FILE-02「心の行方」

まさに忙殺という言葉が似合いの一週間。
そして、最愛の人とのしばしの別れ。
伝えられなかった想い。
何もかもが幻と化してしまったように、碇シンジは眠りに落ちていた。
アメリカ到着までの数時間、シンジは夢も見ることなく熟睡する。隣に座っていた加持リョウジも、シンジの気持ちが理解できていたので、敢えて声をかけない。眼下に見える太平洋は、日本に置いてきた様々なものをすべて飲み込んでしまいそうなほど深く蒼かった。

アメリカに到着してから、もう1ヶ月近くが経つ。
シンジは、来週からジュニア・ハイスクールに通うことになっている。
シンジがやっと息を抜いたのがこの日だった。何も考える余裕がない日々である。ここ一ヶ月はホテルに籠もって、加持とロイド・ジョンというアメリカ人に、短期集中実践英語講座を、昼夜を問わず受けさせられていた。この講座、シンジには「集中」と「実践」の間に「地獄の」という修飾語が入っている。しかし、それは強引にも効果を生み出していた。もうシンジは日常会話に於いて、日本語とさほど変わらない対応ができるようになっている。まさに努力だけではどうにもならないものを、地獄のような特訓で身につけたことは容易に想像がつくだろう。そして今日、シンジは加持の計らいでこれから一週間は自由に過ごせるようになった。
「よく頑張ったな、シンジ君。だが、こんなことで根を上げるなよ。大変なのはこれからなんだからな」
その言葉にシンジはただただ苦笑するしかなかった。

Destiny ANOTHER
FILE-02
「心の行方」

 

「まあ、自由とは言え、まずは定住地に腰を落ち着けないとな」
日本から持ってきたそう多くない荷物をイエローキャブのトランクに詰めて、二人は迷路のように入り組んだ町中を進んだ。
煉瓦作りのアパートが建ち並び、周りの景色を封鎖している。この路地に太陽の光が降り注ぐのは正午前後だけだろう。シンジはビルとビルとの合間にできたスペースで、バスケットボールに興じるアメリカ人の子供を見ながらため息をついた。疲れが出てきたのだ。キャブの中で、シンジは半分だけ眠りについた。

「シンジ君、ついたぞ」

そう加持に声をかけられて、シンジはようやく目を覚ました。
イエローキャブを降りたシンジは、目の前にある煉瓦作りの建物を俯瞰する。先ほどキャブの中から見えた建物と、作りはあまり変わらない。三・四段の階段を上るとまず扉がある。そしてその横には錆びついた鉄製の螺旋階段。各階で入れる鉄扉があり、これも少し錆びている。窓はそう大きくはない。だいたい大人が一人上半身を乗りだしたらいっぱいになるほどの、申し訳程度についている窓だ。屋上には洗濯物がほしてあるのが少しだけ見える。
いかにもアメリカの下町だった。シンジは記憶の断片にあった、古い映画のビデオを思い出した。そこに出てきたアパートにそれはそっくりだ。
シンジは扉を開ける。扉を開けると、一直線の廊下だった。人が二人、ぎりぎりすれ違えるほど狭い。右側には郵便受けがある。左側には部屋があった。そこには『janitor』と、すりきえかかっている文字の表札が掲げてある。いわゆる『管理人』のことである。加持は、その扉をノックした。
中から姿を現したのは、大柄の黒人女性だった。歳は40代といったところだろうか。
アパート内を見回していたシンジは、加持とその人の会話を聞いていなかったが、
『301に入ることになってる碇君だ』
の言葉に、二人の方を向く。その黒人女性はシンジの顔を見て、ニッコリと笑う。
『へえ。可愛いボウヤじゃないか。管理人のダイアナだよ。よろしくな・・・といっても日本人だもんねぇ。分かんないか』
少しだけなまった英語で、ダイアナはシンジに言う。
『いえ。分かりますよ。碇シンジです。よろしく、ダイアナさん』
『こりゃ驚いたねぇ。勉強してきてるじゃないか。これが鍵だよ。何か困ったことがあったらここへ来な』
と、シンジに金色の鍵を投げ渡す。
『ありがとうございます』
ダイアナはその言葉に頷くと、加持の方を見る。
『あんたは相変わらず危ない道を歩いてるのかい?リョウジ君』
『え?いやだなぁ。おばさん。俺の性分だからさ、それは』
曖昧に笑うと加持はシンジの荷物の一つを持ち上げる。
『じゃあ、俺もちょくちょく来るけど、シンジ君のことよろしく頼むよ』
加持はダイアナに向けて右手を差し出す。彼女はその右手を握った。
『任せときなって。旦那も楽しみにしてたよ。リョウジ君の知り合いが来るって』

シンジは先に階段を上り、3階へ。階段は外装の割にはそれほど老朽しておらず手入れが行き届いていた。掃除もしっかりされている。多分ダイアナが毎日しているのだろう。
鍵を差し込んでぐるりと回す。そしてドアノブを握り扉を引いた。
「自動じゃないんだ・・・」
日本での暮らし、しかも最新設備が揃っている第三新東京市だった所為か、シンジにはこの扉が珍しかった。だが、これはこれで味がある。
扉を引いた時に、その風と共に室内の匂いが鼻をついた。微量だが黴の匂いがした。
部屋はコンフォート17の部屋の半分ぐらいの広さだと、シンジは感じた。廊下が伸び、その横にトイレ。奥にキッチン、そして二部屋ほどのスペースが見える。一部屋にはベッドとテレビがあった。
一人で暮らすには手頃な大きさである。これからしばらくここがシンジのホームだ。その時、急に渚カヲルの声が聞こえたような気がした。

(帰る家、ホームがあるという事実は幸せにつながる。良いことだよ)

「ここが・・・僕の新しいホームになるんだ、カヲル君」
部屋を見回すシンジ。階段と同じく綺麗に掃除されている。しかも大体の家具が揃えられていた。
「気に入ったかい?シンジ君」
ベッドの上に加持が荷物を置きながら、笑いかけて言う。
「はい」
「そうか。ま、ここにいる時間はシンジ君の自由にしてくれていい。ここなら不要な邪魔は入らないだろうしな」
瞬間、加持もシンジもゼーレを思い浮かべる。自然と表情が険しくなる。
「ま、何か困ったことがあったら管理人夫婦にでも言ってくれ。それから俺はここにいるから、緊急の時はこっちに連絡を入れてくれればいい」
そう言いながら、加持は電話の側に置いてあったメモ帳に、住所と電話番号を走り書くと、それを破っておいた。
「じゃ、シンジ君。二三日はゆっくりしててくれ。また連絡するよ」
部屋を去る加持。そしてそこにいるのは、シンジ一人になった。
シンジは荷物を開いている部屋に押し込むと、真新しいベッドの上に寝ころんだ。ようやくシンジは落ち着けたような気がした。
再び眠気がシンジを襲う。落下するようにシンジは眠りに引き込まれていった。
人間の身体は、本当に疲労しているときは夢を見ない。それはシンジも知っていた。だが、今自分は夢を見ている。これは何故なのだろうか?
気が付くとシンジは半袖の開襟シャツ、黒のスラックスという、制服の夏服姿でそこに立っていた。シンジは辺りに目線を配る。そこは何もない空間だった。そして何より色に乏しい。そこでシンジは、
「ああ。夢なんだ」
と声にだして呟いた。
足下は霧で、自分の足元すら分からない。ただ、足の感覚からどうやらスニーカーを履いているらしい。シンジはしばらく辺りを見ていたが、突然の視界の違和感に視線を止めた。
そこには何か人らしいものが立っていた。それも見慣れた格好の。
それはどうやら第壱中学女子の制服のようである。
シンジはその人、いや女の子が誰なのか知って、シンジは目を見開いた。
「綾・・・波レイ?」
この色素に乏しい空間で、その少女の姿は白く映えていた。ゆっくりと振り返る少女。それは紛れもなく綾波レイだった。あのセントラル・ドグマで見せた最後の笑みを称えている。
綾波・・・綾波なんだね?」
ゆっくりと彼女は頷いた。そして、またゆっくりと歩みを進める。シンジの側でそれは止まった。
「久しぶりね。碇君」
シンジは全身が震えて、涙が溢れるのを止められなかった。レイの髪に手を触れてみる。しっとりとした感覚が、指先を擽る。だが、その感覚は薄く現実感に欠けていた。
「どうして・・・?」
「お別れを言いに来たの、碇君に」
少しだけ淋しげな表情を見せるレイ。どこか三人目ではなく二人目のレイだな、とシンジは思う。何故そう思えたのかは分からないが。
「お別れ?」
「そうよ、碇君。私の魂はもうすぐお母さん・・・ユイさんの元へ行くの」
それがシンジに再確認をもたらした。忙殺されていた事実。レイはもう死んだということ。シンジの中にあった信じたくない思いが、忙しさを言い訳に封じ込めようとしていたものだ。
「・・・碇君・・・」
突然、レイはシンジに身体を寄せた。シンジの腰に手を回し、さらに身体を押しつける。
「・・・私は・・・碇君のことが好きだった」
本当に、聞こえるか聞こえないかの囁きだった。
シンジの脳裏に、彼女と交わした様々の言葉が去来する。

「非常召集・・・先・・・行くから」「どいてくれる?」「じゃ寝てたら」「あなたは死なないわ。私が守るもの」「絆だから」「じゃ、さよなら」「ごめんなさい。こんなときどんな顔をすればいいか分からないの」「人は闇を恐れ火を使い、闇を削って生きてきたわ」「それで昼間から私を見てたの」「・・・お母さん」「何を言うのよ」「待って!まだ碇君が」「そう、よかったわね」「そう、あなたを助けたの」「いえ、知らないの。たぶん、私は3人目だと思うから」「私・・・解ったの」「エヴァはもういらないわ」「・・・私は司令に作られた存在。そして補完計画に絶対必要な存在。碇君お母さんと司令が会うため・・・。でも司令がこだわっている以上何も変わらない。私は消えなくてはいけないの・・・」「・・・お願い・・・碇君、解って」「・・・碇君、惣流さん・・・本当にありがとう。・・・さようなら・・・」

彼女はしばらくの間、そのままの姿勢で沈黙し続けた。
「でも・・・それはすこし違う」
「何?どういうこと?」
「・・・好きだけど・・・それは掛け替えのない、失うことのない思い。碇君を好きなくらい碇司令もユイさんも好きなの」
顔を上げた彼女の瞳は揺らいでいる。
「綾波は・・・母さんに会えたんだ」
小さく頷く。
「ユイさんは・・・私のことを娘だと言ってくれた。その時解ったの。碇君のことを好きな気持ちは・・・家族としての・・・もの」
その瞬間に彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
「綾波・・・?」
彼女は首を左右に、何度も振る。
「・・・でも・・・二人目の私・・・。あの頃は・・・碇君を・・・ほんとうに愛していたの」
その言葉に反応し、跳ねるようにシンジも彼女を抱きしめた。シンジにしてもレイに心が向いていたときもあった。だが今は・・・。
「碇君の心の中には惣流さんが住んでいる・・・」
シンジの心の呟きを読みとったかのように、レイがそう口にした。
「レイ・・・ごめん」
「あやまらないで!・・・つらくなるから・・・」
俯くレイ。
「でも・・・これだけは忘れないで。あなたを好きだった綾波レイというモノがいたことを」
シンジはレイの背中に回した腕に力を込める。
「綾波・・・綾波!」
「そして・・・悲しまないで。前を向いて生きて」
固く閉ざした瞳。何かを必死に堪えるような顔。レイはそんなシンジを見ながら、ゆっくりとシンジの頬に唇を近づける。
「本当に・・・さようなら。お母さんと見守っているわ、いつまでも」
目を開いたとき、彼女の姿は薄くなっていた。そしてだんだんに形を無くしていく。微笑みを称えたまで。それは数えるほどしか見たことがないレイの笑顔の中で、最高のものだった。それがシンジの心臓あたりで吸い込まれるように消えていく。
腕にあったレイの背中の温かさも少しずつ薄れて・・・消えてしまった。
「綾波ぃぃ!!」
そこは、もう現実の、シンジの新しい部屋だった。
辺りは既に暗い。何時間寝てしまったのだろうか?そんな疑問すら今のシンジには浮かんでこなかった。頬を何か冷たいものが伝う。
涙だ。
だが、その冷たさの中、右の頬にだけ微かな温かみがあった。それは夢の中でレイがキスした場所に他ならない。
「夢・・・だったのかな。でも・・・。・・・綾波・・・レイ、ありがとう」
この瞬間、シンジは彼女の死を全面的に認めた。とめどなく流れる涙が、たぶん彼女の為に流す最後の涙となるだろう。
今にして思えば、レイに対しての恋心はどこか違っていたのかもしれない。どこかで遺伝子的な繋がりを感じていたのかもしれない。シンジはそんな風に今までのレイへの想いを位置づけながら、手の甲で涙を拭う。
何一つ片付いていない部屋を見ながら、シンジは深く深くレイを想う。電気を付けると、そこには涙で濡れた頬ながら、晴れ晴れとした気持ちのいい笑顔で立ち上がるシンジがいた。
「とりあえず、片づけよう」
部屋の隅に置いてあったバッグを開くと、まずは一番上に置かれた写真立てをベッドの側に置く。それは惣流・アスカ・ラングレーの写真である。彼女は眩しい笑顔でシンジに微笑みかけていた。
「元気・・・出さなきゃ行けないよね。そうじゃないと、わざわざお別れを言いに来てくれた綾波に失礼だよね・・・アスカ」
彼女の笑顔は、「そうだよ」と告げているような気がしてならないシンジであった。

FILE-02 OVER...


野暮な男二人のしょうもないコメント 

『第三新東京市内、喫茶「ノエル」にて』

平岡:今回はシンジ君のお話でした。どうでしょうね?
加持:何故この時期にこれを書いたんだ?
平岡:理由はいろいろですけど、これからアスカとマリアの間で苦悩するシンジ君を描かなきゃならない
    ですから。その為にどうしてもレイちゃんとの関係を明確にしておきたかったんです。
加持:なるほどな。これで少しは「D」第一話のフォローもしたワケだな?
平岡:フォローになったかどうかは疑問ですけどね。
加持:この後はどうなるんだい?
平岡:マリーとの出逢いですね。こんな風に決着つけておきながら、マリーの登場はシンジ君を
    迷わせてますよね。ああ、優柔不断の証明・・・。
加持:そうか。だが、まあシンジ君の気持ちも解らんでもないがな。
平岡:ですよね。外見がレイちゃんで、性格がアスカちゃんみたいじゃ、彼としては惹かれないワケ
    ないっつーか。
加持:そこの辺りは書くのかい?
平岡:書きたい、ですけど続けてシンジ君の話ばかりだと・・・。とりあえず次の「D・A」はアスカちゃん
    の話を。
加持:・・・俺の話はもうないのか?いや、催促しているんじゃないが・・・。
平岡:(–;; ・・・考えて置きます・・・。
加持:ところでここのウェイトレスは美人揃いだな、平岡君。
平岡:そう言えばそうですね。僕、あの・・・あ、今コーヒー運んでる「清水カホ」ってこが好みかな?
加持:君はああいう子が好みか。俺としては奥で洗い物してる・・・・「佐野倉エミ」が。
平岡:よくこの位置から名札が見えますね。
加持:さっき横を通ったときにチェックしたのさ。
平岡:さすがは加持さん(^^;
    抜け目ないですね。・・・でもレジのショートの子までは・・・
加持:「岡野ユカ」だ。
平岡:・・・・加持さん!師匠と呼ばせて下さい!
加持:ああ。構わない。