キツネノヨメイリ ‐弐‐

さながら台風一過の様な荒廃しきった部屋に一人,アスカはベッドの上に膝を

曲げ生気無く座り込んでいた。締め切られた雨戸から僅かに差す陽光が,薄ぼ

んやりと彼女の部屋を照らす。

破れたノート,無残に四肢が千切れて転がったヌイグルミ,粉微塵に砕けた硝

子細工,裂かれて床にちらばった写真…。

惨憺たる有様だ。時折洩れる低い嗚咽と,新たに何かが破壊される音が入り混

じり,暗い部屋がさらに暗黒の淵に沈む…。

「シンジの…バカ…,…シン…ジの…バカ………。………バカぁぁあ…………!!」

小刻みに震える九の字に曲げた彼女の体から,恨みとも嘆きともつかぬ声が立ち上った。

…部屋にあったありとあらゆるものを投げつくし,壊しつくし…。それでも彼

女の怒りと悲しみ収まらなかった…。

破壊された品々はどれも思い出深いものばかりだ。二人で撮った写真…,誕生

日やクリスマスに貰ったプレゼント…。昨日まではアスカの大事な大事な宝物

だった…。

だが,いまや精彩を失って無残に転がるゴミの山と化している。ただ,唯一破

壊の女神の怒りを免れた木製の簡素な写真立てを手にして,彼女は一人この暗

い部屋で,自分を置き去りにしたシンジを呪い続けた。

…本当は…僅かでも大きな音を出せば,心配して彼が部屋に来てくれるかも…

という卑屈にも似た思いもあった。

だが,暗闇の中ついにドアは開かれる事が無く,アスカは絶望に打ちひしがれた…。

「どうして………どうしてぇ………!?」

手にした写真立てに力を込めて,アスカは暗い部屋で小さく自問した。写真立

ての中の人物が無情にも彼女に向かって微笑みかける。

大学の合格発表の時,ミサトが記念にと撮ってくれたものだ。柔らかく微笑む

シンジの首に両腕をしっかりと廻して,彼の肩口から覗いているアスカは,皮

肉にも満面の笑みを浮かべていた…。

(あんなに……優しくしてくれたのに………!?)

激しい憤りを引きずってキッチンを後にしたアスカは,自分が一人取り残され

る事になった理由について,ありったけの記憶と原因を心から引っ張り出して

考え抜いた。

(何で……!?)

だが,考えても,考えても,シンジがこの家を,自分の前から去る理由がアス

カには思い当たらなかった…。

一体自分が何をしたと言うのか…?確かにしょっちゅうぶつかり合ったり,い

じめたり,からかったりもした。でも,それは自分の想いに少しでも気付いて

もらいたい一心での事だ。悪意など微塵も無い…。

(アタシ…邪魔者だったの…!?…シンジの傍にいちゃいけなかったの…!?)

考える事に疲れきった頭の中に,共に笑い,泣き,悩んだ思い出が,さらさら

…と風に吹かれる砂のように流れて行く。

数え切れないくらい喧嘩もした…,迷惑かけっぱなしだったが,共に歩んだ受

験生活……。想いは伝わらずとも…幸せだった…。

散々世話したのになどと恩着せがましい事を言うつもりなどアスカには無い。

だが,自分の精一杯の愛情表現に,何度も向けてくれたあの優しげな笑みの全

てが偽りだったのかと考えると,甘く彩られた日々がアスカの中で急速に色を

失い,怒りの炎で焼き尽くされた。

(…アタシの事,本当は…嫌いだったの………?)

いつかこの想いが伝わると信じていたのに………。

(だから…アタシの事,置き去りにするの……!?)

きっと,いつか二人でこの家から出て行く日が来ると信じていたのに…。

思い描いたささやかな未来図が霧散してゆく喪失感に,写真を見つめる青い瞳

から大粒の涙が幾つも幾つも頬を伝わる。

憎いのに,見たくも無いのに…,だがアスカは視線を写真立てから逸らす事が

出来なかった。

「アンタなんか…嫌いよ………!大……嫌い……………!」

唇から冷たくはじき出された呪詛の言葉と共に,ベッドの上にゆらり…と立ち

上がったアスカは,写真立てを手にした腕を大きく振り上げる。

視線の先には冷たく硬い白い壁が,無言のまま写真立てを待ち構えていた…。

「こんな…………!」

アスカの腕がブルブルと震える。叩きつけて,壊して,シンジとの思い出の全

てを破壊してしまえばこの苦しみから逃れることが出来るかもしれない…。

そんな暗い想像が彼女の胸に冷え冷えとした風となって吹き込んだ…。

- 一つ残らず壊せば…楽になれるわよ……。-

と,心の中で冷笑を浮かべるアスカの嫌いなもう一人の自分…。

彼女の心に巣くったこの闇の片割れは,『素直の無さ』という形を取って,常に

アスカのシンジに対する想いを邪魔して来た。そして今度も…。

喪失の渦の只中にいる彼女には,その暗い声に抗う気力が残されておらず,誘

われるままに白い壁を泣き腫らした目で見据えた。

(無くなれば………,全部………無くなれば………。)

- 壊せ… -

- 壊しちゃだめ…… -

ほんの僅かに残る自制と,怒りに我を忘れさせようとする激情の炎が心の中で

ぶつかり合う苦痛をこらえているのか,アスカの顔がその痛みに耐えるように

歪んだ。

- それをよこせ……… -

と,動かぬ壁がまるで餌を待って舌なめずりする怪物の様に,涙の張られた瞳

の向こうでぐらり…とねじれた像を結ぶ…。

「こんな………もの………!」

- 壊せ………!-

一際大きく脳髄の奥で響いた声の命ずるままに,アスカの細い腕を覆う筋肉が震えた。

………だが………,

「………。」

涙声と共に振り上げられた震える腕は,漆黒の空間にまるで何か目に見えぬ手

にでも掴まれたかのごとく,ぴたり……と,その動きを止めた…。

闇に,笑みが浮かぶ………。

- アスカ……。-

写真の中のシンジが,うつろな彼女を優しく見ていた。出会った頃から何一つ

変わらない彼の笑顔…。

暗く,どこか世を拗ねていた様な性格は綺麗に無くなってしまったが,アスカ

の大好きなこの優しくて温かな笑顔だけは,今日まで変わらず彼女を見つめ続

けた。記憶に残る,穏やかなシンジの呼びかけにアスカの怒りの炎が大きく揺

らぐ。

(シン……ジ……。)

愛しい瞳に見つめられて夢魘の仕草を見せたアスカの両腕が,力なくだらり…

と下げられた…。

「…出来…無い………。」

ゆらりゆらり…と髪を振り乱しながら静かに左右に振られたアスカの顔から,

薄明かりにキラキラと光る物が乾いた闇の中に驟雨の様に降り注いでは,皺だ

らけのシーツに幾つもシミを作る……。

涙だ…。

光を失った彼女の青い瞳から,真珠の様な涙が次々と溢れ頬を伝う…。

頬を熱く濡らすそれを拭おうともせず,甘い思い出と共に愛しい人の面影を閉

じ込めた写真を胸にかき抱くと,アスカは擦れた涙声を上げつつ,ベッドの上

に膝から崩れ落ちた。

壊しつくしてしまった思い出の最後の一かけら…。

「……出来…無いよぉ………!!」

アスカに壊せるはずが無かった…。

さらり…と,ベッドに向かって垂れ下がった赤毛の奥から,涙と悲痛な叫びが

こぼれ,失ってしまった物のあまりの大きさと重さに耐えかねた彼女の細い体

は,溢れかえる悲しみと涙と共にベッドに伏せられた…。

悲しみに沈むアスカの耳孔の奥に,シンジの言葉が蘇る…。

- ……僕達は…いや…君は,自由なんだよ……。-

『自由』…。

かつてあれほど渇望した言葉のはずなのに,憧れた二文字は氷の剣の様にアス

カの心をズタズタに切り裂いた…。

冷たい刃の生み出す悲しみに身をよじりながら,血の気の失せた手でアスカは

シーツを鷲掴む。彼女の苦悩を表すように,それは醜く歪んで闇の一部となり

彼女を押し包んだ。

「いらない………」

嘆きに震える唇を小さく開き,僅かに歯を鳴らしつつ,

「自由なんか…いらない……!」

アスカは絹を裂くような苦鳴を上げた。

(そんな自由なんかいらない………!アンタが…シンジがいない自由なんか欲

しくない……!!)

「………シンジ………!」

孤独と言う名の黒い翼に覆われたアスカの嗚咽が暗い部屋に響き渡る……。

- 置いていかないで……。-

- 一人にしないで……。-

彼女の嘆きは,いつ絶えるともなく続いた…。

「お願い……!一人に……しないで………。」

その日,アスカが部屋から姿を見せることは無かった………。

「キツネノヨメイリ ‐弐‐」

(四年間…お世話になりました。)

引越し員の手によって最後の荷物が運び出され,清々しい寂しさが残るだけの

空間と化したかつての自室に向かって,シンジは深々と頭を下げた。

初めてこの部屋に足を踏み入れた時の不安に満ちた当時の自分を思い出し,
シンジは微かに笑みを浮かべる。

そっと目を閉じて小さく息を吸い込むと,嗅ぎなれた自分の部屋の匂いのはず

なのに,その香りに何故か胸が締め付けられるように痛み,瞳の奥が僅かに熱

くなった。

(色々な事があったな……。)

彼の心の中に去来するそれらの思い出全てが鮮明なわけではない。慌しい日常

の中でほとんど形を失ってしまった物も,永遠に消してしまいたい苦い思い出

もある。

だが,セピア色に褪せてしまった数々の思い出の中に燦然と光を放つ思い出も

あった。

(アスカ………。)

四年間の中で一際精彩を放っていた思い出は,一つ屋根の下で彼女と作った思

い出だった…。

- ねえ…シンジ。…きっ,…キス…しない……?-

初めてキスしたのもこの部屋だった…。

突然のアスカの来訪と彼女の意図の読めない戸惑いから,終始たどたどしい,

良く言えば初々しいファーストキス…。

他の記憶がどんなに色褪せても,このキスの記憶だけは昨日の事の様に思い起

こされる。

柔らかくて,温かくて,ほんの少しだけ震えていた彼女の唇…。

キスが終わってどう言葉をかけてよいかわからず沈黙するシンジを睨み付ける

と,洗面所に駆け込んでいった彼女の後ろ姿…。

遠くなってしまった感触を思い出す様に,シンジは自分の唇をそっと撫でた。

(あの時,もし告白していたら…。こんな事にはならなかったのかもしれない……。)

自分の置かれた状況を思い出し,わずかばかり悔悟の念に浸ってシンジは唇を

撫でる手を止めると顔を伏せた。

今思うと,アスカなりの精一杯の愛情表現だったのだろう。『暇つぶし』とでも

理由をつけなければ,勇気が振り絞れなかったに違いない。

(だけど……。)

だが,もしあの時彼女に告白して恋仲になっていたら,はたしてここまで一途

に想い続ける事が自分に出来たかと考えると,シンジは首を横に振らざるを得

なかった。

「結局,子供だった…って,事なんだろうな……。」

中身の無い想いをいくら積み上げたところで,それは綿で塔を築く様なものだ。

吹けば飛ぶ。思慮の無い勢いだけの幼い恋は,成長と共にいつしか時間の中で

費えてしまっただろう。

告白する勇気が無かったと言ってしまえばそれまでだが,今日まで友達以上恋

人未満の関係を継続してきた事が,決して無意味では無かったとシンジは思っ

ている。

想いを温め育む時間が自分達には必要だったのだ…。

(アスカ……僕はね…,君と上辺だけの関係で終わりたくなかったんだ……。)

あの日……,痛みだけが残った最初のキスを交わした日から,シンジはアスカ

の事だけを考え,そして見続けた。彼女の考え方,嗜好,仕草…それこそあり

とあらゆる事を,

(あの日から……,僕は君の事が頭から離れなくなった…。)

彼女の…全てが知りたかった。知ることで,彼女との一体感を得たかった…。

随分と背伸びをしたもんだな…と,当時の自分の必死な様を思い出して,シン

ジは口元に微苦笑を浮かべる。後悔の苦笑ではない。時には背伸びをしなけれ

ば見えないものもあるのだ。

それが幼い自分の心に収まりきれない物であったとしても,余すところ無くア

スカを理解するという行為が,シンジを飛躍的に成長させたと言っても過言で

はなかった。

そんな暮らし続ける事で,今まで不透明で曖昧だった彼女に対する自分の想い

が確固たる物になっていく感覚に,シンジは驚きを隠せなかった。

同時に,アスカが決して見かけ通りの性格でない事もわかった……。

口が悪くて滅法手が早いのは,弱い自分を表に曝け出して生きていく術を持た

ないからなのだ…。

虚勢だ。

悲しいまでに強い自分を作り上げてその後ろで震えていなければ,アスカは自

分そのものを保っていられなかった…。

(君を知れば知るほど,僕は君の事が好きになった……。傷だらけの君を,守

ってあげたいと思うようになったんだ……。)

開け放たれた窓から,どこか干草の香りを含んだ爽やかな風が吹き込んでくる

…。秋が,もう目の前まで来ているのだ。

柔らかな風がシンジの黒髪を揺らし,その風に誘われる様にゆっくりと窓辺

に歩み寄ると,シンジは彼方にうろこ雲をたなびかせる澄んだ青空を見上げた。

遠く,何処までも悲しい眼差しだった…。

(きっと…恨んでいるだろうね………。)

眼差しを下げると,シンジはシャツの胸ポケットからそっと一枚の写真を取り

出した。写真を見つめる彼の漆黒の瞳に浮かぶ悲しみの色が一段と濃さを増す。

満面の笑みを浮かべているアスカ…。

それは,彼女が手にしていた写真立てに飾られていた写真と,全く同じ物だった…。

(君の事を,置き去りにした僕を……。)

彼女の中に潜む弱さを知った時,シンジはこの少女が自分の対極に位置する存

在では無く,自分と同じ傷を有する存在である事も知った。この時から淡かっ

た想いは確たる物に形を変え,シンジはアスカと共に生きたいと願うようにな

った…。

(だけど…もし,許してもらえるのなら……,共に生きてくれるのなら……)

そんな自らの片割れにも等しいアスカをこの家に残していくと言う行為に,シ

ンジはまさに身を裂くような思いで対峙した。必ず彼女が来てくれるなどと言

う確信などあろうはずが無い。

…この行為が,二人の間に取り返しのつかない隔たりを生んでしまうかも知れ

ない恐れを抱いている事も,十分に承知している。だが……,

(僕の一生をかけて償うから……。)

『アスカが欲しい…。』そんな一方的な自分の我が儘でアスカを傷つけ,自由を

奪い,彼女の人生を壊しつくしてしまう事だけは,何があっても避けたかった

…。

ただ,

シンジは虚勢を剥いだ彼女の本当の気持ちが知りたかったのだ…。

(必ず………。)

「シンジ君……。」

背後から急に呼び声をかけられ僅かに身を震わすと,シンジは手にした写真を

シャツのポケットに丁寧に戻し,ゆっくりと窓辺から向き直った。

「荷物の積み込みが終わったそうよ。」

いつの間にやって来ていたのか,入り口にミサトがたたずんでいた。おそらく,

随分前から窓辺にたたずむ彼を黙って見ていたのだろう。シンジの悲しみの色

に染められたのか,彼女は少しばかり寂しげな笑みを浮かべていた。

「…ありがとうございます。」

「…きれいさっぱり無くなっちゃったわね……。」

……寂しくなるわ……と,何処か遠い目で空っぽの部屋を見渡すミサトの口か

ら漏れたつぶやきが,風に溶けて部屋に満ちる。

四年前,怯えた仔猫の様な目をこの部屋に向けていた,居候したての頃のシン

ジを思い出し,ミサトは感慨深い眼差しを彼に向けた。

(本当に,たくましくなったわね………。)

あの頃の彼は確かに何かに怯え,人との深い接触を極端に避けて来た。なかな

か心を開いてくれない彼に随分と手を焼いたものであるが,今,目の前に立つ

彼からはそんな怯えは微塵も感じられない。

(アスカがいなかったら,この子はどうなっていたかしら…。)

アスカとの出会いが,彼を根本から変えたと言ってもいいだろう。明るくて活

発な彼女は,暗かった彼の心にお構い無しで踏み込み,そして光と温もりを与

えたのだ。

最初は全く予想がつかない彼女の言動に随分と戸惑っていたシンジだったが,

今では彼の心の大部分を占める存在と言っても決して大袈裟ではない。

四年と言いう歳月と,この家でアスカと過ごした甘苦い日々が,彼を雛から鵬に変じさせた。

(不思議な物ね,出会いって……。)

そんな人が人に出会う事の不思議さを,二人の心の成長からから教えられたと

ミサトは感謝の念を抱かずにはいられなかった。同時に,そんな彼の成長ぶり

と,この家を出て行くという現実に一抹の寂しさを覚えた。

だが,飛び立とうとする鳥を巣上に縛り付ける事など誰が出来よう。きっかけ

はどうあれ,いつか必ず訪れる瞬間だったのだ…。

寂しがってばかりいては彼の羽ばたきの妨げになると,彼女は努めて笑顔を作

った。

「落ち着いたら,改めてご挨拶に来ます。」

寂しさを拭いきれないミサトを気遣ってか,シンジも口元に小さな笑みを浮か

べる。

「ええ…待ってるわ……。ただし……」

「アスカと二人で……,ですよね。」

すばやく言葉を継いだシンジにミサトは笑みを深めた。約束はしっかりと彼の

中で生きている様だ。だが,

そうよ…と頷いて見せた顔を寂しげに曇らせて,ミサトはその顔を背後の廊下,

シンジの部屋の真正面にあるアスカ部屋へと続くドアへ向けた。

昨日の朝からドアは硬く閉じられたままだ…。食事はおろか身だしなみには人

一倍気を使う彼女が,入浴すらしていない現実が,彼女の怒りの激しさと,シ

ンジの想いが届いていない事実を如実に物語っていた。

「…結局,部屋から出て来てくれなかったわね…。」

賑々しく引っ越し作業が行われていると言うのに,一度も顔を見せていないア

スカの頑なな態度にミサトは小さく嘆息し,シンジは悲しげな笑みを浮かべた。

「…いいんです…。理解を得るのに時間がかかる事は,十分わかっていました

から…。」

しばらく彼女の顔を見ることが出来ないと考えると,無性に寂しさがこみ上げ

て来る自分の弱さに鞭打つように,シンジは僅かに唇を噛むと静かに窓に向き

直った。

また,瞳の奥がジン…と熱くなった…。

悲しみを堪えて微かに震えている,昔とは比べ物にならぬくらい大きくなって

しまった彼の背中にかける言葉が見つからず,ミサトはしばし黙ってシンジの

背を見つめた…。

(苦しんでいるのはアスカだけじゃない…。この子も……。)

…大人になると言う事は,無言の痛みに耐える事なのだろう…。苦痛の程度は

人それぞれで等しく与えられるものではなく,大きさも程度も様々であろうが,

それでもこの青年がこれまで耐えてきた痛みは常人のそれを大きく上回る物だ

った筈だ。

風に揺れる黒髪の向こうに見える,悲しみに耐える彼の背にミサトはシンジの

悲痛の淵を覗き見た様な気がした…。

ひゅうひゅう…と,微かに鳴る風の音だけが響く…。二人は風に同化した様に

ただひたすら無言であったが,

「ミサトさん…,」

不意に押し殺したシンジの声が風に乗ってミサトの耳を打つ。物思いに耽って

いた彼女の返事を待たず,シンジは風の鳴る窓外を見つめたまま,

「僕は,悪い男ですか……?」

ぽつり…と,短いが彼の苦悩を全て凝縮した様なこの問いかけにミサトは僅か

に沈思した。

…普通なら,慰めの言葉を連ねるのがこの場合正しいのかも知れない。だが,

シンジと言うどこか人の深奥を覗いてしまった様なこの青年に,虚飾を連ねる

事は無意味だろう。

「…そうね…,アスカを悲しませてしまった事だけを見れば,君は悪い男ね…。」

故にミサトは出来るだけ簡潔に,本音そのままをシンジに伝えることが,もっ

とも彼の心に響くであろうと考え言葉を選んだ。

「だけど,あの娘の自由を願う君は優しい男だと思うわ。少なくとも私はね…。」

含みを残したこのミサトの言葉に,ゆっくりと窓辺から振り返ったシンジの眉

が僅かに上がる。そんな彼の傍に歩み寄ると,

「シンジ君のやった事の善し悪しを決めるのはアスカなの。…私じゃないわ。」

ミサトは風になびく黒髪をそっとかき上げながら,先程までシンジの見ていた

青空の果てに目をやった。

…目にしみる程澄んだ青に,仰ぎ見た眼を細めると,

「たった一人で悪い男や優しい男になれる人間なんて何処にもいない…。人が

善にも悪にもなれるのは,その人を理解してくれるもう一人の人がいてからこ

そなの。」

わかるかしら……?とつぶやいたミサトにシンジは目で頷いて見せた。

…人は一人では生きていけない…。とかく人間はその事を忘れがちだ。ゆえに

他人を傷つける,悲しませる…。事の善悪にこだわり独歩すると,必ず周りが

見えなくなってしまう瞬間がどんな人間にもあるものだ。それが人間らしいと

言えない事もないが,優しさの空回りほど馬鹿らしいことは無い。

「…優しい男になりたいと願うのなら,常にあなたを理解してくれる人,アス

カのためだけを想って生きなさい。昨日も教えたわよね……?想いと理想,天

秤にかけるような事があったら,必ず想いを優先させなさいって…。」

「………はい…。」

本当の優しさとは一人己の中で練るのではなく,常に相手の視線に立って,相

手を視界にしっかりと留めて行う物だと言う事を,ミサトはこの家を去る前に

シンジに教えておきたかった。

シンジの行為に対するやんわりとした批判とも取れるが,…それが,保護者と

しての,姉と呼んでくれた彼への最後の優しさであり,手向けだと思った…。

「それが出来る男が,本当に優しい男ってもんなのよ…。」

この厳しくも温かい助言に,目の色を変え真剣な眼差しで対峙しているシンジ

の肩にそっと手を置くと,ミサトは柔らかく微笑んでウィンクして見せた。そ

んな彼女のおどけた仕草に,僅かだがシンジの瞳から力みが抜ける。

…十代の若者に贈る言葉としては少々背伸びした感は拭えないが,慧英な彼の

事だ,おそらくミサトの言わんとする事は理解出来たであろう。

「…ありがとうございます。」

過剰な力みの抜けたシンジの瞳は,ほんの少しだが悲しみが薄らいでいた様で

あった。深々と下げた頭を上げると,

「……これを。」

シンジはミサトに一通の封筒をポケットから出して差し出した。水色の,何の

飾りっけも無い封筒の表面には,ただ,

『アスカへ』

男にしては軽い筆圧で綴られた繊細な文字で,たった一言そうしたためられて

いた。手にしたミサトが僅かに目を見開く。

「……何かしら……,手紙…?」

「もし,アスカが決心してくれたなら,彼女に渡して欲しいんです…。」

ラブレターですよ…,そう言って恥ずかしそうに顔を赤らめながらシンジは微

笑した。その笑みのまま,今だアスカを飲み込んだままの,彼女の部屋へと通

ずるドアへ愛しげな眼差しを向ける。

「生まれて初めて書きました…。…これが,最初で最後のラブレターです………。」

シンジと手紙を見比べながら,ミサトは一途な言葉と眼差しに呆れとも羨望と

もつかない嘆息を上げた。

(全く…,呆れるくらい一途なんだから…。)

その場限りの軽薄な恋を謳歌している同世代の若者から見ると,この青年の一

途さは異常とも取られかねないだろう。

だが,ミサトはそんなシンジと,彼の愛情を一身に受けていながら気づいてい

ないアスカに羨望を覚えずにはいられない。

(……羨ましい,純粋な君が……。)

純粋な物は概して壊れやすい。濁りが無いと言う事は,逆に言えば濁りに染ま

りやすいとも言える。だが,彼の純粋さは濁りきって混濁としたものが,一度

バラバラに壊れた中から生まれた物で,明らかに他の純粋さとは一線を画す物

だ。

異種とも言える純粋さが彼の強さでもあり,魅力でもあった。

「……わかったわ。その時が来たら必ず渡すから,安心して。」

ミサトの言葉に安心したのか,再びシンジは笑みを浮かべて頭を下げた。

窓から吹き込むさわやかな風が二人を優しく包み込む。遠く,何故か遠く響い

た引越し員のシンジを呼ぶ声が,その風に乗って部屋に流れ込んできた時,ミ

サトはそっとシンジの体を腕に抱いた…。

「……元気でね………。」

「ミサトさんも……,お元気で……。」

僅かに湿り気を帯びた別れの言葉を最後に,シンジの笑みがこの部屋から消え

ていった……。

…もう,どのくらい時間がたったのかすらもアスカにはわからなかった…。

荒れ果てた部屋で一人,微かな寒気を覚えて目覚めた彼女の視界に入ったのは,

漆黒の部屋にまるで幽鬼の瞳の様に青緑に浮き上がった,壊れた時計の文字盤

だった。

無論,時などとうの昔に刻んでいない…。

「悪い夢だったら…よかったのに……。」

深い眠りのもたらした重く脈打ちながら痛む頭を抱えて,アスカは闇を吐き出

す様にぼそり…とつぶやいた言葉と共に上体を起こした。

身じろぎもせずに眠っていたせいか,体の節々が軋む様に痛む。手には,あの

写真立てがしっかりと握られていた…。

暗い。

ひたすらに暗い闇の底だ。

眠気が急速に薄れて来たアスカの胸に,孤独と闇の恐怖が北風のごとく寒々と

吹き込んで,彼女の小さな胸を締め付けた。泣き腫らした瞼を軽く手でこする

が涙など出ない…,枯れ果ててしまった…。

(……怖い……。)

圧迫感に耐え切れず,写真立てを手にしたままアスカは窓のあるであろう,闇

の中に浮かぶ長方形の光の枠目指してベッドを蹴った。

がさり………

ぼきり………

闇を踏み分けるたびに,何かが足元で砕け,裂ける。思い出の数々が無残に足

下で破壊されている事に,彼女の心はもはや何の感情も示さなかった。

ばりっ………

「っつ……!」

ガラスとおぼしき物を踏みしだく音と,小さな苦鳴が重なる。さっ…と血のに

じんだ足と鋭い痛みにかまいもせずに,アスカは窓に手をかけ,雨戸を引きむ

しるように開けた。

窓枠にとりついた彼女の青白い顔は鬼女の形相であった…。

ふわり……と

風と夜の闇と月光が部屋に流れ込む…。

「………えっ………?」

窓外に広がった光景にアスカは唖然となって立ち尽くした。…いったい,どれ

だけの時間をこの部屋で過ごしてしまってしまったのか…?

時間の感覚も喪失してしまう程に嘆き続け,空っぽになってしまった彼女心を

銀色の月光が洗う…。一瞬,アスカは本当に夢でも見ていたのかと茫然自失と

なってしまったが,足の痛みが彼女を悲しい現実に引き戻した。

「…シンジ―――!」

遠くで彼女の声を聞いた者はこの叫びが悲鳴に聞こえただろう。それ程までに

高く澄んだ声で青年の名を呼ぶと,月明かりに照らされた廊下へと続くドアに

無心で駆け寄り,ドアのノブに手をかける。

(まさか……,何にも言わずに………?)

震える手で何度もドアノブを回し損ねながら,軋むドアをやっとの事で開け廊

下に躍り出たアスカは,

「………。」

ぽっかりと漆黒の口を空けたシンジの部屋を眼にして,その場に膝から崩れ落

ちた…。

(そんな………。)

彼女の部屋の正面に位置するシンジの部屋のドアは開け放たれており,雨戸の

締め切られた室内は薄闇に沈んでいる。

何も無い…何一つ残されていない…。家具も,衣類も,日用品も,そして…シ

ンジ本人も…。

全てが闇に溶けて無くなってしまったかの如く,一切合財の物が彼の部屋から

消え失せていたのだ。

「そんな………!」

這うようにかつて彼が暮らしていた部屋に入ると,アスカは少しでもシンジの

痕跡を探そうと躍起になって暗い部屋を見渡した。

(シンジ…どこ……!?)

ゆらり…と立ち上がり,さして広くも無い部屋をそれこそ隅から隅まで…。振

り乱した髪が彼女の心そのままに不安げに揺れ動く。

(どこにいるの……?アタシを…一人ぼっちにしないで……!)

枯れ果てるくらい泣いたのに…。彼女の瞳に再び涙が張られ,玉となって頬を

滑り落ちた。がらんどうの部屋を何度も何度も,それこそもう探す所が無いく

らい彷徨っても,彼の存在を示す証はかけらも見つからなかった。

(お願い……。一人は……一人は嫌なのぉ………!)

自分の胸に取り返しのつかぬ空虚が生じた事を悟り,アスカは床にへたりこん

だ。掃き清められ塵一つ落ちていない床に真珠の様な涙が次々と落ちる…。
写真立てを掴んだ手を力なく下げると,彼女は天を仰いだ。

もう…どうしていいのか,何を考えなければいけないのか,わからなかった…。

「アスカ………。」

不意に戸口付近から静かに呼びかけられ,アスカの顔が勢い良く振り向けられ
る。もしや…と刹那に生気の蘇った彼女の顔は,廊下を照らす蛍光灯の逆光
の中,自分を見つめる人物のシルエットを見て再び瞬時に曇った。

「…ミサ…ト……。」

戸口に立っていた影が音もなく部屋に滑り込み,光を背にしてアスカに対峙す

る。…ミサトが…慰めるような眼差しで彼女を見下ろしていた。

(いるわけ……ないか……。)

泣き腫らした顔など,他人に見られたくない……。

僅かに残ったちっぽけなプライドがアスカの顔を床に向かって伏せさせる。乱

れた赤毛の隙間から覗くやつれた彼女の表情に,ミサトの眉間に愁眉が浮かん

だ。

(思った以上にショックだったみたいね……。)

想像よりも憔悴しきっているアスカの様子に,ミサトは驚きを隠せなかった。

これ程アスカの中でシンジが大きな位置を占めているとは思わなかったからだ。

どう言葉をかけたものかと立ち尽くすミサトに,

「シンジ…は……?」

地の底から湧き出る様な低く暗い声が,床にペタリ…と座り込んだアスカの口

から発せられ,ミサトは僅かに唇を噛んで眼差しに躊躇の色を見せた。

話すべき事だと分かってはいるし,彼女も薄々気付いてはいるのだろう。だが,

他人の口から告げられる事に彼女のズタボロに傷ついた心が耐えられるのか

…?ミサトの躊躇はそこにあった。

「……………行ったわ……。」

「………。」

僅かに黙考した後,ぽそり…と短く告げたミサトの言葉にアスカの体が震えた…。

静まり返った部屋にギリッ…っと響く,アスカの歯を食いしばる生々しい音に,

ミサトは顔を悲しみにしかめる…。もう少し時間を置いてから来るべきだった

か…と,己の行為を悔やんでもはじまらない。アスカの傍にしゃがみ込むと,

そっと彼女の肩に手を置き,

「アスカ…,シンジ君の言葉を思い出して…。よく考えてみなさ―――」

「イヤよっっっ!!!!」

噛んで含める様に語りかけたミサトの手を,アスカは荒々しく振り払い睨み付

けた。泣き続けて紅く染まった瞳と視線の鋭さにミサトが息を呑む。

「あっ…,アスカ………!」

「シンジもミサトも…考えろ考えろって……!…これ以上…何考えていいんだ

か……,アタシ…アタシわかんないよぉ!!」

「落ち着つきなさい!!」

頭を抱えてしゃくりを挙げるアスカに鋭い叱声が飛ぶ。ひっ…!と短く悲鳴を

あげ恐る恐る視線を上げた先では,

「そうやって子供みたいに泣き喚いて,現実から逃げてばっかりじゃいつまで

たっても何にも解決しないわよっ!」

かつて,アスカ達がチルドレンと呼ばれていた頃,同じく作戦部長の肩書きを

背負っていたミサトが,任務を放り出そうとする子供達に見せた,あの厳しく

冷たい眼差しに少しだけ似た目を向けていた…。

(ミサト…怒ってる…。…何で……?アタシ…何にも悪い事してないじゃない………!)

「………。」

事あるごとに叱責された当時の恐ろしさを思い起こし,アスカが言葉を詰まら

せる。そんな怯えるアスカを見たミサトの瞳が悲しげに潤んだ…。

こんな風に怒鳴りつけられた記憶など,流れた膨大な時間の中でとっくの昔に

風化してしまっただろうと思っていた。

(ごめん……。)

…だが,かつて自分の言葉と言う鋭い爪がアスカの心につけた傷は,しっかり

とその跡を留めていたのだ…。シンジの言葉からすっかり許された気分になっ

て浮かれていたそれは,己の独りよがりな傲慢だったとミサトは胸の内を曇ら

せた。

(怯えさせるつもりなんか,無かったのに……。)

ただ,一途なシンジの想いの伝わらぬもどかしさと歯痒さから,ついつい声を

荒げてしまっただけなのだ…。

「………冷静になって…。四年も共に暮らしたあなたなら,シンジ君の言った

事の意味が必ずわかるはずよ…!」

「わかんない…!!」

そんなミサトの厳しい眼差しに込められた,かつては無かった優しさと温かさ

に,半ば錯乱状態のアスカは気付くことすら出来なかった。

「嫌いよ………!!アタシを置き去りにしたシンジも……,わけわかんない事

ばっかり言ってすぐ怒るミサトも……!」

ミサトの言葉がかえってアスカの心を硬化させた。処置無し…と小さく唇を噛

んで口元を歪めたミサトと,己を置き去りにしたシンジを罵りながら泣き喚く

アスカを飲み込んで,暗い部屋が一層闇の底に沈んだ…。

「みんな…みんな嫌い!………大っ嫌いぃぃ!!!」

………この日を境にアスカは完全に周囲に対して心を閉ざしてしまった…。

日を追うごとに明るく活発だった頃の面影は急速に薄れて行き,盛りの花のよ

うにくるくると忙しく表情を変えていた顔は,精彩と張りを失い,にぎやかな

お喋りを生み出していた愛らしい唇は,火の消えた炉の如く熱を失って沈黙し

た…。

『魂が抜けた』という表現がピタリと当てはまる如く,月日の流れと共に彼女

は虚ろになっていった…。

抜けてしまった魂が何なのか,語るまでも無かろう…。

「…………。」

別れの日以来,アスカは何をするでもなく,日がな一日,ただ一人で窓の外を

黙って見つめている事が多くなった。それは自室の時もあったが,今では住む

人のいなくなってしまったシンジの部屋の時もあった。

(今日も変わらず……か……。)

いや…。指折り数えて比べたわけではないが,ミサトの知る限りではシンジの

部屋にいる事が多かった様に思われる。

…大嫌い…と,アスカはシンジの事を罵ったが,部屋に僅かに残る彼の面影を

求めて自然に足が向いてしまったのだろう。

…心の底では,しっかりと彼と繋がる事を求めているのだ…。

ミサトは今日もシンジの部屋で窓辺に佇むアスカを見つけ,すでに一ヵ月以上

無為に経過してしまった日々を思い起すと小さく嘆息した。

開け放たれた窓から吹き込む風に,一人髪を揺らしながら佇むアスカはひたす

らに寡黙だった…。

(どうしたものかしらね………。)

枯れた花の様に瑞々しさを失ったアスカを,ミサトはこの一月の間傍観し続けた。

手をこまねいていた訳では無い。可能な限りはシンジの考えを尊重したいミサ

トは,出来るだけアスカ自身が彼の想いに気付くまで思わせぶりな言動を避け

てきたのだ。

だが,ミサトの思いに反して,虚ろになってしまったアスカの心は何の答えも

はじき出さなかった…。

(やっぱり…この娘には重すぎたのかしら………。)

ドア枠に背を預け,腕を組んで天を仰いだミサトの心が重く沈む…。

シンジがいなくなってみてわかったことだが,アスカにとって彼は世界と繋が

るための全てだったのだ…。

一人でいるアスカは他人との交わりを積極的に持とうとするタイプではない。

それは,幼い頃母と死に別れ,父に捨てられた苦い記憶が彼女を他人との深い

交わりから遠ざけている事による。

…愛する人から捨てられる恐怖が,アスカに孤独と言う道を歩ませた。これ以

上苦しみたくないから…,失うものが無ければ,悲しみがなくなるのでは…?

と,幼かった彼女が考えたそれは,まさに苦肉の策だったのだ…。

だが,そんな孤独を選んだはずの彼女であるが,シンジに対しては積極的に交

わりを持とうとする不思議さに,二人の事をよく知らなかった頃のミサトは首

をかしげたものだった。

同世代の男の子など歯牙にもかけないアスカだが,出会った頃からシンジにだ

けは胸襟を開いて接していた。

からかったり……,我が儘を言って甘えてみたり…。級友に『夫婦喧嘩』など

と揶揄されて怒りながらも,どこか嬉しそうだったアスカ…。

そんな彼女の傍でいつも変わらぬ笑顔を浮かべていたシンジ…。

同じ傷を持つシンジだけが自分の痛みを理解してくれる事を,アスカは彼との

交わりから本能的に悟っていたのだろう。

シンジを失う前,アスカはまさに水を得て咲き誇る花そのものだった。だが,

シンジという水はアスカの元から姿を消した。

水を失った花は,枯死するしかない……。

(シンジ君…残念だけど,アスカ,そろそろ限界かも………。)

この状況に至って,アスカの消耗に限界を見たミサトは,彼女に助言をする決

意を固めつつあった。仰ぎ見た顔を下げどう切り出そうかとアスカに向き直っ

た彼女の耳に,

「…ミサト………。」

開け放たれた窓から風に乗って届いた,自分を呼ぶ微かな声にミサトは眉を上

げる。…久しぶりに聞いたアスカの声には,かつての力強さは微塵も無い…。

まるで,風そのものが言葉と化したかの如く希薄で,冷たく乾ききっていた。

「何………?」

静かに歩み寄ると,ミサトもアスカと並んで窓外に目をやった。高く,どこま

でも青い空だ…。

あの日シンジと二人で並んで見た空と何一つ変わらない青。宣伝用なのか,雲

ひとつ無い青い空にポツン…と一つ,銀色の飛行船が寂しげに浮かんでいる…。

虚ろな目でじっとそれを見つめるアスカの心もまた,空漠とした空に浮かぶ孤

独な飛行船の様だった…。

耳元で風が鳴る音以外は,何一つ音の無い世界の只中で,二人は黙って空を見

つめていたが,

「アタシね……,」

不意に,アスカの乾いた唇から言葉がこぼれる。軽く顔を動かして見たアスカ

の青い瞳には,変わらず光は宿っていなかった…。

「…本当は…シンジの事,好きだったんだ………。」

重苦しく響いた彼女の言葉に,ミサトが驚きと共に僅かに口を開く。あれ程口

にする事をはばかっていた『好き』と言うこの言葉が,あっさりと彼女の口か

ら発せられたからだ。

(やっぱりそうだったのね……。……でも……。)

アスカの告白を受けて,ミサトは口元に小さく笑みを浮かべたものの,内心喜

びには程遠かった。

彼女の口調と表情から暗さが払底されたとはとても言いがたく,『好き』と己の

本意を初めて他者に語った彼女にかえって危うさを感じ,ミサトの心は晴れな

かった…。

「そう…,そうだったの……。」

何よりも虚ろになった彼女が,諦めにも似た口調で語ったのが不安だった。

(何故,そんな悲しそうに言うの……?)

そして,その不安は現実と言う肉をまとい始める…。

「アタシ…アイツの笑顔が大好きだった…。どんなに迷惑かけても,いつも優

しく笑ってくれて…。…シンジが笑ってくれると,何故か凄く安心できた…。

こんな風に笑ってもらえるのは,アタシだけなんだって…,…それが…凄く嬉

しかった……。言葉にはしてくれないけど…きっと,シンジもアタシの事,

好きなんじゃないかなって…思ってた…。」

淡々と語るアスカの口調は次第に熱を帯び始め,嫌な熱だ…とミサトは心中顔

を歪めた。事態は彼女の想定した最悪の顛末へと転がりつつある。

シンジの想いはアスカに届いてなどいない。

アスカの乾ききった瞼に薄っすら悲しみの涙が浮かんでいるのを見て取り,そ

う確信したミサトは落胆からがっくりと肩を落とした。

一ヶ月と言う時間は彼女に沈思する機会を与えるどころか,冷静な思考を根こ

そぎ剥ぎ取り,ねじれた悲しみを植えつけるだけのものでしかなかった様だ…。

「でも,それはアタシの甘えだった……。思い上がりだった……。」

「何を言ってるのアスカ!!」

恨みがましく結ばれた言葉をミサトが鋭く制す。だが,アスカの表情には僅か

な変化も現れない…。

風に髪を揺らしながら,微動だにしないアスカの様はまるで…。

まるで人形だ…。ミサトは人間離れした彼女の様子に背筋に冷えを覚えて身を

震わせた。

(ここまで間違って思いつめていたなんて………!)

同時に,アスカを見る目の浅かった己を恥じて歯噛みした。

「結局,シンジはアタシの事,ただ哀れんでいただけだったんだって…,アタ

シの事なんか,好きでも何でもないって,やっと気が付いたの……。」

そんな人形のような彼女の頬を伝った一筋の涙が伝わる…。シンジを失った悲

しみによるものではない,シンジの優しさに一人浮かれていた自分の情けなさ

を哂った涙だ…。

アスカの震える肩に両手をかけると,ミサトは少しばかり強引に自分の方へ彼

女を向き直らせた。

「それが…一ヶ月以上もかけて出したあなたの答えなの!?……分かっていな

い,アスカ,シンジ君の事何もわかってない……!」

青い瞳が絶望と怒りを湛えてミサトを見ていた…。じゃぁ…と,激しくミサ

トの腕を振り払いながら,

「どうしてアタシの事を置いて出て行ったの!?」

「…それは………。」

鋭さの増しつつあるアスカの舌鋒にミサトは言葉を濁した。

種明かしは簡単な事だが,ここで自分がシンジから預かった彼の想いを話して

聞かせたところで,ささくれ立った彼女の心に果たして響くのか…?額に汗の

玉を浮かべて逡巡するミサトに,

「…もう,面倒見きれなくなったのよ……。そりゃそうよね…。初めから,哀

れみでアタシの我が儘に付き合ってたんだからさ……。」

アスカは寂しげな瞳で笑ってみせた…。

「それなのに,そんな事にも気が付かないで,シンジがアタシの事好きなんじ

ゃないかって浮かれて……。…馬鹿みたい……!アタシ………。」

「違う!!それは違う!」

「もういいの!……………いいの………。」

笑いを涙の下に沈めると,アスカは泣き顔を再び青空に向け,溢れんばかりの

涙を手の甲で拭った。そして,涙声で一言,

「……アタシ………ドイツに帰る……!」

ミサトは愕然となった…。

こうなってしまってはもはや自分の力では止めようが無い。アスカの瞳に固い

決意を見て,ミサトはシンジへの連絡がもはや不可避である事を悟り,悔しさ

から汗にまみれた手を白くなる程強く握り締めた。

(しまった………!最悪だ……。)

実際,これがアスカが一月以上考えに考え抜いて出した,悲しい結論だった…。

アスカはシンジを心底から愛した…,だが,結局のところ彼はアスカの方を振

り向いてくれなかった…。少なくとも,アスカは彼の行為からそう感じとった。

愛する人を失ってしまった以上,この家に,日本にいる事にどれほどの意味が

あるというのか…。

「ここには…,アタシの居場所…無いから………。」

(もう…人を好きになんかならない………。)

思い詰めたアスカは一人故国で生きようと心に決めた…。

小さくそう言い置いて風に吹かれる様にゆらり…と部屋を去ろうとしたアスカ

を,青ざめたミサトが追う。

「待ちなさいアスカ!…シンジ君は―――」

ピンポ~ン………と,不意に場違いな程明るく響いたインターホンの音に,ア

スカの前に必死で立ちふさがったミサトの声が重なりかき消される。来客の様

だ。誰よっ!と小さく舌打ちすると,

「こんな時に……!アスカ,ちょっと待ってて!いい,もっと冷静に話し合い

ましょう…!」

うつむく彼女を強引にその場に座らせると,ミサトはアスカを一人部屋に残し

てドアを閉じた。ドアに背を預け深く,深く嘆息する。

…硬く閉じられたドアの向こう側で,すすり泣く声が聞こえ始め,ミサトは頭

を抱えたくなった。だが,そんな彼女を再び鳴ったインターホンの音が無情に

も呼びつける。

「今開けるわよっ!!」

短く怒鳴ると憂鬱ですっかり重くなってしまった頭を振りつつ,ミサトは玄関

に向かって足早に歩を進めた。

(全く次から次へと………!)

苛立った面持ちで開閉キーに触れドアを開くと,

「………。」

ドアの向こうに現れた人物を見てミサトは僅かに口を開くと,毒気と熱を奪わ

れた様に勢いを失い立ちすくんだ。

「…お久しぶりです…。葛城三佐……。」

……玄関に静かに佇むその人物は,

「……レイ………。」

かつて,シンジやアスカ達と共に,『チルドレン』と呼ばれた綾波レイだった…。