In The Blue Sky

あの頃、少年は未だに少年であり、少女はやはり少女だった。

十四歳という年齢のあの頃。

二人は、他の十四歳の少年少女とは違う出遭い方をし、他の十四歳の少年少女とは違う

日常をともに過ごした。

それが幸福だったとか、不幸だったとかは、二人の本当の姿を知らない他人が彼らを指し

て言う言葉。

彼ら自身にとっては。

その時その日々が、幸福であったのであろうと、不幸であったのであろうと。

そんなことは問題ではなかった。

大切なことは。

二人が。

同じ時に同じ環境で同じ想いを抱いて。

ともに生きた、ということ。

それが。

大切なこと。

西暦二○一五年のあの頃を。

西暦二○一五年のあの時を。

生と死が紙一重で背中をくっつけ合い。

生と死が表裏一体でまとわりつき。

毎日毎日、一時一時、一秒一秒を。

懸命に生きていたあの頃を。

懸命に生きていたあの日々を。

誰にも後ろ指さされることなく。

誰にも非難されることなく。

誰にも文句言わせることなく。

自分たちが自分たちとして。

生きていたあの時を。

今となっては。

“思い出”という一言に。

言い換えることが出来るという事実を。

彼らは。

彼ら二人は。

平穏な日々の中で。

そのことこそを。

“幸福”だと想う。

そんな少年と少女が。

十七歳となった時。

高校二年生となった時。

お互い、通う学校こそ違うけれど。

未だに同じ屋根の下で一緒に暮らしている。

そんな時。

そんなある日ある時が。

この物語の。

舞台。

…………………………………………………………………………………………………………

take-out7発表S.S. 第百話記念作

In The Blue Sky

…………………………………………………………………………………………………………

惣流・アスカ・ラングレー。

十七歳。

第三新東京市立第壱高等学校二年生。

“帰宅部”所属。

美人。

我が侭。

秀才。

横柄。

俊敏。

短気。

闊達。

人気者。

陽気。

自己中。

実力者。

羨望の的。

売約済み。

…………。

碇シンジ。

十七歳。

私立第三新東京学園高等部二年生。

アメリカン・フットボール部、“ワイルドキャッツ”所属。

穏便。

無口。

平和主義。

紳士的。

内向。

学力平均以上。

暢気。

気配り。

意外と人気。

売約済み。

…………。

以上が。

彼ら二人を取り巻く友人・知人らの認識。

だが。

周囲の状況などに関係なく、そんな二人の関係に不満を抱いている人物がいた。

大いなる不満を抱いている人物が、いた。

それは。

誰あろう。

アスカ、その人である。

三年前のあの頃。

二人はお互いを“好き”だと言い、お互いを“かけがえのない生涯のパートナー”だと感じ、

お互いをこれからの長い長い人生において“ずっとずっとともに歩んで行く唯一無二の”

相手だと、確信した。

確信した……。

それは疑いようのない事実。

事実…だった。

で。

使徒を撃退し。

ゼーレの陰謀と真っ向から対立し。

人が人として人の世に生き続けていくことが出来る世界を守り。

ゼーレを撃ち滅ぼし。

“平和”と呼べる時代を築き上げたあの時。

あれから三年が経過していた。

ネルフは既に発展的消滅をなし。

新たな人類の一歩が刻まれ始めていた。

なのに。

それなのに。

アスカとシンジ。

二人の仲は。

一向に進展していなかったのである!!!!!!

嗚呼……。

「…まったくぅ……!!」

一人、自室で愚痴をこぼしまくる美少女。

いや、既に十七歳という年齢に至った彼女を、“少女”と呼ぶのはいかがなものか。

ある時には、どこに出しても恥ずかしくない立派な淑女として通用するかと思えるし、その一方

では、やはりまだまだ子どもっぽい面影を垣間見せる可憐な乙女。

それが。

西暦二○一八年の、惣流・アスカ・ラングレーであった。

「シンジのぶぁーーーか!!!

せっかくこのアタシがウチの学園祭に招待したげるって言ってるのに…!!

何?!!

部活で忙しいから、学校に通い詰めだぁ?!!

せっかくの機会だけど、残念ながら行けないだぁ?!!!

残念って思うなら!!

もっと残念そうな顔して言いなさいよっ!!

どう見ても、“ほっとした”って顔をしてたわよ!!!

去年の学祭に来た時の、あの時のことを、今でも恥ずかしがってんのかしら?!!

ぶぁっかじゃないの?!!

今更何を恥ずかしがるってのよ!!!

馬鹿シンジ!!!」

怒り心頭とは、まさに今のこのアスカのことを言うのであろう。

どうやら。

“このアタシがデートに誘ってあげてるのに、断るとは何事?!!”ということらしい。

まあ、彼らをよく知る周囲の者にとっては。

今更デートの一回や二回が流れたからといって、何がどうだと言うんだ?ってところであろうが。

アスカは自慢の長い金髪をかき揚げながら、独り言を続ける。

「これは…やっぱり!!

アタシたちが…!!

アタシと…シンジが…!

…その…あの……。

やっぱり…!!

“身も心も”っていう表現からすれば!!

気持ちではともかく!!

か……。

か………。

か、身体は…!!

か、か、か、身体においては…!!

…あ、あの、その……。

か、身体においては……!!

…ま、まだまだ一つになれていないからって……。

そ、そ、そういうことから…!!

い、意思の疎通を…、か、欠いているって…。

ことよね!!!!」

無理矢理なこじつけである。

だが。

アスカの名誉のためにも、ここで語っておくが。

確かに彼ら二人、アスカとシンジは。

お互いを好きだという意思表示を行い。

手をつなぎ。

キスもし。

幼さの香るぎこちない抱擁も交わした。

十四歳のあの時に。

しかし。

……。

今は。

十七歳となった今は。

いや。

今も、という言うべきか。

今も。

まだ。

そこまでなのである。

アスカとしては。

それが。

不満なのだ。

おいおい…。

「ホントにっ!

こんな美女を目の当たりにして夜這いの一つもかけられないなんて!!

アイツ、やる気あんの?!!」

…やる気って……何?

「このままほったらかしにされてたら、アタシはどこぞの誰かに浮気しちゃうぞっ!!」

心にもないセリフである。

「どーしてくれよう!!!」

だから…そう焦らなくても……。

もう十七歳、っていう考え方より、まだ十七歳、っていう考え方が…出来ないものか…。

椅子に座り両足を机の上に投げ上げるという、およそレディらしからぬ姿勢でぶつぶつ

がんがんと不平を連ね続けるアスカであった。

「なーーーんでかなぁ?!!」

天井を睨み付け、椅子を傾けてその四本のうちの二本の足でバランスをとりながら、

ゆっさゆっさと身体を揺さぶるというお行儀の悪いことを繰り返すアスカ。

危ないって……。

「うーーーん……。」

顎の所に左手の人差し指を当て、考え込む仕草をする。

可愛い、やはり。

「うーーーむ…。

…なんで……かなぁ…?」

先ほどまでの勢いが徐々に後退して行き、いつしか真剣に“何故アタシたちは未だに…なの

だろう?”と考え込む。

その間も椅子を揺さぶり続けて、アンバランスなことおびただしい。

「アタシって…魅力無い…のかなぁ……。

女っぽくなったって……なっていってるって……自分では思うんだけど…なぁ…。

うーーーん……。」

難しいところである。

確かに十四歳の頃と比べれば、十七歳の今、彼女は格段に女っぽくなった。

それも、飛びっきりの。

ただし。

外見上は、である。

いやいや、失礼な表現はやめよう。

表向きは、である。

あ、いやいや…。

ともかく昨今、彼女は急速に大人っぽい体つきに変貌を遂げつつある。

もともとがクォーターであったから、十四歳の頃も他の同年齢の女子に比べれば、それなり

に魅力的な体型であったのだが、今はそれこそどこから見ても非の打ち所の無いプロポー

ションに“近づきつつ”あった。

あと三、四年もすれば、“モデルをやってます”と言っても通用するような女性になるであろう

ことは疑うべくも無い。

で。

それは見た目の話。

あ、いやいや…。

……。

よーするに!!!

黙って座っていれば、誰が見たって今だって充分に魅力的なレディだと言っているのだ!!

黙って座っていれば!!

でぇ!!

アスカである!

アスカなのである!!

あの、アスカなのである!!!

黙って座っているわけが……ない!!!

それでなくても活発・活動的な女の子なのだ。

弾けるような明るさを持ち合わせている女の子なのだ。

辛かったあの頃を。

辛かったあの日々を。

跳ね除けてきた彼女なのだ。

今の彼女は、生きて行くことの喜びとでもいえるものを、身体の芯から滲み出させて生きて

いるといっても過言ではない。

そんな彼女だからこそ。

周囲に友人・知人の輪が広がるのでもある。

そこに、性別を越えた魅力を感じている人たちは多いのである。

性別を越えた…。

よし、フォローが出来たぞ…。

あ、いやいや…。

ともかくそのさっぱりとした性格は、“女らしい”とか“可愛らしい”とかいうこと以上に、

“アスカらしい”と呼ぶべきもの。

時には豪快に過ぎるか、とも思えるようなその性格は。

“アスカらしい”と言うべきもの…。

……。

そもそも彼女自身がこれまで、“女の子らしい”という表現を好んで来なかったという事実

も見逃せまい。

エヴァのパイロットであったあの頃、男だからとか、女だから、などと言う区別・或いは差別

を何よりも嫌っていたのが彼女自身であったのだ。

それは今も変わらないのである。

そのくせ。

シンジという異性を意識する時には。

やはり自分という存在が“女としての魅力をそなえた”女性でありたいという意識も持って

いるのだ。

それは恋する乙女の当たり前と言えば当たり前過ぎる感情。

そして彼女自身は。

自分が十四歳のあの頃に比べれば、格段に女らしくなったはず、という想いを抱いている

のだが。

さて。

その割には。

二人の仲は、一向に十四歳のあの頃と変わらず。

進展していないのである……。

「このアタシが…魅力無い…なんてことは…ないはず…よね…?」

未だ自問自答を繰り返し続けるアスカ。

「だったら…なんで……?

なんでアイツは…シンジは…その…あの……。

あの…ア、アタシのことを…その…あの……。

…だ…だ……だ………。」

“抱きたいって思わないかなぁ?”などという言葉は、さすがに他人がいない今の状況とは

言え、とても口に出すのは憚られる十七歳の乙女であった。

「うーーーん……。」

真剣に考えあぐねている。

天才を自認する彼女にも、解けない謎が世の中にはある、ということか…?

相変わらず顎に右の人差し指を当て、考え込むアスカ。

やがて彼女は、彼女なりの一つの結論を導き始めるのであった。

「…やっぱり…身近にい過ぎるのかしら…?

毎日毎日、朝から晩まで顔を合わせている同じ屋根の下……。

し、刺激ってもんが…なくなっちゃったってこと…?

そ、そうかもね…。

何しろアタシときたら…。

十四歳の頃から…。

お風呂上りのバスタオル一枚の姿で…へ、平気でアイツの目の前をウロウロしまくってた

もんねぇ……。

まさか…あの頃のあの行為が…今となってアダになるとは…。

はあ……。

まあ、認めたくないことだけど…世間では……“美人は三日見れば飽きる”とか言うそうだし…。

はあ……。

シンジとしては、このアタシのことを…当たり前過ぎる気持ちでしか見れなくなったってこと

かしら…?

はあ……。

それは……。

…困る……。」

せっかくの“天才”が頭を悩ますべきお題目とも思えないのだが。

とにかく彼女にとってはこのことこそが、現状の最大にして最強の関心事。

青春の苦悩、ってやつである。

「刺激…か……。

でも。

そんなもん…。

今更、どうしろってのよ…?」

お手上げ、ってな感じで独り言を繰り返すアスカであった。

その時である。

玄関の方でなにやら音がした。

ドアの新聞受けが“カタン”という音を立てたのである。

「ん?」

アスカは思った。

夕刊にはまだ時間が早い。

ということは、あの音は郵便が配達された音であろう、と。

それまでの思考が中断され、なおかつその思考自体が迷宮に入りこんだようなものだった

ので、気分転換の意味も込めて彼女は傾いた椅子から立ち上がると、自室を出て玄関へと

向かった。

廊下を歩いて玄関に辿り着き、新聞受けの取っ手を引っ張る。

そこに一通の封書が届いている。

アスカはそれを手に取った。

かつて葛城ミサトの名義であったこのマンション。

しかし今、彼女はもうここには住んでいない。

三年前、使徒を倒し、ゼーレを倒した後、ミサトはネルフを勇退し、加持リョウジと所帯を持つ

ためにここを出ていった。

もっとも、今日に至ってもまだ、同棲状態のままで入籍すら済ませていないのだが。

ともかく三年前のその時、彼女はこのマンションをシンジとアスカに“貸与”して出て行ったの

である。

従って、ここに届く郵便物というのは、碇シンジ宛のものか、惣流・アスカ・ラングレー宛のもの

のどちらかでしかない。

アスカは封書の表を見た。

宛名は“惣流・アスカ・ラングレー様”。

自分宛である。

裏返して差出人を見る。

“トゥエンティ・ワン・ニュー・トラベラーズ・コーポレーション”。

「ん…?」

その名を見てアスカは記憶の糸を手繰り寄せようとした。

何だったっけ?

記憶の隅にひっかかるその会社名。

彼女は封書の封を開き、中身を取り出す。

その文面を読んでいる彼女の表情が、段々と驚きを伴ったものに。

そして、喜びに満ちたものに。

変わって行く。

「……こ…こ…こ、これは……?!」

手紙を持つ手が心なしか小刻みに震えているような…。

「これは……う、嘘ぉ……?!」

声も少しばかり震えているような…。

「ほ、ホント…?!」

彼女は手紙を握り締めた。

その瞳は。

爛々と光り輝き。

その両腕は。

ガッツポーズ。

「…これよ…。

…これだわ……。

アタシと…シンジ…。

新鮮な刺激を…アタシたちにもたらして…。

そ、そいでもって…あの、その……。

アタシたち二人…こ、恋人同士として更なるステップを上り詰めるためには……。

その…つまり……。

き、き、キス……キスから先の段階に進むためには……。

……これよ。

……これだわ。

これよぉっ!!!!!!」

血走った目で叫び声を上げる十七歳の乙女の姿がそこにあった。

かなり、アブナイ……。

「シンジっ!!!覚悟なさい!!!!おほほほほほほほほ!!!!」

かなり、アブナイ……。

…………………………………………………………………………………………………………

その夜。

帰宅したシンジは、まるで待ち受けてでもいたかのようなアスカの“言葉の速射砲攻撃”を一身

に浴びることとなった。

彼女がかなり興奮していることは彼にも十分理解できた。

そしてそんな彼女が、自分対して何を言わんとしているのかも、かなりの努力の末に何とか

理解できた。

即ち。

来週の週末、アタシたち…つまりシンジ自身と彼女・アスカは。

旅行にでかけるのだ、と。

彼女が早口でそうまくし立てているということを。

彼は理解できた。

「当たったのよ!!!」

興奮冷めやらぬアスカが叫びに近い声で言う。

「な、何が?」

当然の疑問を呈する十七歳の青年・シンジ。

「だから!!旅行が当たったの!!」

アスカは手にした紙片をヒラヒラさせながら続けた。

「もう、三ヶ月以上も前に軽い気持ちで応募したもんだから、すっかり忘れてたわ!!

ペアで二名様ご招待!!!

アンタとアタシ、当たったのよ!!!」

「だからアスカ……何が…?」

「何が、ですってぇ?!!

アンタ、何聞いてんのよ?!!

当たったんだって言ってんのよ、アタシは!!!」

「だからさぁ…何が当たったの、アスカ?」

「んもう!!この鈍ちんシンジ!!!当たったって言ってるでしょうが!!!」

「……だ・か・ら……。」

「分かんないヤツね!!!

旅行が当たったって言ってるの!!アタシは!!!」

「…旅行ねぇ…それは分かってるってば…。

だから、どこへ行く旅行が当たったの?」

「北海道よ!!!」

「へえ……。」

ようやく、質問の矛を収めるシンジ。

彼は十七歳になる今日まで、北海道には足を踏み入れたことはなかった。

自然、興味の色を示し始める。

「北海道かぁ…。それは…いいかもねぇ…。」

「アンタ!!何、他人事みたいな言い方してんのよ?!!

アンタとアタシが!!北海道に行くの!!!」

「そっかぁ…。

…うん……。

考えてみたら、二人で旅行なんて…したこと無かったもんね。

二年前に一度、アスカの実家へ行ったくらいだもんな。

…そっかぁ…。

そうだね、それも良いかもね。」

暢気という彼に対する評価は正しい、ということがこの彼の一言からもってしても理解できる

であろう。

だが。

彼の暢気さに免疫が出来つつあるアスカは、その程度のことでめげはしなかった。

「むっふふふふふふふ!!

それが、シンジ!!!

どんな旅行だか分かる?!!」

得意満面、という表情でシンジにそう問いかけるアスカ。

「どんな旅行?

…それって…どういうこと?」

シンジはアスカの質問の意図が理解し得ず、端的に尋ねる。

「じゃーーーん!!」

そう言ってアスカは、両手で今日受け取った手紙の用紙をシンジの前に広げて見せる。

己に向けられたその文面を、声を出して読み上げるシンジ。

「えーーと、何々…?

このたびは、『二十一世紀の優雅な空の旅』キャンペーンにご応募いただき、誠に有難う

ございました。

厳正なる抽選の結果、あなた様『惣流・アスカ・ラングレー』様は、めでたくご当選なさい

ました……。

つきましてはここに旅程表と、二名様分のクーポン券を同封させていただきますので、

宜しくご査収下さい。

ご質問・お問い合わせ等は、弊社までお気軽にお電話下さいませ。

では、豪華飛行船による北海道への空のクルージング、存分にお楽しみ下さいますよう

心よりお祈り申し上げます。

トゥエンティ・ワン・ニュー・トラベラーズ・コーポレーション…………。

…………。

…優雅な…空の…旅…?

豪華…飛行…船…?

空の…クルージング…?

はい…?」

読み終えたシンジは、視線をアスカの顔に戻しながらそう尋ねた。

アスカは。

すこぶるつきの笑顔で答える。

「そう!!!

この旅行会社が、豪華飛行船を就航させたんですって!!

その処女航海旅行ってことで!!

一般からペアで一組をご招待しますって広告!!三ヶ月ほど前に新聞に載ってたのよ!!

で、アタシとしては、応募しないわけにはいかなくってさ!!

まあ、駄目もとで、インターネットで応募してみたわけよ!!

それがさ!!

まさか、当たるなんて!!!

すっごーいでしょ、これって!!!」

得意満面のアスカである。それを見つめるシンジも顔を綻ばせつつ、敢えて聞いてみた。

「応募しないわけにはいかなかったって…どういうことだい、アスカ?」

それに対し、胸をそらせて答えるアスカ。

「ほら!!最後の所をちゃんと見てみなさいよ!!」

促され、シンジは再び彼女が指し示す手紙に視線を戻す。

「うーーんと…最後の所…?

ああ、これか…。

何々…豪華飛行船……飛鳥……?

飛行船…飛鳥……。

あ、アスカ……?

飛行船の名前って……?」

「そう!!!

この飛行船の名前は、ズバリ“飛鳥”!!

で、ペアでご招待のキャンペーンに応募できるのは!!

アスカっていう名前の方に限ります、っていうもんだったのよ!!!

アタシとしては応募しないわけにはいかないでしょ?!!!」

そうだったのか…という納得顔になるシンジ。

「なるほどねぇ!!

日本全国に“アスカ”という名前の人が何人、何百人、何千人いたかは知らないけれど

…そんな“アスカ”な人たちの中から、君が選ばれたっていうわけだね?!!

それはすごいや!!おめでとう、アスカ!!」

シンジに誉められ、さすがに少々頬を赤らめたアスカは、胸を張って答えた。

「ふん!アタシにかかれば不可能はないわ!!」

何の理屈にもならない…。

「いやぁ、さすが、強運の持ち主だよ、アスカは!!

すごいすごい!!良かった良かった!!」

無邪気に喜ぶシンジである。

「そ、そ、そうかしら?!!

やっぱ、アタシって強運の持ち主?!!」

「そりゃそうさ!!すごいすごい!!」

「そ、そう?!!」

上機嫌のアスカは手紙をテーブルの上に置き、シンジに向かって宣言する。

「そんなわけで!!

いいわね、シンジ?!!

来週末は、アタシたちは優雅な空中散歩としゃれ込むのよ!!」

「あれ?でも、アスカ…。

来週末って…アスカの高校の学園祭…じゃなかったっけ?」

「知らん!!!」

「はあ?」

「かんけーーー、ない!!」

「はあ?」

「アンタもよ!!」

「はあ?」

「アメフトだか、クラフトだかしらないけど!!

来週末はそんなもんに関ずらわってる暇なんてないわよ!!」

「はあ?」

「これは、決定事項です!!!!」

だ、そうだ、シンジ君…。

……刺激よ、刺激!!!

……これよ、これぇ!!

……二人して、非日常の世界に身を置くのよ!!

……降って湧いた、旅行!!

……そこで!!

……お互いに新たな気持ちで相手を見つめ、相手を確かめ合い…!!

……そ、そいでもって、そいでもって……!!

……新鮮な気持ちになった二人は…!!

……きゃーーーーーーーーっ!!!!

アスカのこの思考、誰も止める者はいない、少なくともこの家では。

……し、シンジ!!

……覚悟なさい!!

……飛行船で過ごす一夜が!!

……アンタの最後よ!!

おいおい、最後って……。

……アタシのもの!!

だ、そうだ、シンジ君。

「そっか……。

そうだね…。

せっかくの機会なんだから…。

うん、部活の方は…何とかするよ、アスカ…。

うん、一緒に北海道へ行こう!!」

乗り気になるシンジであった。

アスカの陰謀などに思いを馳せることもなく…。

……やった!!

……飛行船に乗って!!

……空の上で!!

……あ、アタシは…は、初めての……!!

……な、なんてロマンチックな!!!

……待ち遠しいわ!!

アスカのこの思考、誰も止める者はいない、少なくともこの家では。

だが。

アスカがシンジに対して思い巡らしていたこのような“可愛い陰謀”など、足元にも及びつ

かない“本物の陰謀”が、彼ら二人の身の上に襲いかかってくることになるであろうなどと

いうことは、この時シンジは無論のこと、アスカもまた、想像すら成し得なかったのである。

「た、楽しみね、シンジ!!」

「うん、楽しみだね、アスカ。」

…………………………………………………………………………………………………………

北海道。

西暦二○○○年のセカンドインパクト発生時において、日本で唯一と言ってよいほど被害

らしい被害を受けなかった場所。

壊滅状態に陥った当時の首都・東京から難を逃れた政治家・官僚たちが、真剣に首都機能

の移転を検討した場所。

結局それは政治的・財政的・地理的・地勢的その他諸々の理由から実現はしなかったの

であるが。

ゆえに、西暦二○一八年の今日も、北海道は北海道のまま、日本の最大のリゾート地と

して存在していた。

アスカたちが乗船を予定している巨大旅客飛行船“飛鳥”号の最終目的地は無論その

北海道なのだが、一直線にそこを目指して飛行する、というわけではない。敢えてその

“威容”を知らしめるため、ということであろうか、日本の様々な都市上空を通過して行く

こととなる。第二新東京国内空港の特別滑走路から離陸し、まず富山方面に向かって

能登半島の付け根、氷見上空を通過、金沢へと向かう。金沢市上空を越えて一旦日本

海まで出ると、しばらくは海岸線に沿って飛行、越前岬をポイントとして内陸部へ進路を

変えて敦賀を経、琵琶湖西岸をなぞるようにして京都上空へ辿り着く。そのまま南下して

奈良市で進路を東に切り、伊勢湾を目指す。当初は津市から一息に伊勢湾を横断して

知多半島、渥美半島上空を通過、遠州灘に沿うというルートを取る予定だったのだが、

津市から四日市、名古屋市上空、というように伊勢湾に沿って飛ぶルートに変更された。

理由はいくつも挙げられたが、公然の秘密ということで人々が口にしたものの一つとして

は、今回の飛行船就航にただならぬ“尽力”を尽くした某運輸大臣の出身地が名古屋だか

ら、というものがある。さて、そんなわけで飛行船はその後名古屋上空から豊橋まで飛んで

遠州灘へ辿り着くこととなる。太平洋を見下ろしながら東進を続け、静岡県上空を飛びつつ、

駿河湾に達し、やがて富士山を左手に見ることとなる。天気が良ければ、観光的にはおそ

らく今回のフライトでの最重要ポイントであろう。そして船は富士山近辺を通過しながら第三

新東京市上空にいたる。そのまま進路を東にとって東京湾、房総半島を横断するように飛ん

で太平洋に出る。銚子・犬吠埼の先端を掠めるように進路を変更すると茨城県の海岸線に

沿って北上を続け、小名浜の辺りから再び本州内陸部に進み、猪苗代湖、磐梯山、五色沼

上空を経て福島、白石、仙台と通過して再度太平洋上へ。陸中海岸からは完全に海上散歩

に移り、一路襟裳岬を目指す。北海道上陸を果たした船は、そのまま百人浜を越えて北上を

続け、広尾町上空から内陸部へと向かい、帯広市を大きく左に迂回しながら日高町を通過、

最終目的地である占冠村の巨大リゾート地へと到着する。

…それが全行程約千九百五十キロ強の飛行予定ルートであった。

その間の所要時間は、約十八時間。一日がかりと言って良いであろう。

二十世紀末、東京と苫小牧を結ぶ海上航路が所要約三十一時間、東京-釧路間が約三十三

時間強であった。

そして二十一世紀の今、第二新東京空港から帯広空港までのフライト所要時間が一時間に

近づこうかという時代。

旅行会社の言葉を借りれば、これこそ“新世紀にふさわしい、豪華な空中散歩”ということになる

のだそうだ。

かつて、速さや高さや大きさを競った時代。

それらが善であり、そうでないものが悪、そんな単純な図式が成り立っていた時代。

そんな世紀末を終えて、そして未曾有のパニックを経験し、さらに人類存亡の危機を乗り越えて

辿り着いた、今という時代。

人々は、単なる速さや効率、といったものだけを追いかけるのではなく。

ゆとりのある世界、ゆとりのある時間、ゆとりのある生活というものを求めていた。

そしてその反面、輝かしい未来へ向けて邁進することも忘れてはいなかった。

そんな、今という時代に、その豪華旅客飛行船が就航する。

今回の処女航海を一つの指針とし、各方面の賛意と賞賛と羨望の声をかき集め、いずれは

世界一周旅行をも企画するという。

ゆえに、決して失敗をすることができない処女航海でもあったのだ。

政治・産業・スポーツ・芸術・芸能…各分野からの有名・著名人を招待し、加えて、一般から

も“実に幸運な”一組を招待した。

それだけにとどまらず、当然、乗船チケット発売初日に長蛇の列をなしてそれを求め、首尾

よく手にすることの出来た多くのごく普通の市民たち、航空ファンたちも乗り込む。

それが。

飛行船“飛鳥”。

乗客最大収容能力八百人、五百メートルに及ぶ全長、巡航速度は今回は約百十キロで

あるが、将来は百六十キロメートルにまで引き上げるという、硬式飛行船。

空飛ぶ豪華客船、空飛ぶ五つ星ホテル、空飛ぶリラクゼーションスペースとアミューズメント

施設。

それが、飛行船“飛鳥”。

…………………………………………………………………………………………………………

「十八時間…ふんふん…つまり…えーーと…。」

送られてきた旅程表を、自室の机の上に広げて睨み付けるアスカがいた。

「何々…土曜日の午前十一時に第二新東京国内空港を離陸して……。

ぐるっと関西地方上空を巡ってから中部日本を越えて、富士山の辺りを通過するのが十八時

四十分頃…その後第三新東京の上あたりを通過するのね。

ふんふん。

で、太平洋へ一旦出た後、また内陸へ戻ってと……。

仙台湾上空あたりで日付が変わるっと…。その後しばらくは、ずっと海上飛行……。

明けて午前四時頃、襟裳岬が眼下に見え……ちょっとちょっと…午前四時に岬が見える

わけぇ?!!

ああ…襟裳岬の灯台の光…って書いてあるわ…はははははは…。

おほん……そいでもってっと……最終目的地である巨大リゾートのだだっぴろい高原に降り

立つのが…朝の五時!!!」

一通りの旅程を確認し、ぼおっと考え込むアスカ。

「土曜の昼出発…。現地到着が日曜の朝五時。

ま、無理してその日の夜の飛行機で戻ってくれば…翌日の月曜にはアタシもシンジも普通

どおりに学校へも行けるってことか…。

でも…。」

アスカの言葉を少々補足せねばなるまい。

今回の空中散歩、彼女たちが当選したのは“片道”のみなのだ。

そう、第二新東京から北海道までの片道。

戻りは戻りで、別の“実に幸運な”一組が乗り込むことになっている。

アスカとしてもそのことについて、とやかく思うつもりはさらさら無い。

むしろ、“豪華な空中散歩”なんて片道だけで十分、という気持ちがある。

何と言っても二人は学生の身分。

そう何日も優雅に空に浮かんでいるわけにもいかないのである。

で。

行きはその巨大飛行船の旅を楽しむとして。

帰りはやはり飛行機で一息に戻ってくる、というルートを当然ながら選択したのである。

なお、今回のクーポンには、ご丁寧にその帰りの分までが含まれていた。

どの便を使って帰ってくるかは本人たちにまかせてくれるという、実に有難いものであった。

アスカは考えた。

「せっかく…二人で…北海道に旅行するんだから…日曜日は二人して北海道を満喫しながら

移動して、その晩は札幌にでも泊まって…。

帰ってくるのは月曜日ってことで……。

い、一日くらい学校を休んだって、ば、罰は当たらないわよ…ね…。」

罰は当たらないだろうけれど…。

いいのか、それで?

「よしっ!!そうしよう!!」

シンジの意思を確認しなくて…いいのか、それで?

しかし、アスカの思考は既に他のことに集中していたのである。

「よ、よ、夜を…ど、どう過ごすか…よ…ね…。」

現状の最大にして最強の関心事、それのことである。

「飛行船の中で一泊…。

ど、ど、ど、どうしようかな…?

や、やっぱ心の準備っていうか、何ていうか…。

飛行船の夜よりも、札幌の夜の方が……。

い、いえ、善は急げっていう、有難い標語が日本にはあるくらいだもんね…。

どうせ十八時間、他にどこにも行けないで、一緒に過ごすんだから…。

そ、そうね、時間はたっぷり…あ、あるんだから…。

まずは雰囲気作りから始めて。

そ、そうよ!!

また、アイツのこったから!!

同じ部屋で寝るなんて状況を目の当たりにして…適当なことを言って自分はソファで寝る、とか、

床で寝る、とか、タンスの中で寝る、とか、トイレの中で寝る、とか何とか……に、逃げるかも

しれないわね!!!」

真剣にそう思っているだけに、可笑しい。

「だ、だから!!

二人で同じ部屋で寝るって事実、これにアイツを慣れさせて…!

そうそう!!

そして、そいでもって、ほんでもって、そいから、それから………。

め、メインとなるのは…やっぱり……。

漆黒の太平洋上の空で……あ、アタシは…アタシと…シンジは……。

あ、あの、その……。

な、な、な、……。」

アスカのこの思考、誰も止める者はいない、少なくともこの家では。

「何て、ロマンチックなの!!アタシたちって!!!!」

まあ、夢見がちなお年頃。

何をどう思おうと、本人の自由、というものであろう。

しかし。

シンジの意思を確認しなくて…いいのか、それで?

のほほんシンジ君と言えば。

北海道への旅行が決まって以来

「いいなあ、北海道かぁ。

景色が綺麗だって言うもんなぁ。

空気も良いって言うし。

今がちょうど爽やかな季節だし。

いいなぁ、いいなぁ。

食べ物もおいしいって言うし。

楽しみだなぁ、うんうん。」

…てな調子なのである。

子どもである、まるっきり。

いや、彼の名誉のために言っておかねばなるまい。

三年前の、死の淵をさ迷うが如き日々の連続を。

闘い抜いて。

耐え抜いて。

生き延びてきたという事実。

そんな体験を味わって、時を経た彼は。

実に。

実に穏やかな性格の青年へと成長していた。

時にアスカなどに言わせると“のんびりし過ぎよ!”ってことになるらしいのだが。

彼はめったなことでは動じない、物怖じしない、感情を荒立てない、温和な好青年へと成長して

いたのである。

アスカ曰く、“鈍ちんシンジ”の誕生であった。

うむ、この説明で彼の名誉は保証されたのだろうか?

…………………………………………………………………………………………………………

その日が来た。

出発の、土曜日である。

結局、アスカがどんどんと予定を組んで、宿泊やら帰りの予約やらを済ませていったがために、

シンジとしても日曜日に札幌でもう一泊し、翌月曜も学校を一日休むという旅程に賛同せざるを

得ない羽目となっていたが、

「まあ、たまのことだし…いいか…。」

だ、そうである。

その日の第二新東京国内空港は、大騒ぎであった。

報道各社が詰め掛け、新時代の旅を提供するという巨大旅客飛行船の処女航海の瞬間を、

今や遅しと待ち構える。

招待された政財界のVIPを護衛する警察関係者が右往左往する。

航空マニアたちがカメラの放列を成して空港内外に群がる。

お目当ての芸能人、スポーツ選手を一目見ようと、ファンやらストーカーやらが殺到する。

それらを規制しようと汗だくになる空港関係者たち。

その他、あんなんやら、こんなんやら、どんなんやら、そんなんやら……。

後に、パニックが起きなかったことが不思議なくらい、とまで評されるような事態だったのだ。

「す、凄いわね…。」

空港に着いた時、さすがのアスカもその喧騒に少々恐れをなし、シンジの腕にしがみついた

くらいであった。

「ホントだねぇ、凄い人出だ。」

まるで他人事のように呟くシンジ。

こんな時は、この男の鈍感振りが却ってアタシを安心させてくれるわ、などと思って、隣の彼の

顔を妙な頼もしげな眼差しで見上げるアスカであった。

搭乗口へ向かうまで、一体何人、いや何十人の空港関係者に行く手を遮られたろうか。

だが、それも無理からぬことと言えた。

やはり、二人はどこから見ても普通の高校生、良く言っても大学生のカップルくらいにしか

見えない。

“飛鳥”号の招待客には見えなかったのである。

しかし、辛抱強くと言うか、そんなことはどこ吹く風、と言うか、シンジはその都度、ボーディング・

パスを示して通過して行く。

いつしかそんな彼の左腕にしっかりと己の右腕を絡めつかせて、寄り添って歩く乙女。

こんな時は、この男の鈍感振りが却ってアタシを安心させてくれるわ、などと思って、隣の彼の

顔を妙な頼もしげな眼差しで見上げるアスカであった。

二人は何とか出発ラウンジまで辿り着いた。

「いやぁ、参った、参った…。」

全然参った感じがしない口ぶりで、シンジが苦笑する。

「ホント!!揉みくちゃにされそうだったわね!!」

アスカもここへ辿り着いてやっと安心できたのか、笑顔でシンジに答える。

「もう、乗船が始まってるみたいだね。

どうする、アスカ?乗る?」

人の流れを見ながらシンジが隣の美少女に尋ねる。

彼から見れば、アスカはやはり“大人の女性”ではなく、依然“少女”という思いが強い。

そんな彼の思いなど知らぬこととて、アスカが大きく頷いた。

「そうね!!ここでぼおっとして時間を潰すくらいなら、さっさと乗船して、飛行船の中を探検

して回る方が数倍面白いわ!!乗ろう乗ろう、シンジ!!!」

探検、ねえ…などとやはり苦笑混じりに思うシンジ。

彼が大好きな彼女の性格は、実にこういうところなのだ。

どんなことにも前向きで、好奇心旺盛で、積極的なところが。

彼は、大好きなのである。

それでなくても活発・活動的な女の子なのだ。

弾けるような明るさを持ち合わせている女の子なのだ。

辛かったあの頃を。

辛かったあの日々を。

跳ね除けてきた彼女なのだ。

今の彼女は、生きて行くことの喜びとでもいえるものを、身体の芯から滲み出させて生きている

といっても過言ではない。

彼は。

そんな彼女ことが。

大好きなのである。

「よし、行こう。」

シンジも大きく頷いた。

「行こう行こう、シンジ!!」

にこにこしてアスカは未だにその手を彼の左の二の腕のあたりにまとわりつかせつつ、歩き

始めた。

二人は。

たくさんの人々とともに。

豪華旅客飛行船“飛鳥”の。

客となった。

それは。

三年前のあの頃にも勝るとも劣らない。

生と死が紙一重で背中をくっつけ合い。

生と死が表裏一体でまとわりつく。

危険な。

十八時間の。

空の旅の。

始まりだった。

…………………………………………………………………………………………………………

空飛ぶ豪華客船。

それが“飛鳥”である。

客室は、エコノミー、ファースト、デラックスという三タイプが基本であるが、それとは別に

スゥイートが三室、ロイヤル・スゥイートが一室。

アスカとシンジは、“どうせただで当たったんだから”エコノミーがあてがわれるのだろうと、

勝手に思い込んでいた。

しかし、彼らが“自分たちの部屋”として、たっぷり十分以上の時間をかけて探し回って

ようやく辿り着いたルームナンバー“F三○七”は、その頭文字が示す通りファーストクラスの

ツインルームであった。

セミダブル並みの大き目のシングルベッドが二つとティーテーブル、ロッカーがある寝室。

そしてその奥にソファ、テレビ(と言っても、主に船内で流す多チャンネルのビデオを放映する

もである)、ライティングデスク等が用意されている部屋があり、バスルームもトイレとは独立、

洗面所も別になっているという部屋。

それが、これから十八時間の二人の部屋だった。

「な…何か…贅沢な部屋だ…ね…。」

開口一番、シンジのセリフはそれだった。

「何言ってんのよ?!!

ご招待よ、ご招待!!いっそスゥイートってやつにしてもらいたかったわ!!」

内心はファーストクラスのこの部屋に十分満足しつつも、悪態の一つもつかないわけにはいか

ないというのが、アスカのアスカたるところ。

「とにかく、シンジ!!

明日の朝五時までは、この部屋が“アタシたちの部屋”なのよ!!

縦横無尽に使わせてもらうわ!!」

縦横無尽という部屋の使い方っていうのは、一体全体どんなものなんだろうなぁ…?などと

考えるシンジであった。

だが、惣流・アスカ・ラングレーという女の子と付き合って(もちろん男女の付き合いという意味

ではなく、“知り合って”といった方がこの場合はより的確ではあるが)三年経つシンジとしては、

そんな瑣末なことに拘泥するなどという愚を犯しはしない。

「そうだね、せっかくなんだから、そうしよう。うん、うん。」

などと、見事な相槌を打って見せるのである。

「よし!!とにかく荷物を置いて!!

で!!アタシは着替えるから、シンジ!!

アンタは隣の部屋にこもっていなさい!!」

大き目のボストンバッグをベッドの上に放り上げながらアスカが言った。

「…き、着替える?」

シンジが問う。

「当然よっ!!

この飛行船は、空飛ぶ豪華ホテルなんでしょ?!!

だったら、それなりの格好ってもんをしなくちゃ!!

こんな普段着じゃなくて、それなりのドレスに着替えるのよ!!」

「…でも…そういうのは、夜になってからでいいんじゃないの?」

シンジの素朴な、かつ真っ当な問い。

だが、彼の言葉の“夜”という一語に対してのみ、過剰に反応してしまうアスカ。

「よ、よ、よ、夜、夜は…!!

よ、夜はまた…その…べ、別の…!!

別の装いってもんが…あ、あるのよっ!!!」

「ふーーん。」

ふーーん、の一言で済まされ、がっくりと肩を落とすアスカであった。

「さ、さあ!!そっちの部屋へ行っててよ!!」

それでも言葉だけは強がり口調を崩さない。

「はいはい…。」

シンジはくるりと背を向けると、奥の部屋へと向かう。

「“はい”は一回でよろしい!!」

シンジに対するアスカの決めゼリフであった。

「覗くんじゃないわよっ!!」

「絶対にそんなことはいたしません。」

……はあ…たまには、悪戯心ってもんを呼び起こしなさいよっ、シンジっ!!!

バタンッという音ともに、シンジはドアを閉じて隣の部屋に消えた。

…………………………………………………………………………………………………………

「…ターゲットの乗船を確認したか…?」

「確認済み。」

「うむ、では、我々も当初の予定通り、行動を開始する。」

「…決行ポイントは…?」

「当船“飛鳥”が仙台湾を通過した約三時間後。北海道へと向かう太平洋上だ。」

「北海道からも、本州からも一番離れたポイントにおいて、ですね?」

「そういうことだ。」

「午前三時頃…。その頃には客の殆どが眠っているでしょう。」

「酔狂なヤツは起きているかもしれんが…ふん、眠ったままの方が楽に死ねるだろう…。」

「ターゲットも含め、何百人の乗客らが楽に死のうが、苦しんで死のうが、我々には関係あり

ません。」

「そういうことだ。我々は、我々の仕事をこなす、それだけだ。」

「豪華旅客飛行船…その処女飛行が、最後の飛行というわけですか…。

二十世紀にも、そんな話がありませんでしたか?」

「ヒンデンブルクのことか?」

「いえ…船です…。」

「ボス…こいつの言ってるのは、タイタニック号のことでしょう。」

「それです。」

「ふん…旧世紀の出来事などに俺は興味はない。

そして…新世紀の、今日までについても興味はない。

俺が興味を抱くのは、与えられた仕事を確実にこなすこと、それだけだ。」

「…………。」

「お前たちにも、そうであることを俺は要求する。」

「我々もボスと同じです。」

「…そうであることを要求する。」

「はっ。」

「…仕事に取り掛かるぞ。」

「はっ。」

…………………………………………………………………………………………………………

第三新東京市の自宅から、第二新東京国内空港へやってくるまでは、シンジもアスカも軽装

そのものであった。

しかし、乗船と同時にアスカは白いワンピースに着替える。

一方のシンジはのほほんと、相変わらずジーパンにT-シャツという格好でいたのだが、アスカ

の強烈な一睨みに怖れを為して、持参していたスラックスとハイネックのカッターシャツに着替え

ることを余儀なくされる。

シンジ本人が気がついているかどうかは別として。

彼は高校進学と同時にアメリカン・フットボール部に勧誘されて入部し、連日のように筋力トレー

ニングで鍛えられてきた。

身長も伸び、筋肉もついた彼が、急速に大人っぽさを増しつつあるアスカと二人で並ぶ時、

余人は彼らを見て羨望の眼差しを向けるのであった。

即ち。

理想的なカップルと。

アスカとしてはそれが嬉しくもあるのだが、一向に着るもの等に無頓着なシンジを目の当たりに

していることもあり、“コーディネートはアタシの仕事ね!!”ってことになったりもするのである。

今回の旅行へ持ってきた彼の服装類も、殆どはアスカが選び、指示したものであった。

…もう、丸っきり世話女房である…。

「うん、それならまあ、合格点ね!!」

着替え終えたシンジを見てそういうアスカ。

「そうかな?」

笑顔で答えるシンジ。

まるで無邪気そのものなのが、却ってアスカの笑顔を引き出す。

「アタシの見立てに間違いはなーーーい!!!」

「有難いこって。」

「その台詞に感謝の念がこもってるとは、到底思えなーーいっ!!」

「感謝いたしております、はい。」

「よろしいっ!!」

白いノースリーブのワンピースをまとったアスカが、ニコニコしながらシンジに言った。

「さぁ、ラウンジとやらへ行きましょうよっ!!

このどデカイ飛行船が離陸する瞬間をラウンジの窓から見てなきゃっ!!!」

「…人だかりでとんでもないことになってると、思うけど…。」

「ネガティブなことばっかり言わないの!!さあ、行くわよ!!」

「うん。」

二人はF三○七号室を後にして、飛行船のメインデッキにあるラウンジへと向かうのであった。

だが。

シンジの言は正しかった。

ラウンジは、今まさに離陸の瞬間を迎えた飛鳥号のその時をこの目で確かめようとする

老若男女で、押すな押すなの大混雑。

その様を見た二人は肩を竦めて踵を返し、自室へと引き返すのであった。

部屋にも窓はある。

そこから離陸の瞬間を見ることで妥協しようというのである。

午前十一時○四分。

繋留ロープが解き放たれる。

豪華旅客飛行船・飛鳥。

離陸。

「…静かだね。」

その時、シンジはそう言った。

「そうね、飛行機みたいな振動が全くないわね。

こうして窓から外を見ていないと、いつ離陸し始めたのかも分からないくらいに静かだわ。」

アスカもシンジの横に立って、少しずつ遠ざかる地表を眺めながら肯定する。

「なるほど、これが新世紀の優雅な空のクルージングってやつか。」

「ふふふ、ちょっと違うわよ、シンジ。」

「何が?」

「この旅が優雅なものになるか、そうでなくなるかは、それを体験する本人たちの気持ち次第、

でしょ?」

「…気持ち次第?」

「そう!!この旅をどれくらい前向きに楽しもうとするか!!

そういう気持ち次第なのよ!!」

「前向きに…か。」

シンジはそう呟いて、彼の前でこぼれんばかりの笑顔で立っている少女の顔を見つめる。

自分にはなくて、彼女にあるもの。

彼女が彼女たる所以。

自分が彼女のことを好きだ、と心の底から思うそのわけ。

常に。

ポジティブ。

……君のことを好きな理由はいくつもいくつもあるんだけれど、そんな中でもピカ一のもの。

……それが。

……これなんだ。

シンジは穏やかな笑顔を浮かべつつ、アスカを見つめていた。

「な、何よ、シンジ?!!

アタシの顔に何かついてる?!!」

あんまりニコニコしながらシンジが自分のことを見つめているものだから、思わずそんなことを

尋ねるアスカであった。

「ついてる…。」

更にニコニコしつつ答えるシンジ。

アスカとしては、まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、慌てて右手で自身の

顔をぺたぺたと撫でながら言う。

「な、な、何が?!!」

「可愛い笑顔が。」

鈍ちんシンジ。

アスカが彼につけたあだ名。

だが、しかし。

時としてその鈍ちんは。

鈍ちんゆえに。

文字通りアスカの胸を抉るような強烈なパンチを浴びせることもあるのである。

「な…な…な…な、何を…何を…あの、その…。」

こういう時、アスカは弱い。

「何を言うかと…お、思ったら…。」

そして。

その後に来るのは。

「当ったり前なこと、言うんじゃないわよ!!!この馬鹿シンジ!!!」

罵倒である。

ま、他人が見たら“勝手にやってくれよ”のシチュエーションなのだ。

そんなアスカの怒鳴り声などとは、当然ながら何の関係も無く、飛鳥は飛び立った。

十八時間のフライトの始まりである。

…………………………………………………………………………………………………………

飛行船中央部にあるラウンジでは、記念パーティが開催されていた。

招待された芸能人らが次々と紹介され、パフォーマンスやら歌やらを繰り広げている。

ラウンジの隣にはカジノ“Asuka”がある。

ここにはスロットマシンを始めとして、ポーカー、ブラックジャック等のカードコーナーがあり、

本物のディーラーがいる。

ここではチップを使って賭け事をするわけだが、日本というお国柄、それを現金に換金する

ことは出来ない。ただし、チップに相当する飛鳥専用の商品券と交換するシステムを取って

おり、この商品券は船内のどの施設でも通用するものとなっていた。つまり、このカジノで

勝ち運に恵まれた人は、船内にあるスーベニールショップや、レストラン、バー、リラクゼーション

コーナー等で金額相当の買い物や施設利用が出来るのである。

「まずは元手を作るのよっ!!」

アスカが宣言する。

「やめといた方がいいと思うけど…。」

シンジがなだめる。

「何よ?!!アタシは強運の持ち主だって、アンタが言ったんじゃない?!!」

「賭け事とは別の意味で言ったんだけど…。」

「駄目よ、今更!!やると言ったら、やるのよ!!」

言い出したら聞かないのは、十四歳の時も今も変わらない。

シンジはずんずんと歩き出すアスカの後を苦笑しながらついて行った。

「アスカ…こういうことは、“いくらまでで、負けたらすっぱりおしまい”ってことにしてないと

キリが無いんだからね。」

後ろから声をかけるシンジ。

「分かってるわよ、それくらい!!軍資金はいくら?!!」

「とりあえず…これくらい……。」

シンジが自分の財布から札を数枚取り出してアスカに手渡した。

意外に思われるかもしれないが、二人が一緒に買い物等に出かける時、それも二人の

供用のもの、家の必需品等を買いに行く時の財布は、全てシンジの管轄下にあった。

アスカには、経済観念において結構欠落した部分があり、シンジとしては家事一般の支出

についての大いなる責任があったのだ。

「うむ!!これだけあれば十分よっ!!まずは、スロットからよぉっ!!」

気合は十分なのだが。

気合は十分だったのだが。

アスカ、すってんてん。

「むうう……っ!!」

唸り声を搾り出したのは、無論十七歳のうら若き乙女である。

「アタシことアスカが、飛鳥の中でAsukaに負けたなんて…洒落にならないことやって、

どうすんのよっ?!!」

まったくである。

「ああ、もう!!やめ、やめ!!」

勝ち目がないと見て取ると、さっさと引き上げるその見極めの良さ。

それもまた彼女という人格を構築している特徴の一つであろう。

一方。

「うわっ!!

ま、またセブンが三つ……!」

シンジである。

無欲な人間ほど、時として勝ち運に恵まれるというのが世の中の皮肉でもあるのだ。

「い、いいのかな…?」

本来賭け事に興味の無い彼としては、勝つことに却って罪悪感を覚えてしまうのであった。

「シンジーー。アタシ、もうやめるわ…って…!!

アンタ、何よ?!!この凄いチップはぁ?!!」

離れたところでスロットマシーンにさんざん貢いだ挙句に撤退してきたアスカが、シンジの

元へやってきて目を剥く。

「あはは…あ、アスカ……何だか僕…勝ってるみたい…。」

「し、シンジ!!さすがはアタシが見込んだ男だわっ!!!」

十七歳の美少女が、カジノで大声上げて言うセリフではない。

周囲のお客たちが笑いながら二人を振り返る。

「お、大きな声出さないでよ、アスカぁ。」

「何言ってんのよ?!!

どうしてアンタはそう、いつもいつも恥ずかしがるのよ!!

去年のウチの学祭に来た時だって!!

このアタシが校門でわざわざ待ってて出迎えてあげて、アンタの姿が見えたから大急ぎで

駆け寄って、それでその腕に抱きついたからって!!!

何が恥ずかしかったってのよ?!!」

「…それが…恥ずかしかったんだけど…。」

「そいでもって、そいでもって!!

模擬店から何から、ちゃんと一つ一つアンタの腕を取りながら説明しまくって、同級生やら

知り合いやら、挙句の果てには担任の先生にまで一人一人ちゃんと紹介して回ってあげた

ってのに!!

何が恥ずかしかったってのよ?!!」

「…それが…恥ずかしかったんだけど…。」

「そいでもって、そいでもって!!

演劇部の下手な芝居の最中にもちゃんとアンタの隣に座ってアンタと腕組んで、ウチの

学校でしか通用しないような楽屋オチが出るたんびにちゃんとアンタの耳元で説明をして

あげたってのに!!

何が恥ずかしかったってのよ?!!」

「…それが…恥ずかしかったんだけど…。」

「そいでもって、そいでもって!!

アンタが疲れたって言うから!!

学食へ行って、二人で一個のシェークを買って!!

二人で一本のストローで飲みっこしたんでしょうが!!

何が恥ずかしかったってのよ?!!」

「…それが…恥ずかしかったんだけど…。」

延々続きそうな戯言であった。

ともかく。

シンジは、いきなりスロットマシンでかなりのチップを獲得してしまった。

そのまま他のゲームに移っても良さそうなものだったが、何しろこれから先は長い。

ちょうど昼時を迎えるところでもある。

彼はチップを船内で通用するという商品券に交換すべく、カウンターへ向かう。

そこには既に、彼同様今日の勝ち運に恵まれ始めたお客が列を作っており、シンジもその

最後尾へ並ぶこととなる。

「シンジ!!じゃあアタシ、先にレストランへ行って、席とってるからね!!」

「分かった、すぐ行くよ。」

アスカは、船内にあるいくつかのレストランのうち、最大級の“バイオレット・ムーン”へと

やって来た。

昼食時であり、混雑してはいたが、船内には他にも中華、和食、バイキング形式、ライト

スナック等の各レストランがあり、待たされることなく席に案内される。

「こんなんだったら、アイツと二人で後から来ても平気だったわね…。」

案内された“二人用”のテーブルにつきながら思うアスカ。

メニューは彼が来てから決めることにして、しばらくはぼうっと周囲を眺めていた。

色々な人たちがいる。

家族連れ。

カップル。

芸能関係者。

財界の要人と思しき人とその取り巻き。

「……。」

アスカは左手で頬杖をつき、そんな人たちを眺めていた。

その視線が、ある人物の上に止まる。

若い、おそらくアスカとそれほど変わらないであろう年齢の女性。

テレビで見たことがある。

何とかいうタレントであった。

「…あれは、先月グループを解散したトライ・モア・トライのボーカル、リエちゃんね。」

そんな言葉が彼女の頭上から聞こえた。

はっとなって顔を上げるアスカ。

その視線の先に。

ニコニコ顔の女性が立っていた。

彼女は、アスカのすぐ脇に立って、“リエ”と呼んだ女の子とアスカを交互に見ていた。

「あら、ごめんなさい。いきなり失礼だったわね。」

「えっ?…あ、いえ…?」

「リエちゃんもねぇ…T.M.T.のボーカルだからこそ、そこそこ売れてたってもんなのにねぇ。

結局彼女の我が侭が、他のメンバーとの反りを合わなくさせちゃったってもんなのよねぇ。

独立してマルチタレントを目指すったってねぇ……。そんな素養があるとは思えないわ

よねぇ。」

アスカのきょとんとした表情などに全くこだわりもせずに、一方的にしゃべる女性。

年の頃は…二十台後半か、はたまた三十代の入り口付近か。肩の辺りまで伸ばした髪を

先の方だけ少しカールさせ、細身だが意外と肩幅が広そうに見えるのは、来ているスーツ

ゆえか。タイトなミニスカートからのぞく足は、“贅肉”という単語とは無縁な引き締まったもの

であった。

「で、プロダクションが取ってきた仕事ってのが…この飛行船の処女航海のレポーターと

きたもんだ…。彼女、まともな感想なんてしゃべれんのかしらね?

“すっごーい!”“信じらんなーい!”“チョー最高!”…なんて言葉を連発するのがオチじゃ

ないかしらね…どう思う?」

いきなり質問を振られたアスカは、目を白黒させた。

「は…?どう思うったって……。」

「ま、いいけどね。それがこっちにとっての飯の種なんだから。

贅沢は申しません、へいへい、と。」

そして彼女は、いきなりアスカの向かいの席に腰を降ろした。

「あ、あの……。」

強気で我が侭で知られるアスカも、さすがに呆気に取られたのか、思うように言葉が出ない。

「あはははははぁ、ごめんごめん。

私ね、フリーランスのライターってのをやってるのよ。」

聞かれもしないことをしゃべる女。

「今回も首尾良くこの飛行船に乗りこむことが出来たんだけどさ。

その初航海を内側から取材して、売り込もうってわけ。

で、実際にこの航海を取材しているメディアなんてのはたくさんいるわけで…あのリエちゃん

なんかも某テレビ番組の特番のレポーターってことだし。

私としては、そんな彼女たちやら、政財界のご招待客やらに、抜き打ちの突撃取材を敢行

しようってわけよ、わかる?」

「は、はあ…。」

「ありきたりなレポートなんて、つまんないもんね!やっぱ、生の声よ、生の声!!」

「はあ…。」

「それで…と。」

そこまで言って、女はようやく両肘をテーブルの上について手の平を組み合わせ、その上に

顎を乗せて笑顔で、相対するアスカを見つめる。

……な、何なのよ、コイツ?!!

アスカがそう思うのももっともであろう。

「それで…と。

あなた、誰?」

不躾と言って、これほど不躾な質問もあるまい。

「はあっ?!」

目を吊り上げてアスカが声を出した。

「私もこの仕事、昨日今日始めたってもんでもないのよ。

でも…これまで私はあなたには会ったこと無いわねぇ。

何してるの?

歌手?タレント?舞台俳優さん?それとも、モデル?

こんな綺麗で可愛い娘を今日まで見落としていたなんて、私もまだまだ青いわねぇ。」

そんな彼女の言葉に目をぱちぱちさせるアスカであった。

……む、無茶苦茶な誤解……。

アスカがそう思うのももっともであろう。

「あ、あのねぇ…アタシは…。」

そのアスカの言葉を遮って、彼女が言う。

「それとも…そうか、ピアニストとかバイオリニストとか…そっち系?

うーーん、だったら、私もそっちは疎いからなぁ…。

でも、せっかくお近づきなったんだから、これからヨロシクね!」

「あ、いえ、だから、アタシは…。」

「さあ、あなたもこれからの十八時間を有意義に過ごしたいでしょうから、仕事はさっさと済ませ

ちゃいましょうねぇ!!

さて、この飛行船に乗った第一印象は?!!」

テーブルの上にマイク内蔵型のMDレコーダーを乗せ、手にはペンとノートを持ち出しながら、

彼女はアスカに問うのであった。

「え?あ、あのねぇ…。」

「ああ、気にしないで。匿名にしてほしいってんなら、名前は出さないから。

名前…そうそう、あははははは、私としたことが、まず名前から伺わなくっちゃね。

お名前は?」

「だから!!」

思わず大声を出すアスカ。

「だから!!アタシは芸能人なんかじゃないわよ!!

アタシはただの高校生!!」

一瞬きょとんととする、向かいの女性。

「…へ…?」

「ただの高校二年生!!」

「ほえ…?」

「一般人!!素人!!」

「はい…?」

「何、早とちりしてんのよ!!!」

「…とちった…?また、私…?」

「ま、また?!!」

「あっちゃーーーっ!!!」

そう言って、大仰に片手で顔を被う彼女。

そのままの姿勢で、しかし搾り出すような声で呟く女性。

「わ、私って…どうしてこう…おっちょこちょいなのかしらぁ…。

一般人?素人?

あなたが…?

とほほほほほほ……。

どっから見ても…こんな可愛い、キュートな、綺麗な、美人な、清楚な、可憐な、純真そうな、

その他諸々…そんな女の子なんて、めったにいないもんだから…。

私、てっきり…どっかの売り出し直前のアイドルか何かかと思っちゃって……。

たははははははは…、あ、そう?

一般人?素人?

…また、やっちまったわ……。」

この時点で、アスカの気分が一気に“良い方向”へ向かっていることに注目されたい。

「可愛い?…そ、それほどでもないけど…そ、そうかな?

キュート?…そ、そんな言われ方は…は、初めてね?

綺麗?…と、当然でしょ?

清楚?…い、いい響きの言葉だわ。

可憐?…そのものズバリね…?

純真?…そ、それ…いただき……。」

もらってどうするのだ、アスカ?

「はあ…。」

一方の彼女はというと、溜息とともにがっくりとテーブルに突っ伏すのであった。

「何やってんだろ、私?」

しばらく固まって動かない彼女を見つめるアスカ。

と、突然。

がばっと身体を起こす彼女。

「ごめんね!!」

の、一言とともに。

「あ、いえ…。」

アスカとしてはそう答えるより他にないのである。

「いや、参った参った…。

素人さんにもこんな素敵な女の子がいるのねぇ。

ホント、一億総アイドル時代とは良く言ったもんだわ!!

…って、これは違うか…。」

そう言って、ちろっと舌を出して笑う女性の顔を、意外と幼い表情なんだな、などと思い

ながらアスカは見ていた。

「失礼しました!!

ホント、ゴメンナサイね!!」

テーブルに両手をついて深々と頭を下げられては、アスカも慌てざるを得ない。

「あの、いいですから!!もう、いいですから!!

顔を上げてください!!」

「そう?!!」

あっさりと顔を上げる彼女であった。

「いやぁ、それにしても、あなた…ホント、綺麗で良い顔してるわ、うんうん。

それこそあそこの、リエちゃんなんて足元にも及ばないわね。

高校二年生っていったっけ?十七歳?

ふーーん、リエちゃんがたしか今年二十歳。

あ、いやいや、公称は十八歳ってことになってるけど、あれは嘘よ、嘘!!

彼女、今年で二十歳を過ぎてるのよ!!」

またしてもまくしたて始める女性の顔を、困ったような笑顔で見ているアスカ。

「ねえねえ!あなた、この船には家族旅行か何かで乗ったの?!!」

彼女に問われて、アスカは少し俯いて答えた。

「家族っていうか…何ていうか…。

家族には違いないような…。

でも…。」

そこまで言って、アスカはテーブルのMDレコーダーに目を落とす。

それに気がついて、女性は慌ててそのボタンを押した。

「あはははは!!ごめんねぇ。

素人さんに取材許可ももらわずにいきなり話聞いちゃうなんてねぇ!!

あはは、ごめんごめん!!止めたわよ、これ!!」

彼女はそのレコーダーを自身のセカンドバッグにしまいこみ、改めてアスカを見て話し出す。

「そもそも、私たち自己紹介してなかったわね。

これも何かの縁だわ。ね?」

「…私はアスカ…惣流・アスカ・ラングレーっていいます。」

「へえ、日本人じゃないんだぁ?

どうりでねぇ。

あ、あのね。

私の名前はね、広い海!!」

「……。」

……舐めてんのか、こいつは…?!!

アスカがそう思うのももっともであろう。

「驚いた?!」

「……。」

「あははははは、驚いたって顔、してるわよ、あなた。

そうでしょうねぇ、大抵みんな驚くもん!!」

「……。」

「あはははは、そんな顔しないの!!

これ、私の本名なんだから!!ペンネームでも何でもないのよ、ホント!!」

「……広い海…それが…本名なんですか…?」

「あははははは、そんな怖い声出さないの!!

そうよ、本名なの!!

廣井有美。

これが私が親から授かった名前。

殆どの人は、この字を見てヒロイ・ユミって読んでくれるんだけど。

正真正銘、ファーストネームは、ウミって読むのよ。

だから私の名前は廣井有美、広い海っていうの!!」

アスカはそんな彼女の顔を見つめていて感じた。

この人は。

自分の名前が。

大好きなんだな、と。

そしてそんな彼女に。

なぜか。

何となく親しみを感じるのであった。

「私の父がね。

大の山登り好きでね。」

「はあ、山、ですか?海じゃなくって?」

せっかく親しみを感じ始めたのに、何を言い出すんだこの人は?…そう思うアスカであった。

「そう、登山大好き人間だったの。

それでね、生まれてくる息子には絶対、山の頂きから眺める空、その名前をつけようと若い頃

から決めてたんだって。

広い空…廣井素羅。そんな漢字も決めてたんだそうよ。

ところが。

生まれたのがなんと、女の子の私。

それでも父は、素羅って名前に固執したんだそうだけど、母が“女の子の名前じゃありま

せん!!”って反対したんだって。

で、協議に協議を重ねた挙句…空が海になったのよ!!!

あははは、私としては有美もいいけど、素羅も捨て難かったかなって思ったりして。」

「はあ……。」

圧倒されている、あのアスカが。

「でもさ、こうなるとさ、問題は結婚よね?!!」

有美の口から出た“結婚”という言葉に反応を示すアスカ。

彼女もお年頃なのである。

「け、結婚、ですか?」

「そうよ!!

夫婦別姓なんて言ってるけど、実際には結婚した九十パーセント以上の女性が、男性の

姓を名乗ってる今日この頃じゃない?!!

私としては、“ウミ”っていう名前が生きるような相手と結婚したいのよね!!」

「はあ?!名前が生きる?!」

「そう!!例えば、青井さん!!

青い海って、いいじゃない?!!」

「そ、そうですね…。」

圧倒されている、あのアスカが。

「深井さんでもいいわよね!!深い海!!」

「はあ…。」

「四季に関してはどれでもいらっしゃいってなもんよ!!

春野さんなら春の海!秋野さんだったら秋の海ってね!!」

「は、はあ…。」

「でもさ!!嵐野さんなんてのも、意外なポイントかもね!嵐の海!!」

……ついていけん……。

そう思い始めるアスカであった。

「…とまあ、そんなことはこれくらいにしておいて、と。」

有美もアスカが困ったような笑顔になったのを見て、ようやく話題を転じるのであった。

「家族旅行じゃない、と…。

ってことは…もしかしてぇ?」

一瞬にして好奇心旺盛の目つきになる有美を目の当たりにして、思わず身を引くアスカ。

「あら?」

その時、有美はアスカから視線をそらして彼女の背後の方を見た。

ほっとするアスカである。

「あら?あの男の子…結構いけるじゃん?」

そんな有美の声に思わず背後を振り向くアスカ。

そして。

慌てて有美の方を振り返る。

「だ、駄目、駄目ですよ、廣井さん!!」

「…有美でいいわよ。」

「有美さん!!駄目!!アイツも私と同じ、一般人!素人!

芸能人でもタレントでもモデルでもないんですから!!」

「……誰もそこまでは、言っていないんだけど…。」

「と、とにかく、アタシたちは、有美さんに取材されるような人間じゃありませんから!!」

「アタシたち…ねぇ?

あの男の子…連れなの?」

有美が指し示したのは、もちろんシンジである。

アスカを探して左右を見ながらゆっくりと歩いてくる。

「そ、そうです!!」

「ふーーん、上背もそれなりにあるし…、逞しそうな体つきしてるし…顔も…悪くないし…。

まあ、モデルはともかくとして…タレントっていっても、それなりには通用するかもねぇ…。」

「違うんですってば!!」

「分かってるわよ、惣流さん…。えっと、私もアスカちゃんって呼ばせてもらうわね。

ねえ、アスカちゃん、あなたと彼が連れだったらさ、冗談じゃなく後で取材させてもらえない

かしら?」

「だから!」

「いいのよ。一般乗客の声ってのも必要なんだから。当然、写真入りでね!」

「こ、困ります!!」

「どうしてぇ?」

……学祭サボったのよっ!!!

とは言えない、アスカであった。

シンジはアスカを見つけて、そのテーブルに歩み寄ってくる。

確かに彼は高校に入ってアメリカン・フットボール部なんてものに入部したおかげで、随分と

逞しい体つきになっていた。

十四歳の頃は、どちらかというとアスカの方が身長が高いのではないかとも思われていたの

だが、今は、シンジの方が十センチ近く身長も上回っている。

そしてそれは。

アスカの喜ぶところでもあった。

「お待たせ、アスカ…。

えっと…?」

シンジがアスカに声をかけ、そしてその向かいに座っている女性に視線を移す。

「こんにちは!」

元気に有美が挨拶を送る。

「あ、はい、こんにちは…。」

律儀にぺこんと頭を下げて会釈を返すシンジであった。

「私、廣井有美。冗談じゃなく、本当に広い海っていうの。

フリーのライター。

たった今、あなたの彼女であるアスカちゃんとお友達になったところなの!

よろしくね!!」

大人の女性に笑顔でそんなことを言われ、思わず赤面しつつ答えるシンジ。

「あ、はい!

僕は、その、碇シンジといいます!

よろしく!」

「否定しないわね、“あなたの彼女”ってことを。」

にこにこしながら突っ込む有美。

「え?」

シンジは目を丸くし、アスカは少々顔を赤らめる。

……鈍ちんシンジが、そんな細かいことに気付くわけないじゃん!!

だ、そうである。

「さってと。こうなっては、お邪魔虫は退散、退散っと。

ねえ、アスカちゃん、さっきの件、本当に考えといてくれない?

無理にとは言わないけどさ。

じゃね、お二人さん。」

そう言うなり、有美は立ち上がるとその席をシンジに譲り、彼の肩を二度ポンポンと叩いて

その場を後にするのであった。

直立不動でそんな有美の後姿を見送るシンジ。

「…何、固くなってんのよ…?」

アスカの低い低い声が響く。

「ふぇ?」

我に返った、そんな感じでシンジが答える。

「いつまでも突っ立ってないで…座んなさいよ……。」

アスカの低い低い声が響く。

「は、はい…。」

素直に従うシンジ。

「顔、赤くして…何、あの人の後ろ姿なんかぼおっとながめてんのよ…。

まったく、アンタと来た日にゃあ、どうしてこう、女性に対する免疫ってもんが出来ないの

かしらねぇ…。」

溜息混じりに言うアスカであった。

シンジはバツが悪そうに答える。

「…それは、無理ってもんだよ…アスカぁ。

僕が…その…女性に対して免疫…っていうのかどうかともかく…とにかくその…普通に

接することが出来るのは……あ、アスカだけ…なんだから……。」

シンジの言葉に、思わず彼の顔を正視するアスカ。

「…どうもその、僕は…女性の扱いが苦手というか、下手というか…ははははは…。

アスカは…アスカだけは特別なんだけど……はははははは…。」

「し、シンジ…そ、それって…つまり…。」

「アスカ以外の女性と一緒にいると…何か…妙に気を使っちゃうんだよね…。

慣れないっていうか…なんていうか…。」

「な、慣れなくてよろしい!!!」

思わず勢い込むアスカ。

「慣れなくていいわよ、そんなもん!!

アタシ…アタシといる時だけ、慣れてなさい!!!」

「だから…アスカといる時は…全然平気なんだけどね…。」

「ん?」

一瞬考え込むアスカであった。

……それって…喜んでいいのかしら?

……もしかして…それはつまり…アタシのことを…シンジはアタシのことを…一人前の女として

見ていないって…そういう意味にも…とれなくも…ない…。

彼女は、困ったような笑顔を浮かべている正面の十七歳の青年の顔を見つめた。

……うーーむ、どっちともとれるぞ、その笑顔は…。

…………。

……いいわよ、シンジ。

……どうせ…どうせ…。

……どうせ、こ、今夜……あ、アタシたちは……。

一人、顔を赤らめるアスカがそこにいた。

…………………………………………………………………………………………………………

「ターゲットとともに、この船を始末するには?」

「オーソドックスなのは空中で爆破、それでしょう。」

「…飛鳥はヘリウムガスを使用している。ヘリウムは不燃性だ。気球部を爆破しても船を吹き

飛ばすことは出来ん。」

「しかも、硬式の飛行船。外から見れば気球部は大きな一個のラグビーボールのような形を

しているが、その内部はいくつものガス容器に分かれている。その一つや二つを破壊した

ところで、地上あるいは海面に向かってまっ逆さま…なんてことにはなりはしない。」

「では…?」

「…どうも飛行船というは、その気球が馬鹿でかいがために、それを目標だと思いがちだが…

目標はあくまでその気球にぶら下がっている客室部分だ。

爆破するのなら…。」

「客室部…。」

「そういうことだ。」

「客室部を破壊してしまえば…ターゲットは確実に排除できます。」

「しかも、我々がその約八百人の中の誰を狙ったのか、ということが特定されずに済む。」

「…残る七百九十何人かの巻き添えは、憐れと言えば憐れだが…。」

「仕事を確実に為す、それだけだ。」

「はっ。」

「では改めて確認する。

客室部と貨物室、動力室に爆薬を仕掛け、午前三時に爆破。これで行く。

二時五十八分に我々はパラシュートで降下、脱出。

爆破スイッチは、船外から俺がリモートコントロールで操作する。

“迎えの漁船”が来ているはずだ。我々はそれに乗船して種市を目指す。

以上だ。」

…………………………………………………………………………………………………………

レストランで二人は昼食を終えた。

食事中、アスカはシンジに“広い海”こと有美の話をした。

何とも早とちりな彼女の思い込みに巻き込まれて、お喋りの相手をさせられたこと。

その際、彼女が自分のことを

“どっから見ても…こんな可愛い、キュートな、綺麗な、美人な、清楚な、可憐な、純真そうな、

その他諸々…そんな女の子なんて、めったにいない”と言ったこと…。

“てっきり…どっかの売り出し直前のアイドルか何かかと”思っちゃっていた、ということ……。

等をしっかり伝えることを忘れはしなかった。

その言葉に対するシンジの反応は。

“あはははははは”だ、そうである。

食後、二人はもう一度カジノAsukaを覗いてみたが、そこはもう大勢の善男善女が自らの勝負

運を試そうと群がっており、大盛況である。

カジノで遊ぶことを断念した二人は、フィットネス・ジムやリラクゼーション・コーナーへも足を

運びはしたが、どこも順番待ち状態に突入しており、それらに並ぶのにも少々気が引ける。

「食後の一時、部屋でゆっくりしますか。」

アスカの一言で、二人はF三○七号室へと戻るのであった。

途中の通路、と言っても豪奢な赤いカーペットが敷き詰められた立派な廊下なのであるが、

そこで二人は作業服姿の二人の男とすれ違った。

飛行船のメンテナンス要員が点検のために巡回しているのだろう、くらいに思い、そしてそれ

を何らの疑問も持たずに彼らはすれ違った。

「あーーあ、こんだけ広いと歩き甲斐があるわねぇ!!」

室内に入るなりそう言って、アスカは背中からぽーんと、ベッドの上に倒れこむ。

「全くだね。でも、飛行機の狭い座席に縛り付けられて旅をすることを考えると、確かに

こっちの方が数倍快適だよ。」

シンジもそう言いながら隣のベッドに腰を降ろす。

「……。」

「……。」

沈黙の時。

アスカは黙って天井を、真新しい白いクロスが張られた天井を見上げる。

シンジは、同様に真新しい白いクロスが張られた壁を見つめる。

「……。」

「……。」

沈黙の時。

「あ、あの…!」

「あ、あのさぁ…!」

同時に、唐突に声を上げる二人。

「な、何?」

「何よ、シンジ?」

同時に、互いに問いかける二人。

「い、いや、あの…。」

「あのさぁ……。」

ちぐはぐな会話である、何とも。

そもそも。

二人でこんな風に一つの部屋、それも密室にいるなどということは、実はこの三年間でも

彼らはそうは経験したことがなかったのだ。

住んでいるマンションにおいては、二人はお互いの部屋をそれぞれ明確に線を引いている。

これは、アスカが何よりも要求したことであり、シンジもそれに対して否やはなかった。

で、ダイニングやらリビングは二人の供用スペースである。

そこでは、休みの日などは二人でテレビやレンタルDVDやらを観たりして、ぶらぶら過ごし

たりもしてきた。

しかし、それらは基本的にオープンスペースだった。

それと比べ、ここは。

二人だけの空間。

二人だけの部屋。

二人だけの…寝室。

「あ、あのさ…。」

アスカが言う。

「な、何、アスカ?」

「あ、あっちの部屋に…て、テレビ、あったわよね?」

「う、うん…。」

あっちの部屋、とは無論、寝室の奥の部屋である。

「あ、あっちで…て、テレビでも…観てようよ…。」

「そうだね、ここでごろごろしててもしょうがないもんね…ははは…。」

……し、しょうがない…ってこともないでしょうけど……。

……ま、まだ…ひ、昼間だもんね…。

昼じゃなかったらどうだというのだ?

シンジは立ち上がって隣の部屋へ通じるドアを開け、入っていく。

アスカもその後に続いて行った。

シンジはテレビのリモコンを手に、部屋備え付けの番組ガイドと睨めっこ。

アスカはソファの位置をテレビの真正面に向くようにずらし、シンジが操作するのを待つ。

「映画とか、ドラマとか…あと、ニュース専門チャンネルとか…色々やってるみたいだけど…

何がいい、アスカ?」

どうやら彼は、最初からチャンネル権を放棄しているようだ。

番組ガイドをアスカに手渡すシンジであった。

「えーーと、どれどれ…?

うーーん…何チャンネルもあるのねぇ…。

ん…?おおっ?!!これよこれ!!」

アスカはガイドを眺めていたが、やがてお好みの番組が見つかったのか、シンジに向かって

言うのである。

「シンジ!二十五チャンネルにして、二十五!!」

「二十五ね…ほい、と。」

シンジがリモコンを操作して、アスカのリクエストしたチャンネルを選択する。

モニターには、何やらいきなり広大な宇宙空間が映し出される。

「映画かい、アスカ?」

「テレビシリーズよ!!

アンタは毎日毎日アメフトだかクラフトだかの部活で帰りが遅いから観たことないでしょう

けど、これ、結構流行ってんのよ!!」

「ふーーん…SFかい?」

「そう!!

『The independent day of the Mars』っていうSFドラマよ!!

火星の独立戦争を描いた一大スペクタクルってやつよ!!

面白いんだからぁ!!」

「へえ…、そりゃ、知らなかった…。」

「でね、でね!!主役の女賞金稼ぎってのがまた、格好良いのよ!!!」

「ふーーん…賞金稼ぎねぇ…。

…独立戦争と、賞金稼ぎと…どんな関係があるんだい…?」

などと言ってる間にもドラマは始まり、アスカはその画面に視線を釘付けにする。

そんな彼女と並んで、ソファに腰を降ろすシンジ。

「なんか…背中が窮屈ね、このソファ。」

文句を言うアスカであった。

「そう…?

うーーんと…ああ、これ、リクライニングするんだよ。

もう少し後ろに倒せばいいんだ。」

「どれどれぇ?

ん?ああ、このレバーを引くのかしら?」

肘置きの下の部分にあるレバーに気付き、それを引こうとするアスカ。

だが、中々に固いらしく、少々てこずっている。

シンジが立ち上がってアスカの隣に行き、代わりにレバーを引いてやろうとする。

「アスカ、手をどけて…。

これだね…。

よいしょっと…ん?

確かに固いな、これは…。」

「アメフトで鍛えんでしょ、アンタ!!

こういう時こそそれを発揮する、発揮する!!」

「はいはい…。」

「“はい”は一回でよろしい!!」

「はいはい…。

よし…一、二の…。」

少し真面目になって力を入れるシンジ。

「三!!」

掛け声とともに、彼はレバーを引いた。

「わっ!!!」

「きゃっ!!!」

この部屋は基本的にツインであり、ベッドも二つある。

しかし、エクストラとしてこのソファも背もたれを倒すことによって、もう一人分のベッドとして

使用できるようになっていたのだ。

シンジが力任せにレバーを引いてしまったために、ソファはリクライニングどころか、一気に

フルフラットのシングルベッド状態になってしまったのであった。

思わずひっくり返るアスカ。

その上に覆い被さるように、これまた倒れこんでしまったシンジ。

期せずして。

二人はベッドの上でシンジが上、アスカが下になった状態で抱き合ってしまった。

「……。」

「……。」

テレビから、何やらレーザー銃の銃撃戦のような音が漏れてくる。

だが。

今の二人にはそんな物音は全くと言って良いほど耳に入りはしなかった。

彼らに聞こえていたのは。

自分自身の心臓の鼓動音。

早鐘を打つような、自分自身の心臓の鼓動音。

それだけだった。

いや。

それに加えて。

相手の息遣い。

相手の息吹。

それを聞き。

それを感じていた。

「……。」

「……。」

アスカは、倒れた瞬間思わずシンジの背中に手を回していた。

シンジもまた、倒れた瞬間思わずアスカの身体を抱きとめようとしてその手を彼女の脇に

添えていた。

「……あ、あの…。」

アスカが微かな声を上げた。

さっきまでの元気な声とは程遠い、か細い、微かな声を。

「あの…シンジ……。」

「な…何…あ、アスカ…?」

シンジの声も、少々上ずっている。

「シンジ…あの…その…す、少し…重い…。」

アスカにそう言われ、思わず両手を彼女の脇から離し、手をついて体を少し持ち上げる

シンジ。

倒れこんだまま、全体重をかけてしまっていたのだ。

「ご、ごめん!」

そのまま、起き上がろうとするシンジだった。

しかし。

その背中にはアスカの両手がしっかりとしがみついていたため、それは為し得なかった

のである。

「ん…もう平気…。」

そう言って、彼の顔を見上げて頬を少し赤らめつつ微笑むアスカ。

その笑顔を見つめながら。

シンジは、突っ張っていた両腕の肘の緊張感を、少しずつ、少しずつ緩め始める。

同時に、近づいていくお互いの顔と顔。

お互いの息が相手の鼻先にかかりそうな距離になった時、アスカが静かに蒼い両目を

閉じた。

続いてシンジもその目を閉じる。

二人は。

キスを交わした。

二人が初めて口付けを交わしたのは十四歳の時。

それは決してロマンティックでも、感動的でもなかったかもしれない。

幼い二人の初めてのキスは、二人にとって淡く、そして少し苦い思い出。

その後、闘いの日々が終わるまで。

二人は二度とキスを交わすことはなかった。

全てが終わった後。

二人はお互いの生を確認しあって、長い抱擁と二度目の口付けを交わした。

その時もまた、幼さの抜けきらない、けれど、一回目とは全然重みの違う、口付けを

交わした。

以来。

二人は幾度かその唇を重ねては来た。

しかし、それは時には冗談半分だったり。

時には、一方的な強引なものだったり(主にどちらが、ということはこの際語るまい)。

時には、真剣な気持ちであったり。

二人は幾度かその唇を重ねて来た。

けれど今。

ここで二人が交わす口付けは。

なぜか、それまでのどの時よりも長く、どの時よりも熱く、そして。

なぜか、それまでのどの時よりも切ないものだった。

「……。」

「……。」

永遠の長さ、そういうものがあるとしたら、今のこの時がそうだったかもしれない…そんな

想いを抱きつつ、二人の長いキスは終わる。

顔を離し、目を開き、お互いを見つめ合うシンジとアスカ。

アスカの腕は、今だにしっかりと彼の背中に巻き付いており。

シンジの腕は、今一度彼女の身体に優しく添えられていた。

「……随分、久しぶりに…キス…してくれたわね、シンジ…。」

潤んだ瞳でアスカが呟く。

「そうだっけ…?」

静かに笑顔を送るシンジ。

「そうよ…。この前がいつだったか…アタシ…忘れたくらいだもん…。」

「…僕は…覚えてるけど…。」

「うふ…ズルイ…。」

「ふふふ…。」

「…ねえ、シンジ…。」

「…何…?」

「……どうして…いつも…その…あ、アタシのこと…抱きしめてくれないの…?」

「……。」

「どうして、いつもアタシに…キスをしてくれないの…?」

「……。」

「アタシは…それを……。」

そこまで言った時、彼女の唇にはシンジの右手の人差し指があてがわれていた。

「それ以上言わないで、アスカ…。」

「……。」

「それ以上言わないで、アスカ。

それ以上のことを言われたら、僕は……。

僕は、君を……。」

「……。」

「…今はまだ……だから…それ以上のことは…言わないで…。」

「…嫌…。」

静かに、だがハッキリとした拒否の言葉を返すアスカ。

「嫌よ…。

どうしてよ…?

どうして、言ってはいけないの…?

シンジ、アタシはね…。

アタシはね、シンジ……。」

その時、彼女は己の両腕に力を込めた。

その華奢な身体からは想像もつかないような力強さで、シンジの身体を抱き寄せるアスカ。

いきなりのことに抗し切れず、シンジの身体はアスカのそれに引き寄せられてしまう。

「アタシはね…シンジ…!

アンタが…好き!!

ずっとずっと…ずっとずっとずっと…ずっとずっとずっとずっと、好きよ!

だから、アタシはアンタに抱きしめられたい。

だから、アタシはアンタを抱きしめたい。

だから、アタシはアンタにキスされたい。

だから、アタシはアンタにキスをしたい。

だから、アタシはアンタに……。

だから、アタシはアンタと……。

アタシは…!」

アスカはしっかりとシンジの身体を抱きとめ、その耳元で言った。

「アタシは…アンタと……一つになりたい!」

シンジはしばらく、そのままじっと動かなかった。

だがやがて、ゆっくりと、しかし力強く、自身の身体をアスカから引き起こす。

彼は言った。

「アスカ…。

僕だって同じ気持ちだ。

同じ気持ちなんだよ、アスカ。」

その言葉に、アスカの双眸に歓喜の波が押し寄せる。

「でもね…。

今は…僕には、まだ…。

自信が…無いんだ。

一人の人間として、君を受け入れ、君に受け入れられ、君を幸せにして行けるっていう

自信が…。

今の僕にはまだ、無いんだ…。」

彼の言葉に、真剣な眼差しに変わるアスカ。

「アタシのことは、誰よりもアンタが良く知ってるはずでしょ、シンジ?

アタシは、アンタに…アンタにおんぶにだっこされるつもりは毛頭ないわ。

幸せにしてもらう…そんな他力本願な気持ちは持ち合わせちゃいないわよ。

二人、一緒なのよ。

二人、一緒にやっていくのよ。

二人、一緒に築いていくのよ。

二人、一緒に幸せになっていくのよ。

自信?

そんなもん、どこの誰にあるってえのよ?

アンタは真面目過ぎんのね。

そこがまた、アンタの良い所なんだけどさ……。

ねえ、シンジ。

三年前だって…あの頃だって…一体、どこの誰が自信に満ちて生きていたと思う?

アタシ?

アンタ?

ファースト?

アンタのパパ?

ミサト?

リツコ?

……。

誰も…。

誰も、何かしらの不安を抱えて、生き続けていたのよ。

一生懸命ね。

それを、一体誰が非難できると思う?

出来ないわ。

その場にいたアタシたちだから知ってる。

誰も、アタシたちを非難することなんて出来ないって。

……。

ねえ、シンジ。

アンタ、今はまだ自信が無い、なんて言ったけど…。

そんなもん、いつになったって、出来やしないってアタシは思うわ。

他人を幸せにする自信?

そんなもん、どこの誰にあるってえの?

アタシには、無いわ、そんなもん。

アタシはね。

アンタと一緒に幸せになる道を探して行きたい。

アンタと一緒に幸せになる道を歩いて行きたい。

アンタと一緒に幸せになる努力を続けて行きたい。

…そう、思うだけ。

そう思うだけ、なのよ……。」

「…アスカ…。

君はやっぱり、アスカなんだね。

今も昔も。

そして恐らく、この先もずっとずっと。

僕の大好きなアスカが、ここに、いる…。

君のそんな前向きさが…僕は、大好きなんだって…改めて今、そう思う。

僕が好きになった人は、世界で一番すばらしい人なんだって…改めて今、そう思う。

……。

自信…か。

確かに…そんなものが、一体いつ僕のうちに築かれて行くのか…僕にだって分かりは

しなかった。

でも。

そんな前向きな君だからこそ、僕は僕として君に真正面から向かえる自信ってものを…

持ちたいって、ずっと思ってた…。」

「…それでアンタ…高校に入った途端、アメフトなんて始めたんでしょ?」

「…ばれてた?」

「バレバレよ!

このアタシの目は節穴じゃないんだからね。」

「そっか…。うん、まあそういう気持ちもあったのは確かだけど…。」

「…その分、アタシはうんと心配したんだぞ?!!

今だって、うんと心配してんだぞ?!!

あんな格闘技なんか…アンタには向いてないって思って…。

怪我でもしたらどうしようかって思って…。

何度か、止めさせようと思って説得も試みたけど…。」

「ふふふ、そうだったね。でも、こればっかりは僕の気持ちは変わらなかった。」

「そうみたいね…。

…つまりそれって、ある意味ではもう、一つの自信じゃないの?」

「え?」

「アタシがどうのこうの言っても、アンタは自分の考えを曲げなかった、変えなかった。

それっていうのは、アンタが自分の選択に自信があったからじゃないの?」

「…そうかな…?」

「そうよ。

…この、頑固者…。」

「あ、それはひどいな…。腹が据わってるって言ってよ。」

「はいはい。」

「アスカ、“はい”は一回でよろしい。」

「あら?」

「ふふふ…。」

「うふふふふふ…。」

「ははははは…。」

「あはははははは…。」

二人は笑い出した。

爽やかに、笑い出した。

ひとしきり笑った後、シンジが起き上がり、ついでアスカも半身を起こす。

「ありゃりゃ、ワンピースが皺になっちゃった!」

アスカである。

「知らない人が見たら、こんな真昼間から何をしてたんだって、そう思うかもね?」

シンジである。

「残念ながら、まだ何もしてないんだけどねぇ。」

アスカがウインクしてそう言った。

「何もって…キスしたこと、忘れたの?」

そう言ってシンジが笑顔で顔を近づける。

二人は軽く唇と唇を触れ合うと、笑顔でお互いを見つめ合った。

しばらく黙って見つめ合う二人。

やがて、アスカが少し俯いて視線をそらし、シンジに言う。

「…あのね…シンジ…。」

黙って、彼女の言葉を待つシンジ。

「あのね……。

今夜…この部屋で…って言うか…隣の部屋でね…。」

「……。」

「……一緒に…寝ようね…。

お、同じベッドで……。

そ、それで……。」

俯いて、真っ赤になるアスカであった。

「うん…今夜…そうしよう…。」

シンジが優しく、そして静かに答えた。

アスカの今回の旅の目的は、この時点でほぼ達成の目途が付いた、と言えよう。

いや、しかし。

無論まだ、完遂ではない。

…………………………………………………………………………………………………………

「空飛ぶ豪華ホテルとはよく言ったもんだわ、こりゃ。」

そんな独り言を口にしながら廊下をぶらぶら歩いているのは、“広い海”こと廣井有美である。

彼女は今、客室部の上階部分に位置するフロアに来ていた。

スゥイートが三室、ロイヤル・スゥイートが一室あるフロアである。

ロイヤル・スゥイートは、余程のことが無い限り使用することはないらしいが、スゥイート三室に

ついては、今日のフライトにおいても誰かが使っているようであった。

長い廊下の角を曲がった所で、彼女は足を止める。

ちょうど今、そのスゥイートの一室に“誰か”が入るところだったのだ。

「あれはぁ…。」

その男女の後姿を興味津々の表情で見送る有美。

「…リエちゃんじゃない…。

で、あっちの男はっと…確か……。

そうそう、未来電機産業株式会社の御曹司…次期社長候補にして現・常務取締役よね…。

女に手が早いって有名な。

……この船の電子機器の大半はあの会社が納品したんだったっけ…。

ああ、そう言えば、この秋からのあの会社のイメージガールを、リエちゃんがするとかしない

とか……。

ふんふん…ま、お互いの利害が一致したって訳ね…。結構なこって…。

まあ、大人同士の世界のこってすから、私にゃどうでもいいけどさ……。」

彼女言う所の“大人同士”の二人が室内へ消えてからたっぷり十五秒の間を取った後、

有美は再び歩き出す。

「…いかんなぁ…。

取材でこの船に乗ってるって私が、“どうでもいいけど”は無いわよね…。

普通なら、スクープってやつじゃんか…。」

ちろっと可愛い舌を出しながら、しかしリエらがいるスゥイートの扉の前をさっさと通り過ぎる

有美であった。

スゥイートルームの三室は、それぞれが角を生かした配置になっており、それぞれの入り口

からは他の部屋の入り口が見えない構造になっている。有美は廊下の角を曲がった。

そこで、彼女はピタリと足を止める。

その先の、別のスゥイートの扉の前に、背広姿の男が三人ほど所在無げに立っていたの

である。

「……。」

一瞬、そのうちの一人と目と目が合う有美。

だが、次の瞬間には彼女は“にこっ”という音が聞こえてきそうな笑顔を作って見せると

再びスタスタと歩き出す。

三人の男たちは、ゆっくりと向きを変え、近づいてくる有美が通り過ぎやすいように廊下の

スペースを空けてやる。

しかしその動きには、一部の無駄も隙も無かった。

「……。」

有美は三人の前を笑顔のまま通り過ぎた。通り過ぎる時、男の一人の背広の左肩下辺り

が、微妙に持ち上がっているのを彼女は見逃さなかった。

……S.P.…護衛官ね…。

この船には、この飛鳥就航に“多大なる尽力”を尽くした現職の運輸大臣が招待されて

乗っている。

産業界、財界との癒着が取り沙汰され続けてきたにもかかわらず、今もって大臣職に

あるどころか、次期総理大臣有力候補とすら目されている人物である。

当然、敵も味方も多い人物であろう。

そもそも、一民間企業からの招待を現職でありながら堂々と受けるというその図太い

神経が、味方側から見れば“頼もしきドン”に見え、敵側から見れば“無神経な守銭奴”

として映っていることだろう。

瞬時にそんなことを考えながら、有美はさっさとその大臣がいると思しき部屋の前を通り

過ぎていった。

「…やっぱり、このフロアは一般人の出入りを禁止すべきじゃないか?」

彼女の背後で、そんな言葉が小声で囁かれるのを有美は聞いた。

「…仕方なかろう…。他のスゥイートにも客はいるんだし…なにより、そういうのをウチの

先生は好まんからな…。」

「その分…俺たちの気苦労が絶えない…ってことなんだけどなぁ…。」

「愚痴るなよ…それに見合った…いや、それ以上の報酬はもらってるんだ…。」

有美は今一度角を曲がる。

最後のスゥイートの前を通ることになるのだが、ここでは先の二室のような人の出入り

にも、その部屋を警備するS.P.にも出くわしはしなかった。

「…でも…。」

彼女はその前を通過しながら苦笑する。

「でも、政、産、ときたら…当然次にはこの部屋には財…のお偉いさんが泊まってるんで

しょうねぇ。

あはははは、冗談じゃなく、この船が落っこちたら日本は結構な大騒ぎになるのかもね。」

彼女はそんな不謹慎なことを考えながら、スゥイートのフロアを降りようとしていた。

その時。

彼女の前方、正確には下方から作業服姿の男が二人やって来るのが見えた。

「……。」

苦笑を引っ込めて、無表情を取り繕う有美。

階段の踊り場で、一人の女と二人の男がすれ違う。

男たちは有美にチラッと視線を投げかけはしたが、それも一瞬のこと、確かな足取りで階段を

上っていった。

有美はそのまま階段を下まで降り切る。

そして、ゆっくりと後ろを振り返った。

既に階段上には男たちの姿はなかった。

「……。」

見えなくなった男たちの背中を、まるで射るような眼差しで見上げる有美の視線は、レストラン

でアスカやシンジを前にしていた時のそれとは、まるで別人のもののような厳しさを見せていた。

…………………………………………………………………………………………………………

「あら、アスカちゃん!」

アスカはそう呼びかけられて、後ろを振り返った。

「あ、有美さん…。」

正直言ってその時のアスカの表情は、何とも複雑なものであったと言えよう。

知り合いに逢えた嬉しさ、というよりはむしろ、ウルサイ人に見つかっちゃった…という方の

比率が高いような、そんな表情。

二人は、船内のスーベニール・ショップで出くわしたのである。

飛鳥は順調に飛行を続け、出発から早や三時間半以上を経過していた。

今は京都市上空を南下中である。

「あれ、一人?

彼氏はどうしたの?」

ニコニコしながら近づいてきて有美はそう尋ねる。

「ああ、シンジですか?

アイツ、雑念を取っ払うとか何とか言って、たった今フィットネス・ジムへ行ったの。」

「雑念?」

「ああ、いえ、こっちのこと…あははははは…。」

「ふーーん、こんな可愛いお姫様を放ったらかしにして、一人で?

なんちゅう勿体無いことをするヤツじゃ!」

そう言っておどけて見せる有美であった。

「でも、アタシも一人でここのショップをぶらぶら見てみたかったし…。

いつもいつも二人一緒でなきゃ嫌…なんて思ってないから…アタシたち。」

アスカは目の前に“これでもか!”とぶら下がっているキーホルダーを一つ一つ手にとって

眺めながらそんな答えを返した。

飛行船を形取った色鮮やかなキーホルダーを眺めつつ……有美から何の返事・反応も

無いことに気付いて、ふと彼女の方をアスカは振り返った。

そこには。

まじまじと彼女の顔を見つめている有美の顔が至近にあったのである。

「わっ!!」

まさかそんな至近距離に他人の顔があるとは思っていなかったアスカは、思わず声を上げて

しまう。

しかし。

「偉い、偉いわ、アスカちゃん!!」

そんなアスカのことなどお構いなく、有美は大声を上げていた。

「な、何?」

「偉いわ!!うんうん、そうよ、そうなのよ!!

あなた、よく分かってるわ!!

今時の子供たちなんて、日がな一日二人してべったりばったりくっついちゃって、もう!!

鬱陶しいったらありゃしない!!」

「ば、ばったり…?」

「そうよ!でも、そんなのは、オトコをつけ上がらせるだけなのよ!!

必要な時にそばにいる、逢いたい時に逢える、一緒にいたいと思う時は一緒にいる!!

それで充分なの!!

何でもかんでも二人一緒じゃなきゃ嫌、なんてのは根本的に考え違いをしてるのよ!!

単なる依存だけじゃ駄目なのよ!!

そうよ、そうよ!!

アスカちゃん、あなたは偉い!!よく分かってるわ!!」

……そんな大袈裟なもんじゃ…ないんだけどなぁ……。

冷や汗を感じつつそう思うアスカ。

「私、本気であなたのこと気に入ったわ!!

よし!!一杯おごるわ、来なさい!!!」

言うなり、彼女の白く細い手首を掴んで歩き出す有美であった。

「ち、ちょっとちょっと…あ、アタシは…み、未成年よっ!!」

「固いこと言わないの!!!」

「そういう問題じゃ…ないわよ!!」

しかしアスカの抵抗空しく、二人はラウンジのバーコーナーへと辿り着くのであった。

で、何のことはない、せっかくだからということで、アスカはちゃっかりジン・トニックなんて

ものをおごってもらっていたりする。

「うひゃぁ、このジントニ、結構キツいわ!」

一口飲んでそんな感想を口にするアスカ。

結構キツいが…かと言って飲むのをやめるつもりはなさそうである。

「どれどれぇ…?ん…。そう?こんなもんよ…?」

有美もアスカ同様ジン・トニックを注文していたので、自分のグラスの中身を少し飲み、

軽くそう言ってみせる。

「……で、どうなんですか、取材は順調なんですか…?」

アスカが有美に尋ねた。

どうせこっちが黙ってたって、何かしらしゃべり出すんだろうけど…などと思いながら。

有美はウインクして見せながら答える。

「それなりにね。色々、面白いもんを見て回らせてもらったわ。」

「それはそれは…。」

「でも、いきなりはオープンにできないようなネタが殆どだったわ、今までの所は。

まだまだ、これからよっ!!」

「それはそれは…。」

「で…考えてもらったかしら…?あなたたち二人の取材ってやつ…?」

「…取材って…アタシたちはどうすればいいの?」

「何、お話しを聞かせてもらえればそれでいいのよ。

お気楽に構えてていてもらえばそれでOK。」

「…お気楽…って……。」

「ふふふ…ま、時間はたっぷりあるから、ホントに彼氏…シンジ君って言ったっけ…?

彼と相談しておいてよ。出来れば写真付きの取材でね!!」

「はあ……。」

そんな会話を交わす間にも、二人はジン・トニックを飲んで行く。

有美は相当アルコールに強いのか、まるで炭酸飲料でも飲み干すが如き勢いでさっさと

グラスを空にしてしまい、追加を頼む。

アスカの方は、まださほどアルコールには慣れていない。

こう見えてもと言うか、見ての通りと言うか、彼女はかなり真面目な学生生活を送っており、

喫煙は無論一切やらないし、お酒もめったなことが無い限り口にはしないのだ。

それでもトニックの口当たりの良さも手伝ってか、アスカは手にしていたジン・トニックを有美の

倍の時間をかけてではあるが、全て飲み干し、彼女に倣って更にもう一杯を頼む。

「ふうっ!!美味しい!!」

ほんのり頬を赤くさせてアスカが言った。

「そう?!!良かった、おごった甲斐があるってもんよ、あはははは!」

答えて、有美が笑う。

「あはははは、ご馳走様!!」

「どう致しまして!!」

アスカの笑顔を眺めていた有美だったが、ふとその視線をアスカの背後の方に泳がせる。

そこはちょうどラウンジの入り口の辺り。

その向こうを足早に横切って行く人物の動きを、彼女の視線は捉えていたのだ。

それは。

作業服姿の男たち。

しかし、先ほどスゥイートのフロアから降りてくる時にすれ違ったのとは別の二人の男たち

だった。

「……。」

瞬時、引き締まった表情を作る有美。

だが、男たちの姿が垣間見えたのは一瞬のことであり、彼女もまたすぐにもとの笑顔に

戻ってアスカに視線を送る。

アスカは彼女の顔つきがその瞬間に二転していたことには気づかなかったようだ。

「ねえ、アスカちゃん…。」

「何ですか、“広い海”さん?」

アルコールの為せる技か…どうやら少々陽気になったようなアスカであった。

「あはははは、酔ったぁ?」

「アタシが?このアタシが?この、惣流・アスカ・ラングレーであるアタシが?

酔った?お酒に?あはははははははは、そんなこと、あるわけ、ないじゃ、ないです

かぁ!!」

……酔ってるわ、少し…。

などと思う有美である。

「いえね、アスカちゃん…。

取材とは別に…ちょっと、聞いてみたいなって思ったのよ…。」

「何をですかぁ?」

「あなたとシンジ君のこと…。」

「アタシとあの馬鹿シンジのことぉ?」

「これこれ、自分の彼氏を掴まえて馬鹿はないでしょ、馬鹿は。」

「あははははははは、有美さんはアイツのこと知らないからそんなこと言うんですよぉ。

アイツ、ほんっとに、馬鹿なんですから、あははははははは。」

……酔ってるわ、わりと…。

などと思う有美である。

「そうねぇ、私はシンジ君のことはおろか、あなたのことも殆ど何も知らないわ。

ね、良ければ聞かせてよ、二人の馴れ初めとかさぁ、色々と。」

「どうしてですかぁ?そんなこと聞いてどうするのぉ?」

「個人的興味よ!!取材とは無関係!!

だって、知りたいじゃない。

あなたみたいな可愛くて、キュートで、綺麗で、美人で、清楚で、可憐で、純真そうな、

その他諸々…そんな女の子とさ、シンジ君みたいな“それなりに”格好良い男の子の

カップルなんてのが、どうやって誕生したのかってさ…。

今後の参考のためにも知りたいじゃない。」

「あはははははは、駄目駄目、駄目ですよ。

アタシたちのは何の参考にもなりゃしないですよぉ。」

「どうしてぇ?」

「だってだって、あはははははは。

アタシたちの馴れ初めなんて、全然普通じゃないんだもん!!あはははは!」

「あらまぁ。」

「ホント、あらまぁってな感じですよ。

これはもう、他人に聞かせられるようなことじゃないんですよ、あはははははは!!」

「…そう、残念ねぇ…。」

「でも、でもね、有美さん。これだけは言えますよ、ホント。」

「えっ?何、何?!」

「アタシはねえ…アタシはですねぇ…あははははは、アタシ、アイツのことが、あの

馬鹿シンジのことが、だーーーい好き!!世界中の誰よりも、何よりも、一番、

だーーーい好き!!あははははははは!!!」

……酔ってるわ、かなり…。

などと思う有美である。

「アスカちゃん…あなた…笑い上戸だったのね…。」

「如雨露なんてここにはないですよぉ、あはははははは!」

……酔ってるわ、完全に…。

などと思う有美である。

「そう…。そっか…、うんうん。よっく分かったわ、アスカちゃん。」

「あ、分かっていただけましたぁ?あはははは。」

「分かったわ、私。今度あなたにお酒を勧める時は、もう少しアルコール度が低い種類

のものにするわ。」

「そうですかぁ?あははははははは。」

「はあ……。」

何だか、端から見ていると結構気の合っているような二人なのである。

その後、二人は一時間ばかりの間、ああでもない、こうでもないとお話しを続けた。

もっとも、有美にしてみればアスカがどれだけ自分の話の内容をきっちり理解していたか、

また覚えているか、となると甚だ不安だったりしたのだが。

まあ、そもそも理解していなければいけないような、或いは覚えていなければいけないような

内容の話だったか、と尋ねられれば、“その辺はまあ…”というような程度のお喋りなのでも

あったが。

少なくとも有美が“良かった”と思うのは、アルコールの力を借りたとはいえ、この一時間で

アスカがかなり自分に対して打ち解けてくれたくれた、ということであろう。

結局、自分が四杯、アスカが三杯のジン・トニックを消費した結果であるが。

一回りプラス一歳の歳が離れている二人だったが、彼女たちは友達のように大声で笑い、

話したのである。

「あれ?もうすぐ四時かぁ…。」

細い左腕を目の前に掲げて、腕時計を見るアスカ。

「えへへへへ、これはですねぇ、有美さん。」

聞かれもしないのにしゃべるアスカであった。

「この腕時計はぁ…シンジが初めてアタシにくれた誕生日のプレゼントなんですよぉ…。

えへへへへへへ。」

「あらまあ、ご馳走様ねぇ。」

「えへへへへ、バンドの裏にぃ…“まい・すぅいーと・はあと”なんて、書いてあったりして…。

あはははははは、あの馬鹿ったら、結構やるもんでしょ?!あははははは!」

「…馬鹿はおよしなさいってば……。」

苦笑交じりに言う有美だが、その眼差しは、優しくアスカの面に注がれていた。

「さてっと。部屋に戻んなくちゃ…。アイツも四時に戻るって言ったもんねぇ。

部屋の鍵はアタシが持ってんだから、アタシが先に帰ってあげないと、アイツ、部屋に入れ

なくて困っちゃうもんねぇ。ホント、世話のかかるヤツだわ。」

アスカはそう言って立ち上がろうとする。

しかし、一時間以上座りっぱなしだった上に、ジンが結構回っていたため、思わずよろめい

てしまう。

「おっと、危ない、危ない!」

有美が素早く立ち上がり、彼女の身体を支えてやる。

「あらら…あははは、有難うございます、“広い海”さーーん。」

「あなた、大丈夫?」

「何がですかぁ?あははははは…。」

「駄目、ね。」

「はい?」

「駄目だわ、こりゃ。」

「はい?」

「さ、私の肩に掴まって…そうそう、さあ、行きましょ。

部屋はどこ?」

「あらぁ?送ってくれるんですか?それはそれは、どうも有難うございます。

ええっと…何ですかぁ?」

「…部屋はどこでしょうか、お姫様?」

「お姫様…良い響きの言葉だわ…。」

「こほん…部屋はどこ?」

「F三○七号室でぇす。」

「はいはい。」

「“はい”は一回でよろしい…なんちゃって…あははははは。」

「はあ……飲ませない方が良かったのかしら…?」

「美味しかったですよぉ。」

「良かったわねぇ。」

「うん!!」

ニコニコしながら無邪気に頷くアスカの顔を見て、有美はふっと笑みをこぼすのだった。

「F三○七と…ここね…。

さ、アスカちゃん、鍵を出して。」

「はあい。」

有美はアスカを連れて彼女らの部屋へやって来た。

シンジはまだのようである。

アスカが手にしていたバッグからキーカードを取り出して、センサーにインサートする。

カチッという音とともにドアロックが解除された。

「さ、大丈夫、アスカちゃん?」

そう言いながら今だアスカに肩を貸して、彼女を室内へ連れて行く有美。

「ほお。これがファーストクラスかぁ。

私なんてエコノミーだもんねぇ、この差はおっきいわ、やっぱ。」

などと室内を見渡しつつ愚痴る有美であった。

そんな彼女にお構いなく、アスカは有美の肩からぽーんと己の手を弾かせると、ベッドの

上に仰向けに飛び込む。

「ふあーーー、いい気持ちぃ。」

とか何とか言いながら。

「ああ、駄目よ、アスカちゃん、そのまま寝たりしちゃ。

ワンピースが皺になっちゃうわよ。」

注意を促す有美に対し、既に両目を閉じた状態でアスカが答える。

「いいんですよぉ。

だってもう、さっきこのワンピース、一度皺くちゃになっちゃったんだもん。

シンジがいきなり乗っかってくるから。」

……なぬぅ?!!!

両目を見開いてしまう有美であった。

「シンジったら、もう……あははは…自信なんて…アタシだって…ないわよ…。

だからさぁ…いいじゃん……ね…?」

最後は独り言から寝言の範疇へ移ろっていたと言えるだろう。

アスカはそのまま、静かな寝息を立て始めてしまったのである。

「あらまぁ…。」

ベッドの上にワンピース姿のまま大の字になって寝てしまった十七歳の少女を見つめ

ながら、ぽりぽりと頭を掻く有美。

「…この娘がこんなにお酒に弱いとは…知らなかったわ…。」

さて、どうしたものかな、と思って室内を今一度ぐるりと見渡す有美。

このまま自分が出ていってしまうと、部屋はオートロックがかかってしまい、“彼氏”で

あるシンジが戻ってきた時に入れないであろう。

少なくとも外からシンジがチャイムを鳴らしても、アスカがすぐに起きるとは思えない。

「…待ってなきゃいけないってこと?私が?彼を?」

今だにぽりぽりと頭を掻きつつ、独り言を呟く。

「…なんか、それって情けない状況よねぇ…。」

…かも知れない……。

だが、そんな彼女の杞憂はすぐに解消されることとなった。

開け放された部屋の扉の所から、シンジその人が顔を覗かせたのである。

「あれ?」

シンジの驚きの声。無理も無い。アスカがベッドの上で少なからずお行儀の悪い格好で

眠っており、そのそばに先ほどレストランで遭ったばかりの女性が立っていたのだから。

「ああ、シンジ君!!よく帰ってきてくれたわ!!」

心底嬉しそうな声を上げる有美であった。

「は、はあ…?あの…?」

「しーーーっ!」

自分は第一声で大声を上げておきながら、シンジのさほど大きくない声を制する有美。

思わず声のトーンを下げる律儀なシンジである。

「あの…?一体全体…?

確か…“広い海”さん…でしたよね?」

「有美でいいわ。

話せば長いことながら…。」

長くはないと思うのだが。

「…長いことながら、私とアスカちゃん、二人で少々お酒を飲んでてね。

それで彼女…うふふふふ、可愛らしくもこの有り様なのよ。」

そう言って、パチっと片目をつぶってみせる有美の顔を見て、どきっとしてしまうシンジで

ある。

「は、はあ…アスカ…お酒、飲んじゃったんですか…あんまり強くないのに…。」

「そうみたいねぇ。あんまりどころじゃなく、丸っきり慣れてないみたいねぇ。」

「ええ…僕たち…あんまりお酒なんて飲みませんから…。」

「僕たち…か…。」

有美はそう言って微笑むと、シンジの隣に歩み寄ってくる。

こういう時、訳も無く緊張してしまうのが、シンジのシンジたる所以である。

有美はシンジのすぐ脇に立ち止まり、にっこりして彼の顔を眺める。

シンジ、直立不動…。

有美はしかし、その視線をベッドの方、つまり、つつましい寝息を立てている“お姫様”の

方に向けると、静かに言うのであった。

「…シンジ君…。彼女を…よろしくね……。」

つられてシンジもアスカの方を見た。

……よろしくねって…勿論、僕はアスカのことをこの先ずっと……。

そう思って今一度横を振り向いた時。

そこにはもう誰も立ていなかった。

「あれ?」

小さくそう言って、彼は後ろを振り返る。

そして、軽く手を振って笑顔で部屋を後にする有美の姿を見るのであった。

…………………………………………………………………………………………………………

飛行船は伊勢湾に沿って名古屋上空に達し、やがて愛知県を抜けて静岡県上空に入った。

それまでの一時間ほど。

シンジは何をしていたかと言うと。

何もしていなかった。

アスカは気持ち良さそうに文字通りベッドの上で大の字になって眠っていた。

我が子の寝顔はいつまで見ていても見飽きないという。

確かに親にとって、とくに生まれたて自分の赤ん坊の寝顔というのものは、いつまで見続けて

いても、全然見飽きるということはないらしい。

だが。

恋人の寝顔というものは。

飽きる。

少なくとも、今のシンジはそうであった。

最初のうちは隣のベッドに腰を降ろして、何となくアスカの幸せそうな寝顔を見ていた彼で

はあったのだが、やがて静かに立ち上がると隣の部屋に移動したのである。

そしてそこで、ボリュームを絞りに絞ってテレビを眺めていたりした。

「刑事ものの映画かぁ…。

ふんふん…ニューヨーク市警の女刑事が犯人を護送して日本にやって来る…。そして

そこで……ふんふん。

ま、暇つぶしに観てるかぁ…。」

などと、適当なプログラムを選択してぼおっとしているシンジであった。

その映画がいよいよ佳境に入ろうかという絶妙のタイミングで、隣の寝室からアスカの

声が聞こえてきた。

「…うーーん……。シンジ…いるのぉ…?」

……こ、これから面白くなるってところだったんだけどなぁ!!

だが、ここでもたもたしていては嵐が吹き荒れる。

それも自分の反応が遅れれば遅れるほど、規模が増大する嵐が。

……続きは、また今度レンタルして、観よう。

思い切りの良い判断を下すシンジであった。さすがはスポーツマン。

「ああ、いるよ、アスカ。」

そう答えながらテレビのスイッチを切り、ソファから立ち上がってシンジは寝室へと向かう。

アスカはまだベッドの上に仰向けになったままだった。

首だけを捻ってシンジの方を見ている。

「ふぁ…アタシ…眠っちゃってたのね…。」

僅かな笑顔を湛えてそう言うアスカの格好は、白いノースリーブのワンピース姿で、ベッド

の上に大の字なのである。

シンジにとっては結構きわどい姿に映ってしまう。

「…う、うん…一時間…く、くらいかな…。」

少々どぎまぎして答えるシンジ。

普段家の中で見慣れているアスカなのに、やはり場所が違うと雰囲気が違って見えて

しまうということか。

「そっか…一時間も…。」

だが、そんなシンジの様子も気に留めず、アスカは呟いた。

そして。

「ん、シンジ…。」

そう言って彼女は寝たままの姿勢で両手を宙に突き上げる。

引っ張り起こせ、という意味であろう。

今の彼女に、一体誰が抗し得ようか?

「……。」

シンジは無言でベッド脇に歩み寄る。

少し屈んでアスカの上半身の上に身体を近づける。

目と目を見合わせた二人は、黙って、じっとしていた。

やがて、アスカがその手を曲げてシンジの背中にまとわりつかせ、シンジがゆっくり

とアスカの背中に手を回す。

しかし彼はそのまま彼女を引き起こすので無く、逆に彼の方から彼女の上に静かに

沈み込んで行った。

それを不自然なく受けいれるアスカ。

二人は今日三度目の、キスをした。

が。

「アスカ……。」

「…何、シンジ…。」

「…お酒くさい…。」

「……。」

アスカの目論見、未だ完遂ならず。

シンジは困ったような笑顔で身体を引き離し、アスカも照れたような顔つきで身体を起こす

のであった。

「えへへへへ…少し、飲んじゃったの!」

「聞いたよ、有美さんから。」

「あはははは、あ、そう?」

「まったく…。アスカはあんまりお酒、強くないんだから、心配かけないでよね。」

「おおっ?!!生意気なことを言うのは誰かと思ったら、鈍ちんシンジ君ではありま

せんか?!!」

「何だよ、それは?」

「えへへへへへへ…ごめんごめん……。

そっか、心配?やっぱり?」

「当たり前だろ?」

「そっか、そっか…うんうん…。

よし、決めた!!」

「な、何?」

「大体、普段アタシはアンタがアメフトやってて怪我しないか、大丈夫かなって、いつも

いつも心配してたんだから。

そっか。

アタシがお酒飲むと、シンジがアタシのことを心配してくれるのか…。

そっか!!

よし、これからアタシ、定期的にお酒飲んで、シンジに心配してもらおう!!」

「何、無茶苦茶なこと言ってんだよ?!!」

「決めたわ!!」

「あのねぇ!!」

アスカは気づいているのだろうか?

定期的にお酒など飲み始めたら、身体の方が酒に慣れてきて強くなるかもしれない、

ってことに…。

強くなったら…シンジもさほど心配はしなくなるだろう、ってことに…。

「決めたわ!!」

そうかい、そうかい。

…………………………………………………………………………………………………………

有美は、物陰に隠れながら移動していた。

後を追っているのだ。

先ほどから何度と無く目にした作業員風の男たちの後を。

「はあ…やっぱりこんなミニのタイトスカートなんかじゃなく、パンツスーツにしてくるべき

だったわね…。好き嫌いの問題じゃなかったか…。」

そんな独り言を呟きつつ、追跡を続ける。

二人の男は、さりげなく、しかし周囲に確実に目を配りながら歩き続ける。

彼らに悟られずに後を追うのは容易なことではなかった。

「でもねぇ…。私は、私のこの細い、ほっそーいおみ足が自慢なんだもんねぇ…。」

およそ緊張感のない独り言ではある。

しかし、彼女の表情は真剣そのものだった。

「顔よりも足に自信あり、よね。うんうん。」

勿体無いことを言う有美である。

「でも、もっと自信があるのは……。」

彼女もまた周囲に目を配りつつ、付かず離れずの距離を保ちながら男たちの後にぴったり

と張り付いている。

見事な尾行術と言えよう。

「もっと自信があるのは…ここよ!」

そう言って、彼女は自らの頭を二度ほどポンポンと叩く。

「ん…?」

有美は足を止めた。

男たちが周囲を見回して、素早くある部屋へと滑り込んだのである。

「…貨物室…?」

その部屋を確認して、有美は呟くのであった。

……少なくとも私の見た限りでは…。

有美はラウンジに戻っていた。

ソファに腰を降ろし、物思いに耽る。だがそれは、普通の妙齢の美人が思い悩むような

素材からはほど遠いものであったと言える。

……少なくとも私の見た限りでは、作業員風の男たちは六人はいたわね…。

……恐らく、それ以外にもまだいるんでしょうね。

……それも必ず二人一組で歩いてた…。

……そして一人が必ず、何やら道具箱のようなものを小脇に抱えていたわよね…。

……さっきの二人は貨物室へ入っていった…と。

……貨物係の乗務員ならともかく、何で作業員が貨物室へ行くのかしら?

……はてさて…?

彼女は立ち上がり、一旦頭を冷やそうと自室へ向かう。

エコノミーのシングル、それが彼女の部屋E二七八号室である。

シャワーでも浴びてさっぱりしよう、そう思ったのだ。

途中、スーベニール・ショップの前を通り過ぎる。

相変わらずの人だかりのその店内をチラッとのぞいて見ると。

「あら?」

彼女の視線の先に、カップルがいた。

アスカとシンジである。

二人とも、笑顔で何かしら話し合いながら、色々な品を手にとっている。

あれから、“アスカの酔い覚ましのために”というシンジの一言のもと、散歩がてら部屋を

出てぶらぶらしつつ、ここへ舞い戻っていたのだ。

楽しそうに笑いながら、品定めに興じる十七歳の青年と乙女。

「……。」

足を止めてそんな二人の姿を見つめている有美。

その視線は厳しく。

その表情は凛々しい。

やがて彼女は歩を進め始める。

一言、呟きながら。

「私が…守るから…ね…。」

自称フリーランスのライター、廣井有美。

彼女の闘いも、既に始まっていたのである。

有美は自室へ向かう廊下で、一人の若い女性とすれ違った。

足早に彼女の脇をすり抜けるようにして去る女性。

片手で口元を抑えているのは、嗚咽をこらえているからのようにも見えた。

その後姿を眺めて呟く。

「あら…。今のは脱アイドルを目指すリエちゃん…。

えらい勢いだったわねぇ…。

……スゥイートでのお仕事は……もう、終わったのかしら?」

なんとも意地の悪い言い草だ、と自分でも思う。

しかし、綺麗ごとだけでは済まされない世界に身を置いているリエも、産業界のエリート御

曹司も、そして自分も…或いは大臣やら財界の大物であっても、タフネスは必需品なのだ。

生き馬の目を抜く、などという表現は好きではないが、確かにそれと遜色ないどろどろと

した世界で自分たちは生きて行こうとしているのだ。

嫌な目に遭ったからといって、泣いて逃げ帰るようでは到底勝ち残れはしないのだ。

「綺麗なものだけを見て…綺麗なことだけを感じて生きていけるなんて…そんな甘い人生

はあり得ないわ…。」

有美はE二七八号室のドアを開けて室内に入る。

手早くスーツの上着を脱ぎ、スカートもさっさと下ろしていくと、ブラウスも下着も脱ぎ散らか

してあっという間に全裸になり、バスルームへと向かう。

シャワーを浴びながら、彼女は身も心もリフレッシュしていく自分というものを感じていた。

バスルームに備え付けの、全身が写る鏡が見る見るうちに湯気で曇って行くが、そんな

曇った鏡を通してみても、自分の身体が、女でありながらも鍛えられたスレンダーで筋肉質

に近いものであることが見て取れる。

有美は両手の平を、自分の決して豊かとはいえない胸の膨らみの下にあてがってみる。

「…色気…ないわよねぇ、我ながら…この身体は……ふふふ…。」

シャワーを頭の天辺から浴びながら、しばしそんなことを思う有美であった。

「ふふ…胸なんて…あの、アスカちゃんの方がアタシなんかよりよっぽど立派そうだった

もんね…。」

この時、アスカのことを思い、併せてシンジのことも思い出し、二人のことを思い描く有美。

無言になり、今一度シャワーに身を任せた後、バスタオルに身を包んで室内に戻る。

ベッドに腰を降ろした有美は、シャワーで火照った身体を少し冷まそうと、じっとしていた。

そして。

思う。

「綺麗なものだけしか見ないで、綺麗なものだけしか感じないで生きて行けたら…。

それは幸せかもしれない…。

あの二人は…あの二人は今…何を見ているのかしら…?

アスカちゃんと、シンジ君は?

もし彼らが、もし彼らが……。

今という時、今というこの時…二人で綺麗な何かを見ているのなら…二人で綺麗な何かを

追い求めているのなら……。

あの二人には…。

せめてあの二人だけには……。

見せてあげたい…追わせてあげたい…。

いつか彼らが、その後で…汚れたものを見て、汚れたものを感じて、汚れた世界に身を

置くことになるとしても…。

今は…今という時だけは…。

いえ、今だからこそ……。

三年前ではない…今だからこそ……。

あの子たちには、綺麗なものを追わせてあげたい。

そのためにも、私は…私は……。

私は、あの子たちを守ってあげたい…。」

額に張り付いた前髪を右手の人差し指の背で軽く押し上げながら、有美は一人呟くので

あった。

…………………………………………………………………………………………………………

午後六時四十分過ぎ。

飛び立って既に七時間半以上を経過し、飛鳥は夕闇の中にすっかり包まれた霊峰・富士の

稜線を左に見ながら東進を続けていた。

これから先は夜の帳が下りた東日本上空を飛行することになる。

外の景色を楽しむよりも、船内でのアミューズメントを楽しむことがより本格的となる時間である。

アスカは今一度服を着替える。

今度はぐっと大人っぽい装いの、両肩をもろに出した淡いブルーのドレスである。

シンジもまた、“アスカの見たて”によるイエローのカッターシャツに真紅のネクタイという

いでたち。

いやもう、どこに出しても恥ずかしくない紳士と淑女然とした二人であった。

二人は、“縁起の良い”カジノ・Asukaに顔を出す。

昼間の最盛時に比べれば、今はまだ人が少ない方であった。

二人は今度は一緒にブラックジャックのテーブルに陣取って、ディーラーのお姉様の

手ほどきもよろしく、カードギャンブルに初挑戦するのであった。

ディーラーである女性も、この愛らしい二人のカップルに目を細めつつ勝負の明暗、

チップの賭け時、下り時等を丁寧に教えてあげながら相手を務めてやる。

さて、一方の有美。

彼女は、昼間と同じようなスーツにタイトスカートという格好で船内をブラブラしていた。

同じようなと言っても、色合いもデザインも先ほどのとは若干違う。

何より、スカートはその丈は先のものと同様に結構短いのだが、“タイト”という意味で

言えば、先ほどのよりは活動しやすそうな少し余裕のあるものであった。

「機動性優先、機動性優先…と。」

他人が聞いても訳の分からないそんな言葉を口にしながらのほほんと歩く有美。

いや、のほほんと歩いているように見える、有美である。

そして。

八人の男たち。

昼間は確か、作業服に身を包んでいたはずの八人の男たち。

彼らもまた、お互いを素知らぬ風でいながらも二人ずつ一組というチームを崩さずに、

船内の多くの乗客たちの中に混じっていた。

「…準備は整った…。

後はその時を待つだけだ…。」

「了解しました…。しかし、まだ決行の時間まで八時間近くもあります…。

時間を持て余しますなぁ…。」

「その気の緩みが失敗を産み出すのだ…。爆薬を仕掛けたポイントに対し、常に注意を

怠るな…。」

「はっ……。」

「ね、ねえねえシンジ……。

この勝負…下りた方が…いいんじゃないの…?」

「うーーん…。いや、ここはもう一枚だよ、アスカ!」

「そ、そう?」

「……。」

「……。」

「ありゃ……。」

「…だから…アタシが言ったじゃないの…。」

「あははははは…こりゃ駄目だ…あはははは…。」

「もう!!」

「はははは…よし、次こそ勝負だ!!」

「…熱くなるんじゃないわよ……。

頼むわよ、ウチの大蔵大臣さん……。」

「…あそこに立っている男…。

間違いない…昼間見かけた作業服の男だわ……貨物室へ入ってったヤツ…。

ふん、それにその隣にいる男…あっちはスゥイート・フロアの階段ですれ違ったやつらの

片割れね…。

さりげない風を装って立っているけど……あいつら…何を見てるのかしら…?

…………。

誰か特定の人物を見張ってる…ってことでもなさそうね……。

何かな…?

人の動きを…見てる…?

…いえ、少し違うな…。

おっと…!

危ない危ない…視線が合うところだったわ……。

少し場所を変えるか……。」

「おい……。」

「なんだ…?」

「あそこの…あの女……。」

「うん?」

「確か、昼間……スゥイート・フロアへ上がる時に階段で出くわした女だ…。」

「……そうだったかな…?」

「間違いない…あれだけのいい女だ…見間違うもんか…。」

「いい女ねぇ……。顔はともかく、あの痩せっぽちな体型は俺、好みじゃないなぁ…。」

「そんなことはこの際どうでもいい…。

その女が…今こっちを見てたぞ…。」

「…そりゃ、こんだけ広いラウンジだ。あっち見たり、こっち見たりするだろうが。

俺たちだってそんな風を装ってここできょろきょろしてるって寸法だろう?」

「……それは、そうだが……。」

「ほら、行っちまったよ…。気の回し過ぎだって……。

誰にもばれちゃいないさ…。」

「…うむ……。」

「あーーあ、結局負けちゃったじゃないのぉ!!」

「あははははは、負けちゃったねぇ、アスカぁ。」

「もう、勝ち運に見放されたわね、アタシたち!!

あら…?シンジ、もうすぐ八時よ。

予約しておいたディナーの時間だわ。行きましょう。」

「うん、そうだね。」

「はい。」

「な、何、その腕は?」

「アンタ馬鹿ぁ?!!これからアンタはレディをエスコートしてディナーへ行こうってのよ!!!

その腕を取らんでどうするかぁ?!!!」

「どうするかぁって……。レディの言葉とも思えん……。」

「何か言ったぁ?!!」

「いえ、何も…。」

「よろしい!!はい、シンジ!!」

「はあ、では、失礼して、お手を取らせていただきます。」

「ぷっ……く、くくくくく……あ、あははははははは!!」

「な、何だよっ?!!」

「何しゃちこばってんのよ?!!あはははははははは!!」

「…どうしろってんだよ、もう……。」

「ラウンジの入り口あたりから中ほどにかけて行ったり来たりしていたのが二人…。

貨物室へ通じる廊下の直前にあるティールームでも二人…。

動力室のブロックに一番近いフロアの廊下のレストスペースでも……。

そして…スゥイート・フロアへの階段下のあたりをうろちょろしているやつらが二人…と。

都合、八人を確認…か。

ふん、目立たないように目立たないようにしてはいるけれど…他の人間の目はごまかせ

ても、この私の目はごまかせないわよ…。

間違いない…あいつらが…私の…お客さんね。

さて…どう出てくる気?」

「…ミツイから連絡が入った…。

どうも、我々のことを観察しているヤツがいるらしい、とのことだ…。」

「まさか…?」

「用心に越したことはない。お前はそいつの動静を探って来い。」

「はっ…しかし…どんなやつです…?」

「女だ…詳しくはミツイに聞け…。」

「了解…。」

「いいか、もし我々の行動の妨げになるようなやつだったら…。」

「分かっております。即、排除いたします。」

「うむ…そいつ自身の客室へ死体を放り込んで鍵をかけておけば、決行までばれは

すまい。」

「そして、決行の後にも…ばれることはありますまい。」

「当然だ。」

「では。」

「うむ…。」

…………………………………………………………………………………………………………

「あの…。」

声がかかった。

一人、バーのカウンターで座っていた有美に、声がかけられたのである。

「はい?」

少々驚いた風に、顔を上げる有美。

そこに、彼女と同年齢かそれより若干上、つまり三十代前半くらいのスーツ姿の男性が

立っていた。

「隣…よろしいですか?」

わりと礼儀正しくそう聞いてくる男。

有美はチラリとカウンターの周囲に目を配る。

確かにそれなりに混んではいるが、他に席が空いていない、というわけでもない。

だが。

「どうぞぉ。」

と、明るい声で彼女は答えていた。

バーテンダーが寄ってくる。

彼にバーボンの水割りを注文しながら、有美の左隣に座る男。

彼は笑顔を湛えて彼女に尋ねる。

「お一人…なんですか?」

「あはは、そう見えますぅ?」

あっけらかんと笑いながら逆に尋ねる有美。

「はあ、さきほどから一人でここに座っていらっしゃるように見えたもので。」

男も笑顔を絶やさずに答えた。

「あら?ずっと見てたんですか、私のこと?」

こちらも笑顔のままの有美。

だが。

男も、そして女も。

その表情とは裏腹に。

その目は。

笑ってなどいなかった。

「ええ、綺麗な人だなって思いながらね。」

「ふふふ、お上手ね。

ええ、一人ですよ、今は。」

「そうですか…。お一人で飛行船でご旅行ですか…?」

「仕事ですわ、仕事。

飛行船乗船記ってやつを仕上げるんです。」

「作家さんですかぁ…。」

「まさか、ライターですよ。

…で、あなたは?」

「は?」

「あなたはお一人なんですか?

こんな所で私なんかをナンパしてるってことは…?」

「あははは、私は会社の同僚と一緒です。こちらも仕事なんですよ。

むさくるしい話ですが、男ばかりでしてね。

ようやく自由時間ってことになりまして、それでこうしてぶらぶら出来るようになったって

わけですよ。」

「まあ、それはそれは…。」

「…お聞きにならないのですか…何の仕事かって…?」

「聞いて…正直に答えるおつもりはおあり?」

「……。」

「……。」

男と女はしばらく見つめあった。

他人が見れば、仲睦まじい男女が見つめ合っている…そんな風にも見えたかもしれない。

しかし、二人にとってこの見つめ合いは、そんなロマンの一欠けらも存在しない、冷たく、

硬質なものだった。

やがて、静かに男が言う。

「…ライターなんですよ、私の仕事…。」

「…面白い冗談……。」

さらりと受け流す有美。

男はじっと有美を見つめていたが、有美もまた臆することなくその瞳を見返す。

静かな火花が宙に散る。

「さて…私は仕事に戻ります…では…。」

一息にバーボンを飲み干すと、男はそう言って立ち上がる。

「あら…もうですか?自由時間じゃなかったの?」

有美はそんな男の一挙一動から目をそらさずに尋ねた。

「ええ…そうだったんですが…その自由時間もたった今、終わりました…。

じゃ…。」

男はそう言い、カウンターに札を二枚置いてその場を去って行った。

有美はしばらくその男の背中を見やっていたが、それが人込みの中に完全に掻き消えた

のを確認した後、組んだ足を少しぶらぶらさせながら呟く。

「敵に…おごってもらっちゃったわ…。

でも、だからと言って手加減なんてしないからねぇ……。」

そして彼女はバーテンダーに向かって言うのであった。

「ねえ、トマトジュース頂戴。」

…………………………………………………………………………………………………………

シンジとアスカの二人は、フランス料理のコース・ディナーの真っ最中であった。

「ねえ、シンジ…。」

食事の合間を縫って、アスカがシンジに話しかける。

「ん?何、アスカ?」

「あ、あのさぁ…。」

「うん?」

シンジはナイフとフォークの動きを止めてアスカを見る。

元来、シンジはこういう正式なディナーなどというものとは、縁遠い人間となるはずだった。

それが、アスカという女の子と生活をともにするようになって、こうした食事をする機会が、

同年齢の男と比べると圧倒的に多くなった。そのお蔭で、彼はこのような場所での一通りの

マナーというものにもそれなりに通じるようになっていたのである。

アスカもシンジ同様に手の動きは止めていた。

「あのさ…あの…ひ、昼間話したこと…お、覚えてる…?」

テーブル上の料理に視線を向けつつ、しかし実際にはそんなもの見てはいない、ということ

が手に取るように分かるような風情でアスカが言った。

「昼間の…話……?」

「そ、そう……。

つ、つまり…今夜…アタシたち…その……。」

「……う、うん…覚えて…いる…よ…。」

「そ、そう……うん、そうよね……。」

二人は黙ってしまった。

やはり、刻一刻と“その時”を迎えるにあたり、何となく緊張感を隠せない二人なのだ。

テーブルに、次の料理が運ばれてくる。

二人は会話を中断して食事を続けた。

けれど。

正直な話。

後日になってアスカも、そしてシンジも。

この時のディナーのメインディッシュが何で、どんな味だったのか、ということを。

二人とも。

思い出すことは出来なかったのだ。

…緊張のあまりに……。

「お、美味しいわね、このワイン。」

アスカがグラスワインを少し飲みながら言う。

「駄目だよアスカ、あんまり飲んじゃ。

また、酔って眠くなっちゃうよ。」

シンジが嗜める。

「そ、そうね、うん。

今夜は、寝るわけにはいかないもんねって…えっ…?」

「は…?」

妙な話の展開に、思わず赤くなる二人であった。

……かぁーーっ、そもそもこの旅の、目的っつうかなんつうか、メインは…そ、それだったん

だけど…。

……い、いざその時が近づくと…や、やっぱ…き、緊張するわ…ね…。

当然といって、当然過ぎる感想を抱くアスカであった。

一方のシンジの胸中は…。

いや、問うまい。

「わ、分かったわ。もう、これ以上飲まない。」

「あ、いや…べつに、その…いいんだけど……。」

「飲まない!」

「う、うん…。」

しかし、緊張感が持続しているためか、アスカは今回のワインには全然酔ってなどいない

のであった。

午後九時過ぎ。二人は夕食を終えた。

そして。

色々な人々にとって。

色々な意味において。

重大な時が。

“その夜”が。

訪れたのである。

…………………………………………………………………………………………………………

食事を終えて、さていよいよ部屋、つまりF三○七号室へ戻るかと思ったらさにあらず。

なぜかアスカもシンジも、その辺のショップをまたしてもぶらぶら……。

このへんが二人とも可愛いと言えば可愛いし、初々しいと言えばそうも言える。

「ね、ねえねえシンジ、記念に何か買って帰ろうね。」

「そうだね…な、何がいいかな?」

「やっぱり…この飛行船にしかないものでなけりゃあ、記念にはならないわよね。」

「…だからそれを…記念品って言うんじゃないの…?」

「そ、そうよね。」

「そうだよ…。」

本気で買い物をしてるとは思えない会話がとりとめなく続くのであった。

結局二人ともあっちのお店、こっちのショップと行ったり来たりしながら時間を潰し、

あっと言う間に小一時間が経ってしまう。

彼らが買った物といえば、何のことはない、飛鳥をデザインしたT-シャツだったり、

ハンドタオルだったり、小物入れだったり…その程度のものなのであった。

だが。

それも、済んだ。

で。

「…戻ろうか…。」

小さな声でアスカが言った。

「ん…。」

シンジも必要最低限度の返事を返す。

二人は土産品を入れたビニール袋をそれぞれが片手に持ち、余った方の手を…

握り締めた。

シンジは思った。

低血圧で普段手先が冷たいアスカの手が、今はなぜかとても暖かく感じられるという

ことを。

アスカは思った。

昔は同じくらいの大きさだったはずのシンジの手のひらが、今はなぜかとてもとても

大きく包み込むような広いものになっていたということを。

二人は黙って。

部屋へ向かった……。

向かったのだが。

「…あれ…?」

しばらく廊下を歩いたところで、シンジが声を上げる。

「…ど、どうしたの?」

少々俯き加減に歩いていたアスカは、その声を不審に思って話しかける。

「うん……あれ…。」

シンジが顎をしゃくって前方を示す。

その先に視線を送るアスカ。

「…あら…あれは…。」

本来、その先は一般旅客立ち入り禁止のスペース。

その先にあるのは貨物室へ通じる通路のはず。

そこへ。

小走りにというか、足早に、しかし人目を引かぬ態で向かって行く人物がいた。

二人の知る人物がいた。

「…有美さん…だよね…?」

シンジがアスカにそう確認した。

そう確認せざるを得なかったのは、彼女・有美の表情が、彼が昼間レストランで、そして夕刻

に部屋で見た彼女のそれとは似ても似つかないような、引き締まった、厳しいものであり、

まるで別人のように見えたからである。

「…そう…みたいよ…。」

アスカも同感であったのだろう、少なからず曖昧な回答を口にした。

有美の動きは実にさりげなかった。

他の乗客の注意を引くことなく素早く移動し、廊下の隅にある扉、貨物室へと続く扉にさっと

近づくと、手早くそれを開けてその身を消したのである。

おそらく気付いていたのはシンジとアスカの二人だけだろう…。

「……。」

「……?」

それだけだったら。

彼女が貨物室の方へ消えたというだけだったら。

二人も、敢えて気付かなかった振り、見なかった態を装ったかもしれなかった。

そもそも彼女はライターだと言っていた。

取材のためにこの船に乗ったのだと言っていた。

…これもその一環なのだろう……。

などという少々強引なこじつけをして、そのことを忘れようとしたかもしれなかった。

けれど。

彼女が消えたすぐ後に。

二人は見たのである。

今度は、きっちりとしたスーツを着込んだ男が一人、まるで先の有美と同様に人目を引かない

身のこなしですすっと同じ扉に近づいたかと思うと、やはりあっと言う間にそれを開けて消えて

いったのを。

まるで有美の後を追うかのように消えていったのを。

二人は見たのである。

二人が普通の十七歳の少年少女だったら。

二人が普通の人生を送って来ていた子供たちだったら。

二人はそのままその扉の前を通り過ぎただろう。

けれど。

二人は。

色々な意味において普通の子供ではなかった。

色々な意味において普通の人生を送って来たとは言い難かった。

「…なんか…嫌な感じね、今の……。」

アスカが呟く。

「……うん…明らかに、あれ…あの男の人…有美さんの後を追ってたよね……。」

シンジも同調する。

二人はしばらくそこに立ってじっとしていた。

じっと立って、女と男が消えた扉を見つめていた。

「…逢引き…って雰囲気じゃ…なかったわよね…少なくとも。」

「よく分からないけど…僕もそんな気がする…。」

「…大体、後から行った男の目つき…気に入らなかったわ…。

刺すような…そんな感じで有美さんの後を追ってったって感じだったもん…。」

「アスカも…そう感じたの…?」

「シンジも?」

「うん……何か…少し、危ない感じだったような…。」

「……。」

「……。」

二人は顔を見合わせる。

困ったような表情で顔を見合わせる。

やがて、アスカがその相好を崩して悪戯っぽく言うのであった。

「…シンジ…夜はまだこの先、長い…わ…。」

「…そうだね……じゃあ…。」

「行ってみよ。」

「OK。」

二人もまた、そっと貨物室へ通じる通路の扉を開き、その中へ飛び込んだ。

有美は貨物室にやって来ていた。

棚陰に身を潜めながら周囲の様子を窺う。

今の所は誰もいない。

今の所は。

「でも…ご招待申し上げたんだから…ちゃんと来るでしょうねぇ…?」

彼女は荷物棚の間をすり抜け、自分が入ってきた入り口からは死角になるであろう場所を

探り当てて屈み込む。

「ふふふふ…来る来る…。」

そう独り言を口にして微笑む有美の目は、獲物を待ち構える猫科の肉食獣を思わせるもの

であった。

そこにいるのは、“フリーランスのライター”である廣井有美という今年でちょうど三十歳の

妙齢の女性、などというものではなく。

二十歳過ぎの頃から数々の修羅場を潜り抜けてきた、“その世界”では有名なコードネーム

を持つ女、そのものであった。

そして。

獲物が来た。

有美の後を追っていた男が、貨物室に姿を現したのである。

「…舐められたものねぇ…。

この私を相手に、一人でのこのこやって来るとは…。」

そう呟いた時、彼女は既に移動を開始していた。

男は貨物室に入るなり、スーツの内側に右手を差し入れた。

明かに武器を所有している。

「…どうやって船内へ銃を持ち込んだのか、なんて野暮なことは聞くつもりはないわね…。

むしろ、有難い…。」

男の様子を観察しつつも、相手に気取られぬように接近を図る有美。

男は慎重に左右を見回し、一歩また一歩と貨物室の奥へと歩き始めた。

彼が息を殺して幾つめかの荷物棚の脇を通り抜けた時。

棚と棚と間から、いきなり白く細い物が飛び出してきた。

はっとして身構えようとした男だったが、飛び出してきた“それ”は、彼の動きよりも数分の

一秒早く、その鳩尾に食い込んだのである。

「ぐっ!」

声を殺してうめく男。

要するに、有美の強烈な蹴りを腹に一発いただいた、ということだ。

「!」

無言で姿を現した有美は、手刀を一閃させて男の右腕をしたたかに打つ。

男は思わず手をスーツから引き抜いた。その手には消音器付きの拳銃が握られている。

それを確認して、にこっとする有美。

しかしその笑顔を見て男は一瞬背筋をぞっとさせたのである。

この時点で、勝負は着いた。

これっぽっちも無駄のない動きで有美が男の背後に身体を滑り込ませるのが早いか、

右肘を男の盆の窪に打ち込む。

声も無く床に崩れ落ちる男。

そのスローモーションのような動きを有美は無表情に見つめていた。

倒れた男の上に屈み込んで、その手から拳銃を取り上げて感触を確認しつつ、彼女は

呟いた。

「…使わせてもらうわねぇ……。」

その時、更なる人の気配を感じ、有美は男の上に覆い被さるような格好で身を伏せる。

「一人じゃなかったか…ま、どっちでも良いけど…。」

棚の隙間から、気配のする方をそっと窺う。

相手は足音を立てないように注意を払いながらも、少しずつ少しずつ自分の方へ向かって

来ているようだった。

一人ではなく、二人。

「……。」

陰から相手の服装をチラリと垣間見た有美は、少しばかり眉を吊り上げて溜息をつく。

「あちゃあ……。選りに選って……はぁ……。」

そう言う彼女の顔には苦笑が広がっていた。

「わっ!」

「きゃっ!」

同時に小さな、しかし驚きの声を上げたのは無論、シンジとアスカであった。

突然荷物棚の陰から有美が姿を現したのだから、ある程度心の準備をしていたとは言え

無理の無い所であろう。

「う、有美さん…!」

シンジが、まるで相手を確認するかのように声を絞り出す。

言われて有美は、昼間二人に接した時のようなニコニコ顔で答えるのであった。

「ハイ、お二人さん。

こんな人気の無い所でデートとは、結構いかがわしいじゃない?」

まだまだ純情な二人にとっては、キツイ冗談である。

「な、何言ってるのよ?!アタシたちは何も…!!」

一気に顔を赤らめて反論を口にするアスカ。

だがそんな彼女を相変わらず笑顔で見ながら有美が続ける。

もっとも、その笑顔はやはりどちらかというと苦笑交じり、と言えるもの。

「…私も油断したかしらね。

選りにも選って、あなたたち二人にこんな現場を見られちゃうなんてねぇ…。」

「選りにも…選って…僕たち…?」

「こんな…現場…?」

シンジとアスカの二人は彼女の言葉をそれぞれ口にしつつ、ゆっくりとその視線を有美の

顔から少しずつ、少しずつ下方へと向ける。

「……。」

華やかな夜の飛行船にはあまり似つかわしくないような色合い、グレーの上着とミニスカ

ートのスーツ姿の有美。

その右手に…銃。

そして。

その足元に、気を失っていると思しき一人の男。

「!」

「な、な、何よ?!!」

驚くなと言う方が無理であろう。

「あはははは、ごめんなさいねぇ、仕事中だったのよね、私。」

肩を竦めて軽く笑う有美。

そんな彼女を“得体の知れないもの”を見る目つきになる十七歳の青年と乙女。

「…い、一体…?」

一体、何があったんですか?

そこに倒れているのは誰です?

仕事中って、どういうことです?

いえ。

そもそも、あなたは一体誰なんですか?

そんな疑問が瞬時に脳裏に閃き、その第一問をシンジが発しようとした。

しかしそれよりはやく。

有美の表情から笑顔が消えて、鋭い顔つきに変わる。

そう、たった今、男をいとも簡単に床に這いつくばらせた時の、あの顔に。

「!」

アスカは思わずシンジの腕にしがみついた。

強気で知られ、かつ、数年前には自身の身体、自身の生命を楯にして“戦場”に立っていた

こともあるアスカである。

その彼女が。

一瞬のうちに本能的な恐怖心を抱いて、思わずシンジの腕にしがみついたのであった。

「あっ!」

シンジがそう叫んだのも、アスカのその行動と殆ど同時であったろう。

有美はいきなり右腕を二人の方に突き出した。

右腕、即ち消音器付き拳銃を手にした腕を、である。

ほぼ同じタイミングで彼女は、二人に向かって大きく足を一歩踏み出す。

「伏せて!!」

今まで二人が聞いた彼女のどんな声よりも力強く、有無を言わさぬ響きを伴ったその一言と

ともに、シンジは有美の左腕によってその肩を床の方へ押し下げられる。

アスカを伴って倒れ込むシンジ。

その瞬間、空気を切り裂くような“シャッ”という音が聞こえたような気がシンジはした。

そして間髪を入れずに“プシュッ”という乾いた音が彼の頭上で鳴る。

訳も分からず床に伏せて、というより有美によってねじ伏せられてしまったシンジとアスカ。

二人はそのままの姿勢でじっとしていた、していざるを得なかった。

何が起きているのか分からなかったから。

だが。

それも時間にすればほんの僅かのことであったのだろう。

何の物音もしなくなったと見て取るや、シンジは恐る恐る顔を上げるのであった。

そこには、彼の頭上には。

有美が立っていた。

銃を持った右腕を突き出して、立っていた。

下から見上げるシンジには、その姿はまるで立像のように微動だにせぬもののように見えた。

射撃競技の選手のように真っ直ぐに右腕を伸ばして。

視線はその銃の先を見つめて。

白く細い足は肩幅強に開いてしっかりと踏ん張って…。

そんな姿を、シンジは見上げた。

で。

真下からそんな格好の女性を見上げているのだ。

当然。

彼女のスカートの中も……。

「…あ…あ、アンタ…ど、どこ見てんのよっ?!!!」

シンジに遅れること数秒、やはり恐る恐る顔を上げたアスカが、シンジと同様のアングル

で同様の姿の有美を見上げ、そして隣のシンジの視線を追い…。

この状況下にありながら、怒鳴り散らすのであった。

いや、怒鳴るだけならまだしもであったろう。

同時に強烈な拳骨を一つ、彼の後頭部にお見舞いしたのだから、シンジとしてはたまらない。

「痛っ!!!!」

顔を真っ赤にしつつも、叫んで頭を抱え込む純情青年がそこにいた。

「……何やってんの、あなたたち?」

きょとんとしてそんな二人を見下ろす有美であった。

「何じゃないわよ、何じゃ?!!

あんたこそ何よ?!!いきなり人を突き倒して!!何だってのよ?!!!」

アスカ、ようやく攻勢の機会を得る。

「ああ…ごめんなさいね、咄嗟のことだったもんだから。」

既にそういう有美の顔は、たった今一瞬とは言えアスカをすらたじろがせたような表情

など欠片も見られない、笑うと今だに幼さの垣間見得る、そんなものに戻っていた。

「やっぱり…一人じゃなかったのよね…。」

銃を握る手を下ろしながら、有美が呟いた。

彼女が見ていた先に視線を送るアスカとシンジ。

この貨物室の入り口付近。

男が一人倒れていた。

手に、有美が持っているのと同様の消音器付き拳銃を握ったまま。

シンジはその時理解した。

最初に聞こえた空気を切り裂くような音は、あの男の銃が発した音であり、その直後に

聞いた同様の音は、それに反撃する有美の銃が発した音であったのだろうということを。

「な…何よ?!!」

アスカが今一度シンジの腕にしがみついて声を上げた。

シンジは黙って彼女の肩を抱き、そして有美を振り返る。

有美はしかし、既に行動を開始していた。

まず、足元で失神している男の身体を、貨物室の奥へずりずりと引き摺って行く。

そして、貨物を固定していたロープの一本を引き出すと、それを使って男の身体を縛り

上げる。

更に猿轡、目隠しを施して相手の自由を完全に奪うと、大きなトランク類が山積みになって

いるコーナーの角のあたりの押し込めてしまった。

とっとと戻って来ると、今度はアスカ、シンジの前を素通りして入り口へ向かい、倒れて

いる男の上に屈み込む。

そして、こちらは既に息絶えていることを確認すると、やはりずりずりとその身体を引き

摺って先ほどの所まで行き、こちらは縛ったり目隠しをしたりすることなく、そのまま押し

込んでしまったのである。

その間、呆気にとられてただただその“作業”を見つめるシンジとアスカの二人。

「さてっと…ここは取り敢えずはこれでいいわよね。」

そんな言葉を自身に投げかけながら、有美が二人の元に戻って来る。

「…色々と説明を聞きたい…そんな顔をしてるわね、二人とも。」

有美の言葉を無言で肯定するシンジとアスカ。

「でも…今はまだあなたたちに諸々を説明している時間はないの…。

そもそも私としては、あなたたちに気づかれること無くこの件を処理したかったんだ

からね。

ま、今更それは言っても詮無いことか……。・

ともかく、お二人さん?

私、という人間を信じて頂戴…と、いうことしか今は言えないのよね。

どうかしら?」

有美は笑顔をこそ湛えてはいたが、真剣な眼差しで二人を見ながら呟いた。

シンジとアスカ。

三年前の十四歳の当時、“戦場”に身を置いていた二人。

彼らはその時体得した。

誰が信じられる味方で、誰が信じることなど出来ない敵か、ということを。

二人は身を持って体験してきた。

…本当ならそんなこと、体験せずに済むものならそうしたかったのであろうが…。

そんな二人が感じていた。

今自分の前に立っている人物、廣井有美なる人物。

少なくとも彼女が自分たちに害意を持っているものではない、ということを彼らは本能的

に感知していたのである。

「…あなたは一体…誰なんです?」

シンジがゆっくりとそう話す。

アスカもそれこそを知りたい、という顔つきで有美を見つめる。

二人に見つめられ、有美は困ったような笑顔になって答えた。

「…そうねぇ…今ここで私という人間の人となりを語るには、少々時間が足りないのよね。

その件については…北海道の大地を…お互いが無事にその足で踏みしめることが

出来た時に…話しをする…ってことでどうかしら?

少なくとも私は、あなたたちを何としてでも無事にこの飛行船から降ろしたい…

そう思っているのよね……。」

「僕たちを…?」

「そう…あなたたち二人を、ね。」

三人は無言になった。

シンジとアスカは思っていた。今この場でこの人にこれ以上何を訊いても、恐らく答えては

くれないだろう、ということを。

「この…男たちは…何者なんですか?」

シンジは質問の矛先を変える。

「うーーんとね…。

ま、要するに、この飛行船に害成す輩…ってところかしら?

これまた、あんまりおおっぴらに言えることじゃないのよ…。」

的を射ない答えに終始する有美であった。

「…アタシらに、どうしろっていうのよ?」

アスカが言葉を差し挟む。

彼女の方を見てにっこりしながら、有美は断言した。

「あなたたち二人は、これから自分の部屋に戻って、内側からしっかり鍵をかけて。

私が“もう大丈夫”って言いに行くまでじっとしている……ってことでどうかしら?」

「じっとしている…?」

「そう、一歩も部屋の外には出ないでじっとしているの。」

「そんな…でも…。」

「あ、それから…いつでも行動できるような態勢・服装で居てもらわなくちゃならない

わね。」

「いつでも行動できる…?」

「そう、万一の用心としてね。」

「……。」

つまり有美は二人に、この先無事北海道に着くまで部屋でじっとして自らの身を守って

いろ、というのである。

「……あなたは…これからどうするんです?」

シンジが尋ねる。

「私?

私はね、まだ仕事中なのよ。」

有美はそう言ってウインクするのであった。

…………………………………………………………………………………………………………

「ミツイとタカシマの二人が戻りません。」

「……。」

「……やられた…ということか…?」

「どうやら…。」

「…油断をするなと……気を緩めるなと……俺はそう言ったはずだ。」

「……。」

「……。」

「俺たちは依頼人から金を受け取って仕事をこなすプロだ。

ミスは信用問題に関わる。

だが。」

「……。」

「だが、それ以上に、俺たち自身の生死に関わるのだ。こんな当たり前のことを今更

俺が言って聞かさねばならないお前たちでもなかろうものを。」

「はっ…。」

「…まあ、良い。

残ったのは我ら六人。事を成すにはこの頭数でも充分と言えば充分。

既に爆薬の準備は済んだのだからな。

しかし…我々の仕事の妨害をせんとする者の存在がはっきりした以上、我々もそれを

排除せねばならん。」

「では…っ?!」

「ナカコウジ…お前はその女の顔を知っているな?」

「はっ。」

「では、お前と、あとお前とお前……三人でその女を始末しろ。速やかに、だ。」

「了解。」

「残った二人は俺とともにいろ…。いいな?」

「了解、それでは…。」

「うむ、行け。」

「…ボス…爆破の時間を早めては?」

「今はまだそこまでは考えてはいない。

依頼人の依頼内容は、ターゲットを海中に沈めてしまえということだった。

現在この船はまだ内陸部を飛行中だ、まだ爆破は出来ん。」

「はっ……。」

「しかし、無論最悪の事態を想定した場合、爆破を早めるというのも案として視野に

入れてある。いや、究極的には、飛行船そのものの爆破は成し得なくとも、ターゲット

を殺害するという最低限の目的だけは達成する。

依頼では、他の多くの者たちに紛れ込ませてターゲットを消せ、ということになっては

いたが、最終的にはこれだけはやり遂げる。」

「……。」

「貰った金額に見合うだけの仕事はするのだ、それが俺たちだ。」

「はっ。」

…………………………………………………………………………………………………………

シンジとアスカはそれぞれがベッドに腰を降ろして無言で座っていた。

どちらも落ち着かない風情である。

帰って来た時の、つまりディナーに行った時のままの格好で、二人はいた。

「…何なのかしらね、一体…?」

アスカが呟いた。

「うん……。

飛行船に害成す輩って…有美さんはそう言ったけど…。」

シンジが答える。

「…それってつまり…この船を爆破するとか…落っことすとか…ハイジャックとか…

そういう過激な事を企んでるヤツラ…ってことなのかしら…?」

「銃…持ってたもんね…。」

「…まあ、アタシらの場合、生まれて初めて銃を見たってわけでもないし…生まれて

初めて人が殺されたのを見たってわけでもない…。

悲しい話…普通の人ほどには驚かないのよね…。」

「…悲しい…そうかもしれないね…。」

「あの女が敵…少なくともアタシたちにとっての敵っていうんじゃないってことは、理解

できる。理屈じゃなく、本能的にね。」

「うん。」

「じゃあ…味方?」

「さあ…そもそも僕たちにとっての敵とか味方っていうものは…三年前に、もう…。」

「そうよね、そのはず…なんだけど……。」

「ともかく、この船の中で何かが起き始めているんだよ、アスカ。」

「……。」

シンジは立ち上がり、向かい側のベッドに座っているアスカの隣に行き、並んで腰を

降ろす。

「何かが起きているんだ、それは分かる。

それが分かる以上…。」

「……?」

アスカは隣のシンジの顔を見上げた。

シンジはアスカの瞳を見つめながら静かに言う。

「そうであるなら…何かがまだ起こるのなら。

僕は…アスカ、君を守る。

どんなことをしても、君を守る。

それが僕に出来ることだから。

……おんぶにだっこなんて考えていない…君は昼間そう言ったね?

確かに君は他人に依存して生きて行くような人じゃないよ。

でも、ね、アスカ。

僕は例え君がそうであっても…僕は僕として君を守りたい、そう思う。

どんなことをしても、ね。」

「…シンジ…。」

アスカは彼の胸に静かにその頬を寄せる。

彼女の肩をしっかりと抱きとめるシンジ。

「アリガト…シンジ。

守って…アタシを…。」

胸の中でアスカが小さく呟いた。

「守ってね…アタシを…。

そして、アタシは…アタシはね…。」

「うん…?」

「アタシは、アンタを……守る。」

「アスカ…。」

「二人一緒に…生きて行こ…。

ね?

一緒に……。」

「ああ。」

「……。」

「……。」

今、雰囲気は完璧なのだ!!

だが、しかし!!

“いつでも行動できるような態勢・服装で居てもらわなくちゃ”いけないと言われてしまった

二人であった。

間違っても、咄嗟に部屋から飛び出せないような格好・態勢にはなれないのである。

言うなれば、“お預け”状態のようなアスカとシンジであった。

嗚呼……!!

「…お、お風呂も入れないって…こと?」

「そうみたいだね……。」

「かぁーーーっ!“広い海”ーーっ、早く“ぜーーんぶ終わったわよぉっ!”って報告

に来ーーいっ!!」

「夜はまだ…長いからねぇ…。」

「はあ……。」

…………………………………………………………………………………………………………

午後十一時、飛行船は猪苗代上空を既に通過して、一路仙台湾へと向かっていた。

「そもそも、ヤツらが貨物室に何度も出入りしていたのはなんで?

何の目的があって?

飛行船の最下層部であるこの部屋に……。

それと、逆に最上階に近いスゥイートのフロア…そして動力室…。

ふん…答えは、簡単、か。

爆薬を仕掛けたってことね。」

有美はアスカとシンジの二人を確実に彼らの部屋に送り届けた後、再び貨物室へ

舞い戻っていた。

探し物があるのである。

「どこですかぁーー、爆薬さーん…。」

言ってる内容と口調がまったくそぐわない有美であった。

「…どこにも見当たらんな、あの女…。」

「こういう時にはこのだだっ広い飛行船が恨めしいな。」

「まったくだ、俺たち自身が姿を隠しているのには好都合だったのだが…。」

ナカコウジと呼ばれた男と、後の二人の男たちは、あれから船内を巡って有美の姿を

追っていた。しかし、彼女を見つけるには未だ至っていなかったのである。

「こうなっては…。」

「うむ、これ以上爆薬を仕掛けた場所には近づきたくはなかったが…。」

「行こう、まず貨物室へ。」

「相手もいい加減気付いてるわよね…。

何しろ自分たちの仲間が二人も戻らないんだから…。

私を探してるでしょうねぇ。

でも、私も探しものの最中だしぃ。

うーーん、どうしたもんかしらねぇ…見つからんわ…。」

貨物室のほぼ中央で腕組みをしながら仁王立ちになる有美。

彼女は本来が戦闘のエキスパートなのであり、爆発物探査は専門ではない。

だが、今はそんなことを言ってる場合ではなかった。人手は自分しかないのだ。

あちこちと狭い棚の間をうろうろしたので、結構熱くなってしまった。着ていた上着を脱ぐ

有美。

背中の辺り、汗でブラウスが張り付いてしまっている。

「あう…気持ち悪りぃ……。」

ブラウスの襟首を左の人差し指で引っ張り、右手でぱたぱたと仰ぎながら空気を送り

込む。

「貨物室って…空調あんまり効いてないもんねぇ。」

そんな独り言をぶつぶつ言っていた有美が、瞬時にその表情を変えた。

彼女の野性的勘が、部屋への侵入者を感知したのである。

「…そっか…結局ここへ来るのか…。」

有美は脱いだ上着にチラッと目をやったが、すぐそれを棚の一角に押し込んだ。

「白いブラウスじゃ、目立つかもしれないけれど……機動性優先、機動性優先っと…。」

彼女は素早く棚の間をすり抜けて、相手を観察するのによいポイントを探しつつ移動を

開始する。

「ふふん…何だか、ゾクゾクしてくるわね…。」

物陰から物陰へと、細身の身体を滑り込ませつつ慎重に足を運ぶ。

「しっかし…私もマズイ体質になっちゃったかしらぁ?

そもそも、こんなことで快感を感じてるなんて、まっとうな大人の女とも思えん。

って言うか…このゾクゾクって…快感なんだろうかしら?」

小首を傾げる仕草そのものは十分に愛らしいのだが、口にしている言葉はとてもその

ような類のものとは言い難い。

「あーーあ、それこそ十代の頃は…ふふふ、あの二人くらいの年の頃には…もっと素敵な

ことにゾクゾクするはずだって信じて疑わなかったってのにねぇ…。

こんな自分、とても想像つかなかったわ…。

どこをどうして、こうなっちまったのか…?」

その理由は、他でもない、自分が一番よく知っていることなのだ。

「…ま、しゃあない…。

セ・ラ・ヴィ…それが人生ってやつ、よ……。」

そうこうしているうちに、彼女は“お客さん”を視野に捉えた。

「…ふん、今度は三人…か。

ってことは…ここでこいつらを片付ければ…八人のうちの過半数を倒したことになるって

計算ね。

勝ち越しってことだわ。」

彼女には、自分が負ける、という発想は無いのであろうか…。

無い。

少なくとも彼女には、そう思うだけの自信への裏打ちがあるのだ。

相手を倒す、そう思うだけの自信への裏打ちが。

「…行くか…。」

彼女がそう呟いたのは、入ってきた男たち三人が手分けして貨物室内を捜索しようと

するのを見た後であった。

「わざわざ…各個撃破の機会を作って下さって有難う…。」

彼女はスカートのポケットからハンカチを取り出す。

とても女物とは思えない大きめで、無地のハンカチ。

それを引き絞るように細く細く織り上げていくと、彼女はそっと棚の上を見上げた。

決して高くは無いヒールのシューズをさっと脱ぎ捨てると、有美は実に身軽に、そして

敏捷に棚をよじ登る。

その動きは、文字通り猫族のしなやかさ。

彼女は高い視点から三人の男たちの動きを眺めた。

三人のうち、一番遠くへ離れていきそうな男を確認すると、棚から棚を伝ってその後を

追う。

男たちも無言で、手に手に銃を構えながら慎重に周囲を見て回る。

だが。

彼らのうち誰も。

頭上には注意を払っていなかった…。

すとん。

そんな音がしたように、彼は思った。

気配も何も感じなかったのに、突然背後にそんな“音が落ちた”ような気がした。

彼は振り向いた。

いや正確には、振り向こうとして。

それを為し得なかった。

瞬間、彼の首に巻きつくものがあったのだ。

それを感知したのが、彼の最後の行為でもあった。

「…ぐっ……!」

声にならない悲鳴を上げる男。

背後から無言で、細く織り上げたハンカチを使ってその首を絞めにかかる女。

あっけないほどに、決着は早々についた。

男はやがて全身から力が抜け落ちるようにぐったりとその身を背後の有美の腕に

任せるのであった。

有美は音を立てないようにその男の身体を一旦受け止めると、静かにその場に

横たえる。

彼女は、もはやその男のことなど振り向きもせず、再び物陰にそって移動を開始

する。

しかし、残る二人の男たちもすでにこの貨物室内に漂う“殺気”を察知し、緊張感を

漲らせながら周囲に怠り無く目を配っていた。

「…不意打ちは…もう、無理かしら…。」

有美が物陰に立ち止まる。

一方、男たちも互いの位置を確認し合うと目で合図を送り、無言で指で進行方向を

指し示しながら銃を構えて進み出した。

「無理みたいね…。では……。」

有美も、スカートの背中の辺りに差し挟んでいた銃を右手に取り上げながら呟いた。

「では…正面決戦と…行きますか…。」

靴を脱ぎ捨て素足になっている有美が素早く動く。

男たちも彼女の存在に気付いた。

「!」

無言で有美に狙いを定めて銃を撃とうとする男二人。

だが荷物棚が彼らの狙点を定着させる邪魔をする。

「ちっ!

あっちへ回れ!」

一人が、もう一方の男へそう指示を飛ばすと銃を構えなおして有美の後を追った。

別方向から獲物を追い詰めるべく走る今一人の男。

すたすたっという足音も聞こえるか聞こえないか、という身軽さで棚の間を駆け抜ける

有美。

彼女は巧みに棚を迂回し、追って来る男の一人の前へ突然飛び出したのである。

「うわっ!」

思わず声を上げて銃を突き出す男。

だが、あまりに至近に標的が飛び出したため、却って銃をまともに相手に向けるという

行為を果たし得なかった。

「たっ!」

実に短い気合いの言葉とともに、有美が手にした銃を振り上げ、その銃床で相手の男に

殴りかかる。

咄嗟に身を引いて彼女の一撃をかわす男。しかし彼が態勢を立て直す前に、有美が続け

ざまに“得意の”足蹴りを繰り出す。

がつんっという音ともに、男の手から銃が放物線を描いて宙に舞った。

有美の蹴りが男の右腕を捉えたのだ。

「くそっ!」

男は素手で反撃を試みようとして有美に飛びかかった。

しかしその動きを見切ったように軽くかわすと、有美はすれ違いざまにその男の首筋に

改めて銃を振り下ろすのであった。

ごつん、という鈍い音がしたかと思うのも束の間、男はそのまま床に向かってダイビング

して行った。

その瞬間、“プシュッ”という音が有美の耳朶を打つ。

もう一人の男が彼女目掛けて銃を撃ち放ったのである。

すとんと腰から床へ落ちたかのように見えた有美。

しかしそれは決して“落ちた”のではなく、自らの意思で“下りた”のである。

彼女はそのまま床の上に素早く身を横たえると、床の高さから視線を今音のした方へと

投げかける。

棚の最下段、床からほんの十センチの隙間。

その向こうに、男物の靴が見えた。

有美は床に寝そべった姿勢のまま右手をぴんっと伸ばし、消音器付き拳銃の引き金を、

二度引いた。

「うわっ!」

男は自分の右のつま先に強烈な痛みを伴う衝撃を感じ、思わず跪いた。

彼は、足の指先から甲にかけたあたりを撃ち抜かれていたのだ。

「さて…と。」

起き上がり、有美はその男の元へと歩く。

「ううっ!!」

痛みに耐え、歯を食いしばっている男は有美が近づいてくるのを見、改めて銃を構えよう

として…。

その腕を蹴り上げられた。

先の男の時と同様、彼の銃はその持ち主の腕を離れて床へと転がった。

有美は有無を言わさぬ力強さで男の襟首を掴むと、そのこめかみに銃を突き付けながら

言った。

その声は、声質こそ女性特有の少々高めのものではあったが、凄みのある、力のこもった

ものであった。

「さ、教えてよ?

どこに爆薬をしかけたの?」

銃を押し付けられた男は、睨み付けるような瞳で有美を見上げたが、口を動かそうとは

しなかった。

「お前なんかに教える気はない…と…。そういう目つきね。

ふん、そういう目は私、これまで何度も何度も見て来ているのよね。いまさら珍しくも

ないシチュエーションだわ。」

言うなり、彼女は銃を滑らせると、男の口の中に銃口をねじ込んだ。

「うぐっ!」

思わず目を見開く男。

「でさぁ…この状態から引き金を引くってのも……私としてはそれほど珍しいシチュ

エーションじゃないのよね…。

どっちでも良いわよ?選びなさいよ…。」

口元に薄っすらと笑みを湛えてそう言う有美であったが、その目は冷徹な光を宿して

いた。

銃をぐっと男の口にねじ込みなおす有美。

明らかに男の目に動揺が走ったのを、彼女は見逃さなかった。

……あと一押し…ってとこかなぁ…?

そう思った瞬間、彼女は不意に身体を真横へダイブさせた。

彼女の直感的防衛本能が、彼女にその行為を取らさしめたのだ。

“シュッ”という空気を切り裂く音がしたのと、それはほぼ同時であった。

有美は床を半回転しながら銃を構えなおし、標的を捉える。

先ほど銃で殴りつけた男。しかし急所をずらしてしまっていたのか、それとも有美の

予想以上に彼がタフだったのか。

彼は完全に意識を失っていたわけではなかったのだ。一旦は取り落としていた銃を

拾い上げ、もう一人の男に尋問をする彼女の背中目掛けて撃ってきたのである。

有美は、自らのこの失策が果たして今後どのような影響を及ぼすのだろう?などと

いったことを瞬時に計算しながら、引き金を引いた。

一撃で。

男は倒れた、今度こそ本当に。

「……。」

無言で身を起こしながら有美は今尋問をしようとしていた男の方に視線を移す。

その男もまた、今後永遠に沈黙を守り続けることになっていた。

彼女が身をかわしたとき、彼女を狙って飛来した弾丸はそのまま、その男の胸に

飛び込んでいたのだ。

「…失策の影響は…これかぁ…。」

ぽりぽりと頭を掻きながら呟く有美であった。

「ま、済んだことはしゃあないとして…。」

誰に言い訳するわけでもなく、そんなセリフを吐いてから彼女は立ち上がる。

最初の二人と同様、今回の三人の男たちも、一人一人ずりずりと床を引き摺りながら、

彼女は大きなトランク類が山積みになっている例のコーナーの角のあたりに押し込める。

しかし、実はこれこそ彼女の今回の仕事における最大の“失敗点”だったのである。

貨物室に仕掛けられた爆薬。

それは、まさに彼女が男たちを放り込んだこのコーナーの床下にあったのだ。

有美はそれと知らず、上から次々と“蓋”をしていったようなものなのである。

「さてと……どうやって、探そうかなぁ?」

どこか、間の抜けた所も無くは無い、有美であった。

…………………………………………………………………………………………………………

「日付が変わった…。」

「結局、三人とも戻って来ません…。」

「冗談ではない、これまで様々な“依頼”を受けて仕事をこなしてきた俺たちが、何と言う

体たらくだ…!

確か相手は女だと言ったな?!!それも、女一人、と?!!」

「そのようでしたが…。」

「相手を舐めてしまったということか…。

ふん、年貢の納め時か、俺たちも…。」

「……。」

「……。」

「だが。」

「はっ。」

「目的は果たす。少々形がいびつになろうとも、依頼内容は遂行する。

今、船は仙台湾に達したわけだな?」

「そうなります。」

「…午前三時までは待たないかもしれん。いつでも脱出・爆破が出来る用意をしておけ。

俺は…。」

「ボスは?」

「俺は、ターゲットをこの手で始末する手はずを整える。」

「ですが…?飛行船を爆破、そのまま海中に沈めるということだったのでは?」

「これだけ不祥事が続いているのだ。せめてターゲットを確実に殺ってしまわねば、

とても仕事をしたとは言えん。」

F三○七号室。

最初のうち、シンジとアスカは為す術無く奥の部屋でぼおっとテレビで映画プログラム

を眺めていた。

だが、どうも身が入らないのは止むを得ないところ。

そのうち、映画をかけっ放しのまま二人でお喋りを始めていた。

ソファに並んで腰を降ろし、前を向いたままでアスカがシンジに問いかける。

「…この際だからぁ…シンジ、正直におっしゃい。」

「あん…?何、アスカ?」

シンジもまた前を向いたまま隣のアスカを見ることなく尋ね返す。

「…アメフト…やってて、面白いの?」

「アメフト?そうだね…面白いよ。」

にっこりと笑いながらアスカの横顔に視線を送って答えるシンジ。

「そう……。アタシはとにかくアンタが万一にも怪我したりとか、相手にぶっ飛ばされ

たりとか…そんな場面を見るのが嫌だったから、一度も観に行ったことはなかった

けど…。」

「それに、去年の一年生の時まではもちろん試合なんかにはとても出れなかったしね。

何せウチの私立第三新東京学園高等部アメリカン・フットボール部、“ワイルドキャッツ”

は関東圏内の強豪チームの一つだからね、部内での競争も激しいさ。」

「…だそうね。何故かウチのガッコにもアメフト部とやらがあって、そこそこのライバル

関係だって言うじゃない。」

「ああ、市立第壱高校の“チェイサーズ”も毎年強いチーム作りをしてるよね。秋のリーグ

戦では三戦目に対戦することになってるのかな、確か。」

「…どうなの、アンタの方は?」

「どうって…何が?」

「ああもう、じれったいこと訊くわね?!!二年生になった今年、レギュラーになれそう

なのかって、訊いてんのよ!!」

「ああ、そのこと…。

うん、一応今年の春からはディフェンスチームに配属されたけど、DB(ディフェンス・バック)

のレギュラーに…。」

「な、な、なれそうなの?!!す、凄いじゃん、シンジ!!」

無邪気に嬉しそうな声を上げるアスカの顔を見て、シンジは少し意外な思いを抱いていた。

元々彼女は彼が高校進学と同時にアメフトをやることにした、と告げた時、目を吊り上げて

反対したのだ。

曰く“アンタなんかにそんな運動神経あるわけないじゃん!”

曰く“あれは確か、球技とは言え一対一とかで掴み合いとか取っ組み合いとかするんで

しょ?!格闘技じゃないの、丸っきり!!アンタにそんな真似が出来るわけないじゃん!”

曰く“部活とか始めたら、帰って来る時間が遅くなるんでしょ?!アタシの晩御飯の準備

は誰がするのよっ?!”

曰く“アンタのこったから、すぐに怪我の一つや二つするに決まってるわ!一体、その時

誰がその面倒を見るってのよっ?!”

曰く“アンタがどうなろうと知ったこっちゃないけど、一応、い、一緒に暮らしてる、か、家族

としては、い、い、一応心配ってのもしなくちゃなんないじゃん!!どうしろってのよっ?!”

曰く“土、日の週末も部活だぁ?!だ、だ、誰が家の掃除すんのよっ?!いや、そもそも…!

週末丸々、このアタシを一人で放り出しておくつもりかぁっ?!”

曰く“あ、アタシのこと、嫌いになったのね!!!”

以下、略……。

そんなこんなの反対意見も何するものぞ、彼は自らの意思を押し進めて入部、現在に至って

いるのである。

そういうスタートだったものだから、彼も極力家でアスカと一緒にいる時には部活の話題を

口にはしないように心がけていたし、またアスカの方からそのことについて尋ねてくることも

めったになかったのだ。

ゆえに。

今でもアスカはまともにアメフトなるスポーツを観戦したことなど一度もないし、当然シンジの

プレー姿を見たこともない。

彼も、これまで一度も公式戦に出場したことなどなかったら、彼女を試合会場に誘ったことも

ないのだ。

それが。

「い、行くわ!!観に行く!!」

アスカが両手の拳を握り締めて宣言するのであった。

「い、行くって…?」

「アンタがレギュラー取ったって言うんだったら!!アタシ、アンタの試合を観に行くわ!!」

目を爛々と輝かせて宣言するアスカである。

「いや、あの…まだ、完全にレギュラーになったってことじゃなくて…。秋のリーグ戦直前に

決まることだから…。」

「何、弱気なこと言ってるのよ?!!さっき取れそうって言ったじゃない!!」

「う、うん…その可能性は限りなく高い…。」

「取りなさい!!!!」

元々闘争心旺盛、勝気で鳴らすアスカである。

自分の彼氏がスポーツ競技でレギュラーの座を射止めたなどということになったら、その応援

に力が篭らぬわけがないのだ。

今まで知らんぷりを押し通しては来たが、彼が全く辞める気はないと悟ってしまっている以上、

我慢もそろそろ限界なのである。

「観に行くから、絶対に!!だから、シンジ!!」

ぐっと顔を彼に近づけて睨みつけるようにするアスカ。こういう時シンジの腰が引けてしまう

のは、今も昔も変わらない。

「は、はい…。」

「だからシンジ!!それまでにアタシにアメフトのルールやら何やら、教えなさい!!」

「は…?」

「んなもん!!訳分からずに観に行ったって、つまんないわ!!観るとなったら、徹底的に

その内容を把握できるようになっておかなくっちゃ!!!」

「てってーてきに…?」

「そう!!てってーてきに!!」

……はあ…怖れていたことが…。

シンジ、心の中で呟く。

……アスカの性格からして…本気でアメフトにのめり込みそうだもんなぁ…。あれほど奥の

深いスポーツも無いから…。

……絶対僕より…のめり込むよ…アスカは……。

……そのうち……尻、叩かれることになるんだろうなぁ、僕……。

ふっと溜息を漏らす、憂愁の面影宿す青年、シンジ。

……どうせ…僕はずっと…アスカには自分の尻を叩かれっ放しで……それで、彼女のお尻

に敷かれっ放しの……そういうことに……。

「……なるんだろうなって…分かっては、いたんだ……。」

そんな……十七歳にしてもう、諦めていいのか、シンジ君…?

「いいんだ……。」

そうかい。

「何一人でぶつぶつ言ってんのよ、シンジ?!!

とにかく、そういうことに決定よ!!シンジ!!絶対レギュラー取るのよ!!」

アスカはソファから立ち上がり、ガッツポーズ。

「……僕の心配をしてくれていたアスカは…彼女は今、どこに…?」

シンジが冗談半分でそんなセリフを呟いたその時。

彼の頭を何かがふわっと包み込んだ。

何かが、ふわっと。

少し、汗の匂いも混じってはいたけど、甘い香りのする何かが、ふわっと。

「…?」

シンジはそれが、アスカが両腕で自分の頭を抱え込んで、その胸に優しく抱き締めて

くれたのだということを理解するのに、若干の時間を要したのである。

「あ、アスカ……。」

「……心配してるって…ずっと、ずっと…。

アタシの大切なアンタのことだもん……ずっとずっと、今までも、今も、そして…。

これから先も…ずっとずっとずっと…心配してるぞ…。」

まるで小さな子どもをあやすかのような口調でアスカが呟く、シンジの頭をその胸に

抱き締めたまま。

「……。」

「だからシンジ…アンタに何かあった時は、アタシがすぐに飛んで行ったげるから…。

だからシンジ…アンタはアンタのやってみたいことを…頑張ってやり通してみなさいよ。

アタシ、応援してるからさ。心配していると同時に、ううん、それ以上に、応援してる

からさ。ね?」

「…アスカ。」

だらんと下げていた両腕を持ち上げ、シンジはそれをアスカの腰の辺りに回す。

座っているシンジと、立っているアスカ。

二人は静かにお互いをその腕に抱きとめていた。

「…敷かれて…当然なんだな、やっぱり僕は…。」

「ん?何か言った?」

「何も…。」

「…そう…?」

しばらく無言になる二人。

アスカは優しく彼の頭を胸に掻き擁き。

シンジは静かにその顔を彼女の胸に埋めていた。

「ねえ…シンジ…。」

「…何…アスカ…。」

やがて、言葉が二人の元に戻って来る。

「…い、今から…さ…。」

「……。」

「その……ね…?」

「うん。」

シンジの返事は、アスカが予想していた以上に力強いものだった。

思わず腕の力を少し緩めて、自分の顎の下にあるシンジの顔を、その表情を見ようとする

アスカ。

その時、アスカは初めて思った。

三年前のあの日、太平洋上で出会って以来今日までの年月において。

それまで見たことのなかったような。

“男の顔つき”をして自分を見上げているシンジを。

ほんの少し笑みを口元に浮かべ、優しげな、しかしそれ以上に力強さをあふれさせた瞳で

自分を見上げているシンジを。

“少年”ではなく、“男”であるシンジを。

出会って三年が過ぎた今日。

初めて見たと。

彼女は思った。

「…愛してる…。」

思わず口をついて出た言葉。

それは、彼女が初めて彼に向かって投げかけた言葉。

“好き”だとは何度も言い、何度も言われて来たけれど。

それとは明らかに違う言葉。

初めて口にする言葉。

アスカは。

それをシンジに贈った。

「愛してる、アスカ。」

そして彼女は受け取った。

初めて、受け取った。

彼から贈られる、初めての言葉を受け取った。

シンジは静かに立ち上がり、今度は自分の胸に彼女の顔を引き寄せ、抱き締める。

アスカも黙って彼の行為に身を任せる…。

任せる……。

任せる、つもりだったのだが。

ドォォンッという鈍い音ともに、飛行船が一度大きく揺れた。

思わずたたらを踏む二人。

「な、な、何、今の音?!!!」

アスカがシンジの顔を見上げて叫ぶ。

「分からないけど…何かが爆発したような…そんな音だった!」

シンジは天井を、壁を見まわす。

その時、もう一度、今度はよりハッキリとした音が、爆発音が、二人の鼓膜を振るわせた。

ドォォンッ!!

「うわっ!!」

「きゃっ!!」

思わずお互いの身体を抱き締めて足を踏ん張るシンジとアスカ。

咄嗟に壁にかかっている時計に目をやるシンジ。

その時計は振動の影響を受けて、少し傾いている。

午前一時○四分。

飛行船“飛鳥”は、離陸してからきっかり十四時間後の今、火を吹いた。

…………………………………………………………………………………………………………

客室の扉が次々と開き、寝ぼけ眼の、或いはまだまだ睡眠とは縁のなさそうな目つきの、

客たちが一斉に廊下に首を突き出す。

「な、何だ、今の爆発みたいな音はぁ?!!」

「す、凄く揺れたわよ!!」

「何があったんだ?!!」

口々に騒ぐ客たち。だが、当然ながら誰もまだそれらの問いに対する回答を手に入れられず

にいた。

「ちっ、今の音は上層階の方だったわね!」

客たちが右往左往し始めた廊下を駆け足で通り過ぎる有美。

彼女は爆音が聞こえるや否や、貨物室から飛び出して来たのだ。

既に靴を履き、スーツの上着もきっちりと羽織っている。少々、皺になっているのはやむを

得ないことではあったが。

スカートの後ろ側に挟んだ消音器付きの拳銃は、上着が隠していた。

「やると思ってら、やっぱりやったか!芸の無いこと!!!」

憎まれ口を叩きながら彼女は上層階を目指す。

「先生、失礼します!!」

爆音とともに、スゥイートの一室に駆け込むS.P.たち。

先生、そう呼ばれた“某”大臣は、大きなダブルベッドの上に上半身を既に起こしていた。

「何だ、今の音は?!」

大臣はしかし、慌てた風もなくS.P.の一人に尋ねる。

「し、失礼します!!」

重ねてもう一度謝罪の言葉を口にするS.P.の男。

彼の気持ちも分からなくはない。

ダブルベッド、大臣が上半身を起こしているその隣には、胸の辺りまでシーツを引っ張り

上げてこちらを見ている裸の若い女性が“同伴”していたのだから。

「ば、爆発があったようです!それもこのフロアに近いところです!!

先生、急ぎお支度を!!!」

三人のS.P.はまずそれだけを言って、大臣と“同伴”の女性から視線をそらすようにして背中

向けになる。

「む、そうか。」

大臣は一言そう言って、ベッドから身を降ろす。

そして隣の女性を振り返って言う。

「ふむ、そんなわけだ。

ええっと…リエちゃん、だったな?

実に残念ながら今夜の続きはまた別の機会に…ということだな、わははははは。」

言われて女性、T.R.T.の元ボーカルのリエは少し口を尖がらせて見せながら、しかし声は

それほど悪びれた風も無く答える。

「ちぇっ…センセったらうまいこと言っちゃってさ…。

どうせここでお別れしたら、もうリエのことなんて丸っきり忘れちゃうくせにさ。」

「む、そうか。」

「そうか、じゃないわよ、センセ。ねえねえ、さっき私が言ったこと、忘れないでよねぇ?」

リエの甘ったるい声を背中に聞き、顔を見合わせて肩を竦めるS.P.三人。

「さっき言ったこと?」

「そうよ。あら嫌だわ、まさかもう忘れたんじゃないでしょうねぇ?

私は、ハリウッドへ行って女優になりたいの!!あんな、未来電器なんたらなんてチンケな

会社のキャンペーンガールなんてまっぴらなの!!

ねえねえ、センセはさっき、応援してくれるって言ったじゃなーーい!!

ね、ね?!!」

「む、そうか。」

答えつつ、服を着込む大臣。一方のリエは未だ素裸のままベッドの上。

「言ったわよぉ!!若い人材が世界を目指して飛び出して行くのはわが国にとっても実に

良いことだとか何とか言ってたじゃんかぁ!!」

「む、そうか。」

「応援するって言ったじゃなーーい!!

ね、ね、渡米資金だけでいいからさ!!ね、ね?!!」

「む、そうか。」

イエス、とも、ノー、とも取れる返事を繰り返す大臣であった。

その間にも彼は身支度を終える。

彼は、背中を向けたままのS.P.に尋ねた。

「よし、ワシは準備はOKだ。

で、どうするのか?」

一人がようやく振り返る。そして、一瞬その視線をベッド上の裸の女の方に泳がせたが、

それも束の間、大臣の顔を見て答える。

「このフロアに留まるのは危険です。ともかく、下のフロアへ避難いたします。」

「む、そうか。秘書のアサヒナはどうしたか?」

「は、既に先生のお荷物一式を取りまとめて、隣にて待機しておられます。」

「む、そうか。」

「参りましょう、先生。」

「ふむ。この飛行船は絶対に爆発せんという振れ込みだったのだがなぁ。」

「気球部に関してはそういうことなのですが、今爆発があったのは、船の部分でして…。」

「む、そうか。」

「お早く、先生。」

「うむ、しかし、何だな。わざわざ船が爆発したということは…爆発させられた、ということか?」

「無論、その可能性も…。」

「と、言うことはだぞ、お前たち?ある悪意を持ってそれを為したヤツがおる、ということだな?」

「はっ…それよりも今はまず…。」

「案外、ワシの命でも狙ったかな?わはははははははっ!!

ワシも“暗殺”されるような大物になったっちゅうことか?!!

わっはははははははははは!!」

「せ、先生……。」

急かそうとするS.P.と、一向に動こうとしない大臣。

大臣は一頻り豪快に笑い飛ばした後、頃合や良し、という具合にベッドを振り向いた。

「済んだか?」

「えっ?」

問われて、瞬時きょとんとするリエ。

彼女は、大臣とS.P.が話しを始めたと同時に、脱ぎ散らかしていたパンティやらブラジャー

やらを手早くかき集めて、身支度を整えていたのだ。

「服は着終わったかっちゅうとるんじゃ?

うむ、どうやら終わったようだな。」

リエの姿を見てそう断言する大臣。

「では、先に行きなさい。

このワシが娘っ子を一人残して、先にとっとと避難したなどと言われては、次回の選挙の時

のマイナスイメージになるわい!!

さあさあ!!

おい、一人そのお嬢さんを下へ連れていってやれ。」

……いや、ここでこんなアイドル崩れの若い女の子を相手に、その……などということをして

いた、何てこと自体がばれたら、次回の選挙すらないんですがねぇ…。

などと思いつつ、しかしS.P.の一人がリエをいざなう。

「何だ、私の着替えを待っててくれたんだ、センセ?」

リエが無邪気な笑顔を浮かべて言う。

「…素っ裸から服を着るのも、着替えっちゅうのかな?」

大臣も少し笑いながら答える。

「あははは、言うの!!

そっか、センセ、私の心配してくれたの?!」

「心配なぞ、せん!」

「うんうん、いいって。そっか、ね、センセ、私今年から選挙権あるんだ!!

次の選挙の時は絶対センセに投票するよ!!じゃ、ね!!」

元気にそう言って、リエは部屋を後にする。

「む、そうか。」

大臣はその背中を見て鷹揚に頷いた。

そして。

「ん…さっきは確か、まだ十八だっちゅうとったような気がしたが…。

む、そうか。」

残る二人のS.P.が彼に声をかける。

「先生、我々も参りましょう!!」

「まあ、待て。あの娘が下へ降りてからじゃ。

連れ立つように部屋を出る、などということが出来るか?

ワシも面子ちゅうもんがあるわい!!」

「はあ…。」

「慌てんでもええ。どうせ、死ぬ時ゃ何をしても死ぬもんじゃ、わははははははは!!」

……まったく、この先生は敵にはしたくないもんだ…。

そんな顔つきで、お互いを見合わすS.P.たち。

「…先生、そろそろよろしいかと思われます。」

「む、そうか。」

…………………………………………………………………………………………………………

「船長、船体上部、スゥイート・フロアにて爆発・火災発生!!」

「消化作業急げ!!被害は?!!」

「幸い、現時点での怪我人の報告は届いておりませんが…。

寝入りばなをたたき起こされた形の乗客たちが、かなり騒いでおります。」

「当然だろうな!!空を飛んでいる時の人間の本能的恐怖心は、“いつ、落ちるか?!”だ。

爆発して火を吹いた飛行船に乗ってる我が身を省みれば、騒ぎたくもなるさ!!」

「船長!」

「うろたえるな!!飛鳥はこの程度では落ちん!!スタッフ総出で乗客を宥めて回らせろ!!

この飛行船はこんな児戯の如きことではビクともせんとなっ!!!」

「はっ!!」

児戯、飛行船“飛鳥”の船長はこの時そう語ったと言われる。

この時点においては、彼の論評は決して間違ってはいなかった。

この時点、爆発がまだスゥイート・フロアの一箇所のみで発生した時点においては。

「現在のポイントから、近い空港はどこか?!」

「三沢ですが、船長!」

「三沢…か…。」

「船長?」

「…三沢は下りたくないな…。

先日の台風の際、滑走路の一部が破損して、使い物にならんということだったぞ?」

「そう言えば…そのようなことでしたが。」

「かと言って、青森では、この巨体の受け入れは不可能だろう。

…………。

火が完全に鎮火出来るということであれば、飛行に支障はない。

予定通り、北海道を目指すぞ。」

「しかし…。」

「無論、三沢へ通信は入れておけ。万一のために…な。」

「はっ…。」

「船長、報告が入りました。

取り敢えず、スゥイート・フロアの火は消し止めたそうです。」

「うむ。高度は?」

「現在、一○○四メートル、予定通りです。」

「…では、北海道へ行くぞ。」

「了解。」

飛鳥は、漆黒の太平洋上を、満天の星空のもと一路北海道を目指す。

…………………………………………………………………………………………………………

有美はごった返すラウンジにいた。

一度は爆発のあった上層階を目指した彼女だったが、爆発そのものが比較的小規模で、

火災も発生はしたもののすぐに飛行船スタッフによって消し止められたということだったの

で、途中から引き返して来たのだ。

何より、次々と部屋から飛び出してくる人の波に押されて前進できなくなったということでも

ある。

「八百人からの人が乗ってるんだもんねぇ、そりゃ、騒ぎたくもなるってもんだわ。」

有美はラウンジの人込みを何とかかわしながら壁際へ辿り着くと、一息入れる。

「…ま、この船のスタッフはそれなりによく訓練されてるわね…。

パニックになりかけた乗客たちを何とか宥めるのには成功してるみたいね。

…あの接客係の女の子の笑顔なんて引きつってるけど…それでもまあ、あれだけ丁寧に

応対していれば、お客の方も少しは落ち着くってもんでしょ……。」

有美はしばらくラウンジ内の喧騒を眺めていたが、とにもかくにもカウンターまで移動すると、

依然そこで自らの務めを忠実に果たしているバーテンに注文する。

「ねえ、トマトジュース頂戴。」

グラスに波々と注がれたトマトジュースを一口飲み、彼女は改めて状況を分析し直す。

「爆破…けれど、ごく小規模で、飛行船の飛行には何ら支障を来たさない程度の爆破…。

なんで?何が目的でそんなことを?

……今後、警戒して下さいって注意を促してるようなもんじゃない…。」

彼女の視線は、見るとは無しに眼前の人々の上に注がれ続けていた。

眠っている所を叩き起こされた、或いは今まさに眠りに落ちようとしていた、はたまた、夜は

まだこれからと気合十分だった…そんな様々な状態をぶち壊しにされた善男善女が相変わ

らず出ては入り、入っては出ていくを繰り返し、当分ここラウンジの騒擾は収まりそうにない。

「……。」

有美は赤い液体を喉に流し込みつつ、そんな情景を黙って見つめ続ける。

そして。

「……ターゲットを……あぶり出すためかっ……!」

既に戦闘思考に切り替わっている有美。

「ヤツら、単にこの船を落とすだけじゃなくて…その前に自らの手でターゲットを確実に…

葬り去るために…!

敢えて騒ぎを起こしたってことね!」

彼女は険しい視線でぐるりとラウンジ全体を見回した。

「……。」

しかし、その瞳には彼女の求めるものは何も捉えられなかった。

彼女は足早に歩き出す。

「行かなきゃ!!」

人々は情報を求めて、そしてそれ以上に安心感・安堵感というものを求めて次々とラウンジ

へとやって来る。

その流れに逆らいながら有美はそこを後にした。

貨物室内での格闘、加えてそこでの“爆弾探し”。

彼女は顔も服も結構薄汚れてはいたのだが、今は誰もそのようなことを気にする者などいない

ようである。

無論、彼女自身もそんなことを気にしている場合ではなかった。

人とすれ違い、肩をぶつけ、それでも彼女は前進を止めない。

やがて。

唐突に人気のないフロアへと辿り着く有美。

今までの喧騒が嘘だったかのような静かな廊下。

その左側は等間隔で窓が並び、暗黒を思わせる夜の空が眺められ、逆側にはファーストクラス

の部屋の扉が並ぶ廊下。

彼女は唐突にそこへ辿り着いた。

「……。」

そしてその廊下の奥に。

彼女は男の背中を見た。

この騒ぎの中で、慌てず騒がずに歩いていく一人の男の姿を。

彼女は直感で悟る、それが彼女の“お客さん”の一人であるということを。

気配を察知した男がゆっくりと立ち止まり、振り返った。

間違い無く、それは彼女が確認していた八人の男のうちの一人であった。

「……。」

「……。」

声一つ立てずに、廊下の端と端で向かい合う男と女。

それは向かい合い、というよりも、睨み合いであった。

……あいつのスーツの左肩下に銃…。

……私のはスカートの背中のところ…。

……どっちが早いか…勝負……ってとこかしらね…。

ほんの少し膝を曲げて前傾姿勢をとりながら思う有美。

……勿論、私の方が……。

一瞬、彼女が口元に笑みを浮かべたかのように見えた。

……私の方が、早い…!

勝負の瞬間が訪れた。

いや、訪れようとしたまさにその時!

二人の間でも、最も有美寄りのファーストクラスの部屋の扉が何の予告も無しに突然開いた

のだ。

「!!」

それは、男が自分のスーツの脇から拳銃を抜き、有美がスカートの背中の銃を手にしようと

していた時であった。

「パパーーっ!」

廊下に甲高い泣き声が響いた。

その声の主は、濃いピンク色のネグリジェ、しかし実際にはそんな色っぽいものなどでは

到底なく、この際は“寝巻き”という表現の方がぴったりであるような、そんな姿で唐突に

泣きながら廊下に出てきたのだ。

恐らく、二歳か三歳くらいの幼女。

当船・飛鳥のこの日の多分最年少の乗客だろう。

先の爆発騒ぎで、父親が眠っている娘を部屋に残して様子を見に出て行ったのであろう。

しかし父が戻る前に娘は目を覚ましてしまった。

突然、いつもの家の寝室とは違う空間で目を覚まし、側に父の姿を見付けることが出来

ずに……。

彼女は泣いてその父を求めて廊下に飛び出してきたのだ。

「パパーーっ!」

廊下にその甲高い泣き声が響いた時。

……パパ…お父さん……?

その瞬間、有美の脳裏に甦った過去の記憶、過去のビジョン。

(…お父さん!!お父さん!!!!)

(有美…早く…は、早く、逃げろ…!)

(お父さん!!しっかり、しっかりして!!お父さん!!!)

(…俺の…ことは…いいから……早く、行け…!)

(嫌、嫌よ!!お父さん、一緒に…!)

(駄目だ!有美、お前だけでも……早く!!!)

(お、お父さん!!!)

(…すまない、有美……。こんなことに…お前を……)

(嫌!しっかりしてよ、お父さん!お父さん!!一緒に、一緒に行こう!!)

(一人で…行け!!…そして、母さんを…頼んだぞ…!!)

(お父さん?!お父さん!!お父さんっ!!!)

……ごめんなさい、お父さん…私…私、お父さんの言葉、守れなかった…。

……ごめんなさい、お父さん…ごめんなさい、お母さん……ごめん……。

「ちっ!」

舌打ちとともに、彼女の身体は跳躍していた。

瞬時の思考の麻痺から立ち直った有美は、背中の拳銃を抜くと同時にその身体を幼女の

方へ一直線に飛び込ませていたのだ。

幼女の身体を抱きとめてその頭を自分の胸に抱え込み、そのまま廊下を二度三度と転がる

有美は、それでもなお右手にした銃をしっかりと握り締めて、男の方に狙いをつけようとする。

“シュッ”という消音器特有の音が、二度宙を行き交った。

「くっ!」

脇に痛みを覚える有美。

同時に、男も一瞬自身の左肩を押さえたかに見え、次には廊下の角を曲がって走り去って

行った。

「……。」

しばらく、有美は幼い女の子を抱き締めたまま廊下に横になってじっとしていた。

何が起こったのか理解できない女の子は、泣き声すら上げずにこちらもじっと有美に抱き締め

られたままであった。

いや、しがみついていた、と言った方が良いか。

「ふう…。」

ようやく、溜息をつきつつ有美がゆっくりと身体を起こし始める。

幼女も自然、抱き起こされる。

……脇腹に、かすり傷…ってとこね。

……止血すりゃどうってことないわね、この程度は…。

……でも…。

「…女の柔肌によくも傷をつけてくれたわねぇ……。」

呟く有美の顔を見上げる幼女。

しかし、有美のブラウスの左脇に血が滲んでいるのを目ざとく見つけて見る見るうちに

泣き出しそうな顔になる。

だが、有美はそんな女の子の顔を優しい笑顔でのぞき込みながら言うのであった。

「…ふふふ、大丈夫よ、お嬢ちゃん。そんな顔しないの…。

女はねぇ、この程度の血を流すことを恐がってちゃ駄目なのよ…女はね……。」

その笑顔があまりにもあどけないものに見え、今にも泣き出しそうだった女の子は、

きょとんとした顔つきになる。

「…あなたも大きくなったら、分かるわ。…嫌でも、分かるようになる……。」

有美はそう言いながら優しく幼女の髪を撫でてやる。

不思議そうな表情で為すがままにされる女の子。

「…さて…と。

お部屋に戻ってなさい、お嬢ちゃん?

パパは…パパはね…すぐ戻ってくるから…。

絶対に、すぐあなたの所へ戻ってくるから…。

それまで、お部屋で待ってなさい、いいわね?」

「…すぐ…戻ってくるの…?」

初めて幼女は有美に向かって話しかけた。

その瞳は、有美が今言った言葉を、もう一度聞かせてほしい、その言葉を肯定して

ほしい、そう訴えかけている。

「…そうよ…。

すぐに戻ってくるわ、あなたのパパ…。

だって…。」

……だって、あなたのパパは生きているんですもの…。

……私のお父さんとは違って……。

「…うん、待ってる…。」

こっくりと頷く幼女。

立ち上がり、その手を取って部屋へと導いてやる有美。

女の子は部屋の中へと入った。

「いい?しっかりと鍵をかけるのよ?分かった?」

しゃがみ込んで女の子と同じ目線の高さになりながら有美がそう言う。

女の子は今一度こっくりと頷いて答える。

「うん、分かった。」

そして彼女はちらっと有美の左脇に視線を送る。

ブラウスに血が滲んだ箇所に視線を送る。

「ん?」

不思議そうな顔を笑顔に滲ませながら有美がそう尋ねると、思い切ったように女の子は

言った。

「…お怪我…してるよ……。痛くないの?」

「……アリガト…平気よ、これくらい。」

有美はもう一度女の子の髪を撫でてやる。

ようやく女の子も笑顔を取り戻した。

「さ、もう閉めるわよ。パパが帰ってくるまで、お外に出ちゃだめよ、お嬢ちゃん。」

立ち上がりつつ扉のノブに手をかけて有美が言う。

彼女はゆっくりと扉を閉めた。

閉まり際、女の子が有美を見上げながら言った。

「うん!!バイバイ、おばちゃん!!!」

バタン。

扉は閉じられた。

その扉に向かって立ち尽くす有美。

その笑顔は。

少しばかり引きつっていた。

「……おばちゃんって……誰のこと言ってんのよ……まさか、この“おねーさん”に向かって

言ったんじゃ…ないでしょうねぇ……。」

三十歳、これからようやく女盛りを迎えようかというお年頃。

色気に欠ける体型とは言え、華の独身!

けれどそんな彼女も。

幼女から見れば立派な“おばちゃん”扱いだった。

「抱えて廊下を転がった時、二回ほどあの頭を床にぶつけてやれば良かったかしら…。」

いくら何でも、そりゃあんまりだって…。

…………………………………………………………………………………………………………

シンジとアスカの二人、彼らもまた爆発騒ぎが起きた時部屋を出たのだった。

けれど彼らは他の乗客とは違って、或る意味ではこのような事態に対しては一般人よりも冷静

に対応出来るだけの心構えを持ち合わせていた。

それが。

結果的に自分たちを窮地に負い込むこととなる。

人々がラウンジへ殺到しそうだと見て取った二人は、敢えてその波に混じることを避けたので

ある。

彼らは船の状況を確認しつつ、廊下をしばらく歩いていた。

万一の際の非常口・脱出経路はどこか、などを確認しつつ。

二人は並んで、手をつないで歩いていた。

「爆発も振動も収まったみたいね。」

アスカが隣を振り向きつつそう言う。

「うん…皆大慌てで部屋から飛び出したみたいだけど、それほど騒ぐ必要も無かったみたい

だ。」

シンジは彼女の言葉を肯定した。

「“広い海”さんが言ってた仕事ってのと…関係、あるんだろうなぁ、やっぱり。」

「“広い海”ねぇ…変な女に関わっちゃったもんだわ…せっかくの二人の旅行だってのに…。」

ぶつぶつ言うアスカの横顔を見て苦笑を浮かべるシンジ。

「さ、アスカ。部屋に戻ろう。取り敢えずは問題ないと思う。」

「うん、そうしよ、シンジ。」

二人は今歩いてきた廊下を戻り始める。

途中で数人の乗客とすれ違う。

それも一段落して、次の角を曲がれば部屋に着く、という時。

一人の男とすれ違った。

二人は、すれ違った。

男は彼らといったん行き違った後。

ぴったりと二人の、アスカの背中に張り付いた。

「あっ?!」

シンジとアスカが同時に小さな声を上げる。

それを制する男の低く野太い声。

「…声を上げるな。背中に突き付けられているものが何だか分かるな?」

アスカの背中に突き付けられたもの、拳銃。

「……。」

無言で顔と顔を見交わすシンジとアスカ。

「そのまま、Uターンしろ。そして、俺と一緒に来い。」

静かな、有無を言わさぬ口調で命令する男。

「一体…?」

シンジが疑問を口にしようとした時、男は重ねて言った。

「しゃべるな…。黙って歩け。」

彼はぐいっと、アスカのブルーのドレスの背中に銃口を押し当てる。

一旦開きかけた口を閉じ、シンジはアスカと黙って目と目を見交わすと、静かにUターンして

廊下を歩き始めた。

ゆっくり、ゆっくりと。

背中に、銃を突き付けられながら。

「さてぇ…どこに行ったのかしらね、私の“お客さん”たち…。」

有美は、男が消えた方を目指して小走りに追跡を開始していた。

「左肩を撃ったはず…。」

時折床に視線を投げかけつつ、有美は進む。

所々、血の滴った後が残っている。

「“広い海”様、ごあんなーーい、ってか…。」

再び彼女の目は爛々とした輝きを宿していた。

「どこへ…行くんです…?」

「黙れ…そこを降りろ。」

シンジの問いを無視し、男はそう命じた。

それは、先にシンジもアスカも通ったことのある場所。

最下層の貨物室へと通じる通路・階段であった。

「…あんまり、行きたいとこじゃないのよねぇ…。」

しらっとして無駄口を叩くアスカ。

「…。」

無言でその背中に銃口を押し付ける男。

「…はいはい、と…。」

極めて軽い調子でそう言いながら、歩き出すアスカ。

シンジは、そのアスカの横顔をチラッと眺め見た。

そして、彼女の額、こめかみに薄っすらと汗が滲んでいるのを見て取る。

……僕たちはもう…三年前のあの時とは、違うんだ…。

……アスカはもう…こんな、こんな目に遭ってはいけない女の子なんだ…。

……こんな目に遭わせては…いけないんだ…!

強くそう思うシンジ。だが、銃を突き付けられている今は、彼としても為す術がなかった。

……でも、必ずチャンスは…巡ってくる!

そう信じ、今は黙って男の指示に従うシンジであった。

二人は通路を無言で進む。時折、チラッチラッとアスカがシンジの方を見る。シンジはその

都度目で頷きを返す。

「……。」

「……。」

「……。」

男を含めた三人は、しばらく無言で廊下を歩き続けた、貨物室へ向けて。

手負いの男を追っていた有美は、その瞬間咄嗟に顔を廊下の角に引っ込めた。

「おっと!!」

たった今、自分が顔を突き出したあたりを、空を切って弾丸が通り過ぎる。

追われていた男が、廊下の先で有美を待ち伏せして銃を構えていたのだ。

「かぁっ!見境なくこんな場所でぶっ放し始めたってのぉ?!!」

自らも銃を構えなおし、さっと角から飛び出す有美。

しかしその先には、既に相手の姿は消えていた。

「待てっつうのよ!!」

彼女は再び走り出す。

「船はそろそろ本州沿岸を離れて太平洋、大海原の上空へ…か!

ここでケリを着けようってわけね!!」

もはや銃を隠すなどということも念頭に無く、有美は走り続けた。

「望む所よ!!!」

次の角を曲がった時。

その並びの部屋の奥まった所の扉が閉まったように、彼女の目には写った。

「…そこか…?!」

ファーストクラスの一室。

有美はさっとその扉に近づいて壁に張り付く。

「誘ってるってわけよね、この私を。

……OK、OK、別に男に不自由してるってわけじゃあないけれど…。」

有美はそう言いながら右手で銃を顔の高さに構え直し、左手で扉のノブを静かに回した。

鍵は、かかっていない。

実のところ、今の彼女には特定の恋人もボーイフレンドもいない、というのが本音なのだが。

「不自由してるってわけじゃあないけれど……。

乗ってやるわ、お誘いに!!!」

一息に扉を引き開け、彼女は室内に飛び込んで行った。

「入れ。」

男に促され、シンジとアスカは“あの”貨物室へと入っていった。

続いて入室し、後ろ手に扉を閉ざす男。

シンジとアスカは手をつないだまま、ようやく振り返る。

彼ら二人の前に立つ男。

今だかつて、出会ったこともない男。

だが、明らかに自分たちに対して害意を持つ男。

腰の辺りで銃を持ち、自分たちに狙いを定めている男。

無表情な…男。

「誰です…あなたは…?」

静かにシンジが問うた。

こういう時、こんな冷静な声が出せるのは、やはり三年前の経験があるからだろうか?

それとも、高校進学以来部活で心身ともに健全に鍛えられてきたおかげだろうか?

ふっとそんなことを思うシンジ。

「誰でもない…そして、それをお前たちが知る必要もない。」

男は小声でそう答える。

「…なんで、アタシたちにそんな物騒なもん、突き付けてんのよ…?」

静かにアスカが問うた。

こういう時、こんな冷静な声が出せるのは、やはり三年前の経験があるからだろうか?

それとも、シンジが、彼がこうして隣に立って、自分の手を取ってくれているからだろうか?

ふっとそんなことを思うアスカ。

「ほお…全然取り乱さないな、二人とも…。

さすがだな…。」

それまで全く無表情だった男の顔に、ほんの少し変化が見えた。

残忍な笑み、とでも言えるようなものが、見えた。

「…さすが…?」

シンジが男の言葉尻を捉えた。

「ああ、さすがだ…。」

にやっとしつつ、鸚鵡返しに言葉を返す男。

「…どういう、ことよ…?」

アスカが問う。彼女の額には、依然汗が浮かんでいる。

今の男の言葉と表情に、とてつもなく嫌な予感とでもいうものを察知したのだ。

「…お前たちが知る必要は、ない。」

男が静かに、断言した。

「知ったところで、どうせすぐに死ぬんだからな…。」

ツインタイプのファーストクラス。

灯りが完全に消されて真っ暗な状態ではあったが、先にシンジたちの部屋に足を踏みいれた

ことがあったので、有美はその構造を大まかに理解していた。

まず、ベッドがある寝室。そして、その奥にもう一部屋…。

室内全体に殺気を感じる有美。

腰を屈めて低い態勢を取りながら、じりじりと室内を進む。

「奥の…部屋…か…?」

暗闇の中で有美がそう思ったその瞬間。

二つ並んだベッドの隙間から人影が突然起き上がり、彼女に銃を向けようとする。

咄嗟に身体を仰け反らせて背中から床に倒れこむ有美。

だが、彼女はただ単に倒れ込むのではなく、それと同時に右足を振り上げて相手の腕を蹴り

上げようとした。

一瞬の錯綜。

有美の右足は確かに相手の腕を跳ね上げ、その手先から拳銃を弾き飛ばしていた。

しかしそれと間髪を入れぬくらいの素早さで、相手は有美に掴みかかり、同様に彼女の腕から

拳銃を横殴りに振り払っていたのだ。

丸腰になる有美と男。

床へ仰向けに倒れた有美の上に男が飛びかかる。

その腹を、今度は左足で蹴って押し返す有美。

一旦は押し戻されかけた男だったが、何とか踏ん張ると再び彼女に掴みかかろうとする。

有美は態勢を立て直そうと身体ごと後へ飛び退る。男の拳は空を切った。壁に背中を押し当て

てそのままするすると立ち上がると、有美も攻撃姿勢に移る。

「たっ!」

気合いの声もろとも、今度は有美が拳を相手目掛けて突き出した。

それを、これまた無言の気合いとともに片手で払いのけ、反撃に出る男。

有美もまた片手の肘を突き上げて相手の殴打を防ぎ、隙が出来たと見た相手の腹部に

正拳突きを食わせようとする。だが、男はこれも身体を捩ってかわしながら膝蹴りを見舞

おうとし……。

決して広くはないファーストクラスの寝室で、暗闘が繰り広げられる。

「知ったところで、どうせすぐに死ぬんだからな…。」

その男の言葉を聞いた時、シンジもアスカも悟った。

……人違いでも、何でもなく…僕たちを殺すために…この部屋へ連れてきたんだ…。

……このままじゃあ、殺されちゃう……。

繋がれていた二人の両手は、いつしか解き放たれていた。

右にシンジ、左のアスカという立場で二人は寄り添って立っていた。

向かいに、ぴたりと銃口をこちらに向けて立っている一人の男。

やがて。

「……。」

アスカは感じた。

自身の右手の甲に、感じた。

その右手は開かれた状態で表を向けられており、手の甲の方は男から見えなかった。

そこに、彼女は感じた。

「……。」

表情一つ変えないアスカ。

だが。

……この…リズムは……。

リズム、そう、今彼女の右手の甲に、シンジの左手の人差し指の先が、とんとん、と当てら

れいる、ある一定のリズムを伴って。

……このリズム…これは……。

シンジもまた表情一つ変えてはいなかった。

まっすぐに男を、男の目を見つめて立っていた。

だがその左手は、アスカの右手のすぐ後に位置しているその左手は。

先ほどから一定のリズムを刻み、その人差し指は彼女の手の甲をとんとんと突付いていた。

……覚えているだろ、アスカ…このリズム……。

……気づいて……。

二人とも、前を見ていた。その瞳はじっと、動かなかった。

けれど、お互いが隣に感じる相手、三年前の修羅場をともにかいくぐって生き抜いて来た

相手、恋人であり、家族であり、友人でり……戦友であった相手。

意思が。

お互いに。

流れ込んだ。

……忘れるわけないわよ、シンジ。

……三年前のあの時、初めて同じ屋根の下で暮らすきっかけとなったアレ…。

……特訓…ユニゾンの、特訓……。

……耳にタコができるほど繰り返し、繰り返し聞いたあの音楽、あのリズム…。

……アタシたち、二人の、リズム。

……そう、あのリズム。

……結局、僕たちを結び付けてくれることになったあのリズム。

……今でも鮮明に思い出すことの出来る、あのリズム。

……忘れるわけないよね、アスカ。

……僕たち、二人の、リズム。

……いいわ、シンジ…。

……アタシは、準備OK…。

……OKの三連発よ。

……じゃあ、行くよ、アスカ…。

……ワン…ツー……。

「騒ぎもしない、か…。物分りの良いことだ…。それで…。」

男がそう呟いたその時だった。

「スリー!!」

シンジとアスカが同時に叫んだ。

そして。

アスカは横っ飛びに荷物棚の陰へと飛び込む。

シンジの方は脱兎の如き勢いで、真正面の男に向かって跳躍した。

この翌年の十二月、高校アメリカン・フットボール界の頂点を極める決戦“クリスマス・

ボウル”において、最終第四クォーター残り五十四秒、値千金のインターセプトを決めて

私立第三新東京学園高等部“ワイルドキャッツ”を念願の高校チャンピオンに導くこと

になる男・碇シンジの渾身のタックルだった。

文字通り虚を突かれた男は手にした銃の引き金を引くタイミングを失った。

二人はそのままもつれ合って貨物室の床に倒れ込んだ。男の右手を払いのけ、拳銃を

床に滑らせるシンジ。完全な油断から、武器を失った男は、しかしすぐさまシンジの首を

締め上げて反撃に移る。

二人は上に下になりながら、床を転がる。

「シンジっ!!」

アスカが棚陰から飛び出して、シンジに加勢しようとする。

しようとするのだが、二人の男がめまぐるしくその位置を入れ替えるものだから、彼女と

しては手の出しようがない。

「ぐっ…!」

「うっ…くそっ!」

掴み合ったまま、より自分が優位な姿勢に立とうと力比べを続ける二人。

アスカは周囲を慌ててキョロキョロと見回す。

……何か、無い?!!

荷物棚からその周辺をぐるっと見回し、アスカは見つけた。

「あれだっ!!」

アスカは“あれ”に向かって駆け出す。

もう、ドレスの裾など構ってはおられない状況であった。

彼女は裾をからげて一目散に“あれ”なるものに辿り着く。

それは、乗客の荷物の一つ、ゴルフバッグであった。

ビニール袋を破り、ファスナーを下げるのももどかしく、中のアイアン・クラブを一本

引っこ抜くアスカ。

その間、二人の男の形勢がほぼ決まりかけていた。

やはり、鍛えているとは言ってもシンジはまだ高校二年生、プロの“殺し屋”に一対一で

到底抗しようはずもないのであった。

完全に下に組み伏せられ、首を締め上げられるシンジ。

何とか両腕を突っ張って男を自分の上から排除しようとするのだが、男の圧力はそれに

勝っていたのである。

「くぅっ…!!」

唸り声を洩らしながらシンジはあらん限りの力を振り絞って、男の顎に手をあてがって

押しのけようと懸命の努力を続ける。

しかし男は顔を仰け反らせながらも、シンジの首にまとわりつかせた指の力を一向に

抜こうとはしなかった。

……くそっ!!

シンジがそう思った瞬間。

「おりゃあっ!!!」

甲高い雄叫びとともに、銀色の鞭がしなやかに宙を切り裂いた。

ガツンッという鈍い響き。

「うわっ!!」

叫び声とともに、男がシンジの首からその手を引き離し、横へ吹っ飛んだ。

文字通り、吹っ飛んだのである。

「ごほっごほっ!!」

身を起こしながらせき込むシンジの前に、ゴルフクラブを両手で真正面に構えたアスカが、

両足を広げて立っていた。肩で息をしながら、クラブを握る手を少し振るわせながら、

しかし床に転がった男を睨み付ける眼光凄まじく、アスカが立っていた。

「ち…っ、こ、このガキ!!」

後頭部に強烈なクラブの一撃を食らい、そのあたりを摩りつつ男が片膝突いて立ち

上がろうとする。

「…こ、殺してやる!」

怨嗟の言葉ととにアスカを睨み返す男。

だが、アスカもそんなことで怯んだりする乙女ではなかった。

「ふん!!最初からその気だったくせに!!」

売り言葉に買い言葉を返す。

「てめぇっ!!!」

先ほどまでの余裕の表情などどこへやってしまったのか、男は勢い良く起き上がると

アスカに掴みかかろうとした。

「うりゃぁーーーっ!!」

しかし、アスカはその男に向かって無茶苦茶にクラブを振り回し続け、付け入る隙を

与えない。この際、長いウッドではなく、短いアイアンを選んだのはアスカの聡明さの

為せる技と言えたであろう。

無論、彼女はそんなことを計算したのではなく、一番手短な一本を引き抜いたに過ぎない

のだったが。

「ち、ちくしょう!!」

アスカに、二人に近づき得ない男が毒づく。

その時、息を整え直したシンジが立ち上がった。彼はアスカの背後にすっと近づくと、

その肩に手を乗せる。

振り回すクラブの手を止めるアスカ。

「有難う、アスカ!」

「シンジ!」

「もういいよ、君はもう…いいんだ。」

「…シンジ…。」

「闘うのも…守るのも…僕の務めだ…。」

彼はそう言うと、アスカの手からゴルフクラブを静かに取り上げた。

「シンジ…。」

「下がってて…アスカ…。」

シンジはそう言うと、アスカの前に一歩進み出て、ゴルフクラブをまるで竹刀のように

構え持つ。

二歩、三歩と後退るアスカ。

男と正面から向き合うシンジ。

「もう…エヴァが無くったって…。

もう、父さんがいなくったって…ミサトさんがいなくったって…リツコさんがいなくったって…。

それでも…僕は…。

僕は、闘える。

アスカのためなら、僕は、闘えるんだ。」

怒気、殺気、闘気…そんなものを身体中から迸らせながら、シンジは呟いた。

「例えどんな状況に追い込まれようと…アスカのためなら…僕は…。

僕は、闘う!!」

手にしたクラブを振りかざし、シンジは男に向かって行った。

「たぁーーっ!!」

ファースト・クラスの暗闘は決着がついていた。

左の脇腹を押さえ、床にうずくまる有美。

その額には脂汗が滲んでいる。

「うっ…!」

歯を食いしばって痛みをこらえる彼女の前には、男がうつ伏せになって倒れていた。

その倒れた頭部の脇に、部屋備え付けの電気スタンドが転がっていた。

その台座の三分の一ほどが割れた状態で。

「つっ…!痛たたたっ……!!」

壁に手をかけて起き上がろうとして有美は、我ながら情けないと思える悲鳴を口にした。

ブラウスの脇に、新たな赤い染みが広がる。

「…止血…する前だったからねぇ…!」

一人、言い訳めいた言葉を口にしながら、彼女は立ち上がった。

武器を手にしない素手の格闘。

今回の男は、これまでの五人とは少々手応えが違った。

有美が左脇、男が左肩にお互い手傷を負っていたにも関わらず、否、負っていたからこそ、

その闘争は熾烈を極めた。

有美もしたたか顔を殴られた。無論、その数倍に匹敵するパンチを相手にお見舞いしは

したが。

有美もしたたか腹を蹴られた。無論、その数倍に匹敵するキックを相手にお見舞いしは

したが。

有美も、馬乗りになられて、その頭を床に叩きつけられた。無論、その数倍に匹敵する

衝撃を相手の後頭部にもお見舞いしはしたが。

危なかったのは、傷を負っていた脇に強烈な拳を見舞われた時だった。

さすがにあの時は有美も、息が詰まる思いがした。

傷口が開き、鮮血が迸った。

まずい!そう思った時には、完全に男に床に押し倒され、組み伏せられたかと思われた。

だが。

倒れ込む時、彼女は咄嗟にベッドサイドのテーブル上にあった電気スタンドを片手に掴んで

いたのだ。

そして、右手を一閃。

勢い良く飛びかかろうとしていた男にとって、それは余りにも見事なカウンターとなって、

側頭部にめり込んだ。

有美は。

六勝目を上げたのである。

「あう…イッタいなぁ、もう…。」

脇を押さえ、彼女は完全に立ち上る。

傷口に手をあてがい、しばしじっとする有美。

「…かすり傷よ…こんなもん…。」

彼女は自らに言い聞かせるように呟いた。

一歩、二歩と歩いてみる。

大丈夫、まだいける。

大丈夫、まだ充分闘える。

大丈夫、まだまだ……。

「…よしっ!」

彼女はそう言って室内を見回した。

自分と、男の銃が落ちているはずだ。

「…時間が…無いのよねっ!」

あちこちをひっくり返し、彼女は二丁の拳銃を手にする。

「…こっちはもう、弾切れか…。」

そう言うと、彼女は一方の銃を手早くベッドの下へと押し込むと、もう一丁をまたスカートの

背中の辺りへ押し込みながら部屋を後にする。

「急がないと…あの二人が!!」

彼女は廊下に出た。

そのままファーストクラスのフロアを駆け出す。

目指すはF三○七号室。

彼女は懸命に走った。

途中、何人かの乗客とすれ違う。

行き違う人々は驚いたように目を見張って、疾走する有美に道を譲るのであった。

「部屋でじっとしていろって言った、私の言いつけを守っててよ、二人とも!!お願い

だから!!」

有美はそう念じながらF三○七号室の扉の前へ辿り着いた。

大急ぎでチャイムを二度三度と押し鳴らす。

そして。

唇を噛み締めて立ち尽くす。

扉の内。

F三○七号室の扉の内側。

まるで人の気配というものが感じられない。

余人ならいざ知らず、有美にはそれがはっきりと感じ取れたのだ。

後悔の念とともに。

「しまった!!」

…………………………………………………………………………………………………………

シンジは大きく肩で息をしながら立っていた。

その横には、アスカが寄り添うようにして、やはり荒い息をしながら立っていた。

彼らの足元には、気を失った男が一人。

シンジに、ゴルフクラブで殴打されて力尽きた男が一人、倒れていた。

「はあっ、はあっ…。」

依然、肩で息をするシンジは、全身が汗まみれで、かつ頬の辺り、そして服の下だから

見えこそはしないが、腹部やら太ももの辺りにアザをこしらえていたのである。

「大丈夫、シンジ?!」

心底心配そうにアスカが声をかける。

「はあっ、はあっ……だ、大丈夫だよ…アスカ…。

君の方こそ…?」

シンジが彼女の顔を見返しながら苦しそうな息の中から尋ねる。

「アタシは大丈夫よ!シンジが守ってくれたから!!」

そう言って、シンジの胸にしがみつくアスカであった。

「アスカ…良かった……。」

「うん…。」

シンジはクラブを床に放り出して、アスカの背中を抱き締めた。

それに答えるかのように、彼にしっかりとしがみつくアスカ。

「アスカ…。」

「シンジ…戻ろう…部屋へ。

早く……。」

「うん、そうしよう。」

お互いの顔を見つめ合い、頷き合って、二人は歩き出した。

歩き出そうとした。

そして。

彼らの正面に、新たな男が立っているのを見るのであった。

「あっ?!」

思わず声を上げるアスカ。

シンジは咄嗟に彼女の肩をぎゅっと抱き寄せる。

男は静かに二人を見つめ、そして彼らの足元に倒れている男を見つめる。

彼は唇を動かした。

そこから紡ぎ出される声は、抑揚の無い、静かな、しかし危険に満ちたものだった。

「情けない話だ…。

女一人と……子ども…お前たちのような子どもに…こうも手玉に取られるとは…。

俺の部下どもも、ここまで緩んでいたとはな…。

冗談ではなく、俺もヤキが回ったということだな。」

男は、本来ならスーツ姿であったのだろうが、上着は脱ぎ捨てていた。

そして、あるものを背負っている。それが何であるか、シンジもアスカもはっきりと理解

した。

「…ふん、というよりも、さすが、と褒めるべきかな?」

男は、相変わらず抑揚の無い声を連ねている。

その手、右手にはやはりと言って良いのかどうか、拳銃が握られている。

そして左手には、小さな銀色の箱。

「…この男の人も…僕たちに向かって“さすが”だとか何とか言っていました…。

あなたたちは一体、何者なんです…?」

こんな時でも、取り敢えず目上の者には敬語で接してしまうのがシンジのシンジたる

ところ。

「知ってどうする?」

男が逆にシンジに問う。

それは、シンジの問いを封じるのに充分な一言でもあった。

「…ふむ、だが、教えてやろう。」

男は、二人との間合いを少しずつ詰めながら言った。

少しずつ、少しずつ後退りをするシンジとアスカ。

……この男は、さっきの男とは違う……。

……隙が…無い……。

アスカの肩を抱き締めながらそんなことを考えるシンジ。

「俺たちは。」

男が更に前進しながら言う。

「俺たちは、ただの“仕事屋”だ。

依頼に応じた仕事をこなす、それだけのことだ。」

「…仕事?」

アスカが呟く。

「そう、仕事だ。

殺し、誘拐、破壊活動、テロ…その裏工作から実行まで、全ての依頼を仕事として引き

受ける。それだけのことだ。」

「……。」

「四ヶ月ほど前、ある依頼を受けた。

そしてそれを実行するためにこの飛行船“飛鳥”に乗り込んだ。

だが。」

男はその時初めて表情を変えた。

自虐的な笑みが口元に薄っすらと浮かんだ。

それを見てぞっとし、思わずシンジのシャツにかけた手を握り締めるアスカ。

「だが、これまでの仕事の中でもこれはどうやら最低の首尾、ということになってしまい

そうだな。

勿論、依頼された内容はきっちりと片付けるつもりだがな。」

そう言って男は左手に乗せている銀色の箱を軽く揺さぶって見せる。

自然、シンジとアスカの視線はそちらに向かう。

「ふん、これか?

これはリモートコントロールだよ。爆破のね。」

「爆破…?!」

「そう、さっきも一回やったろう?あれだよ。

ま、あれは一番小さいヤツでね。

当初計画とは多少順番が変わったが、あれはあれで役に立った。

こうしてターゲットを誘き出すことが出来たんだからな。」

「…ターゲット…?」

「まあ、いい。

このコントロールのそれぞれのスイッチを入れることによって、動力室に仕掛けた

爆薬と、ここ…。」

そう言いながら男は銃で室内をぐるりと指し示して見せた。

「この貨物室に仕掛けた爆薬を爆発させることが出来る。

特に動力室に仕掛けたのは量・質ともに強力なやつだ。

“飛鳥”は、太平洋の藻屑と消える…。」

そこまで言って、男は足を止めた。

シンジとアスカがコーナーに詰まる。

男は無表情に戻って銃を構えた。

「ターゲットとともに……。」

…………………………………………………………………………………………………………

消音器付き銃の発射音。

“プシュッ”という空気を切り裂くような嫌な音。

二人はそれを今日、何回聞いただろう。

嫌な、嫌な音。

それを何回聞いただろう。

そしてそれがまた今。

シンジとアスカの耳に、聞こえた。

「!!」

誰も悲鳴など上げなかった。

いや、上げ得なかった。

弾丸は宙を瞬時に舞い、血がその後を追う。

男は。

引き金を引く直前に右腕に焼ける痛みを覚え、思わずその銃を取り落とした。

二の腕あたりから血が滴り落ちる。

「くっ?!!」

咄嗟に棚陰に身を潜める男。

その後を追うかのように弾丸が数発送り込まれる。

「シンジ君!!アスカちゃん!!二人とも無事?!!!」

そう叫びながら銃を連射し、駆けて来る人物がいた。

「う、有美さん?!!」

シンジがアスカを抱き締めながら叫んだ。

「無事なのね?!!早く、早くここから逃げて!!」

有美のその声を聞くまでも無く、男が銃を取り落としたのを見て取ったシンジは、アスカを

抱えたまま走り出す。

アスカも、シンジに抱き締められたまま懸命に足を動かした。

「ちっ!!」

男は物陰から二人が駆け出すのを見て舌打ちする。

そして。

「行かせるか!!!」

手元のリモートコントロールのボタンの一つを“ON”にスライドさせるのであった。

鼓膜が破れるか、そう思えるような大音響。

足元が波打つような振動。

それらがシンジ、アスカそして有美の三人を襲う。

貨物室に仕掛けられていた爆薬。

有美が結果的に発見することが出来なかった爆薬。

それが今、爆発したのだ。

六体の男たちの身体ごと。

ドオォーーンッという爆音とともに。

貨物室の一角が完全に吹き飛び、穴が開く。

バランスを崩した飛行船“飛鳥”はその瞬間、大きく傾いた。

穿たれた穴へ向かって、次々と滑り落ち、宙に放り出される貨物室内の荷物群。

その中には、アスカがクラブを“拝借”した、生命の恩人とも言えるべきゴルフバッグも

含まれていた。

「きゃっ!」

アスカの短い叫び。

爆発の衝撃で二人はバランスを崩した。

シンジが抱き締めていたアスカの身体は、彼の両腕からすっぽりと抜け落ちるかのよう

に離れ、そのまま床へ…傾いた床へ倒れ込む。

そして一斉に雪崩れうつかの如き荷物に押されるかのように、彼女の身体も穴へ向けて

滑り落ちて行く。

「アスカっ!!!」

シンジがダイビングするかのような格好でアスカ目掛けて飛び付こうとする。

「シンジっ!!」

アスカは棚やら荷物やら、とにかく手当たり次第に何かにしがみつこうとして手をさ迷わせ、

しかし掴めるものを見出せずにずりずりと穴へ、そしてその先、暗黒の空と海に向けて

滑って行く。

「掴まって、アスカぁっ!!」

シンジは頭から彼女の方へ向かって突っ込んで行った。

左腕を大きくアスカの方へ広げながら。

アスカは懸命に手を伸ばした。

シンジに向かって手を伸ばした。

一体、アタシがこの男にこうして手を伸ばしたのはこれで何度目だろう?そんなことを一瞬

考えながら、彼女は懸命に手を伸ばした。

なんで、この男なんだろう?

なんで、こいつなんだろう?

なんで、シンジなんだろう?

なんで、なんで、なんで…。

いつもアンタは……。

次の瞬間、アスカの左腕が、シンジの左腕に絡み付く。

刹那のタイミングでシンジはその腕を引っ張り、彼女を身体ごと引き寄せる。

シンジはアスカを左手一本で抱えたまま、穴に向かって滑り落ちて行った。

「シンジ君!!アスカちゃん!!」

有美が叫ぶ。

彼女もまた、今の爆発のショックで床に叩き付けられ、手にしていた銃を既に見失っていた。

シンジは今度は必死で右腕を伸ばした。滑り行く床の上で、必死に右腕を伸ばした。

アスカ目掛けて飛び込んだ時、彼は既に目標にメドをつけていたのだ。

倒れ掛かっている荷物棚の横の支柱。

あれを掴みさえすれば!!

シンジは思い出していた。

この春、ディフェンス・バックの一員としての肩書きを初めて手にした時のこと。

ディフェンス・コーチから言われたこと。

「いいか。ディフェンス・バックはディフェンスの最後の砦だ。

相手チームのラン、パス、どちらの攻撃パターンからもエンドゾーンを死守するのはD.B.の

仕事なんだ。

相手がいかに俊足のランニング・バックだって、最後まで諦めるな。諦めずに、追え。

相手がいかに俊敏なワイド・レシーバーだって、最後まで諦めるな。諦めずに、食らい付け。

同じ人間同士がプレーするんだ、同じ高校生がプレーするんだ。

最後は、ボールに対する気持ちの勝った方が、勝つ。

そのためには、最後まで諦めるな、いいな?」

「たあぁっ!!!」

あと一息の伸び。

あと一息の一歩。

限界かと思われた時の、もう一つ先。

それを、シンジは掴んだ。

ガシッという音ともに、シンジは右手に支柱を掴んだ。

左腕ではがっちりとアスカの身体を抱き寄せている。

傾いた床、まだまだ滑り落ちて行く荷物の群れの中、シンジは必死で支柱にしがみついた。

「よっしゃぁっ!!」

それを見て取った有美は、傾いた床もものともせず、一転して男に向かって突進する。

「とりゃあっ!!」

渾身の気合いとともに男に体当たりする有美。

だが、男もさすがであった。

その彼女の身体を受けとめると、そのまま横へ放り投げようとする。

片手に傷を負い、そしてもう一方の手にリモートコントローラーを持っていなければ、間違い

無くそれは成功していたであったろう。

有美は身体を男に半分押さえつけられつつも、大きく右腕を振り上げて殴りにかかる。

彼女の身体を突き放してそれをかわす男。

一旦組み合った二人は、間合いを取って少し離れた。

睨み合う男と女。

その瞳は相手を威嚇しようとすると同時に、相手の技量を見極めようと、じっと互いに注が

れる。

「…お前が…最後まで俺たちの邪魔をしてくれた、女か…。」

「あんたが、私の“主賓”ね…。」

投げ付け合う言葉も、相手の動静を探るためのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

「ふんっ!!」

気合いの声とともに、有美が回し蹴りを繰り出す。

間合いを見切って半歩下がる男。

続けざまに有美は左、右と拳を突き出す。

己の腕を曲げてガードを固め、敵の攻撃からの衝撃を最小限に押し止めた男が、今度は反撃

に転じる。

有美に撃たれた二の腕のことなど既に念頭に無いものの如く、パンチを浴びせようとする男と、

上半身を左右に揺さぶりながらそれをかわし続ける有美。

息をつくことの出来ぬ拳と蹴りの応酬が続く。

シンジはあらん限りの力を込めて右腕を引く。傾いた床を少しずつ、少しずつ這うようにして

彼はアスカの抱きかかえて進んで行った。

やがて支柱の際まで身体を引き寄せた時、アスカもまた自らの右腕を伸ばしてそれを掴む。

「シンジ!!アタシは大丈夫だから!!」

「OK、アスカ!!そのまま棚を伝って上の方へ!!

もたもたしてると、落っこちてくる荷物の巻き添えを食ってまた穴へ向かっちゃうよ!!」

「分かったわ!!」

こうしてシンジはアスカを押し上げるようにして壁際の棚沿いに彼女が這って行くのを手伝っ

てやる。力強い後押しを感じるアスカ。

「シンジ!!」

振り返りながらアスカが叫ぶ。

「何、アスカ?!」

「アンタ、アメフトやってて、正解だったわ!!

アタシ、絶対試合、応援に行くから!!」

言われて一瞬顔を綻ばせるシンジ。

「楽しみにしてるよ!!」

「それはこっちのセリフよ!!」

二人は何とか安全と思われる位置まで這い進むのであった。

二人は息が上がる寸前だった。

お互い、相手の目に見える急所を執拗に狙い続けている。

即ち、有美は男の右腕を。男は有美の左脇腹を。

それは時には効を奏し、時に無駄に終わり、二人は依然闘い続けていた。

この場合、どうあっても男が不利だったのは、左手にしたコントローラーを何があっても手放せ

ないということだったろう。

だが、どうやら二人の実力は伯仲していたようだ。容易に決着はつかなかった。

「……。」

「……。」

何度目かの、互いに間合いを取っての睨み合い状態に入る二人。

「…あんたら…知ってたはずよ…。」

有美が相手に話す。

「あんたらも、知ってたはずよ…。

先月…南アフリカで……ゼーレの最後の残党が完全に掃討されたって話…。

この“世界”で“仕事”してるあんたらなら…知ってたはずよ。」

男が構えを崩さずに答える。

「知ってる…無論。」

有美が勢い込んで続けた。

「なら!!それを知ってるのなら!!

なんでこんなこと、するのよ?!!

あんたらに“仕事”を依頼した依頼人たちってのは、もうこの世にはいなくなったのよ!!」

「関係、ない…。」

きっぱりとした男の返事を聞き、心のどこかで“やっぱりね…”と思う有美である。

「関係ない…。依頼人がどうなっていようと俺たちの知ったことではない。

俺たちにとって大切なのは、依頼された仕事を依頼通りに遂行出来たか否か、だ。

その時点で依頼人が生きていようが死んでいようが、関係ない。

俺たちは仕事をやり通す、それが。」

「……。」

「それが信用ってもんだ…。」

「ふん…。」

「依頼人が誰であり、依頼の対象とどんな関係であったのだろうと、それも関係ない。

我々は報酬を既に手にしている。それに見合った仕事をする…それだけだ。

依頼の内容はこうだった。

“世間に知られることなく、チルドレンを抹殺せよ”と。

チルドレン…三年前のあの“二百日戦争”で突然表舞台に現われ、その終結とともに

消え去ったチルドレン。

それを抹殺する、それが俺たちの仕事だった。

依頼人から多くの情報提供を受けた。そのお蔭でチルドレンを探すのは随分とはかどっ

たさ。

そして、この飛行船に誘き出し…飛行船もろとも事故として…消えてもらう。

そういう筋書きだった。

…本来なら、比較的簡単な仕事のはずだったのだが…。

きさまのお蔭で……。

女……きさまは…誰だ?」

有美もまた、攻撃姿勢を崩さぬまま男の話を聞いていた。

彼の言葉が一段落ついたと見て取ると、にやりとして答える。

「意外と話し好きなのね、あんた。

ふふふ…あんたもこの“世界”で“仕事”してるプロなら、名前くらい聞いたことがある

かもね…。

略称のコードネームがG.O.(ジー・オー)っていう女のことを。」

有美のその言葉を耳にした時、男に瞳に危険な光が煌いた。

「…G.O.……そうか…。

そうか、G.O.か…。お前が、あの、G.O.か…。」

「そうよ。私が、その、G.O.よ…。」

「それだけ聞けば、もう充分だ。余計なお喋りをした甲斐があった。」

男はにやっと笑った。

……嫌な笑い方…。

それを見てそう思う有美。

次の瞬間、男は有美に背中を向けて走り出す。

勿論戦闘中から有美も気付いてはいたが、その背中にはパラシュートが背負われて

いた。

「待てぇっ!!」

追う有美。

彼女は思いきった跳躍を見せると、男の背中にしがみついた。

それを背負い投げの要領よろしく、勢いに任せて投げつけようとする男。

有美はしばらく、男の背中に張り付いてそうさせじと踏ん張っていた。

しかし、その時今一度大きく船が揺れたかと思うと、二人の足場が不安定になる。

有美の腕の力が一瞬緩んだと見て取るや、男は再度投げを打った。

今度は有美も踏ん張ることが出来ずに放り出される。

「時間は稼げた!もはやこの飛行船“飛鳥”は太平洋上空、本州からも北海道からも

離れたポイントに達する!!

ここで予定通りに船を爆破して、八百人の乗客とともに、チルドレンも!!

そして、G.O.!お前も!!

ここで死ね!!!」

「あんたも心中する気?!!」

腰をしたたかに打ち付け、それでもよろよろと立ち上がりながら有美が大声で叫ぶ。

「ははははは、まさか!!

俺はそこの穴から一足先に下船させてもらう!!

勿論、このパラシュートを使ってな!!

そして、空中でリモコンのスイッチを入れるんだ!!

動力室が火を吹き、“飛鳥”が燃え盛るのを空で見学させてもらうさ!!」

初めて勝ち誇ったような顔をして見せる男であった。

「お前たちは火だるまになって海面に叩きつけられるがいい!!」

「だーるまさんが、こーろんだっと!!!」

叫び声とともに、有美が飛んでいた。

男に向かって飛んでいた。

渾身の力を込めて飛びかかっていた。

「ふんっ!!」

男はそれをかわす。

身を捻ってそれをかわす。

有美の腕は彼の手にあるリモコンを狙っていたかのようだった。

しかし男が紙一重で彼女のタックルをかわしたため、彼女の腕は目標を失って宙を

さ迷ったかに見えた。

だが、彼女はそのまま彼の身体にその手を巻きつけ、倒れかかって行ったのである。

「うわっ!」

「!!」

二人はもんどりうって倒れ、そのまま傾いた床を滑り落ちて行く。

その先には、男が“脱出口”として指し示していた、爆発により大きく口を開けた穴。

「う、有美さん!!!」

シンジは思わず叫んだ。

「危ない!!」

アスカも。

二人の目の前を、今まさに有美と男が滑り落ちようとしていたのだ。

もつれ合いながらも、有美はシンジの方を見た。

そして。

咄嗟に右手を差し出す。

シンジがそれに反応したのもまた、彼女のその仕草に零コンマ数秒とは遅れていな

かったろう。

シンジが両手を伸ばして有美の右手を掴もうとする。

その瞬間、アスカはがっしりとシンジの胴体を抱きとめていた。

有美の手がシンジのそれに届いた。

握り締められる手と手。

有美はシンジの手を掴み、シンジは彼女の腕を握りとめ、アスカはシンジの身体を

離さなかった。

三人は一本につながり、床に転がるのであった。

有美の腕を逃れた男は、そのまま滑って穴へ向かった。

その左手には依然、しっかりと爆弾のコントローラーが握られている。

男はそのまま、船外へ飛び出して行った。

飛び出して行った。

「……ふう……。」

床の上に大の字状態になったまま、有美が大きく溜息をついた。

スーツの上着は皺くちゃ、ブラウスは血と汗と埃でどろどろ、ミニのタイトスカートも

裾がめくれ上がって、白く細い自慢の足がその腿の付け根まで露わになってしまって

いるのも…この際、気にするどころではなかった。

その右手は、今だにシンジの両腕にしっかりと掴まえられ、また、掴み返している。

床に腹ばいになっていたシンジも、肩で息をしながら顔を上げる。

その胴体に腕を巻きつけて倒れ込んでいたアスカもまた、同様に顔を上げた。

「はあ…守るはずだったあなたたちに助けられたか…。

私、廣井有美も、まだまだねぇ……。」

仰向けのまま、首をコロンと回してシンジの、そしてアスカの顔を見上げる有美。

その顔には邪気の無い満面の笑みが広がっている。

シンジもアスカも顔は薄汚れ、シャツやらドレスやらはいたる所に綻びやら裂け目が

出来てしまい、とても数時間前までの“紳士淑女然”としているとは言い難い。

だが、二人はようやく一息つけるのだ。

それぞれに上半身を起こしてほっと大きな息を吐くシンジとアスカ。

そして、シンジは依然床に横になったままの有美にチラリと視線をやって、怪訝な

表情をする。

「あれ……有美さん…?

それは…?」

シンジがあるものを見てそう言った。

つられてアスカもシンジの視線の先を追い、

「あれ…?それって…?」

と、問う。

有美は、二人の方を見上げ、そして彼らの視線が行き付いている先に目をやる。

即ち、彼女自身の左手の方を。

「ああ、これ?」

そう言って、ようやくこちらも上半身を起こす有美。

その左手には。

パラシュートが。

「あの男とさっき取っ組み合っている時にねぇ…。

拳を突きこんだ時に何回かこいつのベルトにひっかかっちゃたのよ。

あの男もそれなりにしっかりこのベルト締めていたつもりだったようだけど…。

あの状況であの間髪を入れぬ殴る蹴るを続けていたもんだから…。

お気楽にも最後まで気付かなかったみたいなのよね、ベルトが緩み始めていたのを。

で。

最後の最後に私があいつに飛び掛った時。

あの時の第一標的は無論、あの男が手にしていたコントローラーだったんだけど…。

それがかわされてしまったので、即、第二標的に手を伸ばしたってわけ。

しっかり掴んでやったわ。

そしてそんな私をシンジ君が掴み止めてくれたお蔭で…。

私と、私の掴んだこのパラシュートが残って…あの男はそのまますっぽりと抜け落ち

ちゃったってわけ…。

はあ、何より何より…。」

何が一体全体“何より何より”なんだろう、そんな複雑な表情になるシンジとアスカ。

二人にはまだ、“広い海”こと廣井有美のことが今一つ理解出来ないでいた。

「じゃ、じゃあ…さっきの男は結局…パラシュート無しで…。」

「そうね。」

「パラシュート無しで…落っこちて行ったってわけ…。」

「あら、下船したのよ。自分でそう言ってたわ。」

うげぇ…。

そんな顔を見合わせるシンジとアスカであった。

「そうねぇ、この高さから海面向かって一直線…。

コンクリート壁に激突していくようなもんね…。

いくらなんでも助からんわ、ありゃ。」

他人事のように言う有美である。

いや、無論、他人事なのだが。

「その証拠に…今だに動力室では爆発が起こらない…。」

最後のその言葉は、有美の口の中だけで語られ、シンジとアスカの耳には届かなかった。

「…船の傾きも、大分収まってきたわね…。」

有美の言葉に、ようやく二人も気付いた。

飛行船は、一時大きく傾いたのだったが、今は何とかその飛行姿勢を持ちなおしつつある

ようだった。

「ホント、安全な乗り物だわ、これって!!あははははははは!!」

本気とも冗談ともつかぬ口調で、有美が破顔してそう言った。

そんな有美をただただ見つめるシンジとアスカ。

「さて…と。」

笑いを収めた有美が、そう言ってようやく立ち上がる。

今度は彼女を見上げる姿勢になる、床に座り込んだままの二人であった。

「えっと…シンジ君…それにアスカちゃんも…。」

有美が真剣な表情になって二人に問い掛ける。

「…何ですか、有美さん?」

シンジが答える。

「えっとねぇ……さっき…その…私があいつとやりあってる時に言ってた会話…

聞こえた?」

有美にそう問われ、顔を見合わせるシンジとアスカ。

そして。

「いいえ…僕たちもあの時は自分のことで必死だったので、何も聞いてはいません

でした。」

静かにそう答えるシンジ。

有美はそんなシンジの、そしてアスカの瞳をじっと見つめる。

「…そう…。」

やがて、ポツリと彼女はそう言った。

……嘘をつくような…子どもたちじゃないもんね…この二人は…。

……そっか…聞かれずに…済んだか……。

……何より何より……。

「何を話したのよ?」

当然の疑問を口にするアスカであった。

「うん?えっと…そうねぇ…何だったっけかなぁ?」

お惚けを決め込む有美であった。

「有美さん…。」

今度はシンジが彼女に問う。

「何、シンジ君?」

「あの男…いえ、あの男たちは…何者なんです?

どうして…その…僕…僕たちを狙って…。」

彼がそこまで言った時、有美がぴしゃりと言ってのけた。

「それは違うわ、シンジ君。

あいつらは何も、あなたを、あなたたちを狙ったんじゃないのよ!」

無理がある言い訳になるだろうなあ、そんなことを思いつつも言わずにはおれない

有美であった。

「あいつらはあなたたちを狙ったわけなんかじゃないわよ!

だって、そうでしょ?!!

あなたたちは、単なる普通の高校生。

どこにでもいる、普通の高校生。

どうしてあなたたちが、あんなやつらに狙われなくちゃいけないの?!!」

言われて、シンジとアスカはほんの少し俯く。

自分たち自身は知っていたから。

彼らが、どこにでもいる普通の高校生…そう呼ばれるには、少なからず普通でない

過去を背負ってきている、ということを。

誰よりも、彼ら自身が知っていたから。

俯いてしまった二人を眼前にして、有美は自分の身体の内が熱くなるのを感じていた。

……綺麗なものだけを見て、生きていけるのなら!!

……綺麗なものだけしか知らずに、生きていけるのなら!!

……この子たちにはそうさせてあげたい!!

……そう、させて、あげたい、けど!!!

いきなり彼女は跪くと、両手を広げて二人を抱き締めた。

突然のことに驚くシンジとアスカ。

「な、何よ?!!」

「ど、どうしたんですか?!!」

一様に抗議混じりの声を上げる両人。

しかし、有美は二人を抱き込んだ腕に力を込め、彼らをしっかりとその胸に抱え

込む。

「あなたたちは!!

あなたたちはね!!

あなたたちは、普通の男の子と、普通の女の子なの!!

そういう、碇シンジ君と、惣流アスカちゃんなの!!

他の何者でもないのよ!!

今までも!!今も!!そしてこれから先も!!ずっと、ずっと!!!」

そう叫んで二人を抱き締める有美。

二人は。

為すがままにされている。

けれど、やがてアスカが静かにその顔を有美の胸に埋めて、小さく頷く。

「うん…。

そう……。

そうなんだね…。

それで、いいんだね…?

アタシたちは、もう…それで…いいんだよね…?」

隣のシンジも、彼女につられるかのような小声で言った。

「僕も…アスカも…勿論、普通の…普通の高校生ですよ…有美さん。

当然じゃ…ないですか……。」

……あなたたち!!

薄っすらと涙を滲ませながら、今一度腕に力を込める有美。

……そうなのよ!!

……あなたたちは、もう、ただの子どもなの!!

……チルドレンじゃない、ただの子どもなのよ!!

……三年前にあったことなんて…もう、関係ないの!!

……あなたたちには、関係ないのよ!!

……過去に……引き摺られては、駄目!!

……私みたいに…なっては駄目!!

……あなたたちには…私みたいには…なって欲しくない!!

……あなたたちは、あなたたちのままで…これからも………!!

三人はしばらく、無言でその場で抱擁を交わしていた。

けれど、ようやくアスカが、ぼそっと呟くのであった。

「…“広い海”…アンタ…胸は、ちっちゃいわね……。」

……。

それは言っては…ならなかったのに……。

…………………………………………………………………………………………………………

飛鳥は飛んだ。

何とか、北海道上空まで飛んだ。

三沢から自衛隊機がスクランブルし、飛行船の周囲を回るということもあった。

しかし。

「ワシは、防衛庁長官とは反りがあわんのじゃ!!

あんな男に借りを作ってたまるかぁ!!」

という某大臣の鶴の一声と、また、大半の荷物を喪失したとはいえ、貨物室の爆発も

結局飛行船全体に火災を及ぼすことなく収拾し、飛行船は“太平洋上への軟着陸”と

いう事態だけは避けることが出来たのである。

「先生!!反りが合うとか合わないとかではなく、お生命にかかわる事態のことです

から!!」

「む、そうか。

いや、駄目じゃ!!船長に言え、自衛隊機なんか追い返せとな!!」

「せ、先生…。」

「ワシが直接マイクを握って話してもええぞっ!!」

「やめてください!!」

「む、そうか。」

とにもかくにも、飛行船は高度を下げつつも飛行を続けたのである。

ほぼ予定通りの午前四時、襟裳岬上空に達した時、飛鳥の飛行は既に安定感を

取り戻していた。

「先生、もう心配は要らないとの船長からの言葉です。」

「む、そうか。

んん?!!ワシがいつ心配したかぁ?!!

ワシが常に心配しとるのは、国民と選挙民の幸せのみじゃあ!!」

「うふ、センセ。私の幸せもヨロシクねん。」

「む、そうか。」

「リエをウチの社のキャンペーンガールにするという件、取り止めだ!」

「じ、常務…。」

「あんな尻軽、使えるか!!我が社のイメージダウンに繋がる!!」

「尻軽って……お好きなくせに…常務……。」

「何か言ったか?!!!」

「何も!!」

まあ、どこで誰が何をしてようともはや構わない。

飛行船“飛鳥”はぼろぼろの姿になりながらも、定刻の約十七分遅れで、

目的地である占冠村のリゾートに辿り着いたのである。

この時の為に準備された大平原の巨大仮設“駐船場”に、飛鳥がその身を

横たえた時、駆け付けていた警察関係者や消防車やら救急車の乗組員ら

からは安堵の溜息とともに大きな拍手が沸き起こった。

次々と地上へ降り立つ乗客たち。

何が何だか分からないような爆発騒ぎに巻き込まれはしたものの、八百人近い

善男善女は、自身の足で北海道の大地を踏みしめたのだ。

無論、その中にはシンジとアスカもいた。

あの後、二人は有美と三人でシンジらの部屋に戻った。

とにかく有美にシャワーを使わせている間に、アスカが薬やら何やらを用意する。

そして、一旦シンジには奥の部屋に閉じ篭ってもらい、アスカは有美自身に指示

させながら傷口の手当てを手伝った。

それが終わると、今度は「ようやくーーーーっ!!」アスカがシャワーを使えること

となる。

そして最後にシンジ。

シンジがシャワーを使っている間に、有美は自室へと引き上げた。

シンジがバスルームから出てくると、アスカが奥の部屋のソファに座ってウトウト

していた。

「……色々…あったからなぁ…。」

せめて後数十分ではあっても、寝かせておこう…そう思ってシンジは静かに部屋の

扉を閉めるのであった。

結局そのシンジもまた、「“飛鳥”、ほぼ定刻通りの着陸です」という船内アナウンスが

流れるまで、ベッドの上でうつらうつらしていたのである。

シンジたちは、北海道に降り立った。

二人とも、初めて訪れる地。

朝五時過ぎの北海道の空気は、第三新東京市のそれとは違い、少し寒いくらいの、

しかし清々しく心地良いものだった。

「うーーん!」

思いっきり伸びをするアスカ。

隣で同様にシンジも腕を伸ばす。

「ああ、着いた、着いたぁっ!!」

アスカが眠気を吹き飛ばすかのように大声を上げた。

それを見て微笑を返すシンジもまた、

「着いたね、北海道だ!!」

と、大声で答える。

ふうっと、一息入れ、お互いを見つめる二人。

そして。

「あれ?あの女は?」

アスカが周囲を見回す。

「あの女って…有美さん…?」

シンジもそう言いながらぐるりと首を巡らした。

たくさんの人たちが降りてきている。

これからシャトルバスに分乗して一旦このリゾートのホテルへ向かい、そこから

それぞれが目指す目的の場所への交通手段に乗り換えるのだ。

「いないねぇ…。」

シンジが答える。

「確かあの女は最初に、“この件については北海道の大地を、お互いが無事に

その足で踏みしめることが出来た時に話しをする…ってことでどう?”とか何とか

言ってたわよね?!」

「うん…そうだったね、アスカ…。」

「ったく!!雲隠れしたみたいよ!!よっぽど、アタシたちに聞かせられないような

事情があるのよ!!」

「…そうかも知れないね…。

でも…アスカ…。」

シンジが静かに語りかける。

「え?」

アスカは彼の顔を見上げ。

そして、どきっとした。

そう、いつも見てきた顔。

いつも一緒に暮らして、見てきた彼の顔。

なのに。

今、自分に向けられている彼のその顔は。

優しさと逞しさとが入り混じったその笑顔は。

まるで、初めて見る人の顔のよう。

「え?」

もういちど、同じ言葉を繰り返すアスカであった。

「あの人から…本当に話を聞きたい?

本当に、そう思うの、アスカは?」

T-シャツとジーパンというラフなスタイルに着替えたシンジは、アスカの肩にそっと手を

乗せてそう尋ねる。

淡いイエローのワンピース、決して豪奢でも華麗でもない普段着ルックのワンピース姿

のアスカが、彼の目を見つめる。

やがて、笑顔で彼女がゆっくりと首を横に振った。

「ううん……いいよ、もう…。」

「そう…?」

「うん…いいよ、もう…。

だって…。」

「だって?」

「だって…こうして今、ここにアタシがいて…ここにアンタがいる…。

惣流・アスカ・ラングレーがここにいて、碇シンジがここにいる。

二人、一緒にいる。

それで…いいや…。」

「そう…。」

「うん…二人で一緒にいられるんだったら…それで、いい……。」

「うん…。」

「ふふふ…この旅行の目的……例のこと…。

アタシ、何を焦ってたんだろ?

今になってみると…可笑しいよ。」

「そうなの?」

「うん。

二人で無事にいられれば…それでいいじゃん…。

こんな簡単なことを…三年前には覚えていたはずのことを…。

アタシ…うっかり忘れてたのかな?」

「忘れてた…それは違うと思うよ、アスカ。」

「そう?」

「うん……。

二人で無事でいられること…それを、それとして意識する必要がないくらい……

今の僕たちは普通の、平凡な毎日を送っていたんだ。

送ることが出来ていたんだ。だから……。」

「そっか…。

忘れてたわけじゃない、のか…。」

「そう、当たり前になっていただけ…。」

「…ふふふ…それでアタシったら…ついつい刺激なんてものを求めちゃったの

かしら…。」

「元気なお姫様だからねぇ。」

「お姫様…良い響きの言葉だわ…。」

「ふふふふふ…。」

「ははははは…。」

アスカが笑った。

シンジも微笑んだ。

二人は、笑顔で手に手を取る。

そして。

「行こう、アスカ。」

「うん、行こう、シンジ。」

「これからも二人で。」

「これからも、ずっと二人で。」

二人は、北の国の大地を歩き始めるのだった。

…………………………………………………………………………………………………………

互いに手を取り合って歩く十七歳の青年と乙女の遠ざかる後姿を、離れた所から

眺める人物が一人。

ダブダブのジーンズと、男物のこれまたダブッとしたポロシャツをまとい、ディパックを

左肩にぶら下げた廣井有美である。

「…そうね…あなたたちは二人でそうやって一緒に歩いて行けば…絶対に大丈夫…。

悪いけど…挨拶無しでここで別れさせてもらうわね、私。

私なんかは、もうあなたたちとは関わらない方が良いから。

…………。」

有美は、段々と遠ざかる二人の背中に向かって静かに語りかける。

「私もね、“仕事”の依頼を受けてあの飛行船に乗り込んだの。

…ふふふ、依頼人の秘密は絶対厳守、それがこの“世界”の鉄則だから、あなたたち

には教えるわけにはいかないのよ…。それもあるから、私はあなたたちにはもう会わ

ない…。」

そんなことを呟きつつ、北の国の爽やかな朝風に髪をなびかせる有美。

「私への依頼を持ち込んだのは…以前ある件で会った男の人だった…。

まあ、その人の依頼、というよりも正確にはその人の恋人…と言っても私から見れば

夫婦同然なんだけど…その女性からの頼みだったわけよ。

…その女性…昔のあなたたちをとても良く知る女性…。あなたたち二人が、真実安全

になるまではとても自分も所帯なんて持つわけにはいかない…自分だけが幸せに

なるわけにはいかないって…そう言い張っていた人……その人の頼みなんだって…

彼は言ってたわ。

…困ったような顔をしてね。

そんな彼と、そしてその人が…今度のことを独自に察知した…既に引退したとは言え、

常にあなたたち二人のことを気にかけて情報収集を怠っていなかったあの人たちが、

今度の件、ゼーレの最後の企てを察知したの。

でも、あの人たちはもう表立って動くことは出来ない…だから…。

だから、この私のところに依頼が舞い込んできたってことなのよ。

うふふふふ…ゴメンナサイね、二人とも。

飛行船のレストランで、初めてあなたたちに遭ったような振りをしたけれど。

私、その人たちからきっちりとした情報提供を受けて…あなたたちのこと、既に知って

たの…。

知ってたの…あなたたちが、三年前、どんな子どもたちだったかを…。

三年前、あなたたちがどんな想いでいたかを。

三年前、あなたたちがどんな目に遭ったかを。

三年前、あなたたちがどんな気持ちで闘っていたかを。

私、全て知っていたの…。

ごめんね…知らんぷりしちゃって…。

…今のこの世界を守り通した十四歳の子どもたち……。

あなたたちが舐めた苦しみ、悲しみ、辛さ…それはとても私なんかにも想像出来は

しない。

私の考えなんか及びもしないような想いを…あなたたちはしてきたのでしょうね…。

それなのに、会ってみて知った…あなたたちの笑顔…あなたたちのお互いに対する

気持ち…あなたたちの今を大切にしている心……。

私はね、単なる情報・知識として知ったあなたたちではなく、本当の意味で、昨日

初めてあなたたちのことを理解出来た…そんな気がしたわ。

そして。

絶対にあなたたちを守り通す…そう思った。

依頼とは関係無く、ね。

でも……。

こんな裏話は、あなたたちは知らなくても良いことなの。

依頼人からも固く言われていたわ、自分たちの名前は絶対に出さないでって。

もう、『あの頃のことを彼らに思い出させないで』って。

その気持ちも分かる。

だから、何も伝えずに私はここで別れるわ。

もう私、一生あなた方の前には現れないでしょうね。

あなたたちを害しようとする者たちは、今日完全に一掃されたのだから。

もう私が出る幕はないわ。

これから…。

これから、あなたたち二人は。

平穏で…とんでもない出来事など起きはしない、穏やかな、でも日々ちょっぴり

何かしら新しいことが見つかる…そんな毎日をともに過ごして行きなさい。

あなたたちには、もう闘う日々なんて必要ないんだもの。

あなたたちは闘ってきたのだから。

それは、もう終わったのだから。

だから、シンジ君、そしてアスカちゃん。

私が大好きになったあなたたち二人…。

どうか、幸せに……。」

有美は、二人の背中が完全に見えなくなっても、しばらくはその場に立ってじっと

視線を送り続けていた。

「ふふっ…二人はこれから青春真っ只中。

そして、これで依頼人さんたちも、晴れて入籍出来るってことね…。

で…私はっと……。」

そう言って、彼女は自分自身の姿を上から下まで見つめ直す。

「…うーーむ、どう見ても…色気ないぞぉ……。

これでもし髪の毛短かったら…まるっきりヒッチハイカーの男って感じに見られる

かもしれん…。」

そう言いつつ、ぽりぽりと頭を掻く仕草をする有美。

左脇腹の痛みも、今は収まっているようだ。

「…さてさて…戻ったら…今度はどんな“依頼”、“仕事”が舞い込んでいるかなぁ?」

わざと大きめの声を上げる。

周囲には誰もいないので、聞きとがめられる心配も無かった。

「でも…その前に…!!」

彼女は改めてディパックを担ぎ直して、空を見上げた。

北海道の、澄み渡った早朝の空を見上げた。

大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す有美。

「でも、その前に!!

せっかくだから、北海道の大地と空気を、満喫するぞーーーっ!!!」

Written by take-out7