誰ひとり、言葉を発せなかった。
ゲンドウは顔の前で手を組むいつものポーズのまま、身動きしない。
いつもと異なるのは、眼鏡の奥で閉じられた瞳。
いつしか彼はサングラスをしなくなっていた。
己の瞳を、心を・・・・・隠そうとしなくなった表われであろうか。
ゲンドウの隣に座る冬月もまた、微かに顎を上げたまま目を閉じている。
眉間に寄る皺が、何を考えているのかを代弁しているかのようだった。
リツコは無表情のまま、キーボードを叩いている。
しかし、その速度は彼女本来のものではなく、時折手が止まりかけては再び動き出す、といった様子。
ミサトは手元にあるコーヒーカップを手に持ったまま、表面に浮かぶ波紋をじっと見つめていた。
既に冷え切ったコーヒーは、口に運ばれる事もない。
二週間前。
第壱拾参使徒・バルディエルはフォースチルドレン、渚カヲルにより消滅させられた。
・・・・いや、その表現は正しくないのかもしれない。
何が起きたのか、まったく不明なのだ。
松代で行われた参号機の起動実験。
EVAの起動とほぼ同時に、『それ』は起きた。
ログにもはっきりと残っているのだ・・・・・・・・識別パターン、青・・・・・・・・・使徒の出現が。
だが、その5秒後にはその反応も消えていたのだ。
まったく痕跡を残さず、ぷっつりと。
それ以後、何事もなく試験は終了した。
原因究明のため、リツコはカヲルを問いただした。
まるでその襟元を掴まんばかりの勢いで。
しかし、彼は口元に涼しげな笑みを浮かべたまま、あっさり言い放った。
「・・・・・『彼』は2度と現れませんよ・・・・・・・永遠に、ね。」
結局、彼からは何も聞き出す事は出来ず・・・・・・・・調査の結果、何の成果も得られなかった。
委員会には「誤報」として報告書を提出せざるを得なかった。
時を同じくして、アスカは無事退院した。
懸念されたPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状は、まったくといって良いほどに見られなかった。
松代での作業を終えたミサトは大急ぎでアスカの元へと向かう。
「おっかえり~、ミサトっ!」
帰宅した彼女を待っていたのは、以前にも増して明るく・・・・・美しくなったアスカの姿。
そして、キッチンで仲良く立ち働くシンジとレイの笑顔。
久々に全員が揃った夕食。
・・・・・・幸せな、ひととき。
シンジがアスカの病室に泊った事は、報告を受けていた。
けれど、彼女は敢えて言及しなかった。
ふたりでいる事があまりにも自然に見えたから。
一歩下がった位置で、優しく微笑む『妹』がそこにいたから。
『ちょっと早いかもしれないけど・・・・・・・ま、いっか♪』
その一言を、彼女はビールで喉に流し込んだ。
そして、今日。
自らの申し出によりゲンドウの執務室に集合したNERV首脳陣の前で、シンジは次に現れる使徒・・・・・・第壱拾四使徒・ゼルエルとの戦闘において、自分が何をするかという事を語ったのだ。
シンジの決意。
それを聞いた面々は、ただ黙って思考の海に身を委ねていた。
其ノ壱拾九:ケツイ
永遠とも思える静寂を破ったのは、ミサトの一言だった。
感情を抑えるように、ゆっくりと・・・・・低い声で。
「・・・・・・駄目よ。作戦部長として、そんな・・・・・・無謀な事は認められないわ。」
「・・・・・・・これから先、使徒と戦う上で必要なんです。絶対に・・・・・・」
ダンッ!!!
ミサトは机を力任せに叩きながら立ち上がる。
「バカ言ってンじゃないわよっ!!
戦略や戦術なんていくらでも練り直す事ができる!
それに、決して時間がないというわけでもないのよ!?
例え敵が強力になったとしても・・・・・・・・それに対抗するだけの力があるのよ、私達には!!!
なのに・・・・・・・・なのに、あなたは・・・・・・・また自分を・・・・・・・・・・・・・!!!」
「・・・・落ち着き給え、葛城君。」
「落ち着いてなんていられませんっ!!!」
諌めようとする冬月をキッ、と睨むミサト。
その鋭い視線を軽く受け流し、静かな、それでいて毅然たる声で冬月は応えた。
「・・・・・席に着きなさい。
我々は今後の戦いをどのように切り抜けていくか・・・・打開策を得るために話し合っている最中なのだよ。
作戦部長たる君が、感情的になってどうする?それで冷静な判断が可能なのかね?
我々に必要なのは議論であって、諍いではない・・・・・・解っている事だろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
不承不承ながらも着席するミサト。
唇を噛み締めたまま、視線を僅かに落とす。
冬月は意に介さず、といった様子でリツコに問い掛けた。
「・・・・・で、赤木君。MAGIの回答は?」
「・・・・・・・MAGIは回答を保留しています。
EVAに関しては未知数の部分が多すぎるので・・・・・・・致し方ないか、と・・・・・・・」
「・・・・そうか・・・・・・」
リツコはキーボードを叩く手を休めぬまま、声を絞り出すように答えた。
その顔に浮かぶのは、苦渋のみ。
カタカタとキーボードを叩く音だけが、部屋中に響く。
「・・・・・・・アスカ。」
「・・・・・・・何?」
「・・・・・・・いいの?
あなたは・・・・・・シンジ君のやろうとしている事をその目で見たのでしょう?
ソレがどんなに危険な事かも理解している筈・・・・・・・・・あなた、ソレでも止めないの?」
シンジにとって最後の砦である、アスカ。
ミサトにとっても最後の希望、と言えた。
ミサトは、自分ではシンジを止められない事を理解していた。
揺らぐ事のない意志が、彼の瞳に浮かんでいるのを見たから。
アスカ以外、シンジを制止できる存在はない。
そして、アスカなら必ず・・・・・・・・・そう信じて声を掛けた。
だが、その答えは彼女の期待を裏切るものだった。
「・・・・・・アタシは止めないわ。」
「な・・・・・・アスカ!?」
「シンジがそう決めた以上、アタシは口を挟まない。
・・・・・アタシは、シンジと共に戦うだけよ。」
「アスカ・・・・・・・あなた、自分が何を言っているのか解ってるのっ!?」
「・・・・・そんなの、当たり前でしょ?」
「だったら・・・・・どうして!」
「信じているから。」
「・・・・・・私も、アスカと同じです・・・・・・・」
肯定の言葉を、ぽつり、とレイが呟いた。
ミサトは驚愕のあまり、目を見張ったまま動けなくなった。
この一言に辿り着くまで3人がどれだけの時間を要したか、大人達は知らない。
シンジが自分の考えを話した時、激しく拒絶したのは他ならぬアスカ本人だった。
身も心も重ね合い、ひとつになったふたり。
自分にとってかけがえのない、最愛の人が・・・・・・・己の意志で死と背中合わせの状況へ飛び込む。
それをすんなり認めるわけがない。
怒り。
泣き。
叫び。
縋り付いた。
何度も。
何度も。
テーブルに泣き伏すアスカの肩を、レイはそっと抱きながらシンジを見つめた。
その瞳に宿るのは、非難・・・・・・そして、哀願。
レイもまた、アスカと同じ思いだった。
無論、シンジとてふたりの言い分が理解できないわけでもない。
至極当然な事だ、と受け止めていた。
けれど、シンジは意志を曲げなかった。
アスカがシンジを想うように、シンジもアスカを想っていたから。
レイがシンジを想うように、シンジもレイを想っていたから。
それ以上に、「護りたい」という気持ちが大きかったから。
「・・・・・・確かに、無謀な賭けかもしれない。
以前は巧くいった・・・・・・母さんが助けてくれたから・・・・・・・だけど、今回も成功するって保証は、ない。
でもね、でも・・・・・・・・・・やらなきゃならないんだ。
ゼルエル、アラエル、アルミサエル・・・・・・・・・そして、カヲ・・・・・いや、タブリス。
使徒だけじゃない、最後の・・・・・・・量産機も・・・・・・・・・『敵』はどんどん強力になっていくんだ。
そのためには、どうしても必要なんだよ、どうしても・・・・・・・」
「・・・・だからって・・・・・・だからって!!!
どうしてシンジは自分ひとりで背負い込もうとするのよっ!!!!
アタシも、レイもいるのに!!!!」
「・・・・・解ってる。
僕はひとりじゃないって事は・・・・・・・・解ってるさ。」
「・・・・・・・なら、どうしてよ?
どうしてアタシ達の言うコトを聞いてくれないのよ!?
もし・・・・・・・もしもシンジが死んだりしたら・・・・・・・・・・・アタシだって生きていられない!!!」
「・・・・・・アスカは僕が死ぬと思うの?」
「・・・・・・え?」
「今度の戦いで、僕が死ぬって思うの?アスカ・・・・・・・・レイ。」
唐突な問いかけ。
アスカは思わず伏せていた顔を上げた。
「ば・・・・・・・・・・・・・・・バカ言わないでよっ!」
「・・・・・・・・思わないわ。」
「僕だって、死にたいなんて思わないよ。
アスカが、レイが・・・・・みんながいる限り、僕は死ねない・・・・・・・・・殺されるわけにはいかない。
生きたいから・・・・・・・・生き続けたいから戦うんだ。」
真剣な眼差しでふたりを見つめるシンジ。
その表情には一点の曇りも、迷いもなかった。
「それに・・・・・僕は信じてるんだ。
もしも僕の身が危険な状態に晒されたら、ふたりが必ず・・・・・・・・・・・ミサトさんだって、リツコさんだって・・・・・みんなが僕を助けてくれる、って。
僕はひとりで戦うわけじゃない、みんなで戦ってるんだ。
だから・・・・・・絶対に負けない。」
「シン・・・・・・ジぃ・・・・・・」
「・・・・シン・・・・・・にいさ・・・ん・・・・・・」
にっこりと微笑みかけるシンジ。
心の中にある不安を溶かすのには充分すぎるほどの、笑顔だった。
「・・・・ねぇ、ミサト。」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・ミサト?」
「・・・・・え?」
半ば放心状態だったミサト。
アスカの問いかけに一瞬反応が遅れ、慌てて顔を向けた。
「・・・・・・・・ミサト、アタシ達は家族よね?」
「・・・・・・ええ。」
「アタシとシンジ、レイは・・・・・・家族なのよね?」
「・・・・・・そうよ。」
「それだけじゃない・・・・・・NERVに関係する人達も、アタシ達が護ろうとしている人達も、みんな・・・・・・・・運命共同体なのよね?」
「・・・・・・・・・・・・」
「アタシ、シンジから聞いたの。
『私達は一蓮托生・・・・・全員で力を合わせて、運命を切り開いていく』ってミサトが言ってたって。
『私達を信じて』って・・・・・・・忘れちゃった?」
「忘れてないわ・・・・・・忘れるわけないじゃない!」
「なら・・・・・信じて。
アタシ達を信じてよ。
最悪の事態を想定するのは当然・・・・・・でも、ソレに囚われないで。
最初っから気持ちで負けてちゃダメ。
アタシ達は勝つの・・・・・・・・負けるわけにはいかない・・・・・・・・」
「アスカ・・・・・・・・・・・・・」
アスカの真剣な表情に、ミサトは戸惑った。
まっすぐに自分を見る視線に耐えられず、つい顔を背ける。
そんなふたりのやり取りを、リツコはキーボードから手を離し、じっと見つめていた。
親友であるミサトの、苦渋の表情。
彼女の心情が、まるで手に取るように理解できた。
作戦部長としての自分、家族として、姉としての自分・・・・・・・・その狭間で葛藤する心。
指揮官とその部下としての距離を取っていたのならば、迷う事なく『命令』出来るに違いない。
・・・・・が、彼女達は家族としての距離・・・・・限りなく0に近い距離で歩んできたのだ。
いくら本人からの要望とはいえ、明らかに『辛い』選択を許すわけにはいかない。
人類を護るべき組織の指揮官としては、あまりにも甘い・・・・・・・・それが、ミサトなのだ。
『汚れ役は私ひとりで十分・・・・よね・・・・・・・』
リツコは自嘲気味に唇を歪めると、冷徹とも言える声で言い放った。
「・・・・・技術部としては、今回のシン・・・・いえ、サード・チルドレンの提案を受け容れるべき、と判断します。
確かに彼の提案はあくまで希望的観測であり、不確定要素が多数である事は否めません。
しかし、半永久的に稼動するS2機関を取り込む事により、EVAのウィークポイントであるアンビリカブル・ケーブルによる電源供給が不要となります。
その行動範囲及び起動限界時間に対する制限が撤廃される事を重視すべきではないでしょうか?」
「・・・・・・・リツコっ!?」
「葛城三佐・・・・・私達がしている事は『遊び』ではないのよ?
失敗は即、人類の滅亡に繋がる・・・・・・あなたが解らないわけないでしょう。
私情を挟む余地などないわ。」
「・・・・・・・・・・・」
ミサトは鬼神のような表情でリツコを睨み付けた。
そして、気付く。
モニターの光が反射するレンズの向こう側に、哀しみが宿る瞳がある事に。
喉元まで出てきた言葉を、ぐっと飲みこむしかなかった。
再び、沈黙。
そして。
それまで微動だにせず、一言も発する事のなかった男が、その瞳を開いた。
「・・・シンジ。」
「・・・・・はい。」
「アスカ君。」
「・・・・・・・・・・・・・はい。」
「・・・・・・・・・レイ。」
「・・・・・・・はい。」
「・・・・・・・・・・・・・・構わんのだな?」
「「「はい。」」」
ゲンドウは目の前に並ぶ3人の顔を順番に見たあと、シンジを見据えた。
シンジも目を逸らす事なく、ゲンドウの視線を受け止める。
ゲンドウの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・男の顔になったな、シンジ。」
「父さん・・・・・・」
「・・・・・・存分にするが良い。
ただし・・・・・・・・・・死ぬな。
何があっても生き延びろ・・・・・・・・・良いな?」
「・・・・・ありがとう。」
ゲンドウはシンジの笑顔に微かに頷くと、視線をミサトへと移した。
「・・・・・・・葛城三佐。」
「・・・・はい。」
「・・・・子供達のサポートを頼む。
彼らが安心して戦うためには、君は絶対不可欠なのだ・・・・・・・・・・解ってやってくれ。」
「・・・・解りました。」
ミサトの承諾。
この一言で、会議は終了した。
廊下を歩く3人の背中を、数歩後ろから見つめるミサト。
子供達に頼る以外、手立てがない。
この哀しい現実が、ミサトの足を重くしていく。
いつのまにか成長していく3人。
自分の手から離れ、飛び立っていく日も近いのだろう。
言いようのない寂しさが、ミサトの足を更に重くしていく。
その足取りは次第に遅くなり、ついに、止まった。
シンジ達は気付かない。
距離が、離れていく。
そんな彼女の肩に、突然手が置かれた。
驚き振り返るミサト。
「・・・・・副司令・・・・・・」
冬月は温厚そうな笑顔を浮かべて言った。
「どうしたのかね?暗い表情は君には似合わんぞ・・・・・・・」
「・・・・・・私は・・・・・・・・・・」
「君が不安がるのも良く解るが・・・・・・君は彼らを信用できんかね?」
「いえ、そんな事は・・・・・・」
「君に包まれているから、君という後ろ盾があるからこそ、彼らは不安を乗り越えていける・・・・・私はそう思っている。
葛城君なくして彼らに笑顔はない・・・・・・・そんな君が、泣きそうな顔をしてどうする?
・・・・・・子供達に慰めて貰うのかね?」
「・・・・・・」
「彼らは精一杯生きている。
我々に出来る事は彼らを助け、信じ・・・・・見守る事だ。
君の笑顔が、彼らの力になるのだよ。」
「・・・・・副司令・・・・・・」
「ミサトぉ!ナニやってンのよぉ~~~っ!?」
アスカの声に、ミサトは振り向く。
廊下の角に、3人は立っていた。
何時の間にか立ち止まってしまったミサトを、待っていた。
とん、と肩を押される。
笑顔で頷く冬月、笑顔を返すミサト。
「早くしないと、晩ゴハン抜きにするわよっ!」
「すぐ行くから、ソレだけは勘弁して~~~~!!」
駆け出すミサトの背中を、3人の笑顔を。
眩しそうに目を細めながら、冬月は見守っていた。
「・・・・・・赤木君。」
書類を纏める事に手間取り、最後の退出者となったリツコ。
ノートパソコンを閉じ、脇に抱えて立ち上がったと同時に、ゲンドウは声を掛けた。
突然の呼びかけに、リツコの声が震えた。
「は・・・・・・・はい?」
「いつも・・・・・・・済まんな。」
「・・・・・・・・・・・・・・!」
リツコはゲンドウを見た。
窓辺で、後ろ手に立つ姿。
その表情は、見えない。
リツコは小さく会釈すると、早足で執務室を出た。
廊下に出てすぐ、壁に身体を寄りかける。
天井を見上げ、目を固く閉じたまま暫く動かなかった。
そうしないと、涙が溢れてきそうだったから。
たった一言なのに。
嬉しさが。
暖かさが。
リツコの心に染み渡っていく。
「・・・・・・・・ズルい・・・・・・・ひと・・・・・・・・・・」
薄暗い廊下に、彼女の呟きは吸い込まれていった。