その夜の葛城家のリビングルームには微妙な緊張感が漂っていた。
いつものように夕食を食べ終え後片付けを済ませて、シンジとアスカは二人で並んでTVを見ていたのだが、実際には二人はほとんどTVに集中することができず、先ほどから互いの気配をうかがい続けている。
原因のひとつはミサトからの電話である。明日の朝一番にオンライン国際会議が急遽予定されることになり、今夜はその準備のために帰れないそうにない。疲れたような声で一方的に要件だけを伝えてミサトの電話は切れてしまった。
電話を受けたのはシンジだったが、帰宅してからなら酔いつぶれてくれてもいいから、とにかく早めにミサトさんには帰ってきて欲しかったのにこれは困ったな、と彼は本気で考えていた。
電話の相手と内容を知りたがったアスカに返答するときも、シンジは緊張を隠し通すことができたか自信を持てないでいた。
緊張しているのはアスカも同様だった。少し困ったような表情でミサトが泊り込みで帰れないと言うシンジに、いつも以上にそっけない態度で応えてしまう。
当然彼女はシンジの様子がいつもと少し違うことにも気付いていた。それは自分自身がとても緊張しているから。何気ない彼の仕種のひとつひとつが今日は妙に気になって、知らず知らずのうちにドキドキと鼓動が高まってしまい、それを彼に悟られないようにするだけでも、かなりの労力が必要だったのだ。
だがミサトが仕事で帰れない夜など、そう珍しいことではない。
月に二度や三度はこういうことがあるし、そうでなくても夕食の時間までに彼女が帰宅してくつろげる日など週の半分ほどしかないのだ。
シンジとアスカが緊張している本当の原因は実は別のところにある。
「シンジ・・・何か変だぜ。あいつ。」
「うん。僕もそう思うよ。」
トウジの様子がいつもと少し違うことは、ケンスケに指摘されるまでもなくシンジにも朝から判っていた。
すぐに何か思いつめたような遠い目をして黙り込むし、授業の合間の休み時間ともなれば率先して騒ぎ出すトウジが、今日はぼんやりと自分の席から立ち上がろうとすらしない。
極めつけは昼休みだ。いつもなら亥の一番に『めしや!めしや!』と騒ぎ出して先陣を切って委員長のヒカリの元に弁当箱を受け取りに駆け寄るのに、今日は自分の席に座り込んだまま難しい顔をして動く気配すら見せなかったのだ。
歩み寄ったヒカリが弁当箱を目の前に差し出して始めて、もう昼休みになっていることに気付いたようで、慌てていつもの笑顔と大声で取り繕おうとしたトウジだったが、誰の目からみても彼の様子が普段と異なることは明白だった。
月曜日であるからクラスの何人かは確かに、休みぼけと言っても過言ではない気の抜けた表情を朝からみせていた。
だがいままでトウジがそのような覇気の無い顔で登校したことはない。
いつもマイペースで男臭い笑みを浮かべ身体中を『男とは!』という恥ずかしい文字で埋め尽くすかのような振る舞いがトウジの持ち味だった。
上機嫌なら上機嫌。そして不機嫌なら不機嫌。感情をストレートに表に出さずとも、やはり全身からみなぎる雰囲気を隠そうとしないのが、トウジのトウジたる所以であり彼らしさの証でもある。
今日のトウジは明らかにおかしい。それはケンスケとシンジの二人のみならずクラス中の衆目の意見の一致するところであった。
「どうしたんだろうな。トウジのやつ・・・」
シンジとケンスケはトウジの親友であると自負している。
中学時代から三人まとめて『三馬鹿トリオ』というありがたくないアダナを頂戴するほど仲の良い間柄だ。
別に三人とも頭が悪いとか極端に成績が悪いというわけではないのだが、何につけ寄ると触ると悪ふざけをしたり、そうぞうしく騒ぎたてていたものだから、そんな彼らにクラスの女子の一部が呆れて『三馬鹿トリオ』のアダナを与えたのである。
それは高校生になった今も相変わらず通用しているアダナで、実際彼ら三人はそのアダナに恥じない大騒ぎを三日とあけずに繰り返しているのだ。
だからケンスケがトウジの様子を心配するのも無理の無いことだ。
そしてその思いはシンジも同じであるのだが、複雑な表情をしてケンスケと話す彼の胸のうちは、その表情と同様に複雑な思いで揺れ動いていた。
「あとで話しがあるんや。放課後ちょっと付き合ってもらえんか?」
昼休みの食事の前に、わざわざケンスケが学食の売店に調理パンを買い求めに出て不在であることを確認したトウジがシンジに話し掛けてきた。
ということはケンスケは抜きで二人だけで話したいことがあるということで、とりあえず承諾はしたもののシンジにとってケンスケもまたトウジと同様に大切な親友であり、トウジのことを本当に心配しているケンスケの気持ちがよく判るだけに、そんなケンスケに内緒でトウジと二人だけで会う約束をしていることがシンジの心の隅でしこりとなっている。
「なにか心配ごとでもあるんなら、相談してくれればいいのにな。」
「そうだよね。」
「思い当たることが無いだけに心配だよ。そうだろ?シンジ?」
「うん。」
「まぁこうやって俺達が首をひねっていても、どうしようもないんだよな。
トウジのやつは先に帰ってしまったし、俺達もそろそろ帰ろうか?」
ケンスケが自分の鞄を手に取った。
「ごめん。今日は僕も用事があってさ。」
何と言い訳しようかと考えながら申し分けなさそうにシンジが応えると、ケンスケは肩をすくめてシンジに笑いかけた。
「なんだ。シンジはシンジでまた惣流か?しょうがないなぁ。」
それは単なる勘違いなのだが、シンジにとってはありがたい誤解であり、アスカはと言えば彼らとは教室の反対側の隅の方で仲良しのヒカリと額を寄せ合ってこれまた真剣に何やら話し込んでいる様子であったから、シンジも小声でケンスケの言葉に相づちをうった。
「そうなんだ。アスカとちょっとね。」
「お前も本当に苦労が好きだね。尊敬するよ。」
「な、なんだよ。それ。」
「あの我が侭なお姫様の相手ができるのは、シンジ、お前だけだよ。」
「あのねぇ・・・」
「俺の言うこと間違ってはいないだろ?実際そうなんだから。」
「まぁ少し我がままだってとこは認めるけど」
「だいたい惣流の場合、外見は何と言っても学園一のアイドルだからな。」
「アスカは外見だけの女の子なんかじゃないよ。」
「はいはい。天は惣流に二物も三物も与えているよ。それも認めてるって。」
「僕が言いたいのは、そういう事じゃないよ。」
「まぁ聞けって。とにかく惣流が飛び抜けて可愛いってのは事実だろ。」
「確かにね・・・」
「照れるなよ。自分の彼女を誉められて嫌な気はしないだろう?」
「ま、まあね・・・」
「歴然たる事実としてだ、お前の彼女でもあるあの惣流は、ずば抜けて可愛い学園一のとびっきりの美少女で、なんだかんだと言ってシンジ以外にあの惣流の相手が勤まる男は誰一人としていないってことは明白なんだよ。」
「誰一人ってそれはおおげさじゃないか?」
「いないんだよ、お前の他には。あの外見と同様、もう性格だって学園一なんだからな、お前の彼女は。他の誰が相手にできるってんだ。少なくとも俺はごめんこうむるよ。惣流の相手はシンジ、お前に任せてるんだ。俺なんかにはとてもとても勤まるもんじゃぁないよ。ほんとお前には感心してんだぜ。」
「ケンスケ。そんなめちゃくちゃ言って・・・聞こえても知らないよ。」
「大丈夫だって。あんだけ離れてるんだから・・・っと・・・っとっとっと。」
笑いながらちらりと教室の反対側を見たケンスケの表情が一瞬で引き締まった。
慌てたようにきびすを返してあっけにとられるシンジを残し、挨拶の言葉もそこそこにケンスケは脱兎のごとく教室から駆け出していった。
「じゃあな。また明日!ばい!シンジ!」
ケンスケの突然の退場に首をかしげて振り返ったシンジは、ケンスケが後も振り返らずに教室を逃げ出した理由を瞬時に理解した。
「ずいぶんと楽しい話をしていたみたいね。何を話していたのかしら?」
いつのまに教室の反対側からここまで移動したんだろう。
そこには肩を怒らせたお姫様が立っていた。
いつものように胸を張って腰に手をあてて、上目遣いにシンジを睨んでいる。
これはまずい状況である。
早目に降参しておいた方が無難であることだけは確かだ。
ケンスケと違ってシンジの場合、この場を逃げ出せば良いというものではない。
明日の朝までおよそ半日以上の冷却時間を確保できるケンスケであれば、さっさと逃げ出してしまえば、時の流れという強い味方が彼を助けてくれる。
だが未だにアスカと同居しているシンジの場合、この場を逃げ出したところで家に帰れば怒るアスカの詰問から逃れられないわけで、このような場合は早目にちゃんと話し合うなり頭を下げるなり、お嬢様のご機嫌を取っておかねばならないのだ。
「いや、べ、別に何も・・・」
「ふうん・・・アタシに話せないような話をしていたってわけ?」
「えっ?ち、ちがうよ。そうじゃないよ。」
「じゃぁどうして『別に何も』って返事になるわけ?」
「ごめん。」
「またそうやってすぐに謝る。心にやましいところがあるということね。」
「ち、違うよ。そんなんじゃないよ。」
「なら何だって言うのよ。はっきり言いなさいよ。」
「ケ、ケンスケがトウジのことを心配してさ、トウジのこと話してただけだよ。」
「へ?鈴原?アイツがどうかしたの?」
なんとかごまかそうとしてトウジの名前を口に出して、ケンスケとの会話の内容からアスカの注意をそらそうと、シンジは本当に心配そうな表情を浮かべた。
それは半ば本心でもあるから半分は演技であっても、不器用なシンジにしてその表情はアスカの注意を引き付けるのに多少の役目は果たしてくれたようだ。
「うん。トウジの様子が今朝から少しおかしいんだ。アスカは気付かなかった?」
「べ、別にアタシは何も気付かなかったけど・・・」
「僕もケンスケも思い当たることがなくて、二人で考えていたんだ。」
「ふうん・・・」
「で何か元気が無いように見えたからさ、元気付ける方法はないだろうかって、トウジはにぎやかなのが好きだから、ぱぁっと騒げるようなことがいいだろうって、いろいろ話し合ってたんだ。それだけだよ。」
苦しい言い訳だった。シンジの言葉を聞いたアスカの目は笑っていない。
これはとても用事があるから一緒に帰れないとは言えない状況かもしれない。
トウジは先に帰るふりをして約束の場所に既に向かっているはずだ。
なんとかこの場を切り抜けなければ、嘘をついてまでケンスケに先に帰ってもらったというのに、トウジにもケンスケにもあわせる顔が無くなってしまう。
だが思案にくれかけたシンジに思わぬ所から助け船が差し向けられた。
「別にシンジのこと疑うわけじゃないけどね・・・と、こんなことを言ってる場合じゃなかったのよね。シンジ、ごめん。悪いんだけど先に帰ってくれる?」
「え?・・・あ、うん。い、いいよ。」
「ごめんね。いっしょに帰れなくて。待っててくれたんでしょ?」
トウジが一番に教室を出てゆき、続いてケンスケがつい今し方逃げ出すように教室を後にして、三馬鹿トリオの中でシンジだけが帰宅の準備もせず、鞄も窓際の自分の席に置いたまま教室に残っていた。
それをアスカはいつも通りシンジが自分と一緒に帰ろうと待っていてくれたのだと誤解しているようだ。常であればそれは正しい洞察なのだが、今日に限ってそれは唯の勘違いであるのだが、シンジにそれを指摘する意志はなく、ありがたくアスカの言葉に便乗することにしていた。
さっきまでの威勢はどこへやら、すっかり意気消沈して悲しそうな表情のアスカにシンジは胸の奥に小さな痛みを感じていた。
無意識のうちにシンジはアスカとの距離を詰めて、何気なくアスカの腕を取り自分の席までの短い距離を腕を組んで歩きはじめた。
「約束なら仕方ないさ。僕のことは気にしなくていいよ。」
「そんなに遅くならないうちに帰るつもりだから。」
「なら僕も少し寄り道して帰ることにするよ。久々に本屋にでも寄ろうかな。」
「いっしょに帰りたいんだけど、ヒカリとちょっと話があって。」
「いいから気にしないで。じゃあ、僕は先に帰るね。」
「うん。それじゃ、また後でね。」
「また後でね。」
シンジが鞄を取り上げるとアスカが腕から離れていった。完全に二人だけの世界に突入しているのだが、二人にとってはこれが日常であって何の違和感も感じていない。別れ際に目と目を合わせて微笑みあう。
周囲に居残っていたクラスメートが当てられて目を虚ろにしているのだが、そんなことに二人は一切感知していないのである。
この光景に慣れているのはより二人と共に行動する機会が多いヒカリぐらいなもので、手を振りながら教室を出て行くシンジに、さようならと挨拶したのも結局のところ彼女ひとりきりであった。
「ふう・・・」
教室の扉の向こうにシンジの後姿が消えるまで、じっとシンジの席の側に立ち尽くして彼を見送っていたアスカが小さなため息をついて、しゃきっと姿勢を正したとき、クラスメート達はようやく石のように固まっていたその身体を動かしはじめていた。
それが自分たちのなせる技とは気付いていないアスカが小首をかしげながら、隣の自分の席から、彼女の席はシンジの席と隣り合わせなのである、鞄を取って親友のヒカリが待つ教壇まで歩いていった。
ヒカリはとうに鞄を持っていつでも帰れる姿勢であるが、やはり少々二人にあてられてしまって頬を染めてしまっていた。
「うらやましいな。」
「な、なに言ってるのよ。あんたに言われたくないわ。」
ヒカリのつぶやきを耳にしてアスカが顔を赤くして抗議した。
アスカにしてみれば、ヒカリとトウジの二人だって毎日のように堂々とクラスメートのまえでいちゃついているのだから、そんな事を言われる筋合いはないと本気で思っている。
アスカはヒカリの手を取って出入り口に向かって歩き出した。
「さ、いくわよ、ヒカリ。何ぼんやりしているのよ。」
「鈴原ももっと碇くんみたいに、やさしくしてくれたら嬉しいのに・・・」
だがいつのまにかヒカリは妄想モードに突入しかけているようだった。
これはまずいと判断したアスカは校則もすっかり頭から追い出して、ぐいぐいとヒカリの手を引いて廊下に出てそのまま玄関に向かってダッシュする。
このままでは何を言い出すやら判らない。
ヒカリという少女は真面目すぎるゆえか、ときおりこうして昼日中からいきなり妄想の世界に突入してしまうことがあるのだ。こうなると自然に自分を取り戻すまでヒカリには何を言っても通じなくなる。
とにかく今は誰も他の人間がいないところ。ゆっくりと話をできるところへ急ぐしかない。それがアスカの判断だった。
二人の美少女はあわただしく廊下を駆け抜け、足早に校庭を通り過ぎて校門から街の中心部に向かって走り去っていった。
「・・・すまんのお、シンジ。どう考えてもセンセ以外に相談できる相手がいないと思うたんや。」
シンジが約束の待ち合わせ場所にくるなり開口一番トウジが頭を下げた。
朝からの何かぼんやりした雰囲気はまったく消え失せていて、トウジはずいぶんと緊張している様子に見えた。
「僕に相談してトウジの役に立てるんなら遠慮せずに何でも言ってよ。」
「実際頼りになるのはシンジしかおらん思うてるんや。さすがにこればっかりはケンスケにも相談できそうにのうて、ほんまに困ってたんや。
シンジがそう言うてくれるとワシも安心して話すことができそうや・・・」
実際トウジにしてはずいぶんと弱気な発言だった。
本当に悩んでいるらしい。
シンジも姿勢をただし真面目な顔になってトウジに向き直った。
「いったい何をそんなに困っているの?」
「実は今夜ワシんとこみんな仕事や用事で出かけてしもうてな、妹も友達の家に泊りにいく予定でワシ一人っきりになるんやけど・・・」
「うん。それで?」
シンジはトウジが何を言いたいのかさっぱり判らないでいた。
高校生にもなって一人で留守番をすることぐらい何だというのだろう?
まさか今夜うちに泊めて欲しいとでも言うのかな?
シンジは胸のうちでは首をかしげたかったが真面目な表情のままトウジの次の言葉を待った。
「妹のやつが気を利かしてくれたんや知らんが、昨日の晩にあいつに電話しよってな、今夜飯を作りにきてくれることになっとるんや。」
「・・・もしかして洞木さん・・・だよね?」
「ああ。そうなんや。そいでなワシどうしたらいいか判らんのや。」
「どうしたらいいかって・・・?」
いぶかしげに眉をひそめるシンジの顔を見ずに、トウジは斜めの方向に視線をやって、ぶっきらぼうにシンジに質問した。
「決まっとるやないか。アレやアレ。ワシ初めてやからな。」
「・・・ト、トウジ?」
「せ、せやからな、あいつが・・・ヒカリが今夜は泊ってく言うてるんや・・・」
「・・・・・・」
トウジの顔は真っ赤になっていた。が、それを聞かされたシンジの方も真っ赤に顔を染めてしまっていることにトウジは全く気付いていなかった。
「と、と、と、泊る?泊るって言ったの!?」
アスカの前には半分ほど平らげた大盛りのチョコレートパフェ。
ヒカリの前には手もつけられていないクリームあんみつ。
通いなれた甘味処の店の一番奥の隅っこのテーブルに二人は座っていた。
「ア、アスカ!・・・大きな声、出さないでよ。」
後半はずいぶんと小さな声で、そしてそのままの声色でヒカリが訴えた。
「恥ずかしいじゃないの。他の人に聞こえてたら、わたし嫌だわ。」
「だ、だってヒカリ、あんたさっき今夜は鈴原の家族は誰もいないって言ってたじゃないの。」
「そうよ。だから晩御飯を作りにいってあげて・・・それから・・・その・・・」
「・・・・・・」
「だ、だからね。いろいろ教えてもらおうと思って・・・教えてくれるでしょ?」
「・・・お、教えるって、いったいなにを・・・???」
スプーンにすくいあげたチョコレートとアイスクリームが融けて流れ落ちようとしていたが、アスカはその姿勢のまま固まっていた。
ヒカリが言わんとしていることを察して既に頬は真っ赤に染まっていた。
そんなアスカの表情を見てヒカリも赤くなってもじもじと身体を動かしている。
「い、いやあねぇ。アスカったら・・・べ、別にね、アスカと碇くんのこと、根掘り葉掘り聞かせて欲しいってことじゃないのよ。ただね、初めてのときって、いったいどうしたらいいのかなって、そ、それを教えて欲しいなって・・・」
アスカは機械的に融けかけたスプーンの上のチョコとアイスの残骸のようなものを口に運んで飲み込んだ。これでおもわず生唾を飲み込もうとした衝動を隠すことには成功した。
そしてさらに数回、無言のままアスカは機械的にパフェをスプーンで口に運んで静かに食べ続けたのだが、実は衝撃のあまり彼女の優秀な頭脳は一種のパニック状態に陥っていて、無意識のうちに今成すべき行為をただ繰り返していたのである。ようは驚きのあまり何も考えられなくなっていたというのが正解だ。
「ア・・・アスカ・・・?ね、アスカったら・・・」
「えっ?・・・あ、ご、ごめん・・・アタシつい・・・」
「ううん・・・わたしの方こそ突然こんなこと言い出してアスカが驚くのも無理ないと思うわ。
でもわたしもこういうことアスカにしか相談できなくって・・・」
「ヒカリが頼りにしてくれてるってことはアタシ嬉しいよ。で、でもさ・・・」
「いいの。わたし、後悔なんて絶対しないから。心配してくれてありがとう。」
「い、いえ・・・そ、そういうことじゃなくって・・・」
「大丈夫よ。鈴原のことわたし本当に好きなの。だから安心して。」
「ね、ヒカリ・・・」
「今夜こそ私達もアスカと碇君のように結ばれるの。それでいいの。」
「いや、だ、だから・・・」
「ね、アスカ。お願い。教えて・・・わたしはどうしたらいいのかしら?」
既に会話として成立していないことにもヒカリは気付いていない様子だった。
目が完全にすわっていて、顔を赤くしながらも幸せそうに微笑んでいる。
「これからスーパーによってお買物して夕食の用意を済ませて、それからもう一度お買物してから鈴原の家に行こうと思っているんだけどね・・・・・・」
この娘ったら全然人の話を聞いていないわね。
残りのパフェを機械的に口に運びながらアスカは半ば呆然とヒカリの言葉を聞き続けていた。
葛城家のリビングの壁時計の針は9時半を回っていた。
今ごろヒカリは鈴原と・・・思わず想像してしまったアスカは、自分の想像を打ち消すように左右に首を振って妄想を追い払った。
ふと気付くと肩がふれあうほど側にいるシンジが怪訝そうな顔で自分を見詰めていた。あわてて表情を取り繕ったが果たしてうまく誤魔化せたであろうか。
シンジに悟られてはいけない。シンジは鈴原の様子がおかしいことに朝から気付いているんだ。そして放課後、アタシがヒカリに何か相談事を持ち掛けられたことも知っている。よもやとは思うがシンジに真相を知られてはいけない。
アスカは知らないことだが、実際にはシンジはそれを知っているのである。シンジは放課後トウジと会って話を聞いているわけだし、学校帰りにアスカがヒカリとなにか話をしてきたことも知っている。となればタイミングから考えても、シンジがトウジに持ち掛けられた相談と無縁だとはとても思えない。
従ってアスカもそれを知っているはずだし、先ほどからのアスカの不審な行動やなにかにつけ過敏に反応する様子を見ていれば、それはおそらく九分九厘間違いだろうとシンジは確信していた。
緊張は時間とともに高まり、時計の針がさらに一回り以上進んで深夜11時に近づこうかという頃、ついにその緊張の糸が切れることとなった。
普段のミサトが不在の夜であれば、寝る前にはしばらくの間互いの身体を抱しめあって温もりを感じ合うのだが、その後いつもならば、アスカは一日の疲れと汚れをさっぱり落とすためバスルームに向かい、その間シンジは報道ニュースやスポーツニュースを眺めて過ごすのだが、今日はアスカが腕を解いてもシンジが彼女の背中に回した腕を解こうとはしなかったのだ。
「シ、シンジ・・・?」
身をよじって逃れようとしても逆に腕に力がこめられてアスカの身体は引き寄せられるようにシンジの胸の中に包み込まれてしまう。
ぴったりと寄せられた彼の胸から、いつもとは違ってかなり強くて早い鼓動が彼女の耳朶に伝わってくる。
「ちょ、ちょっと・・・どうしたのよ。」
「アスカ・・・」
妙にかすれたような声でシンジが彼女の名前を呼んだ。だが彼女の問いに応えようとはしない。
「ねぇ本当にどうしたの。ちょっと苦しいよ。」
「ごめん・・・でもこうしていたいんだ・・・もう少し・・・・・・」
「・・・いいよ。でも・・・腕・・・ゆるめて・・・」
「ああ・・・」
ぎゅっと一瞬強く抱しめたあとシンジの腕が弛んでアスカはようやく身体の自由を少しだけ取り戻せた。
だがシンジの右腕が彼女の髪をかきあげるように動き、抱き寄せた彼女の髪に自分の顔を摺り寄せながら彼の手が彼女の髪を梳くようになではじめた。
耳に届く彼の吐息が熱く喘いでいるようで、思わずアスカは身体をぴくっとふるわせてしまった。
アスカの顔はシンジの胸元に抱き込まれているから、目を開けても見えるものはシンジのシャツとやや細いシンジの首からあごにかけての部分だけで、彼女には彼の表情を確かめることができなかった。
違う・・・いつものシンジじゃない・・・恐い・・・・・・
シンジの左手は彼女の腰に回されてしっかりと彼女を自分に抱き寄せていた。
腕はがっしりとしていて胸は見かけよりも厚く逞しかった。
やがて重ねられた唇も、彼女の知る彼のキスとは明らかに異なるキスで、それも一度だけではなく、幾度も幾度も繰り返し重ねられるたびに深く長くなってゆき、いつしか二人はもつれ合うようにソファの上に身を横たえてしまっていた。
「・・・知っているんだ。」
もう何度目か数えることも忘れてしまう熱いキスのあと、アスカの身体を抱しめたままシンジが小さな声でつぶやいた。
「洞木さんがトウジのところに泊まるって・・・」
「ど、どうしてシンジがそれを・・・」
シンジの言葉がアスカを夢から呼び戻した。身体が緊張で固くなる。
だがシンジはもう一度唇を重ねてからアスカに応えた。
「帰り道にトウジと会って少し話をしたんだ。」
「な、なによ。ヒカリ達がそうだからって・・・だからこういうことをするの?」
甘い雰囲気も一瞬で冷めたような気がしてアスカは冷たい口調で問いかけた。
「違うんだ。切っ掛けにはなったかもしれないけど、それは違うよ。」
シンジがようやくアスカから身体を少し離した。それは互いの表情をよく見えるようにするためで、シンジは真剣な表情でアスカの顔をのぞき込んでいた。
「僕は考えていたんだ。まだ高校生だから。若すぎるからって・・・」
「・・・それで?」
「本当はずっとアスカのこと抱しめたかったんだ。アスカのことを考えて眠れない夜も何度もあったんだ。ずっとアスカのこと欲しいと思っていたんだ。」
シンジは言葉を切ってアスカを見つめた。アスカの表情から何かを読み取ろうとでもしているのか、何も言わずアスカの顔を見つめ続ける。
碧い瞳と黒い瞳が向き合い、アスカもシンジの顔をまっすぐに見つめ返した。
「・・・いいから続けて。」
「僕は我慢してきたんだ。だけど・・・トウジと話しているうちに、一人で考え込んでいたことが間違いだったんじゃないかと考えはじめたんだ。
それでもやっぱり早いとも思ってる。迷いがないとは言えないんだ。だけど、こういうことは僕一人で考えて決めることじゃないってようやく判ったんだ。
アスカの気持ちと僕の気持ちが一つになることこそが大切なことなんだって。
僕の気持ちは昔から変わってない。僕はアスカのこと好きだ。愛しているんだと思う。そう、アスカのこと愛しているんだ。だからアスカが欲しい。」
シンジはアスカの瞳を見つめながら一気に言い切った。
アスカはシンジの瞳が不安に揺らいでいることに気が付いていた。だからにっこりと微笑んで彼の言葉に応える。
「馬鹿ね・・・あんた本当に馬鹿シンジだわ・・・」
「アスカ?」
「ずっといっしょにいるのに、そんな簡単なことも判ってなかったなんて、本当にあんたは大馬鹿よ。馬鹿シンジ・・・」
「アスカ・・・」
「アタシの気持ちも決まってるわ。ずっと前から。」
アスカが腕をシンジの首に回して離れていた彼の身体を頭から抱き寄せた。
そして熱いキスを返してからシンジの瞳をじっと見つめてささやいた。
「嬉しい。アタシのこと愛しているって言ってくれて。」
「アスカ・・・いいんだね。」
「あたりまえでしょ。アタシずっと待っていたんだから。そう言ってくれるの。」
「アスカ。好きだよ。」
「あんたこそ後悔しない?アタシなんか選んでしまって。」
「そんなこと・・・あるわけないだろ。」
「アタシ素直じゃないよ。」
「ほんの少しだけね。」
「アタシわがままだよ。」
「知ってる。」
「アタシ嫉妬深いよ。」
「それも知ってる。」
「シンジのこと独占しちゃうよ。」
「嬉しいよ。」
「アタシ口の聞き方だって悪いよ。」
「照れてるアスカも可愛いさ。」
「シンジに迷惑ばっかりかけちゃうよ。」
「いいよ。いっぱい甘えてよ。」
「・・・もう・・・馬鹿・・・ほんと馬鹿なんだから・・・・・・」
互いの気持ちを再確認した二人は、そのまま一線を超えるかと思いきや、再び望外の自制力を発揮したシンジが、アスカを抱しめキスを繰り返すに行為をとどめてしまっていた。
「ねぇシンジ・・・本当にいいのよ。」
「いや今日はよそう。」
「どうして?アタシは嫌じゃないよ。むしろ嬉しいのに。」
「いいんだ。今夜は・・・トウジ達の記念日だよ。」
「そんなの関係無いじゃない。」
「アスカとの記念日はやっぱり二人だけの記念日にしたいんだ。」
「・・・馬鹿ね・・・格好つけちゃって。」
「それにさ・・・」
「なに?」
「こうしてアスカとキスするだけで気持ちいいんだ。」
「・・・・・・馬鹿・・・」
「これから毎日キスするからね。」
「そんなこといちいち断るなんて・・・あんたやっぱり馬鹿シンジよ・・・」
「じゃぁ勝手にする・・・」
「・・・・・・ば、馬鹿・・・・・・ん・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・もう・・・馬鹿シンジのくせに・・・・・・・・・・ん・・・・・・・・・・・・」
「・・・こ、こら。いいかげんにしなさい・・・・・・・・ん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
=== お終い ===
夜雷です。
気付いてみると、既に13000Hitが目前です。
大変遅くなってしまって申し訳ありません。m(_ _)m
ようやく10000Hit記念短編を書き終えることができました。
少しだけ距離が縮まった二人の関係。いかがでしたでしょうか?
ところで結局、トウジとヒカリはどうなってしまったのでしょうか?
夜雷も興味津々なのですが・・・・・・(^^;)
どなたか夜雷にそっとお教え願えませんでしょうか?(笑)
ご感想やご意見ご指導などいただけましたら幸いです。