遠くに浮かぶ入道雲が暑い一日の始まりを約束していた。そんなある夏の朝、ラッシュの名残を残す駅のホームで二人は向かい合って立っていた。中学生ぐらいの少年とその姉だろうか、忙しく行き交う人の間でそこだけ時間が止まったかのように二人はたたずんでいた。見つめ合う二人の顔は、悲しい別れの色で塗り上げられていた。いつまでも時間が止まったように見つめ合う二人、そんな二人に時を刻ませたのはホームに流れた列車の案内だった。突然動き出した時間の流れに、少年は女性からボストンバッグを受け取ると、深々と頭を下げた。
「ミサトさん、本当にお世話になりました」
その女性は、とっさに少年に掛ける言葉に詰まってしまった。言いたいことはいくらでもある、だがどんな言葉を掛けても、今はむなしいだけだ。女にとっての最大の後悔は、少年を引き留めることが出来なかったこと。そしてただ一人、少年を引き留めうる少女を引っ張り出せなかったこと。姉、保護者、家族、言葉だけが先走りして、結局何の実体も持たなかった。だが、こうして少年との別れを目の前にして、どれだけ自分自身がぬくもりに飢えていたのかを思い知らされた。周りの目を気にさえしなければ、少年にすがりついて泣いてしまいたいと思うほどに。
だが、そうするにはあまりにもひねくれてしまった自分を知る女は、少年にすがりつく代わりに最後の謝罪の言葉を少年に投げかけた。
「ごめんなさいシンジ君...本当にごめんなさい」
どうしてこういうときに涙腺は言うことを聞かないのだろう。つい潤んでしまう自分の瞳に、女は悪態を吐きたくなっていた。
「あなたには散々無理をさせたのに、何にもしてあげられなくて。
今日だって、本当はみんなで見送りしなきゃいけないのに……」
そう、世界を救った少年の旅立ちには、あまりにも寂しい見送り風景だったのだ。女の口からは、謝罪の言葉しか吐き出されることはなかった。
「NERVのごたごたなんて理由にならないのは分かっている。
あなたが居なければ私たちはここには居なかった。
みんなそれが分かっているのに……本当にごめんなさい。
でも、一つだけ言い訳をさせて。
あなたがここから居なくなることを悲しく思っていない人は誰も居ないってことを……」
そう言いながら、女はずるいなと感じていた。流すまいと思った涙を流しているのだ。そんな自分を見れば、少年は決して恨み言を言うことなど出来ないことは分かっている。そして女の思ったとおり、華奢な体をした少年は、女に向かって許しの言葉を与えた。
「いいんですよ、ミサトさん……」
そう口にして、少年は言葉に詰まったように上を見上げた。つらいことばかりあったと思っていたこの街も、いざ離れるとなるとこみ上げてくるものがある。そして、自分がこの街を、そしてこの街に居る人たちを愛していたのだと少年は思い知らされた。
「ネルフのみなさんが、僕のためにどれだけ尽力してくれたのか。
そのおかげで、僕はこの街から離れることが出来るんです。
そうじゃなかったら……」
そう、少年は知っていた。自分がこの街を離れることで、ネルフ本部の多くの人たちが立場を悪くしたことを。多くの秘密に触れた少年なのだ。口封じこそされなくても、一生この地から離れられないことも十分にあり得たことなのだ。そんな自分が、こうして約束の地を離れることが出来る。そのために、それだけの人たちが彼のために働いてくれたのか、それを分からない彼ではなかった。
しかし女にとって、少年の言葉は免罪符とはならなかった。自分たちが少年から奪ったものは、彼に与えられる小さな自由ぐらいでは償いきれるものではないのである。
「私たちがシンジ君にもらったものは、もっと大きなものだったわ。
そんなシンジ君にあげられるのが、この街を離れる小さな自由だけだなんて……」
「小さな自由、それが大切なんですよ。
僕は、この小さな自由を足がかりに変わりたいと思うんです。
もう少し、ほんの少しでも自分のことを好きになれるように」
そう言って寂しそうに笑って見せた少年に、女は禁句としていた言葉を吐き出してしまった。
「……お願い、行かないで!!」
タブーを破ってしまった女は、畳みかけるように少年に向かってここに残って欲しいと懇願する言葉をぶつけた。
「お願いだからここに残ってちょうだい。
お金だって、住むところだって不自由はさせないわ。
私のマンションがいやなら、ちゃんと住むところを借りてあげる。
だからお願い、孤児院になんか戻らないで!!
あなたは孤児なんかじゃない、あなたの居場所はここにあるのよ!!」
だが、女の言葉を受け止めた少年は、ゆっくりと、そして間違いようのない否定を示した。少年は、ゆっくりと首を横に振ると自分はここを離れなくては行けないのだと繰り返した。
「ここを離れて、一からやり直すって決めたんです。
言ったでしょう、僕は、この街にしがみついていた僕が嫌いなんです。
少しでも自分が好きになれるようにがんばってみたいんです。
そして父さんや母さんのこと、自分のことを見つめ直そうと思って居るんです」
一言一言、少年は強い意志のこもった言葉を吐き出した。これまで流されるしかなかった少年が紡ぎ出した初めての自分の言葉。女は、すでに少年が自分の手の届かないところに行ってしまったことを思い知らされた。だから女は、最後の意地で出来るだけの笑顔を浮かべた。少年の決めた旅立ちならば、涙で送り出すのは似合わないと。
「分かったわシンジ君……
でも、最後に一つだけわがままを言わせて。
いつか、いつのことになるのか分からないけど……
また、会って欲しいの……私のことを忘れないで欲しいの」
「ミサトさんこそ、僕のことを忘れないでくださいね……
そうですね、僕がもっと大人になれたら……
そうしたら、必ずミサトさんを訪ねてこの街に来ますから」
そう言った少年に向かって、女は『約束よ』と右手を差し出した。
「必ず約束は守ります……」
差し出された手をしっかりと握りしめ、少年は必ず約束を守ると女に告げた。手をつないだまま、二人はじっとお互いの顔を見つめ合った。再会の約束はしたが、それがどれだけ絶望的なことかは二人には分かっていた。この街を離れれば、少年は単なる一般人に戻ってしまう。そんな一般人の少年が、機密に触れる女に会うことが出来るはずがないのである。
名残惜しさからなのだろうか、それともつながれた手が二人の絆だと感じているのか、二人はいつまでも手をつないだまま見つめ合っていた。だが、時間という非情な別れの使者は、二人が一緒にいられる時の終わりをつげにやってきた。そのとき、少年が旅立つ列車の接近を知らせるアナウンスが駅の構内に響き渡った。
「……もう、時間ですね」
「……そうね」
女には、離れていく少年の手の細胞の一つ一つが分かるような気がしていた。そしてその細胞の一つ一つが離れていくにつれて、女の感じていたぬくもりが一つ一つ消えていくのが感じられた。そして、消えていくぬくもりは、女に喪失の寂しさを連れてきた。そこで初めて、女はその少年をどれだけ愛していたのかを思い知らされた。
「お別れですね。
今まで、本当にお世話になりました……」
そう言って頭を下げる少年の、なんて近くて遠いことか。手を延ばせば触れられるところにいるのに、女には最後の一歩を踏み出すことは出来なかった。さようなら、今なら背中を向けた少年を捕まえることが出来る。だが、凍り付いたように女の足は地面に縫い止められていた。そして、ひび割れてしまったのどからは、少年を呼び止める言葉はわき出てこなかった。
「さようなら、ミサトさん」
扉が閉まる間際の少年の声だけが女の耳に残っていた。女には、さようならの言葉を返すことも出来なかった。女には、さきほどまで少年のいた空間だけが、わずかなぬくもりを残しているように感じられた。
「さようなら、シンジ君……」
遠ざかる列車のライトに向かって、女は最後の言葉を投げかけた。
「さようなら……」
なんてつらいんだろう。女は、自分が泣いているのにそのとき気づいた。
女と別れた少年は、すぐにホームから反対の席を確保した。そして荷物を網棚に乗せ、窓側の席に腰を掛けた。ここから先は、およそ一時間の行程である。少年は、窓枠に肘をついて、ぼんやりと流れていく景色へと視線を向けた。外には、緑豊かな自然が広がっていた。だが少年の目には、心和ませる景色は映っては居なかった。
父親に呼び出され、エヴァに乗せられ使徒と戦った。
葛城ミサトとの出会い、ままごとのような家族生活。初めての人の温もり。
綾波レイとの出会い、密かな想い。死
渚カヲルとの出会い、自分のことを好きだと行ってくれた存在。死
補完計画の発動・他人との融合
思い出されるのは、この街で作られた思い出の数々。そして、思い出にしなければとあきらめた少女のこと。
「ミサトさん、アスカのことは一言も言わなかったな……」
少年は、それが女の優しさだと思っていた。
惣流・アスカ・ラングレー
少年にとって、特別の響きを持っていたその名前。いや、生涯にわたって、特別なものであり続けるだろうその女性。ある意味、少年にもっとも近かった存在、そしてもっとも遠かった存在。そして、少年に一番影響を与えた他人。少年は、その少女の存在を頼りに、周到に計画された人類補完計画を頓挫させた。少年は、他人と混じり合った心地よい世界ではなく、人が人として、自分の足で立って生きる世界を選択した。必ず分かり合える、そんな希望を胸に持って。
しかし少年を待っていたのは冷たい拒絶、憎悪。再生された世界で、少年は最初に絶望を知った。
ベッドから自分を見た少女の瞳に、少年は自分の甘さを思い知らされた。必ず分かり合えると言う考えは、それは自分の甘えが生んだはかない幻想であることを知った。少女の浮かべた冷たい光は、どこまでも厳然と少年の存在を否定し続けた。凍てつく氷のように頑なな少女の心は、決して少年に心を許すことはなかったのだ。
だが少年は、少女の弱さも知っていたのである。他人を拒絶する一方、一人になることを極端におそれる心。だが、再生後の混乱に、誰も彼女のことを省みようとはしなかった。ただ一人、少年を除いては……
だから少年は、救いを求める少女の元へと通い続けた。そこに、許しを求める気持ちがなかったとは言わない。しかし、少女から浴びせられる一言一言は、確実に少年の心を蝕んでいった。それでも少年は、少女の元へ通うことをやめなかった。
『シンジ君、どうしてここを出て行くの』
そう尋ねたのは、一緒に住んでいた女だったろうか。その問いかけに、少年はほんの少しの嘘で答えた。
『すべて終わったから。もう一度やり直してみたいんです』
少女が退院し、昔の仲間が戻ってきた。少女は一人ではなくなったのだ。
『ここじゃいけないの』
『ここには悲しい思い出が多すぎるから。まだそれを受け止められるほど強くないですから』
自分は、少女にとって受け入れられない存在。かならず、どちらかをはじき飛ばしてしまう。だったら、はじき飛ばされるのは自分の方がいい。
『これからどうするの?』
『先生のところに戻ろうかと思います……他に頼る人もいませんし。
何をするあてもないけど、時間はあることだしゆっくりと考えてみます。
この先とりあえずは進学しないことには話にならないので、勉強でもしてみようと思います。』
『そう……そうするの……』
リニアは山並みを縫うように走り、もう第三新東京市は片隅にも見えなくなっていた。窓の外を走りすぎる景色を見ながら、少年は自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。
「さようなら……」
碇シンジにとって、一つの季節の幕が下ろされた。
遠くに消えていくリニアを見つめながら、女は人間というのは薄情なものだと考えていた。列車の姿遠ざかるに連れて、少年のことを過去のことだと割り切ろうとしている自分に気づいたのだ。二度と交わることのない少年より、自分はこの先のことを考えなくては行けないと。そして、自分にはまだ一人家族が残されているのだと。
「さあてっと、お姫様のご機嫌でも伺ってきますかっ」
女はそう自分を叱咤すると、その場を立ち去ろうと振り返った。そのとき、駅の外にある駐車場に、見覚えのある赤い髪をした少女の姿を見つけた。
(アスカ!)
そのとたん、どうしてと言う気持ちが女の中にわき上がっていた。見送りにこうと言っても、頑として首を縦に振らなかった少女。その少女が、気をつけさえすれば見つかる場所に現れていた。女は、すぐに改札を出ると、少女のところに駆け寄った。
「アスカ、来たの?」
不意に声をかけられたことに、少女は少し驚いた顔を見せた。しかしそれも一瞬のことで、直にいつものか勝ち気な表情を取り戻していた。
「ミサトが落ち込んでいると思ってね。
少し慰めてあげようかと思ったわけ。
どうせ今日暇なんでしょ?つき合ったげるから、気分転換にドライブでも行かない?」
女は少女の物言いに苦笑いを浮かべながらも、その心遣いには感謝していた。から元気でもないよりはましなのだ。それに彼女とはいくつか話したいこともある。女は素直に少女の提案に乗ることにした。
「確かにこれから仕事をする気分でもないわね。
仕事たまってんだけどな~。
まっ女同士じゃ色気もないけど、アスカともゆっくり話したいこともあるし、お付き会いしましょうか」
「色気のないのはお互い様よ。まあアタシもミサトには話があるから、ちょうどいいわね。」
少女はそう言うとロックの外れたドアをあけ、車のシートへと滑り込んだ。そんな少女に、女はどこに行こうかと声を掛けた。
「どこ行く~、アスカ」
女の言葉を受けた少女の元気な声が車の中に響いた。
「芦ノ湖へいこ!ミサト」
奇跡的とも言える安全運転の末、二人は芦ノ湖を見渡せる駐車場へとたどり着いた。そのまま二人は、何をするでもなく、穏やかな表情を見せる湖面をじっと見つめて時間を過ごした。
「ねえ、アスカ。」
その沈黙を破ったのは、年かさの女の方だった。
「……何よ」
ゆっくりとした時間の中、少女はけだるそうに答えを返した。
「これからどうするの。ドイツに帰る?」
「……わかんない」
「アスカさえよかったらだけど、ここにいてくれる」
「……ありがとう、考えておくわ。ところでミサト」
「何?アスカ」
「アタシ……これからどうなるの?」
「どうにもならないわ、たぶん……
ネルフは存続するし、エヴァも量産機があるわ。
だからチルドレンも必要なの。
もっともあなたがいやならネルフから離れて暮らすこともできるわよ。
一応退職金も出るしね」
「そう……」
それっきり少女は黙り込んで湖を見つめた。何か少女から言葉があるのではないかと、女は我慢強くそれを待ったのだが、ついに耐えきれなくなって、少女に向かって少年のことを持ち出した。
「シンジ君行っちゃったわね」
少女は、女の問いかけに沈黙で答えた。
「このまま別れて良かったの?」
「……もうすんだことよ」
少女はぽつりとつぶやいた。その言葉に特別な感情は込められていなかった。
「シンジ君はアスカのことが好きだったわ……だからこの世界に帰ってきた。
病院でだってあんなに一所懸命付き添っててくれてたしね。
アスカだって気付いていたんでしょう」
「……ミサト、それは違うわ。
あいつは好きと言うことが分かっていないわ。
ただ寂しいから、その寂しさを埋めるために私のところに来ていただけよ」
「別にアスカじゃなくても良かったってこと」
「そう、あいつはやさしくしてくれる人なら誰でも良かったのよ」
「でもアスカはやさしくなかったでしょ」
「やさしかったわよ、だってあいつの存在を否定しなかったんだもの」
「それがやさしさなの?」
「あいつにとってはね。自分の居場所が欲しかったのよ」
「別にアスカじゃなくても良かったと……」
「何か突っかかっているわね。言いたいことがあるの」
「アスカがその事にすねているのかなってね」
「あ、あたしは……」
大声を出しかけた少女だったが、思い直したように穏やかな声でしゃべり出した。
「そうかもしれないわね。
結局あたしだって、誰かに見ていて欲しかったのかもしれないから」
「好きだったの?シンジ君のこと」
「別に何とも思っていないわよ、あんな奴……
あたしは男の子は嫌いだし、あんな何のとりえも無い奴……」
女は少女の気持ちが知りたいと思った。たとえ知ったところで今更どうにもできないかもしれない事は分かっている。それでもここで少女の気持ちを確認しておくことが、とても大切なことのように感じられたのだ。
「でも……彼は世界を救ったわ。それだけでも十分だと思うけど」
「でも成り行き、人から与えられたもの。結局あいつは自分では何もしなかった」
「彼は選択したわ。アスカと生きたいって。それは大切なことだと思わない?」
「……でも、もう終わったのよ」
「本当にいいの?」
「いいも何も、なんにもなかったんだから」
「本当にアスカは、シンジ君のことを何とも思っていなかったの」
「くどいわね……何を言わせたいの」
「別に……ただ、アスカの気持ちを知りたいだけと」
そう言った女に、お節介なと少女はため息を吐いた。
「残念ながら、ミサトの想像しているような感情はないわ。
でも、強いて言うなら、憎いと思っているわ」
女は返ってきた意外な答えに、思わず少女の方に向き直った。
「憎い?どうして」
少女は湖の方を向いたまま堰をきったようにしゃべり出した。
「憎いわよ。アイツだけいつも特別だった……
あたしは取り替えの効く駒でしかなかった。
それに誰も“あたし”のことを見ていてくれなかった。
結局加持さんだって、自分のことで適当にごまかしていたわ。
シンジだって、あたしを見ても居なかった。
あたしが使徒に心を犯されたとき助けに来なかった。
ママと私が、白いエヴァに陵辱されているときも来なかった。
アタシのことを見てもいなかったくせに……
ファーストがいなくなったらアタシにすがりついてきて……
どうしてそんな奴のことを好きになれるの……憎いわ……ええ、憎くてたまらないわよ」
自分も少女を見ていなかった一人なのだ。
「アイツが病院にきたときアタシを笑いにきたと思ったわ。
結局何の役にも立たなかった私を笑いに……」
「シンジ君はそんなこと思っていなかったわ」
「そうね……確かにアイツ……そんな余裕は無かったみたいね。
アタシといると辛いくせに……拒絶されるのが、いらないと言われるのが怖いくせに。
顔をゆがめ、歯を食いしばりながらあたしと居たわね。
もう一度あたしにすがったのよ。
なんて気持ち悪い……シンジがアタシのことを好き?ハン、いい迷惑よ」
「アスカ...」
「アタシが、アイツのことを許していないことがわかったらさっさと逃げ出して。
何が悲しい思い出よ……何があたしのためよ……結局みんな自分のためじゃない!
あたしが大切なら、何で一緒に居てくれないの。
何であたしのことを抱きしめてくれないの。
自分勝手に自己完結しちゃって。
彼奴がみんなあたしの物にならないんなら、あたしはなんにも要らない」
大きな声を上げる少女を、女は黙って見つめていた。
「何よミサト!いい気味だと思っているんでしょう。
こんな素直じゃない女は捨てられるんだって。
そう思ってるんなら、そう言いなさいよ」
女は少女の言葉に応える代わりに、彼女をその胸に抱き留めた。そっと優しく、壊れ物を扱うように。
「馬鹿になんかしない、あたしだってそうだもの。
意地を張って、嘘を付いて大事な物をなくしてしまった。
それが分かっているからこそ、あなた達にはそうなって貰いたくなかった。
でも、ごめんなさい……私では、シンジ君を引き留めることは出来なかった。
本当にごめんなさい……」
女の瞳に映るのは、涙を流している少女の姿。そして9年前の哀れな自分。
いつしか少女は、女の胸で嗚咽をあげながら泣きだしていた。自分の胸に広がる暖かい物を感じ、女は少女を優しく抱きしめた。
「ごめんミサト……」
少女は女の胸でひとしきり泣いた後、少し恥ずかしそうに下を向いていた。そんな少女の姿に、女は小さくため息を吐いた。
「いいのよ……それより落ち着いた?」
「うん……」
「ねえ、アスカ……」
「何?ミサト」
「シンジ君のこと好きなんでしょ」
少女はしばらく下を向いたまま考えていたが、やがてぽつりと分からないと言った。
「でも、離れたくなかったんでしょ」
「うん」
「だったらどうして引き止めなかったの。
アスカなら……アスカしか引き止められなかったのよ」
少女は女の顔を見られなかった。
「怖かったのよ……」
「このままいたらアタシ……アイツに甘えてしまう……」
「あたしがあたしで無くなってしまう……」
「それが怖かった……」
「そう分かったから……」
ぽつぽつと喋る少女の声は、だんだん聞き取れないほど小さくなっていった。
目の前で小さくなっている少女を見て、どうして人はこんなに不器用なのかと女は思った。だから心の壁を取り払おうなんて考える奴等が出てくる。その結果はどうだと言うのだ。結局、心の壁を取り払ってみたところで寂しさしか残らなかったではないか。人は自分の力で分かり合ってこそ価値があるのだ。
二人のためには一度離れて自分を見詰め直した方がいいのかもしれない。女は少女を見てそう思った。しかしこのまま二度と会えなかったら……少なくとも、今の少年にはここに帰ってくる理由がない。それが二人のためなのだろうか?
女は頭を振って自分の考えをうち消した。もっと楽天的に行こうと。少年が帰ってこないと決まったわけではない。本当ならこの二人は出会うことさえなかったはずだ。それがこうして出会えたのだ。再び出会うことなど簡単なことだ。それに、何も少年の来るのを待っている必要もない。そうだ落ち込んでいても、何もいいことはないのだ。女は、そう割り切ることにした。
「さあ、おなかもすいたし、帰りましょうか。今日は特別にミサトお姉さんがごちそうを作るわよ」
少女は自分のために無理して明るく振る舞おうとしてくれる女の気持ちがうれしかった。だから少女もまた女に負けないくらい明るく答えた。
「げっ、外食にしようよ、ミサト」
「アスカ、『げっ』てえのは何よ。今月ちょっち苦しいんだから我慢してよ」
「こんな日ぐらいいいでしょ。明日からアタシも手伝うから」
「そうねぇ~、でも高いところはだめよ」
「りょーかい、ミサトの財布の中身ぐらい知ってるわ。ラーメンでいいわよ」
「いいの、そんなので」
「いいの、いいの」
肩をならべて車へ歩いていく二人の影をいつのまには傾いた日が長く伸ばしていた。
しかし、その半年後少年は養子に迎えられ、九州へと旅立っていった。少年がここに帰ってくる理由が消滅したことになる。
続く