眼下に広がるのは,墨を流した様に暗い海だった…。遠く,その海から,
ひゅぉぉ……ひゅぉぉぉ………と,
冷たい海陸風が,咆哮をあげながら疾駆する獣の様に素早く,闇の中を丘へ向
かって駆け上がり,窓から覗いたアスカの頬にかかる赤毛を揺らす。
遠く暗い波間に明滅する,蛍ほどの大きさの橙色がかった明かりは,漁り火で
あろうか……。
ちらちら…と瞬く明かりの群れは,漆黒の空に煌く星々の輝きと相まって,見
る程に美しく,どこか物悲しい…。
「綺麗………。」
闇に浮かぶ光の幻想的な美しさに,思わず呟いたアスカの髪にさわり…と,何
かが触れる。
僅かに身をそらして見た背後には,いつの間に風呂から戻ってきたのか,口元
に涼しげな笑みを浮かべたシンジが,さも愛しげに彼女の髪を手に取り,触れ
撫でていた。
「気に入った?」
風呂上りの火照った体を静かに吹く夜風に預けながら,ぼんやりと窓から夜景
を見ていたアスカに,嬉しそうにシンジが問う。こくりと頷いて微笑んだアス
カの鼻孔に,風が運んだ微かな潮の香りに混じって,ふうわり…と,石鹸の匂
いが香った。
(あっ……。)
どうと言う事も無い市販品の石鹸の香りが,青年の体臭と溶け合わさり,忘れ
かけていた懐かしさを,アスカの心に呼び起こす。
共に暮らしていた一月前はごく当たり前に慣れ親しんでいた匂いだが,久しぶ
りに体全体を包み込まれると,なんともいえない心地よさを感じる。離れ離れ
になっていた時間が,そうさせるのだろう…。
(シンジの…匂いだ………。)
すん…と吸い込むと,鼻腔をとろり…とくすぐるその甘い香りに,アスカは陶
然と目を細めた。
心が温かくなって,安心する匂い…。
だけど…,切なくて…どこか体の芯を熱くする匂いだ…。その匂いは,逞しい
彼の裸身と,その腕の中に一糸まとわぬ姿で抱かれている自分をアスカに想像
させ,
(やっ,やだ…!)
胸の奥に焼け付くような熱さを憶えて頬を染めると,彼女は慌てて窓外の景色
に視線を戻した。恥かしさとシャワーで火照った体に,冷たい夜風は心地良い
が,同時に寒気も覚える。鳥肌立ちざらついた腕をそっとさすりつつ,
(………何,期待してるんだろう……?)
この家にやって来た事で,にわかに現実味を帯びた自分の淫らな夢想に,アス
カは僅かに嫌悪感を憶えた…。
(はしたない女だ……,アタシ……。)
「キツネノヨメイリ ‐伍‐」
シンジとの再会を果たし,想いを伝える事が出来たアスカは,この家を新たな
生活の場に定めた。かつての居候先に残した荷物は,すでにこの家に送っても
らう手筈を整えている。
手元には,服が数着,下着数枚,化粧道具,携帯電話,たった一枚残ったシン
ジとの思い出の写真…。
それが,彼女がトランクに詰めてあの家から持ち出した全てだった。
(荷物が来るまでは,ちょっと不便な生活になりそうね。)
あてがわれた八畳ほどの一室で,それらを一つ一つ丁寧に,シンジに教えられ
た戸棚や箪笥に収め終わると,アスカは最後にトランクの底に残った,二人で
撮ったあの写真が収められた写真立てを手に取り,しみじみと眺めてから,小
さく溜息をついた…。
(……結局,シンジに話せなかった……。)
思い出の品々を打ち壊したあの日の事を,アスカはまだシンジには話せずにい
た。到底隠し通せるものでは無いし,隠すつもりもない。荷物が到着してしま
えば,いずれはばれる。
(何で…あんな事しちゃったんだろう………。)
壊した物は,どれもこれもシンジが心を込めてアスカに贈ってくれた物で,中
には手作りとおぼしき物もあった。
あんなに大切にしていたのに…と,呟いた口が苦味を帯びたように歪む…。
今更ながらに愚かにも逆上してしまった自分が恨めしい。彼の温もりがこもっ
たそれらを,壊し尽くしてしまったと言う罪悪感と破壊の残像が,アスカを激
しく苛めていた。
(アタシ達の思い出…みんな壊しちゃって…,ごめんなさいって……。)
だが,シンジの前に立ち,『ごめんなさい』と,喉元まで出掛かった言葉は,再
会の興奮と彼の胸に抱かれキスされた歓喜に押し戻された。
(言わなくちゃいけないって…わかってるのに……。)
…どうしても言えなかったのだ…。人は幸せを手に入れた時,初めて喪失の恐
怖を知る。
(怖いの……嫌われたくないの……。)
…たった一言で彼の不興を買うのが,ようやく手に入れたこの幸せを失うのが,
アスカはどうしようもなく怖かった…。
『アスカ,入るよ。』
ドアをノックする音と共に,シンジがそっと部屋に顔をのぞかせた。彼に背を
向けていたアスカの体が,びくりと震える。
『あっ,ちょっと待って……!』
やや上ずった声で返事を返し,アスカが慌てて写真立てをトランクの底に押し
込むとほぼ同時に,シンジが傍らに歩み寄って来た。
『何か足りない物は無い?』
『結構ね…。慌てて出て来たから,日用品らしい物をほとんど持って来て無い
の。…色々面倒かける事になりそうよ。』
交々の感情を押し殺しながら,アスカは申し訳なさそうにシンジに苦笑して見
せた。シンジはそんな彼女に,手にしていた真新しい室内着を渡しつつ微笑ん
で見せ,柔らかく首を振る。
『気にしないで。必要な物はある程度揃えておいたから。』
ある種押しかけ女房じみた慌しい引越しであったため,多少の不便を覚悟して
いたアスカだが,驚くべき事に,シンジは彼女が使う簡単な身の回りの物から,
家具にいたるまで揃えていてくれた。
彼の手際の良さに驚きを露にしながらも,ありがと…と,彼の心遣いに笑みを
返したアスカだが,
(そう言えば……,何でこの家,アタシしか使わない様な物がこんなにあるわけ…?)
ふと表情を曇らせ,眉を寄せると,綺麗に片付けられた部屋に目を走らせてい
たアスカは,真面目な顔でシンジを見つめた。
『ねぇ……,アンタさぁ……,』
『ん…?何…?』
『最初から…アタシがここにやって来るって,考えていたわけ…?』
あまりの手回しの良さに,アスカは実は自分がシンジの企図の中で,いいよう
に踊らされていたのではと,邪推してしまった。これだけ準備万端に迎え入れ
られる準備が整っていれば,彼女でなくともそう思ってしまうだろう。
不意に,彼女の心の中にシンジに対する疑念が黒い霧の様に立ち込めた…。
(もし…アンタがアタシを騙していたのなら…。気持ちを弄んだのなら……,)
…もしそれが真相なら,彼の想いを受け入れた事を考え直さなければならない。
恋愛に詐術を用いるような男など,最低だとアスカは思っている。
(アタシは…アンタと暮らす事なんか出来ない…!)
着替えを胸に硬く抱き,一歩退いた彼女の青い瞳の奥に,濃い猜疑の色を認め
たシンジは微笑を収めると,どこか懐かしそうな眼差しを,彼女のために買い
揃えた品々に向けた。
『こうしてみると…随分集めていたんだな……。』
『……アタシの質問に,ちゃんと答えなさいよ!』
まるで,過ぎ去った日々に問い返すかの様な口調のシンジに,アスカは声を震
わせながら答えを強いた。ちろちろ…と,アスカの胸の中に蛇の舌の様な,小
さな青い炎が燃え上がる…。
はぐらかされた感を受けたシンジの返答に,アスカの疑念と,疑念が生み出し
た苛立ちは一層つのった。
…本当はこんな事など聞きたくない…。苛立ちは……せっかく掴んだ幸せを壊
したくないと言う,怯えにも似たものであった…。
(これだけあれば,疑われるのも当然だよな…。)
彼女を刺激しないようにと,シンジは柔らかな口調で言ったが,身構えを崩さ
ぬアスカの様子から,自分に対する彼女の信頼が,まだ十分に固まっていない
事を知り,一抹の寂しさを憶えた。
(まだまだ…完全に信頼してもらえるには程遠いか…。)
あれだけの事をしたのだから無理もない…と,シンジは胸中で改めてこの一月
が,自分やアスカに与えた影響の大きさを悟った。…得たものも大きかったが,
新たな傷を彼女の心に刻んだ事も事実だ。この傷を癒していくには,過去の傷
も合わせて膨大な時間がかかるだろう。
(……僕が,彼女に信頼してもらえる日が来るのか…?)
一度失った人の信頼を取り戻すには決死の覚悟がいる。表面上では許してもら
えた様に見えても,人の心に巣食う疑念を全て見通せるものではない。先の見
えぬ未来に,一瞬シンジは己を見失いかけたが,
(何を弱気になっている…シンジ!)
歯を強く食いしばると,沈みかけた自身を心中で激しく叱咤した。御伽噺では
ないのだから,好きと告白した瞬間から,何もかもが好転するなどと言う甘い
観測は抱いていない。
幸せは人の手で創るものだ。指をくわえて待っていてもやっては来ない。自分
達の想いが重なった今日この日からが,傷だらけの過去と決別して,幸せを築
いていく日なのだ。
(始まったばかりなんだぞ……!彼女を守るって決めたあの想いを,お前は忘れたのか!?)
そのために自分達は手を取り合った。シンジはアスカを守り,アスカはシンジ
を癒していこうと…。それなのに,僅かに疑われた位でその誓いを放り出そう
とし,尻込みしている自分が何とも腹立たしく,シンジは情けなかった。
(言葉を尽くす事だけが,信頼を得る方法では無いはずだ…。)
もう迷わない…と,決意を新たに固めたシンジは,不信の眼差しを向ける彼女
に歩み寄ると,
『あっ!ちょっと……,』
何すんのよっ!?と狼狽する彼女を,両手でそっと抱き締めた…。
『…君の事を考えて何かしていないと,自分がおかしくなってしまいそうで怖かった……。』
『えっ……?』
耳元で囁かれた言葉に,アスカは驚いて彼の胸から顔を上げた。
『僕はね,アスカがいてくれないと,どうしようもないくらい弱虫で,情けない男なんだ…。』
見上げた先で,彼は恥かしそうに笑っていた。一点の曇りも無い,優しくて清々
しげな笑みだが,アスカの瞳にはその笑みが,少しだけ…,ほんの少しだけ寂
しげな笑みにも見えた。途端に,アスカの胸が絞り切られる様な痛みと後悔を生じる。
(…この目………。)
じっと見つめる彼女の前で,シンジは一切の取り繕いも,言い訳もしなかった。
そんな事をすれば見苦しいだけでなく,二度と彼女の信は得られぬだろう。そ
う考えたシンジは誠心の人であった。
ゆえに,たとえその想いが男として情け無いと笑われようとも,シンジは隠す
事無くすべてをアスカに伝えたかった。
『少しでもアスカの事を考るの止めたら,僕は多分,あの生活に耐えられなか
ったと思うよ…。』
『………。』
無言のまま彼を見つめ,その言葉を聞いていたアスカの胸の痛みが増し,
青い瞳の先に広がる風景を滲ませた。
…詐術などではない。行為は全くの真逆だが,置き去りにされた悲しみを忘れ
ようと,彼との思い出の品々を打ち壊したアスカと同様,シンジは来るともわ
からない自分のための品々を集めて,孤独の悲しみを少しでも忘れようとして
いたのだ。
(アタシは……またこの人を見ていない……。)
見えぬ希望にすがって過ごしたこの一ヶ月は,彼にとってまさに地獄であった
ろう…。同じ地獄を彷徨った自分が,何故そんな事も判らなかったのか,彼の
言葉にアスカは愕然となった…。
- 一人の寂しさに耐えているのは,あなただけじゃないの…。-
そう言ったレイの言葉が今更ながらに強く思い出される。
(……最低だ……。)
手にした室内着に込められたシンジの確かな温もりを感じ,アスカの胸が震え
た…。そっと顔を預けたシンジのシャツに,アスカの流した涙が滲んだ…。
『だから,どうしても来てもらえそうもなかったら,土下座してでも迎えに行
こうと思っていたんだ。……自分で原因作っときながら,バカだよね……。』
はは……と,含羞を帯びた笑いを上げ,抱いた腕に力を込めた彼の頬骨がアス
カの頬に触れる。それは硬く,やや尖っていた…。
シンジは決して肉付きの良い方ではないが,それでもその鋭さは異常と言って
良い。再会の嬉しさで見落としていたが,顔を上げ,まじまじと見た彼の頬も,
自分と同じようにこけていた……。
『バカ……!……そんな事しなくても,ちゃんと来てあげるわよっ…!』
強気な口調とは裏腹に,アスカはそっと片手を伸ばして,シンジの頬を慈しむ
様に何度も触れる。さらりとした感触の頬には,髭がほとんど見当たらない。
まるで絹だ。それだけに,露になった頬骨の硬さが際立っていた。
(こんなになるまでアタシの事想ってくれた人が……,アタシを騙す様な事,
するわけないじゃない……。)
頬に添えていた手をそのまま,彼の首筋に回し引き寄せ,アスカはごめんなさ
いの気持ちも込めて,シンジの唇に自分のそれを重ねた。
ぱさり……と静かな衣擦れの音を立てて,二人の足元にアスカが手にしていた
室内着が落ちる。
(信じてあげられなくて………ごめんなさい……。)
両手でかき抱くようにシンジの顔を寄せると,アスカは夢中になって彼の唇を
貪った。
謝るべき事はまだある。それどころか言葉にもしていない。シンジには自身
の心情を何一つ飾る事無く話す勇気があったが,自分は彼の様には強くない
…。どうしても怖いのだ。口にして謝ってしまったその瞬間から,
自分を包み込む全ての幸せが壊れてしまいそうで,恐ろしくて仕方が無い。
だから隠している…。
それが歪んだ考えだと言う事もわかっているのだが,アスカの唇は言葉を作
る事はなかった…。
(もう少しだけ…アタシに勇気が出るまで待って……。)
これが今の自分に出来る精一杯の気持ちだと,アスカは謝罪の言葉をつむぐ代
わりに,キスで答えたのだ…。
『…ほ~んと……,アタシがいないと,バカな事…ばっかりするんだから……!』
ゆっくりと唇を離し,泣き笑いを浮かべてそう言った彼女は,不安を忘れよう
ともう一度彼の唇に自分のそれを重ね,夢中になって一つに溶け合った…。
「僕もね,この風景が気に入ってここを借りたんだ。」
そう言ってアスカの傍に歩み寄ると,シンジは彼女の横に並んで腰に手を回し
寄せ付けた。
優しい手つきだ。微笑を浮かべ,同じように彼の腰に手を回したアスカは,嬉
しそうにシンジの肩に頭を持たれかけさせる。夜気と共に鼻に香るシンジの匂
いが一層濃くなった。
(いい匂い………。)
彼の裸身を想像していたアスカの鼓動が,この香りに,頬と腰から伝わる彼の
温もりの生々しさが合わさり,その動きを早める。
もし…今腰に回されている彼の手が,自分の肌をまさぐり,愛撫し,そして力
一杯抱き締めてくれたなら…。
シンジとの行為を想像したアスカは,夜風に徐々に冷えてきた頬をさらに赤く,
耳まで染め上げた。そして,小さく熱い息を吐く。18の娘にはあまりにも手に
余る,その想像の恥じらいに耐えられず,
「センスの無いアンタにしちゃ上出来じゃない…!……見直したわ。」
彼の腰に回した手に僅かに力を込め,さらに身を寄せると,わざと口調に強さ
を加えて,アスカは胸の内の恥じらいを薄めようとした。破裂しそうなくらい
打っている心臓が,ほんの少しだけその勢いを落ち着かせる……。
「…そんなにセンス無かった?」
片手で頬を掻きつつ,小さく笑ったシンジに,あったりまえでしょ!と愛らし
い苦笑を浮かべたアスカは,肩から顔を上げると,突き出す様に彼のそれに寄
せる。
「アタシの気持ちにずぅ~~~っと気づかなかった鈍感男に,センスなんてあ
るわけ無いじゃない!これからみっちり鍛えてあげるからね。…覚悟しときな
さいよ…!」
この宣告に,くっく…と含み笑しつつ,
「よろしく頼むよ,アスカ先生…。」
と言うと,シンジは怖い顔でバカにしてるでしょ!?と言いかけたアスカ
の口を,すかさずキスで塞いだ。
「んんっ!?ちょっと…!」
不意をつかれた形になってしまったアスカは,顔を赤く染め,ほんの少し身じ
ろぎして抵抗を見せたが,彼はしっかりと抱き締めてアスカを解放しようとは
しなかった。
…蛍光灯に照らされた部屋に,二人の熱い息遣いと,アスカの微かな喘ぎ声が
入り混じり,湿ったキスの音を添えて満ち満ちる。
「んっ,んっ,シン…ジぃ……んん…!」
…キスを繰り返すたびに,アスカの体から力が抜け,腰の辺りが熱くなるのがわかる。
(…いやらしい……アタシの体……。)
舌と舌を絡める情熱的なキスも,熱い抱擁も経験の無い自分の体が,淫らに反
応してしまう事実に,アスカは恥かしさを隠しきれなかった。
(…でも……,)
だが18にもなれば,大人として愛し合う行為がどういうものなのか,嫌でも耳
に入ってくる。…もう,子供ではない…。
いやらしい…と自制する貞操観念の裏にひそむ,シンジと体を合わせたいと言
うもう一人の『女』の自分が,彼との邂逅を待ち望んで顔を覗かせている。
(アタシはシンジが欲しい……,シンジの物になりたい……。)
身も心も彼に捧げ尽くせば,一体感とシンジによってもたらされる恵風はさら
に強まるだろう。
…そうすれば…きっと彼に謝る事が出来そうな気がした……。
窓から吹き込む冷たい海陸風が強さをやや増す。温もりと彼の抱擁をさらに求
めて,シンジの体に回されたアスカの手に力がこもった。
(でも……,)
ただ,胸の底から湧いて出たのは,恥じらいや甘い願望だけではない。
(………痛いん…だよね………?初めての時って……。)
…体を合わせるという事は,もう,後戻りは出来ないと言う事も意味する。彼
女の心の中に,幼い心と体から脱却し,本当の意味で大人への第一歩を踏み出
すのに伴う,肉体的な痛みに怯える自分がいるのも事実だった。
(我慢……できるかな……?)
その痛みは身を引き裂かれる程だと,随分前に友人に聞かされた覚えがある。
無論,友人は生きているのだから,引き裂かれると言うその表現は比喩以外の
何物でもないが,激しい痛みに加え,夥しい血が出たと,さもおどろおどろし
げに語っていた友人の口調を思い出したアスカの心は,恐怖と言う新たな感情
を生じた。
(……怖いよ………。)
こればかりは拭い去り難い恐怖である……。破瓜の痛みは自分一人で背負わね
ばならぬ恐怖であるがゆえに,彼女の不安は孤独もあいまって一層高まった。
「んっ…ぁぁ………」
口中をシンジの舌で弄られる恍惚のさらに下で,アスカの心はまさに煮えたぎ
る感情の坩堝と化していた。
恥じらいと悦び,歓喜と不安そして恐怖……。
冷えて一つに固まるには『勇気』が不可欠だ。それはアスカ自身が出さねばな
らぬ。怯えか武者震いか,かすかに震えるように蠢いた彼女の唇から,そっと
シンジの唇が離れた…。
「…もう………!」
乱れた髪を手で梳きながら,目元を薄赤く染めたアスカは強引な彼のキスをな
じる様に,その形の良い唇に微苦笑を浮かべた。
「いきなり……どうしたのよ……?」
「…この景色の前でアスカとキスしたいって,ずっと思ってた……。」
涼しげな笑みを浮かべ,そう答えたシンジの言葉に,アスカがうなじを赤く染
め小さく俯く。
愛らしい…と,彼女の仕草にシンジの胸が騒いだ。再び彼女をその胸の中に引
き寄せると,あん……と,小さな喘ぎにも似た声をアスカがあげた。
「な~に格好つけてるんだか……。似合わないわよ,バカシンジ……!」
抗う事無く彼の胸の中に納まったアスカが,その身をシンジに擦りよせつつ,
ふふ……と小さく笑った…。
そうかな…と,シンジも同じように笑みを返す。シンジのこの笑みには,わか
りやすい娘だな……と言う,しみじみとした愛しさも込められている。
(…不安なんだね……。)
一見強気な口調ではあるが,胸の中のアスカは微かに震え,その全身から不安
と期待が濃厚に立ち上っているのを感じ,シンジは小さく愁眉を作った。
シンジの目から見たアスカは,他の女の子に比べると決して素直な性格の持ち
主ではないが,無意識に喜怒哀楽を体貌から発し,体全体で自分の気持ちを表
そうとする。
口は天邪鬼でも,その心根は素直な娘なのだ…。
嬉しい時や楽しい時には,花の様な笑顔を見せ,悲しい時や寂しい時は,葬家
の犬の様にしょぼくれた顔をし,我が儘を連発する。感情の陰陽の振れ幅は,
今までシンジが目にした異性の中では群を抜いて大きい。
そんな彼女を何も知らない人が見れば,恐ろしく気まぐれで我が儘な女に映り
かねないが,シンジは彼女の言動の節々に,『優しさ』が内包されている事を知
っており,青空に浮かんだ雲のように,自由に振舞う彼女が好きだった…。
(あれだけ不安な目にあわせておきながら,僕はまた君を不安がらせている…。)
…そんな彼女が強がりを言う時は,決まって何かしらの悩みや不安がある時な
のだ。心の葛藤を彼女は口調を強める事で忘れようとする。誰にも守られるこ
との無かった幼少の経験が産んだ,悲しい癖だ…。
不安の元凶が自身の欲望にある事がわかり過ぎるほどわかっているシンジの中
で,静かに燃え盛っていた『男』が揺らぐ…。
(男って…身勝手な生き物だよな……。)
胸の内で呟いた言葉が虚ろであった事が,なおシンジを悩ませた。
…彼とて聖人君子ではない。思考や理性と言った彼の感情を縛る全てを剥げば,
その下にいるのは一人の『年頃の男』に過ぎない。どんなに崇高な理想や主義
をシンジが掲げようと,一人の男である以上,この情念から逃れるすべは無い
だろう。
アスカを抱きたい…。
彼女と一つになりたい…。
恋人の艶かしい肢体を抱き締めている男が持つ感情としては,極自然で当たり
前の感情ではあるが,どこか獣性を帯びたその高ぶりに身を任せる事に,シン
ジは躊躇いを覚えていた。
それに…自身の欲望を満たすと言うことは,彼女の体を傷つける事も意味する。
(…でも………僕は君を抱きたい………。)
大人しく優しい彼が,これほどまでに何かを求めて身を焦がすような想いをし
たのは,初めての経験だった。それ故に,彼女を傷つけたくない自分と,彼女
と一つになる事を望む自分の狭間で,シンジは今まさにもがき苦しんでいた。
「……どうしたの………?」
アスカを抱き締めたまま,自身の葛藤と戦っていたシンジを,アスカが胸の中
で不思議そうに見上げていた。何事かを悩んでいるのか,その眉間に浮かび上
がった小さな苦悩の皺に,彼女の表情が曇る。
「何でもないよ…。」
彼女の不安そうな眼差しに,シンジは何とも曖昧な笑みを返した。明らかに含
みを帯びたその笑みに,むー…とむくれると,すかさずアスカが彼の片頬を指
で摘む。
「……嘘つき…。」
呟きと共に軽くねじり上げると,痛いよ…と,シンジが苦笑した。
「悩んでますって…,顔に書いてるわよ。」
「……まいったな……。」
胸の内を見透かされ,シンジは彼女を抱いた腕を解くと,依然むくれ顔で頬を掴む
アスカの指をそっと外す。
「………。」
暗い窓に歩み寄ると両手を窓枠に付き,彼方に広がる黒い海に無言で目をやった。
車通りがぱったりと途絶え,静まり返った窓外には,風に乗って潮騒が微かに響いていた…。
「…………悩んでるのは………アタシの事…?」
横にそっと寄り添いながら,静かに問うたアスカに,シンジはすぐには答えよ
うとはせず,僅かに顔を上げると,しばらくの間星空にじっと目を向けていた。
何か必死に言葉を探しているようなその様に,アスカの胸が締め付けられる。
…やがてシンジはアスカに向き直ると,小さく首を左右に振って見せた。
「………誰も傷つけずに生きるのは…難しいなって……。」
「………。」
夜風に乗って流れたこの一言で,アスカは彼の苦悩の所在が理解できた。
…この青年は,自分自身と戦っているのだ…。おそらくそれは,アスカの体に
向けられた欲望であろう…。
(シンジも…アタシと一つになりたがっている……。)
シンジのその気持ちに,アスカは嫌悪感を抱かなかった。自分も同様な想いを
抱いているし,何よりも年頃の若者なら見せて当たり前の性への欲求だ。
だが,アスカの怯えを感じ取ったシンジは,その当たり前に流されまいと,懸
命に感情を押さえ込もうとしていた。
(ちゃんと…アタシが怖がってる事,わかってくれてるんだ……。)
アスカの目の端に涙が浮かんだ…。シンジは自身の欲望と,アスカへの想いに
板ばさみになって悩んでいるのだ。誰も傷つけずに生きるのは難しい…の一言
は,そんな彼の苦悩の所在を明確に表していた…。
(アタシが……勇気を出せば……,)
何よりも自分を第一に考えてくれている,シンジの気持ちが痛いほどわかった
アスカは,そんな彼の優しさが嬉しくもあり,また,苦しんでいる彼が不憫だ
った…。
(シンジが楽になれる……。)
「アスカ……!?」
突然力一杯抱きついて来たアスカに,どうしたの…?といぶかしげな声をシン
ジが上げたが,彼女は答えなかった。代わりに,シンジの胴に回した腕の力が
一層強まる。
いつの間にか収まっていたはずの震えが再び蘇り,かたかた…と歯を鳴らし,
骨を震わせた…。アスカはその震えと,それをもたらす恐怖を追い払おうと,
彼の身に必死になってしがみ付いた。
(…温かい………。)
…シャツ越しに…彼の温もりがじんわり…とアスカの肌を暖める…。もっと…
…と,アスカは彼の胸板に体を擦り付けた…。
……いつの頃からか…,アスカはこの温もりを求めて一人想いを暖め続けてい
た。笑いあって,喧嘩をして,泣いて見せたり,拗ねてそっぽを向いた事もあ
る。手段は様々だが,どうしても彼が欲しいと言う想いに裏打ちされた行為だ。
……どんな事をしてでも,彼と,彼の腕の中と言う至福の場所が欲しかった……。
(……ここはアタシの,アタシだけの居場所………。)
そして,ようやく手に入れたこの場所は,アスカにとって例えようも無いほど
の充足感と,安心感をもたらしてくれた。小さく吐息を漏らして,アスカが目
を細める…。
抱いた腕…,絡めた腿…,触れ合った胸…,
彼の息のかかる髪から温もりがぞわり…と,胸に向かって駆け降り,彼女の
不安を少しずつ鎮めてくれた…。
(……シンジは…,アタシに居場所をくれた……,)
アスカにとって,シンジの傍は『何も無い』場所なのだ。何も与えてくれない
空虚な場所と言う意味では決して無い。不安も,悲しみも,苦しみも,孤独も
…,彼女を怯えさせる全てのものが無い場所と言う意味だ。
(………こんなアタシを…,好きになってくれた…。)
ざぁ……と,冷たい夜風がアスカの豊かな赤毛を吹き散らし,彼女を包み込む。
一瞬,炎が燃え上がった様で,その美しさにシンジは息を呑んだ。
(だから………)
さやさや……と風が鳴る。赤い髪がそれに乗って生き物のように舞う。大きく
息を一つ吸い,ゆっくりと顔を上げたアスカの,朱に濡れそぼった唇が小さく
動いた。
「シンジ………。」
シンジを見上げたアスカの紺碧の瞳が妖艶な光を放つ。シンジが小さく目を見
張った。
「………。」
…光の向こうには,女が一人いた…。
未熟な少女ではない。成熟した艶やかさをむき出しにした女が一人,熱い眼差
しでじっ…と,シンジを見つめていた…。視線の熱さに,彼は胸の底まで痺れ
た…。
(今度は,アタシがシンジに安らぎをあげる番だ………。)
ゆらり…と細く白い腕をシンジの腰から解くと,アスカは彼の首に回し優しく
引き寄せた。ほんのりと上気した耳が見える。漆黒の髪から覗くシンジの耳だ。
その花弁を思わせる耳に,口付けるようにアスカは唇を寄せた。
ほぅ……と耳介にかかる息の熱さに,シンジの胸の痺れが頭まで這い上がって来たその時,
「………抱いて………。」
小さな囁きと共に,アスカは,己が身をシンジに捧げる覚悟を決めた…。
「えっ………!?」
「…………いいよ………,シンジなら……。」
彼の戸惑いを打ち消すように,アスカは言葉を続けた。シンジの感情を押さえ
つけている理性が大きく揺らぐ。ここで彼女を受け入れれば,アスカを守ると
誓った己の誓約をねじ曲げる事になる。
……だが欲しい…。腕の中で震えているこの体に,余すところ無く触れてみた
い…,……自分の物だと言う…証を刻みたい…。
胸の底で蠢く欲望は,今や理性の蓋を跳ね飛ばそうと,シンジと言う器の中で
溢れんばかりに膨らみきっていた。
(僕は………どうすればいい………!?)
答えが欲しく,シンジはアスカから目を背けようとした。だが…,
「…アタシと………。」
熱を帯び,しっとりと潤んだ青い瞳に見据えられ,シンジの体は硬直した。首
に回されたアスカの手に,震えと力がさらにこもる。
「…一つになろう………。」
紅く濡れた彼女の唇から,艶めいた誘いの言葉が熱い息と共に耳に注ぎ込まれ
た直後,シンジは耳孔の奥で,何かが粉々に砕けたような音を聞いた…。
「アスカ!!」
叫ぶように恋人の名を呼ぶと,彼女の細い体を力一杯抱きしめた。あぁ…!と,
アスカが甘やかに呻く。
燃え上がったような脳内で,彼女の裸身が明滅している。理性の釜から解き放
たれた『欲望』と言う名の暴馬は,シンジの中を狂気の如く走り回ろうとし,
シンジは必死になってその手綱を取ろうと,強く歯噛みした。
(鎮まれっ…!…鎮まってくれっ………!)
…この感情に全て身を任せてしまっては,自分は彼女の肉体を貪るだけの男に
成り下がる。
たとえ自分の欲望を解き放ってしまったとしても,優しさを忘れた人間など獣
以下の存在だ。そうなる事だけは,何としてでも避けたい。
「優しく…するから………。」
微かに震える声でそう言って,シンジは自分を見上げる青い瞳に向かって微笑
むと,そっと彼女にキスした…。柔らかな唇の感触に,アスカが硬く目を閉じ
る。
「……お願い………。」
合わせた唇の隙間から微かに漏れたアスカの言葉は,より激しさを増した口付
けにかき消された。
言葉にならぬアスカの喘ぎ声が部屋に満ち始めた頃,ぱちり…と,小さな音と
共に部屋は闇に覆われ,その闇の底で,シンジはただ一人の男になった………。
鋭い破瓜の痛みが,微かな鈍痛に変わる頃,瞼をきつく閉じて,じっとベッド
の上でその痛みに耐えていたアスカは,ゆっくりと目を開いた。白い裸身に薄
手の毛布が一枚,彼女の美しい体を覆い隠す様にかけられている。
窓から斜めに差し込む月明かりに照らされ,ぼんやりと天井を眺めている彼女
は,白いシーツの上に広がった豊かな赤毛と一つになり,まるで一輪の曼珠沙
華の様に美しかった…。
僅かに動かした両足に軽い痺れを感じ,アスカは身じろいだが,
「ん…くっ………!」
まだ…動くと僅かに骨盤の奥から疼痛が走り出る…。痛みに顔を顰めた彼女の
股下付近が,ぬらり……と湿っていた…。…それが何なのか,見なくてもわか
る…。
喪失の証だ。男を知ったと言う証でもある。
「……アタシ………,」
血と精液に濡れたシーツの感触は不快であったが,アスカの心には不思議な充
足感が満ちていた。
「……しちゃったんだ………。」
小さく声を上げそっと顔を動かすと,すぐ近くにシンジの顔があった。静かな
寝息を立てている彼も,当然裸だ。
つい先程まで,この青年の腕の中で切なげな喘ぎ声を挙げていた自分の,あら
れもない姿を思い出し赤面すると,アスカは痛みをこらえながら静かに上体を
起こし,無言のまま,真上からじっ…と彼の寝顔を見つめた。
「………。」
……安らかな寝顔だった…。
窓から差し込む月明かりに照らされた顔は,曇りが無く澄み切っている。自分
と一つになったことで,シンジが安らぎを得られたのであれば,あの苦痛も決
して無駄では無かったと,アスカは口元に笑みを浮かべたが,…そんな彼の寝
顔を飽く事無く見つめていたアスカの眉宇が不意に曇る。
(………あの事………)
僅かに俯くと…小さく溜息をついた…。
(いつ話そう………。)
…自分は一つだけ彼に隠している事がある…。二人の絆とも言うべき,思い出
を打ち壊したあの日の事を…。
ひたひた……と音を立てて,胸の底から冷たさが這い上がってくる。その冷た
さに押され,一つになった充足感が,まるで砂が指の間からこぼれて行く様に
失われていく感覚に耐えようと,アスカは小さく唇を噛んだ。。
(どうしよう………。)
満たされれば満たされるほど,胸に残ったそのしこりの様な出来事が表に出せ
なくなる。隠し事とはそう言う物だ。
自分の一言が,彼の不興を買う事をアスカは恐れに恐れて,今まで黙り通して
来たが,こうして体を合わせてしまい,身も心も一つになった自分達の間に居
座るこの一事の重さに,彼女の良心は耐えられなくなってしまっていた。
…じわりと涙の浮いた顔を両手で覆い隠し,小さく鼻をすすると,
「………ごめん…ね………。」
アスカの口からついにこの一言が洩れた。指の隙間から洩れるそれは,息とも
言葉ともつかぬ小さな声だ。眠っているシンジの耳には,到底届かぬ声であろ
う。
これでは意味が無い…と,そう思いつつも,なおもアスカは小さな声でごめん
ね…ごめんね…と,繰り返していたが,突然,さわ………と温かなもので撫で
られる感触が腕に走り,アスカは驚いて覆っていた両手を下ろした。
「おっ,起きてたの!?」
涙を溜めた青い瞳に驚愕の色を浮かべて見た先では,シンジが穏やかな笑みを
浮かべてアスカを見つめていた。
(聞かれた………!シンジに聞かれた……!)
薄明かりの下でもそれと分かる程,アスカの顔から血の気が引く。
(…何を謝っているんだ…?)
彼女の狼狽の理由がシンジには分からなかったが,ここで自分まで不安な顔を
してしまっては,さらに彼女を追い込む事になる。そう考えたシンジはその笑
みを崩そうとはしなかった。
「アスカが苦しんでいるのに,僕一人だけのうのうと寝ているわけにはいかないよ…。」
そう言って上体を起すと,痛みは大丈夫…?と聞きながら,シンジはアスカの
むき出しになった下腹部を優しく撫でさすった。
手にこめられた温もりと優しさに,アスカの両目から涙が溢れた……。
(なんて目をするんだ………。)
悲しげなその涙の理由を問おうとはせず,シンジは,
「……そんな格好でいると,風邪引くよ…。」
ふわり…と自分の毛布をめくり上げ,裸のままのアスカをそっとその中に引き
寄せると,毛布で包む様にして柔らかく抱き締めた。シンジの手がアスカの背を走る。
まるで,夜泣きした子供をあやす様な優しい手つきだ。
「………。」
腕の中でアスカは無言であった。シンジもまた,彼女に何も問おうとはしなか
った。かたこと……と,風が窓を揺らす音だけが,静かな空間に満ちている…。
そんな中で,二人はただ黙って抱き合っているだけであったが,
「アスカ……,」
シンジの唇が開き,静寂な空間に言葉が流れ出た。アスカの体がびくり…と震
える。その背を,シンジは何度も何度も撫でた。
「…僕はね,君が心配している程,心の狭い男じゃないよ…。」
「………。」
シンジの背にかかったアスカの手に力がこもる,小刻みに震える彼女は,声を
出さずに泣いているようであった…。
「約束しただろう…?もう,傍を離れないって…。」
うん……と肩越しに小さな涙声が上がる…。アスカが何事かを隠しているのは,
彼女のごめんね…の言葉と,この仕草からシンジには容易に推察出来たが,彼
はアスカに答えを強いる事はしなかった。
…無理矢理引き出した真実に,いったいどれ程の価値があると言うのか。
そんな事をすれば,互いの心に禍根を残すだけだ。ただ,悲しみにまみれた秘
事をいつまでも胸に閉じ込めておいては,いつか取り返しの付かない傷を彼女
の心に刻んでしまう事になるだろう。
そうさせぬために,アスカを取り巻く不安の堀を,一つずつ丁寧に埋めて行き,
可能な限り彼女の意思で,早いうちに吐き出させてしまった方が良い。
…駄目なら,彼女の気持ちがほぐれるまで,自分に出来る事を精一杯やるだけだ。
(君の笑顔を守っていくことが,僕の務めなんだ…。)
そう考えたシンジは,彼女の背に回した手を解くと,そっと彼女の体を起し正
面から見据えた。何かに怯えた青い瞳が,涙に濡れてシンジを見つめていた…。
「何があっても,僕がアスカの事を愛していると言う気持ちは変わらないよ…。」
「シン……ジ……。」
愛している……。彼の口からこの言葉を聞いたのは,これが初めてだった。『好
き』と言う言葉よりも硬質で,それはアスカの耳孔から滑り込み胸の底に落ち
ると,燦然とした輝きを放った。
温かく,陶然となる煌めきである。その輝きに照らし出された自身の秘め事の
醜悪な外貌に,アスカは慄いた…。
(もう……隠しておけない………。)
シンジは何もアスカに問おうとはしない。愛すると言う事は,相手の全てを許
す事だと言う事を,彼は知っているからだ。その愛に甘えきって,隠すと言う
行為が常習化した時,きっと自分の内面はこの醜悪さに塗りつぶされてしまう
だろう。
愛されると言う事は,その相手に対して無法に振舞っても良いと言う事では決
してない。
「……ごめん…,ごめんなさい……。」
そう思ったアスカの口から自然に言葉がこぼれた…。青い瞳を潤ませ,しゃくりを上げる彼女の,
頬を伝う涙をぬぐいながら,
「……アスカが謝る事なんか…,何も無いと思うけど…?」
悲嘆にくれた彼女の様子に,シンジは僅かに首をかしげた。…。いつも強気な
彼女を,こうまで追い込んでしまった理由が思いつかない。
それよりも…,むしろ償わなければならない事が,山ほどあるのは自分の方だ
…。彼女に苦痛を与え続けた自分こそ,両手を付いて謝らねばならない。
(一体…何があったんだ……?)
腑に落ちぬ表情を浮かべる彼に,アスカは涙を振り撒きながら,大きく顔を振った。
「………アタシ……,取り返しの付かない事……しちゃったの…。」
「…取り返しの付かない事……?」
「シンジに…置いて行かれて…,アタシ…凄く悲しくって,シンジの事…憎く
て……,」
「僕が出て行った後の話だね?」
うん…と頷いたアスカは,緊張の糸がぷつり…と切れたように泣き始めた。
「………アタシ……,シンジにもらった…プレゼントとか,一緒に撮った写真
とか…,…二人の思い出,みんな……,みんな壊しちゃったの……!」
そこまで語ると,アスカは痛みも忘れベッドから跳ね起きた。月明かりの下に,
彼女の白い夭々たる肢体が光る。
裸身のまま,アスカは部屋の隅に置かれた茜色のトランクに走り寄ると,中か
らあの写真立てを取り出し,ベッドの上のシンジに震える手で差出した。
「もう…これだけしか…,残ってないの……。」
「………。」
「あんなに大切にしてたのに…。シンジが…心を込めて贈ってくれたのに……,」
両手で顔を覆い,時折声を詰まらせながら語られたこの事実に,シンジは驚き
から僅かに目を見開いた。自分が贈った品々が,この世から消えうせてしまっ
た事への驚きではない。
(たった…それだけの事で……。)
泣きじゃくるアスカを前にして,改めてシンジは彼女の中での自身の重みを知
った。
シンジにしてみれば,彼女の笑顔が見たいがために贈ったに過ぎない品々だ。
それでアスカを縛ろうなどとは考えていない。だが,彼女はその品々にシンジ
の心を宿し,いわば彼の分身の様にして大切にしていたのだろう。
(まだまだ,僕が学ばなきゃいけないことは沢山ある…。)
それらを壊し,引き裂いた事は,アスカにとってシンジ自身を破壊したのと同
様の意味を持っていたのだ。…今の今まで,打ち明ける事が出来なかったのも
無理ない…。
『恋愛』と言う言葉の厚みと難しさに直面し,シンジは身の引き締まる思いだった。
「……アスカがいる……。」
そっと囁いて,シンジは顔を覆って泣いているアスカの手を外し,しっかりと
握り締めた。怯えた瞳が,闇の中で明滅する。
「えっ……?」
涙に濡れた白い手は,シンジの体温で雪の結晶の様に溶けてしまうのでは無い
かと思われる程細く,儚かった…。
「二人でいれば,思い出なんていつでも作れる。プレゼントだって,写真だっ
て,二人でいればいくらでも手に入れられる…,」
この儚い手を,それを持つ彼女を悲しみにさらしてはならない。そのために自
分は今以上に学び,強くならなければならない。握られたシンジの手には,彼
の強い決意がこもっていた。
「シンジ……アタシ……。」
「君が傍にいてくれるだけで,僕は幸せなんだ…。」
その強さのまま,シンジは静かに手を離すと,泣き濡れている彼女を抱き締め
た。彼女の傷も,痛みも,全てを抱きとったと言っていい。一つになると言う
事は,相手の闇も光も全てを受け入れる事だ。
「だから…泣かないで…。」
回された腕の温かさと,言葉に,アスカはシンジの胸の中で,もう一度声を上
げて泣いた…。
母を失い,父に捨てられ,誰にも顧みられることの無かった幼少期…,心身を
すり減らし,孤高の天才を演じ続けなければならなかった少女期…。
流した涙は,そんな積もりに積もった汚泥の如き悲しみを清めてくれる様で,
「シンジ……!シンジ…!!シンジぃ!!!」
彼の名を呼びながら,彼の温もりを感じながら,彼女はひたすらに泣いた。
泣いて…,
泣いて……,
泣いて………,
泣き尽したアスカの心は,汚濁を吐き出しつくして,不思議と軽くなっていた…。
そのまま,アスカは彼の腕の中で,時折小さくしゃくりをあげながら,涙が収
まるのをじっと待っていたが,
「……………あの………。」
ゆっくりとシンジの肩から顔を上げると,泣き腫らした赤い目で,はにかむ様
に彼を上目遣いに見る。
「…みっともない所…見せちゃったね……。」
子供の様に泣いてしまった自分を,シンジに見られた事が恥かしかった…。
だが,泣いた事で重みが去った心の感触が驚くほど心地良く,自然に唇に浮か
んだ笑みは,シンジが今まで見た事の無い程清楚で,爽やかな笑みだった…。
(この笑みがあるのなら……,)
…そんな笑みを浮かべた彼女に,そんな事ないよ…と,彼もまた精一杯の優し
さを込めた笑みを返した。
(他には何もいらない…。)
そう思えるだけの価値がこの笑みにはある。物として残す事だけが,思い出や
絆になるのではない。想いを形に留めすぎてしまうと,そこに妄執が生じる。
そして人はいつしかそれに縛られてしまう。
なら,いっそ物など何も無い方がいい。二人で共に生きているこの瞬間こそが,
掛け替えの無い思い出であり,絆であるのだ。
シンジはそこに幸せを見出し,破壊してしまった過去の思い出に囚われた彼女
の心を解き放った。
「…ねぇ……。」
薄闇の下で笑みを浮かべていたアスカの唇が開き,甘えるような声音と共に,
闇に淡い香りを放つ。薄赤く染まった頬の上に鎮座する紺碧の瞳が,艶やかさ
と羞恥に濡れ光っていた。シンジの胸の中で身悶える様に蠢くと,
「…もう一度……抱いて……。」
アスカは熱く火照った肢体を彼の胸の中にすり寄せ,甘やかに囁いた…。
ぞわり…とシンジの腰の辺りが熱くなり,心の奥底で眠りを愉しんでいた暴馬
が首をもたげるが,シンジは静かに理性の手綱を引き締めた。
彼女の体を知った自分は,もう,この感情に心をかき乱される事はないだろう。
…そっと彼女を抱いた腕と,
「体は大丈夫…?無理しなくていいから…。」
優しくかけた言葉に込められた,シンジの自信と抱擁感が,アスカの痛みを忘
れさせ,もう一度この腕の中に沈みたいという激しい欲求を呼び起こす。
平気……と,愛らしく首を振ると,
「抱かれたいの…今すぐ………。」
小さく微笑んで彼の唇にキスすると,アスカはシンジをベッドにそっと押し倒
した。皺だらけのシーツの上に横たわるシンジと,その上に跨るアスカの腰間
が,暗さの下で一つに溶けあい,毛布の影に消える。
(ここが……,この人の傍が……,)
アスカは覆いかぶさるように,彼の胸に半身を預け,その首筋に何度も強くキスした。
(……アタシの楽園……。)
薄いシンジの皮膚に,紅い口付けの痕が咲き乱れる…。
「……シンジ………,」
…夜陰を切り裂く月明かりがかすみ,ひんやりとした寝屋は一層闇に沈んだが,
立ち込める吐息と,声にならぬ囁きや喘ぎはその熱を増した様だった。
皺の寄ったシーツに浮かんだアスカの白い裸身が,青年の背の向こうに沈みか
けた時,
「…愛してる………。」
彼女の口から漏れた言葉はシンジの唇に笑みをもたらし,愛撫の手を加速させ
る。あぁ…と,暗い部屋に響き続けるアスカの喘ぎは,闇の底に花が咲いた様
に,艶やかな悦びに満ちた声音だった……。
……やがて……
………長かった秋が去り……
………静かな冬と……気だるげな春を過ごし……
………寧猛な夏が駆け去った後に,再び秋が顔を覗かせる……。
いつしか……月日は巡り……。
手を取り合った二人を,また,あの季節が優しく包み込んでいた………。