を搭載した量産機は今までと違って稼動時間の制限がない。
戦術的にはエヴァは大して役にはたたないわ。
エヴァが相手を攻めているときに、本丸を落とされたら終わりだから。
でも、エヴァがコントロールから離れ、破壊を始めたときにはそれは驚異となるわ。
いい、今アスカの9号機は強すぎる……誰にもとめられないのよ。
鈴原君と相田君の二人がかりでは多分むり。
彼らと同レベルのパイロットを増やしたところで物の数ではない」
分かるわねと言うリツコに、マヤは頷いて見せた。
「そうなるとエヴァの存在自体、いろいろな摩擦の原因となるわ。
本当なら廃棄してしまった方がいい物なの。
でも、一度持ってしまった技術は簡単には捨てることが出来ない。
どこかの誰かが同じ物をつくってしまったら、対処しないわけにはいかないのよ。
だから私たちはUNの組織としてエヴァをメンテする。
強すぎる力なんて摩擦のタネ以外の何者でも無いのよ」
そう言って、リツコはこめかみのところを揉みほぐした。
「本部は数で、ドイツ支部はシンクロ率で戦力のバランスがとれているように見える。
でも最強の一機に、雑魚2機が当たったところでごまめの歯ぎしりにもならないわ。
アスカの力はバランスを崩す物なの。
当然、強い力を持ったドイツ支部に対する猜疑心もわくわ。
ここだって2体のエヴァがあることで色々と言われている。
平和になると……まあ平和じゃなくてもだけど、利権と権力に興味が向く連中がたくさん居るわ。
エヴァの存在は、彼らにとって権力争いの為の道具としてちょうど良いの。
今はまだ表だっては居ないけど、でも将来は必ず権力闘争に利用される。
何しろドイツ支部の支部長は権力志向が強いという評判だから。
アスカの存在は彼にとって格好の駆け引きの材料ね。
アスカは頭のいい子だから、必ずつらい思いをすることになる。
どこかにアスカと同じくらいの力があれば、彼女も楽になるのだけれど」
リツコはそこまで言って口を噤んだ。シンジがいれば状況はよくなることは分かっている。しかし今更シンジにそれを望むことはできない。傷つき打ちひしがれた少年を見捨てたのは自分たちだからだ。
マヤはリツコの話を聞くと眉をひそめた。
「結局また大人は子供達を利用してしまうんですね。
あの子達は十分尽くしてくれました。
特にアスカはあんなに傷つき苦しんでいたのに。もう開放してあげてもいいのに……」
「エヴァに関わった者の悲劇ね。
世の中はね奇麗事だけでは済んでいかないの。
私たちの存在自体が疎まれているって、あなたにも分かっているでしょ。
今の世の中にエヴァなんて存在しない方がいいのよ。
でも人はね一度手に入れてしまったものはないことにできないの。
ある以上は私たちはエヴァと付き合っていかなくてはいけない。
そのためにはあの子達が必要なの。
新しく作られたダミーシステムでは力不足だわ」
「アスカの力になってあげることはできないんですか」
「今のところどうしようもないわよ。
まだ不都合が生じているわけじゃないから。
それに本部と支部の関係も前とは違うのよ。
ネルフという組織以上に各国の思惑が絡んでくるわ。
使徒がいなくなった今、私たちにはアスカを呼び寄せる権限がないの。
アスカの身に何か起きない限り……アスカを帰す前だったらまだしも……」
リツコはそう言って、データの書き込まれたファイルをマヤに渡した。
「とりあえず、ドイツの状況だけは注意してトレースしましょ。
今出来る事はそれだけ。まあ、情報のことなら加持君がいるんだから心配ないわ」
そういってリツコは、実験室を出ていった。その後ろ姿を見送って、マヤはファイルを片づけながら小さくつぶやいた。
「せめてシンジ君がいてくれたら...」
それはかなわない望みであることを、マヤもまた承知していた。
ドイツ支部長のハインツ・オッペンハイマーは上機嫌だった。本部から送られてきた起動試験の結果を見る限り本部の戦力は自分たちの敵ではない。それに起動にすらこぎ着けていないアメリカ支部は問題外である。これで自分の影響力が増す。彼はこの有利な状況を喜び、自分の地位確保にいかにして利用するか考えていた。
「仕掛けるのは早い方がいいな。
本部がいつサードチルドレンを担ぎ出すかわからんからな」
彼は、天の与えた幸運に感謝した。
「それにしても……」
彼はアスカの容姿を思い浮かべ、下卑た笑いを浮かべてみせた。
「母親似だな、利用できるだけ利用させてもらおう。
その後はその後で、十分楽しませてもらえる……いい拾い物だったな」
ハインツは、デスクの上におかれたインターフォンで、技術部のセカンドチルドレン担当者を支部長室に出頭させるように秘書に命じた。
技術部所属セカンドチルドレン担当のフランツ・オッペンハイマーは、急な呼び出しに支部長室へと急いでいた。二十歳を超えたばかりの若々しさ、180を超える長身と鍛えられた体。金色の髪に灰色の瞳。そして一介の技術者にしては洗練された身なし。彼は、十分に女性を引き付ける要素を彼は持っていた。フランツは、支部長室のドアの前に立つと一度身なりを確認しそのドアをノックした。そして、秘書に導かれるまま支部長室に入った彼は、支部長ハインツ・オッペンハイマーと対峙した。父親に向かって、用件は何かと切り出した。
ハインツは、見て見ろと息子に対して本部の実験データを渡した。本部から発行された、エヴァンゲリオンの起動データである。それを一通り眺めたフランツは、さもつまらなそうにデータを投げ捨てた。
「やはり、本部はサードチルドレンを徴集しなかったようですね。
過去の所行を反省して、一転してヒューマニズム重視ですか?
全く愚かしいことを……」
そう言うフランツに向かって、それは違うぞとハインツは言った。
「おかげでこちらは十分なアドバンテージ得られたんだ。
本部のヒューマニズムとやらに感謝しなくてはな……」
ハインツはそう軽口をたたいた後、急にまじめな顔をして息子に向き直った。
「わしはすぐに仕掛けるからな。
いいか、セカンドチルドレンのご機嫌をうまく取っておくのだぞ。
うまく自尊心をくすぐってやれ。
それからちゃんと女として扱ってやるんだぞ。
ただしシンクロに影響が出るといかんから抱いてはならん。
それにな……」
「最初に、父さんが戴くんでしょう?」
別にいいですよと、フランツは言い放った。
「それはいいですけど、いつまでも抱かないというのは難しいですよ。
女として自尊心をくすぐっているうちに、そういうことにならないとも限らないし」
そう言った息子に向かって、ハインツはフンと鼻を鳴らして見せた。
「お前が何人の女を相手にしたか知らんとでも思っているのか。
セカンドチルドレンごときの機嫌をとることぐらいた易かろう。
いいな、くれぐれも言っておくがわしの期待を裏切るなよ」
いったい何の期待やら。そう思わないでもなかったが、今更それを言うのも面倒だと感じだフランツは、はいはいと曖昧な返事をしてその場を出ていった。
惣流アスカ・ラングレーは上機嫌だった。シンクロテストは好調に推移し、シンクロ率は少しずつではあるが向上している。その上、知らされた結果から、本部にいる二人のパイロットに対して大差をつけていることも分かった。そして、恋人と呼べる相手も自分には居る。アスカにとって、今はすべてが順調であった。
お祝いをしたいと、フランツはアスカをケルン市郊外にあるフレンチレストランに招待した。ネルフから直接向かったため、二人ともさして着飾っているわけではない。それでも、非凡な二人の容姿は十分に人の目を惹きつけるものだった。
“美男美女”陳腐な表現だが、それがこれほどしっくりとくる組み合わせもなかった。2年前に比べて赤みが取れ、より鮮やかな金色となった髪、すらりと伸びた背、そして女らしさを増したその体つき。同性にもため息を吐かせる美をアスカは獲得していた。
「おめでとう」
フランツはグラスにシャンパンを注ぐと、そう切り出した。
「なんに対して?」
アスカは少し首を傾け、フランツの瞳を覗き込んだ。
「アスカが優秀なことが証明されたことさ。
君の努力が報われたんだ。
君は世界一だよ……そのお祝いさ」
「鈴原と相田でしょ。
あの二人なら勝って当然よ。
そんなにおめでたいことじゃないわ」
だが、フランツの賛辞を受けたアスカは、意外と感激した様子を見せずにそう答えた。だが、それでもめでたいのだとフランツは言い返した。
「確かに過去の実績から行けばそうだけどね。
それでもその事実を世界に示すことは重要なんだ。
名実ともに君はエヴァのエースパイロットだよ。
それを証明することが出来た……それを祝ってもいいと思うんだけどな」
「名実ともにね……」
アスカの醒めた言葉に、フランツは小さく苦笑を浮かべて見せた。アスカが拘っていることなど、彼には分かりすぎるほど分かっていた。
「サードチルドレンのことを気にしているのかい?
確かに、彼ならば君と同じ力を持っているかもしれない。
でも、本部は彼をパイロットとして招集する意志がないようだ。
だから、彼はもうパイロットとして存在しない。
アスカの気にすることではないよ」
「それに」といってフランツは言葉を続けた。
「今の君には誰もかなわないよ。
さあ、おしゃべりはここまでにして乾杯しないか」
「そうね」
「じゃあ、アスカの成功と僕たちの将来のために乾杯」
そう言うとフランツは軽く自分のグラスを傾けた。
「あたしたちの将来?」
「不服かい?」
そんなことはないと、アスカもまた自分のグラスを傾けた。
贅沢な夕食が終わり、後は大人の時間が残されるだけとなった。だがフランツは、今日は送ると言ってアスカを車まで案内した。その素っ気なさに不満は感じたが、それを顔に出さずアスカは用意された車に乗り込んだ。滑るように走り出した車の中、二人の間に会話はなかった。まっすぐに前を見つめるフランツを、アスカは横目で観察していた。アスカの視線に気づいたフランツは、どうかしたのかと口を開いた。
「僕の顔に何か付いているかい?」
「別に、いい男だなって思っただけよ」
「それは光栄だね」
「部屋に寄っていく?」
自分を伺うようにして言うアスカに、フランツは少し考えた様子を見せた。そして、残念だがと寄っていけないことをアスカに謝罪した。
「明日も早いんでね。
その魅力的な提案は、また今度にしてもらおう」
「次があると思わないように」
「僕は、あると思っているけどね……どうやら、到着してしまったようだ」
フランツは、そう言ってマンションの前に車を止めた。
「ありがとう……」
そう言って車を降りようとしたアスカだったが、突然その手を引き寄せられた。虚を突かれた形となったアスカは、そのままフランツの方へと引き寄せられる形となった。
「愛してる……」
耳元で囁かれる甘い言葉に、アスカは体の心がしびれるのを感じていた。
「私もよ……」
フランツは、そう返したアスカの唇を塞ぐことでアスカの言葉に応えた。時折通り過ぎる車のライトに照らされながら、二人は長い口づけを交わし続けた。
部屋に戻ったアスカは、着替えもそこそこにベッドに横たわり今日一日のことを思い返していた。そのとき、彼女の心の中には二人の男性の姿が浮かんでいた。
碇シンジ……ネルフ本部が彼を呼び戻すことの無いのは確かなようだ。アスカの叩き出したシンクロ率は、鈴原や相田の二人では足下にも及ばないことは分かり切っていたことだった。それでもなお碇シンジを召還しなかったと言うことは、本部にその意思の無いことの現れと見て良いのだろう。
『もうシンジとの接点はない』
シンジを召還しなかった本部に対して、アスカは口惜しいと感じる自分に気づいていた。しかしその一方で、シンジがネルフから解放されたことに対して安堵もまた感じていた。平和に暮らしているのならそれで良い。こんな謀略の世界に生きない方がいいのだと。
フランツ=オッペンハイマー……その才能は開花し、ドイツではナンバーツーの位置を占めようとしている。支部長の息子であると言うことを差し引いても、彼の辿った経歴は目を見張る物が有る。そして自分は、彼を好ましいと感じている。
「フランツ……」
フランツに触れた自分の唇にアスカは指を当てて見た。突然のことに驚きはしたが、嫌ではなかった。それどころか、こうなることを望んでいた気もしている。対等な立場でアスカを見、そして触れてくる。アスカとして心から望んでいた関係がそこにあった。
この日からアスカとフランツの距離は近づいていった……
続く