第8話

蝿が気に入らなかった理由が分かった。

烈火のごとく怒る両親を尻目に、一面光の世界を一心に目指し、

惨たらしく弾き飛ばされながらも、ライトに向かって飛び続けていたそれ。

そして、ついには息絶えるそれ。

私は恐れ慄き、そして羨ましかったのだ。

理想に破れ、現実に殺されるそれに。

それすら出来ない、無力な自分を擁護するための拒絶だった。

結局、私は逃げていたのだ。

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         My Beautiful World    - episode8 -           written by rego
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作戦課のフロアからエレベーターを使って、ケイジ近くのブロックに移動する。

各々の箇所では、職員の声がひっきりなしに漏れている。

下りのゲートをくぐると、それはいっそう鮮明さを増し、

オイルと端末の音に混じって、どこか浮いていた私の感覚を呼び覚ます。

精気に満ちたその場はとても清々しい。

私は技術課のフロアを目指し、その道を急ぐ。

MAGIの更新作業を終えたばかりの技術部は、作戦部のそれと違い、

今は最低人員だけしか残っていない。

コンソールの上には私物が並び、国連直属の組織という緊張感はない。

一見、怠惰とも思えるそれは、実は当たり前のことかもしれない。

彼らはヒトなのだから。

室内を見渡すが、私の目的の人物の所在は確認できない。

私は彼女のコンソールに腰掛け、

その横に置いてある、猫があしらわれたコーヒーメーカーで時間を潰すことにした。

コーヒーメーカーの中には、まだ十分すぎるほどの黒い液体が残っていて、

私はそれを、これまた彼女の私物であるマグカップに移して、喉に流し込む。

見かけとは裏腹な、甘ったるい味が舌を包んだ。

猫はこんな味が好きなのかもしれない。

もとの持ち主のそれでは考えられなかった味に、私は苦笑した。

他の職員はそんな私を遠巻きに見るが、すぐにまた職務に没頭し始める。

タイプの音が響く中、コーヒーメーカーは一滴ずつ、その水面に波紋を作っていた。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

「あ、葛城さん!」

「お久しぶりね、伊吹さん。

 あ、コーヒーもらったわ。」

「それは構いませんが…、どうしてこんなところに?

 あ、あとお体のほうは大丈夫なんですか?」

彼女は私を見て、一瞬驚いたが、すぐに私に声をかけた。

私なんかとは違い、気の利くいい娘だと思う。

親友が可愛がっていた理由もよく分かる気がする。

「ええ、おかげさまでこの通り大丈夫よ。

 急でちょっち悪いんだけど、エヴァの整備の方はどうなってるかしら?

 オンラインでメッセージを送ったんだけど、不在だったから来ちゃったわ。」

「そうでしたか、すみません。

 今、ちょうどそのエヴァの整備に関して格納庫の方に行ってたんです。」

「そう、ちょうどよかったわね。で、その具合の程は?

「中枢神経素子にまだ若干の誤差がありましたが、あとは全て修正範囲内です。

 その気になれば、いつでも起動できますよ。」

「分かったわ。いい仕事ね。

 今、あなたが責任者代理ですものね。頑張ってね。」

それだけ言うと、彼女は表情を曇らせてしまった。

理由は分かる。彼女は私の親友をどれだけ頼りにしていただろう。

親友の部屋からここに持ち出された私物が、それを如実に物語っている。

「葛城さん…、先輩、帰ってきますよね…。」

「…分からないわ。」

「私、きっと帰ってくると思うんです。

 だから、その時に先輩にコーヒーをご馳走しようと思って…。

 ほら、先輩、いつもこれでコーヒー飲んでたから…。」

彼女の指差す先には、あのコーヒーメーカーがある。

やはり、今でも数秒おきに波紋を作っている。

「コーヒー美味しかったわ。ありがとう。」

今度は、うんともすんとも言わなかった。

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日は暮れ、空は沈んだ。

私は誰もいなくなった通路を横切り、そのドアを開けた。

微かに残っていたメンソールの香りが、私の鼻腔をつく。

彼女はメンソール系の、それも重い煙草が好きだった。

私は何度も1mg程度のものを勧めたが、彼女は頑として首を縦に振らなかったのだ。

彼女の決まり文句はいつもこうだった。

『私は常に最良のものを求めたいの。煙草だってそう。』

私が、それなら煙草を止めろ、というと、身も蓋もないこと言わないで、といって笑った。

彼女らしく、上品な笑みで。

机の上には真新しい端末と、二匹の猫の置物が置いてある。

彼女は両方を私に自慢していた。

部長用の最新鋭のモデルだと、実家にいる猫に似ていると。

時にはいがみ合い、罵り合うこともあった。

でも、私は彼女が大好きだった。

部屋は、後輩がいくつか私物を持ち出した以外、まだ彼女がいた時のままだ。

彼女の時はあの時のまま止まっている。

最後はMAGIのプロテクトの作業をしていた。

独房を出され、強姦から母を守り、彼女は何を思っていたのか。

「ねえ、リツコ。

 お母さんってさ、良いものよね。」

返事はない。

生前、彼女は愛を求めていた。

タバコも、博士号も、ただ母の愛を感じたかっただけのかもしれない。

母を失い、男に逃げる。

仕方のないことだと思う。

だが、たったそれだけのことで、彼女は私の前から永遠に姿を消してしまった。

不意に瞳に熱いものを感じた。

それは私の頬を流れ、重力に向かって床に落ちると1cmにも満たない染みを作る。

私は願った。それが彼女の心に、私の心に深く染み込み、いつまでも色褪せないように。

ヤニで黄ばんだ壁紙を背にし、私は部屋に背を向ける。

「あんたといると、本当に楽しかったわ。

 友達って言っても、結局はただの他人なのにね。」

彼女との付き合いは大学からだった。

それから実質12年間、仕事の都合で会えなくなったりもしたが、

私たちは連絡を取り合った。

仕事のこと、男のこと、お酒のこと、何の他愛もない話だった。

別に、彼女でなくてはならなかったというわけではない。

お互いにそう。

「どうしてなのかしら?」

お互いに寂しかったからなのかもしれない。

私は彼女に自分に似たものを見つけ、彼女もまたそうだった。

共有したかったのだ。寂しさを。

「認めることって、辛いけどさ。

 でも、そっちの方がいいわよね。私たちみたいな人間は。」

不意に気配を感じた。

彼女だと思った。

もちろん、部屋には誰もいない。

でも、それでもよかった。

私は嬉しかった。

「ありがとうリツコ。」

私はケイジに向かいつつ、彼女の猫のことを考えていた。