さわり…と稲穂が揺れ,しゃらしゃら…と肩を寄せ合った彼岸花の赤が,青い
空に映える。
草藪の隙間を駆け抜ける風は,干草の香りをまといながら,地に,空に,稲穂
の断片を吹き散らし,世界を黄金色に染め上げた。
地も空も,たけなわの秋である。
「アスカ………」
「ん………。」
うろこ雲漂う空の下,黄金色の海に一本,きっぱりと伸びた黒い畦道の上で,
二人は互いの体を包み込むように抱いて,無心に口付けを交わしていたが,
「んぅ……シン…ジぃ…ちょっとぉ……!」
人気の無い畦道とは言え,隠す物も無い往来のど真ん中でキスしていた事を思
い出したアスカは,恥ずかしさのあまり身悶えるようにして,シンジの腕を振
りほどくと,バカ…!と拗ねた様な声を上げ,赤い顔で青年を睨み付けた。
すっぽりと彼女の抜け落ちた両手と,アスカを所在無さげに見比べながら,
「…どうかした?」
「道の真ん中でキスしないでって!…家出る時約束したじゃない!?」
「キスは嫌い?」
不思議そうに目を瞬かせたシンジに,そうじゃなくてっ!と,呆れ返った様に
怒鳴って見せてから,アスカは彼の手に握られた帽子を奪い返すと,風に乱れ
る髪に目もくれず,頭から乱暴に引っかぶる。
僅かに覗く顔や首筋は真っ赤だ。そのままくるりと背を向けると,
「……はっ,……恥ずかしいんだからぁ…。」
消え入りそうなこの言葉に,なんだ…と呟いたシンジは小さく破顔した。これ
くらいならお小言のうちにも入らない。
三年前なら道端で無理矢理キスでもしようものなら,お仕置きの鉄拳が飛んで
きた所だが,滅法早かった彼女の手は,今やすっかり鳴りを潜めてしまってい
る。
『おしとやか』とまではいかないが,二人で暮らし始めた頃に比べ,性格も随
分と丸くなった。以前の彼女を嫌と言うほど知っているだけに,シンジはキス
一つで生娘の様に恥らうアスカが,可愛らしくて仕方が無いのだ。
(三年か……)
と,そんな愛しい背を見つめながら,二人で共に過ごした時間を改めて勘定し,
シンジは感慨深そうな息を一つ吐いた。
こうやってじゃれあえるまでになった自分達の関係が,今だに新鮮でもあり楽
しいのは,きっと愛が成長し続けている証拠なのだろうと,彼は嬉しさを隠せ
ない。
(長い様で…短かったな…。)
…初めて体を合わせたあの夜から,二人は手を取り合って今も暮らすマンショ
ンで生きてきた。暗さに沈んでいた過去と違い,愛する人と暮らす生活は,眩
いばかりの明るさに満ちており,味わった事の無い幸福に浸りきった三年間だ
ったと言える。
(君がいてくれたから……,)
そんな生活をくれたアスカに,シンジは心の底から感謝している。持ち前の明
るさで,アスカは医学生と言うハードな生活を送るシンジの心を癒し,彼を支
え抜いたのだ。
(君の笑顔があるから,僕はがんばれるんだ…。)
どんなに疲れきって帰って来ても,彼女の笑顔に出迎えられると不思議と元気
が出た。シンジにとって,彼女の笑みが,存在そのものが癒しの魔法に等しか
った。
(…だから,キスはお礼のつもりなんだけどな……,)
シンジとしてはそんな感謝の気持ちを素直に表すつもりで,所構わずアスカに
キスするのだが,恥ずかしさをこらえきれない彼女は,これがたまらなく苦手
な様で,すっかりキス魔と化したシンジに唇を奪われるたびに,初めの頃は彼
に対しキツイお仕置きを下していた。
…もっとも,その程度で彼の意欲が萎えるはずも無く,今日も,
『天気がいいから,散歩に行かない?』
と,突然誘って来たシンジに,行くのはいいけど…と,不安げな口調と眼差し
を向けつつ,
『絶~~~~対道端でキスしちゃヤダからね!』
と,釘を刺したのにも関わらずこの有様だ。いくら言っても聞かない彼に,最
近では半ば諦めの境地に達そうとしている。
まぁ…,キスされている間は,恥じらいを忘れられるのが唯一の救いと言った所か…。
「教育の成果を見せろって言ったのは君だよ。」
そう言いながら,そっと伸ばした手で,帽子の隙間ら無造作に跳ね出ている彼
女の髪をひとしきり梳き解してから,
「…さてと…,」
シンジは依然背を向けているアスカの両肩に手をかけ,少しばかり強引に自分
の方に振り向かせた。きゃ…!と短い悲鳴を上げて,アスカが目を見張る。
「講評を聞きたいな,…アスカ先生?」
にこっ…と涼しげに微笑んだシンジの前で,
(もう………!)
むくれ顔のアスカの顔がさぁ…と,うなじまで赤く染まった。
(その笑顔…反則よっ!!)
昔からアスカがどう頑張っても抗う事の出来ぬ笑みだ。じっと…その笑みのま
ま見つめられると,アスカはとてつもない安心感に包まれ,腰から下が溶けて
しまったのではないかと思うくらい,力が抜けきってしまう。
(アタシが逆らえないの,知ってる癖に!)
シンジ本人は特に意識はしていないと,その効果を否定しているが,少なくと
もアスカにとってこの笑みは,心と体の自由を奪いつくしてしまう恐るべき魔
力を秘めている。
…同居して三年経ったと言うのに,未だにこの笑みの呪縛からは逃れられてい
ない自分が,嬉しい様な…,情けない様な複雑な気分だ…。
「…何が先生よ…,この女ったらし……!」
力の抜けかけた足を懸命に踏ん張ると,アスカはぷい…!と顔を彼の笑顔から背け,
「…出会った頃はあんなに内気で…,鈍感で…,根暗で…,いっつもイジイジ
してたのに…。…どうしてこんなになっちゃったのかしら…?」
口を尖らせると,横目でジロリ…と彼を睨みつつ,精一杯の皮肉を込めてそう
言った。アスカの言葉に,シンジは笑顔を残しつつも表情を引き締めると,
「出会いが人を変えるって事を,僕はアスカから教わった…。」
「えっ……?」
「僕の事を変えたのは…変えてくれたのは君なんだ。だから,アスカは僕にと
って昔も今も先生なんだよ。」
そう言うと,シンジは小さく目を見張った彼女をふうわり…と抱きしめ,彼女
の体貌から立ち上る甘い香りを楽しむかの様に,愛しげに目を細めた。温かな
腕の温もりに,アスカの顔から険しささが瞬時に消え去り,頬が一層赤みを増す。
「バ~カ……,アタシを持ち上げたって何にも出ないわよ…!」
彼の言葉が嬉しくて…,口調とは裏腹にアスカは全身を青年の腕の中に預けた。
それと同時に,回された腕に力がこもる。
(温かい……。)
適度な拘束感に,アスカは心地よさそうに目を閉じた…。
…三年前と,一つも変わらない温もりだ。…いや…腕から通う慈しみの深さは,
以前よりもはるかに増したようにアスカは感じる。
(シンジ…随分変わったよね…。)
彼が言う様に,自分と暮らすようになってから確かにシンジは変わった。何よ
りも心の置き所が軽くなった…と,アスカはにこやかに微笑むシンジを見つめ
ながらしみじみと思う。
軽くなったとは言っても,性情が軽薄さを増したと言うわけではない。出会っ
た頃,度々見せていた内にこもる様な暗さが,この青年の中からはっきりと無
くなったのだ。
(落ち込んだり,物思いに耽ったりする事なんか無くなっちゃたし…,それに……)
かつて何を思うのか,時折窓の外を眺めながら,眼差しに寂しげな色を漂わせ
た彼の姿を見るたびに,アスカは胸が締め付けられる思いをして来たが,今は
もう,彼がそんな目つきをする事は無い。
(凄く明るくなった……。)
何よりも,彼の全身から光輝が溢れている。長年押さえつけられていた何かか
ら解放され,その軽さを楽しんでいると言う空気が,彼の周囲に満ちていた。
…押さえつけていた何かとは,母の死であり,父との剣戟であり,血生臭い戦
場の記憶である。どれもこれも,三年かけてアスカがシンジの心から拭い去っ
たものばかりだ。
(これって,やっぱアタシの力なのかな?)
そう思うと,シンジが自分を指して『先生』と言ってくれたのも,まんざらで
はない。アスカはさらに気色を和らげると,クス……と小さく笑った。
彼の腕に抱かれると,その笑みはさらに大きさと明るさを増す。彼の明るさが
腕を通してアスカの心に沁みてくるのだろう。
「アスカ………。」
そんな幸せを噛み締めていたアスカを抱いた,シンジの腕に一層力がこもる。
耳元で名前を囁かれると,ぞわぞわ……と,痺れにも似た恍惚感がアスカの
胸の底から駆け上り,全身を火照らせた。
「愛してるよ………。」
「………うん………。」
頬を桜色に染め,アスカははにかんだ様に微笑んだ……。
この言葉に,彼女は大抵うん……としか答えない。シンジに言って貰うのは嬉
しいのだが,自分で言うのは気恥ずかしいのだ。
…彼女がこの言葉を連発するのは,夜。ベッドの上で彼の腕の中に沈んでいる
時が常だった…。
「……行こうか……?」
ひとしきり抱き合っていた二人だが,シンジに促され,アスカはうん!と大き
く頷く。二人は秋の中に連れ立って踏み出した。
「キツネノヨメイリ ‐六‐」
黄金色の稲穂が,相変わらず風に揺れている。通る人も無い畦道に吹くその風
は,先程までの獣の如き猛々しさを失い,今は香ばしく薫るそよ風と化してい
た。
「ん~~~!気持ちいいわね……♪来て良かった。」
澄み切った蒼天に向かって心地よさそうに伸びをしたアスカに,でしょ!?
とシンジが目で笑う。彼に誘われて,何の気は無しにやって来た散歩だが,全
身を秋に包まれ,アスカは心に華やぎを覚えた。
「稲穂が綺麗だね……。」
「今年は豊作みたいね。…新米が楽しみだわ♪」
視界を揺れ動くたわわな稲穂の群れを眺め,舌なめずりせんばかりのアスカに,
そうだね…と同意しつつ,シンジは小さく含み笑いした。
花より団子とはいかにもアスカらしい。シンジは彼女のこう言う正直な所が好
きであったが,含み笑いから小馬鹿にされたと邪推したアスカは,横を歩くシ
ンジを斜めに睨んだ。
「あぁ!バカにしてるでしょ!?」
「バカになんかしてないよ…。」
我慢し切れず,とうとうシンジは吹き出した。アスカが羞恥で顔を真っ赤に染める。
「ふ~んだ!どうせアタシは色気より食い気の女よ!」
再びむくれたアスカに,ごめんごめん!と,シンジは慌てて頭を下げた。少し
ばかりおふざけが過ぎたようだ。昔に比べ性格が丸くなったとは言えども,一
度ヘソを曲げてしまうと,ご機嫌を取るのが一苦労なのは変わっていない。
つんっ!と顔を背けて足早に歩み去ろうとするアスカに追いすがると,
「お詫びに今晩はアスカの好きな物作るから。…もちろん,炊き立てのご飯も
つけるよ。」
にこりと笑って言った。大股に歩くアスカの足は止まらなかったが,この一言
に歩度が僅かに落ちる。
「………メインディッシュは何……?」
振り返りもしない背中の向こうから,不機嫌そうな声があがる。
「シンジ特製,牛すね肉のワイン煮込みでどうかな?」
牛すね肉のワイン煮込みぃ……!?と,背中越に呟いたアスカの足が,今度は
ぴたりと止まった。そのまま,何かをこらえるかのように震えだした彼女は,
そのまましばし黙考していたが,
「……自家製ピクルスの漬かり具合はどう……?」
「まさに今日が食べごろだよ。」
「………。」
打てば響くようなシンジの答えに,顔だけ振り向いたアスカの目が,キラキラ
と輝き始めていた。
(もう一息かな……。)
食べ物で変じた気色は食べ物で回復するのに限る。アスカ篭絡間近と見たシンジは,
「ユングゼーネ・シュペートブルグンダードライの2021年物も買ってあるよ。」
アスカの好物であるドイツ産赤ワインの名を,歌うように唇から放つ。その名
が終わるか終わらないかと言う時に,ワンピースの裾をまるで白い花が舞うか
のごとく,くるり…と,なびかせて振り返ったアスカは,目を丸くした彼の唇
に,ちゅ……とキスした……。そして恥かしそうに頬を染めると,
「合格よ……。」
許したげる…♪と小さく微笑んで,シンジの腕に飛びつくように抱きついた。
…曲がったヘソはどうにか伸びたようである。やれやれ…と心中安堵の息を吐
いたシンジも,嬉しそうに微笑んだ。
「新米買って帰らなきゃね。」
そう言いながら,足取りも軽く再び畦道を歩き始めたアスカは,シンジの腕に
すがりつつ,自分の好物ばかりが並ぶ夕餉の席を想像して喜色を深めた。
元々料理の得意だったシンジだが,ここ三年間でその腕前はさらに上昇の一途
を辿っている。喜んで食べてくれる相手がいるのだから,それは当然の結果で
あったが,
(シンジがお料理上手になるのはいいんだけど……,)
それに比べて…と,ふと自身の家事に対するこの三年での成長振りを思い起こ
して,アスカは心中顔をしかめた。
(アタシはちっとも上手にならないな……。)
アスカも自分の腕前が今一つ所か,今二つな事を十分に認識しており,折を見
ては練習を繰り返しているのだが,この才女にも『得手不得手』がある様で,
料理を含め家事の腕は一向に上達を見せない。この事態に,正直アスカは焦り
を感じていた。
(……やな事思い出しちゃった……。)
と胸の内で溜息を付くと,アスカは微妙に塞いだ瞳で,並んで歩いているシン
ジをちらり…と見た。
(これじゃ……,立派なお嫁さんになんて,なれないよね……。)
青と黒,二つの視線が虚空で絡み合う。
「どうしたの…?」
……焦りと溜息の原因が,にこやかにアスカを見つめていた。
「べっ,別に……。……なんでもない…。」
慌てて塞いだ眼差しをシンジから背け,彼の腕からすり抜けると,アスカは頬
を僅かに染めた。
そんな彼女に慈しむ様な笑みを向けつつ,シンジは何も聞かなかったが,彼女
の瞳の変化を見逃したわけでは無い。
(またか……。)
アスカ本人はシンジに気づかれていないと思っている様だが,二月ほど前から,
彼女は頻繁にこう言う目つきをする様になった。それは,シンジが料理をした
り,洗濯物を畳んでいたり,掃除機をかけていたり…と,総じて彼が家事をこ
なしている時に,最も多く見せている。
最初は,失敗ばかりしてろくに家事をこなす事も出来無い,自分への劣等感
の様なものかと思っていたのだが,彼女が小さく塞ぎ込み始めた時期から
その理由を考えたシンジは,ある人物からアスカ宛に来た一通のメールを思い出した。
(君のそういう目を見ているのが辛い……。)
さわり……さわり……と,再び稲穂が音を立てて揺れ始める…。少しばかり風
が強くなった様だ。その風の彼方に見える遠い森に目をやりながら,
「新米,綾波にも送ってあげよう…。」
シンジは唐突に言った。ぴくり…とアスカの体が震える。
「そうね…。アメリカじゃ新米なんて手に入らないだろうから,きっと喜ぶと思うわ。」
そう言って,アスカはどこか余所余所しげに微笑んだ。
シンジの父と共に海の向こう去って行ったレイは,連絡を取る事を禁じられて
いるシンジに代わって,アスカと密かに手紙やメールのやり取りをしている。
二人とも今ではすっかり打ち解けあい,見せてもらったメールには,親友同
士と呼んでも良い程の,温かみを感じるまでになっていた。
「…恋人と,仲良くやってるかな?」
そんな彼女から,恋人が出来ました…と,メールが来たのがちょうど二年前。
シンジとアスカが暮らし始めて丸一年たった秋頃だ。
添付されて来た写真には,優しそうな白人青年と幸せそうな笑みを浮かべたレ
イが,手を取り合って写っていた。
「あの二人なら心配いらないわ。…大丈夫よ。」
アスカは自信ありげに頷きながらそう言った。レイに恋人が出来たと聞き,シ
ンジとアスカは我が事の様に喜んだが,同時に口数の少ない彼女に,果たして
きちんと恋愛が出来るのだろうか…?とも心配した。
だが,レイも随分と変わっていたのだろう。相性が良かった事もあるのかもし
れないが,二人の心配を余所に,レイは健やかに恋愛を全うしている様だ。時
折送られて来るメールや写真からもそれは窺える。
「そうだね……。」
と,アスカの言葉に同意してシンジは頷いた。アスカも小さく笑い返す。そし
て,彼女は再び瞳に淡い憂色を浮かべると,草の生えた畦道に視線を落とした。
こつん…と,アスカのパンプスに蹴られた小石が乾いた音をたてて転がり,稲
穂の群れの中に消えていく……。
(本当は,もう少し時間が欲しかったんだけど…,)
そんな寂しげな彼女の様子に,シンジの瞳にも影が落ちた。
アスカがこうやって塞ぎ込む様になった原因は,レイから二月ばかり前に送ら
れて来た写真にあるのでは…と,シンジは睨んでいる。
その写真は,牧場と思しき広い草原に,にこやかに佇むレイを写した,なんで
もない一枚だったが,アスカが塞ぎ込んだ理由を探していたシンジは,下腹辺
りで組まれた彼女の左手の薬指に,小さな青い石がはめ込まれた銀色に輝く指
輪を見つけ,その原因を探り当てた思いだった。
『婚約』
レイは指輪の事に関してはメールで何も言及していなかったが,あれはおそら
くそう言う意味を含んだ指輪なのだろう。そしてアスカもシンジと同様に,あ
の指輪の存在と意味に気付いたに違いない。
(もう,これ以上待たせるわけにはいかないか…。)
結婚とは,男女が終生にわたってより深い絆を築いて行く為の始まりの儀式で
あり,愛の最終形態でもある。女性にとって,結婚と言う行為が意味する意義
は,男のそれよりも遥かに上であると言って良い。
……アスカは,レイが羨ましかったのだろう…。
男であり,まだ学生と言う身分に過ぎないシンジとしては,まずは自分の社会
的な立場と,収入を確保し,彼女の夫としてふさわしい男になってから,プロ
ポーズしようと慎重に考えていたが,親友が婚約した事実を知ったアスカは心
に焦りを覚え,同時に自分の家事の腕前が恋人よりも著しく劣っている事に,
言い知れぬ不安感を感じてああ言う目つきをしたのだろう。
(とは言うものの……,)
さてどうしたものか……?と,シンジの心は軽い懊悩状態にあった。
無位無官で彼女にプロポーズする腹をくくったのはいいのだが,その一歩が踏
み出せない。贈る指輪も無ければ,気の効いた言葉も思いつかない彼は,きっ
かけを掴みかねていたのだ。
(シンジ…お前は本当に臆病者だよな…。)
『結婚してください。』の一言に尻込みしている自分が,シンジは情けなかった
が,こんな調子ではいつまでたっても話が進まない。そもそも,今日彼女をこ
うして秋の深まる美しい田圃の中へ散歩に誘ったのは,何とかプロポーズする
機会を得るためだった。
指輪も無いプロポーズにせめて華やぎを添えようと,シンジなりに雰囲気を考
慮したのだが,いざとなると緊張で喉が貼り付いた様に渇き,上手く舌が回ら
ない。
(こんな事してたら,一生たってもプロポーズなんて出来ないぞ!)
武者震いを始めた自分を胸中で厳しく叱咤すると,シンジはアスカに見えない
様に深呼吸し,汗の滲んだ手をそっと握り締めた。
僕と結婚して下さい…,僕と結婚して下さい…,と,胸の中でうわごとの様に
繰り返しながら,
「あっ,アスカ…ちょっといいかな…?」
「何?」
シンジに呼び止められたアスカは足を止めると,くるりと振り返った。その青
い瞳で見つめた先で,シンジの顔が首からすさまじい勢いで赤く染まっていく。
「……顔赤いけど…どうかしたの?」
突然変じた彼の顔色の意味がわからず,アスカは怪訝な顔で小首を傾げた。
「あの…,……僕と……結婚…,」
「えっ!?……声小っちゃくて,良く聞こえないんだけど…?」
赤い額に汗の粒を浮かせ,難しい顔を所在無さげに動かすシンジに,訳のわか
らぬアスカは,いよいよ傾げた首の角度を深めた。シンジの鼓動と焦りが一層
高まる。
(何やってるんだよ!ほら!アスカ変な顔してるだろう!)
こういう時,男と言うのは大抵だらしの無いもので,普段は恋人の前で冷静に
振舞っていても,プロポーズと言う一世一代の晴れ舞台に立つと,子供の様に
あがり,緊張してしまうものである。
…冷静沈着を絵に描いたようなシンジとて,その例外ではなかった。
(結婚して下さいって…!僕と一緒に生きてくださいって…!言え!言うんだよ!)
いくら胸の内で喚こうと,アスカの耳には届かぬ叫びである。人っ子一人いな
い黄金色の海のど真ん中で,シンジは顔色を赤くしたり青くしたりして,言葉
にもならぬうめき声を上げ続けたが,アスカは彼の苦悩と所作がさっぱり理解
出来ず,
「もう……!急にどうしちゃったのよ!?…変だよ…シンジ……。」
「いや……,その……つまり………!」
いくら聞いても埒の開かぬシンジに,どうしてよいか分からず太い息を吐いた。
想いを伝えられぬもどかしさから,シンジの狼狽はアスカの困惑も合わせてい
よいよ強くなり,舌は空回りを続ける。
(僕は……何をやってるんだ……!?)
進む事も引く事も出来ず,シンジは天を仰いだ…。
かさり………。
………それが現れたのは,
………ぽきり………。
そんな,膠着状態が続いていた時だった…。
(ん………?)
突然アスカの背後から湧いた,稲穂を掻き分け踏みしだく小さな音に,シンジ
は表情を引き締めると,素早く顔をそちらに向けた。
……周囲にさやさや…と吹いていた風が,いつの間にか止んでいる。だが,
…みしり………。
………ぱきり…。
と,小さな音が響くたびに,彼女の背後に繁る稲穂の一部が,風も無いのに明
らかに揺れ動き,じわりじわり……と,金色の波が畦道に向かって移動して行く。
(何かいる……!?)
……何者かが,稲穂の中をゆっくりと這い進んでいるのだ。あまりに小さな音
であった上,シンジに気を取られていたアスカは,それに気づいていない様で,
相変わらず怪訝な顔でシンジを見つめている。
見えぬ来訪者に対し,本能的に彼女の危険を感じたシンジは,アスカをかばう
ため一歩踏み出そうとしたが,稲穂の下を這い進む『何か』の方がやや早かっ
た。
とすっ………と,湿った音を立てて,畦道に現れたそれに,
「…………狐………?」
シンジは息を呑むと,驚きに目と口を小さく開いたまま,そう呟いた。
(何でこんな所に…?)
黄金色の稲穂の群れを掻き分けて,突如アスカの背後に現れたそれは,一匹の
若い狐だった。体型から察するに雄の様だ。
先端を僅かに白く染めた,稲穂色の柔らかそうな尾を,ふわり…ふわり…と,
愛らしく動かしているが,尾に反して身じろぎもしない体と,鋭い眼光からは,
強い警戒心が対峙したこの二人の人間に向けられている。
(どう見ても,友好的な雰囲気じゃ無さそうだな……。)
その迫力に,シンジの額にうっすらと汗が浮いた。だがアスカはそんな獰猛な
視線を背に向けられているとは,露ほども知らず,はぁ……?と,気の抜けた
様に問い返す。
「狐って………,何言ってるの…?」
……いきなり『狐』とは,どう言う事なのか?しきりに目配せするシンジの意
図が全くわからず,アスカは彼の言った『狐』の意味を理解しようと,眉間の
皺を深めた。
…もどかしい事夥しいが,大声を出して万が一にも狐が襲い掛かって来たら大
事である。たまりかねたシンジは声をすぼめて,後ろ…!後ろ…!と囁いたが,
アスカの耳には届かなかった。
(後ろに狐がいるんだって!)
彼女が襲われやしないかと焦るシンジを尻目に,アスカは背中に狐の鋭い視線
を受けながら,しばし悩み込んでいたが,あぁ!と声を上げ,腑に落ちた様に
眉宇を明るくすると,
「アンタさぁ……,」
やや呆れたように,引きつったシンジの顔を,身を乗り出すようにして下から
覗き込んだ。
「ま~だそんな事考えてたわけ!?そうよ…稲穂に似合う動物って言ったら,
狐以外いな―――」
…もはや我慢の限界である。アスカの言葉が終わらぬうちに,シンジは身を乗
り出したアスカの両肩をがばっ!と掴むと,腕の中で彼女をくるり…と,反転
させてぎゅっと抱きしめた。
驚いたアスカはちょっと!?と声を荒げ,彼の腕の中で身悶えしたが,
「…ぁ………。」
畦道に立ち,鋭く自分を凝視する狐と視線を合わせ,小さく声を上げると目を
見張った。
「シンジ………きっ,狐が……!」
「シッ………!………大きな声出さないで…。」
二人の交わした小さな言葉に,狐はその大きな耳をそばだてる様にピクリ…と
動かす。黄金色の稲穂と同じ色の体毛に埋もれた鋭い目をいよいよ細めると,
狐は小さな威嚇の唸りを上げつつ,今にも飛び掛らんばかりに四肢に力を込め
た。
「何でこんなに怒ってるの……!?」
「僕らが敵だと思ってるんだよ…。」
「敵って…アタシ達,何にもしてないじゃない…?」
理不尽よっ!と抗議の声を上げたアスカに,狐は身を震わせて歯を剥いた。中
型犬程の小さな体から発せられる,意外なほど程大きな威圧感に,アスカは恐
怖を覚えてシンジの腕の中で身震いする。
野生の獣だけが持ちうる,気高い威圧感だ。決して人には屈服しないという誇
り高さが,二人の目にこの狐を動物以上の何かに映して見せた。
畦道の上に狐一匹,人間二人…。奇妙な光景である…。
「ねぇ…!いつまでこうしてればいいわけ……?」
立ち尽くす事に痺れを切らしたアスカがそっと小声で問うが,下手に動いて相
手を刺激するのは,この場合いかにもまずい。
「向こうが立ち去るまで…。」
押し殺した声でそう言いつつ,シンジは彼女を抱いた腕にさらに力を込めた。
そんな二人に,ジッ…っと濃い疑念の眼差しを向けていた狐だったが,静かに
たたずむ二人から,危害を加えられる恐れが無い事がわかったのか,不意にふ
っ…と,目に込めた力を和らげると,その顔を,先程姿を現した辺りに向け,
ケン………!と,小さく一声鳴いた。
先程までの険に満ちた唸り声ではなく,それはどこか柔らかな声音だった。そ
の声に答えるかの様に,
……かさり………
と,小さく稲穂が揺れる。二人の視線が再び動いた稲穂の群れに向けられた。
「…何かいる……?」
「うん………。」
二人が固唾を呑んで見守る中,さらにもう一声,雄狐が声を上げると,かさり
……かさり…と,稲穂が大きく揺れ左右に分かれ始めた。
「あっ……!」
稲穂を掻き分けてそっと畦道に姿を見せたのは,もう一匹の狐だった。アスカ
の小さな叫びに,びくり…と体を震わせると,新たに現れた狐は,その小さな
瞳でしきりに二人と先に現れた狐を見比べる。
…怯えているのだろう。身を震わせながら,じりじり…と稲穂の中に後ずさり
を始めた狐に,雄狐が再び小さく鳴いた。まるで…,
- 怖がらなくても大丈夫だよ…。出ておいで…。-
とでも言っている様だ…。それに答えるように,おずおずと稲穂の隙間から全
身を覗かせた狐は,先に姿を見せた狐よりも幾分小柄な,毛並みの美しい雌狐
だった。
「この子……女の子なの…?」
青空から降り注ぐ陽光に照らされて,雌狐の細い毛がきらきら…と黄金色に輝
く。綺麗……と,アスカは心の中で,その美しさに感嘆の息を漏らした。
「美人さんだね。」
「うん……!」
シンジの短い感想に,アスカは大きく頷く。狐に『美人』と言うのもおかしな
話かも知れぬが,人である二人の目から見ても,この雌狐は相当に美しい。
二人の前で雌狐は素早く雄狐に近寄ると,目を細め,さも愛しげにその顔を雄
狐に擦り付けた。仲睦まじげな二匹の様子に,
「仲いいのね…。夫婦なのかしら……?」
アスカは先程までの恐怖を忘れその姿に見入った。彼女の小さな呟きが聞こえ
たのか,雌狐は動きを止めると,つい…と顔を上げ,小さく首を傾げる様な仕
草を見せてから,アスカの事を鳶色の瞳でじっ…と見つめる。まるで,
― どう?私の旦那様。素敵でしょ!? ―
と,自分の伴侶を自慢している様にも見え,とり澄ましたその様子に,
(……何よ…!見せ付けちゃって………!)
胸中に激しい闘争心を憶えたアスカは,雌狐に負けじと体に回されたシンジの
腕を取り,強く握り締めた。
元々対抗心の旺盛なアスカとしては,目の前で見せ付けられて黙っているわけ
にはいかない。たとえ狐相手と言えども,そこは女の意地がある。
動いちゃ危ないよ…!と小声で制するシンジの言葉を完全に無視して,アスカ
は彼の腕の中でめい一杯背伸びすると,
(アンタ達なんかに負けないわよっ!)
どうだ!言わんばかりの視線を狐達に向けつつ,むきになってシンジに頬ずり
した。
……動物相手に愛情合戦を挑むとは,いささか大人気ない行為ではあるが,当
のアスカは真剣そのものである。そんな彼女の様子を興味深げに見ていた雌狐
だが,二度,三度と瞬きをしてから,
― そうね…,あなたの彼も,悪くないんじゃない? ―
とでも言いたいのか,小さな目を一段と細めると,二人から顔を背け,再び雄
狐にその身を寄せる事に没頭し始めた。
「………。」
見苦しく対抗心を燃やす自身とは対照的な,さらりとした雌狐の挙措の鮮やか
さに, アスカは押し黙ると共に,
(………バカみたい………アタシ……)
不意に胸中に冷えを憶えて,眼差しを地面に落とすと小さく息を吐いた。きら
きらと輝いていた瞳が先程と同様に光を失い,再び曇りの内に沈む。
(…狐にまで嫉妬しちゃって……。)
いくら結婚を焦っているとは言え,幸せそうな狐夫婦に先を越された様な感じ
を覚えて嫉妬するとは,我ながら情けない…。
体に回されたシンジの温かな腕を撫でつつ,アスカは愛しげに寄り添う狐夫婦
に,自身とシンジの未来図を比較して,自分達の行く末の不透明さに不安を濃
くした。
(……シンジって……アタシとこの先どうするつもりなのかな…?)
シンジと体を合わせたあの晩から,アスカは彼との結婚について考える様にな
った。当初は,この同棲生活の行き着く先に存在する『結婚』と言う名の理想
郷を心に描き,淡い憧憬の眼差しで結婚式の様子や,シンジとの夫婦生活を想
像しては,少女の様にときめいていたアスカだが,
(…そりゃ……,シンジは学生だから,結婚なんて考えにくいかもしれないけどさ…,)
ミサトと加持の結婚を皮切りに,周囲の知人達が次々と結婚してゆく現実を目
の当たりにし,次第に不安を憶える様になった。
…プロポーズをしてくれない,彼の愛情を疑っているわけなどではない。昼も
夜も,シンジがめい一杯自分を愛してくれているという事は,肌で実感してい
るが,
(でも………。)
同棲はいくら頑張っても,所詮『他人』が身を寄せ合って生きているに過ぎな
い。夫婦でもない,だが赤の他人でもない,不安定といえばこれほど不安定な
境遇は無いだろう。
(……不安なの……,)
将来への確約が無いこの状態が一体いつまで続くのか,自分はシンジにとって
どういう存在なのか…。考えれば考えるほど,先の見えぬこの状況がもどかし
く感じて仕方が無い。
…知らぬうちに,アスカは彼の腕の中で溜息をついていた…。
(未来が見えないって…凄く不安なの……。)
一度は彼の愛情に包まれて封印されたかに見えた不安が,最近,再び成長を始
め,アスカの心を押し包み始めている。
…不安が目に見えて成長し始めたきっかけは,レイの婚約指輪だ。
(レイは幸せよね………。恋人も旦那様も未来も,み~んな手に入れたんだから……。)
二ヶ月ほど前,彼女から送られてきたメールと添付された一枚の写真を見たアスカは,
レイの左手薬指に小さな指輪を見つけ驚愕し,……同時に,胸の底から這い上がって来た
,なんとも例えようのない寂しさに瞳を暗く塞いだ。
…また,自分は取り残されてしまった…と。
親友と呼べるようになった彼女が,結婚と言う幸せを掴んだ事実に,アスカは
疎外感を隠せなかった…。
(幸せ……か………。)
青空の下で戯れ続ける二匹の狐をぼんやりと眺めながら,アスカはこの言葉を
口中で噛み締めた。
(………アタシ………欲張りなのかな……?)
心の中で不安だ…,不安だ…と,繰り返す自分だが,置かれている境遇は決し
て不幸などではない。誰が見ても,幸福そのものの生活をアスカは送っている。
思い通りになる事の少ない世の中で,好きな人と共に,何不自由なく生きてい
るのだから,これを不幸と言えば贅沢を言うなと,人は彼女を謗るだろう。
(…別に豪華な婚約指輪が欲しいとか…,誰にも負けないくらい派手な結婚式
がしたいとか…,そんな事,シンジに求めてるんじゃ無いんだけど…。)
それがわかっているだけに,いくら胸中で自分の抱いている願望の清廉さを叫
んでも,アスカの目には,幸せの上に幸せを塗り重ねようとしている自身が貪
欲に濁って見え,目の前で素朴な幸せを楽しんでいる二匹の狐が眩しく映った。
「……いいな………。」
その眩しさに,思わず口をついて出た微かな呟きには,意地っ張りな彼女にし
ては,驚く程素直で遠回しな羨望が込められていたが,狐に見入っていたシン
ジの耳に,そのささやかな言葉は届かなかった様だ。
(…鈍感………。)
身じろぎもしないシンジと,その腕の中でもう一度溜息を付いたアスカに見せ
付ける様に,二匹の狐は互いの体を舐めあったり,体を擦り付けあったりして
いたが,申し合わせた様に,二匹は揃って背を向けた。
― じゃあね,お二人さん……。 ―
そう別れを告げたつもりなのか,ふわり…と尾を虚空に振り上げ,青い空に一
際澄んだ鳴き声を響かせながら,二匹の狐は稲穂の群れにその身を躍らせると,
黄金色の海の底に消えていった……。
突如現れ幻の如く消えていった狐に,夢の中から放り出されてしまった様な感
を得た二人は,しばし呆然と狐達が消えて行った田圃を見つめていたが,
「………行っちゃったね……。」
「うん………。」
現実に立ち返ったシンジの一言に,アスカは小さく頷いた。もう少し何か言お
うと思ったのだが,夢見心地の胸に吹き込んだ,淡い寂寞感が彼女の口を閉ざ
し,微かな寂しさを漂わせた青い瞳を彼方の山並みに釘付けた。
さわり……と,畦道に静かに風が吹き,稲穂を,アスカの赤毛を揺らす…。
ぽつり………と,
アスカが頬に小さな冷たさを憶えたのは,そんな髪を揺らす風が彼女の体を駆
け抜けた直後であった。
「冷た……!」
頬に生じた冷たさに思わずアスカは顔をしかめた。冷感が頬をゆっくりと走る。
何…?と呟きながら頬に伸ばした指先が,僅かな湿り気を帯びた。
「どうしたの?」
不思議そうにアスカの顔を覗き込むシンジに,アスカはまじまじと指先を見つ
めながら,
「何か…水が―――」
ぽつり………ぱらり………,
落ちてきたの…と,言い終わる前に,突如蒼天から降り注いで来た雨が,稲穂
を鳴らし,彼岸花の花弁を揺らしながら,二人をも包み込んだ。
「うわっ…!雨だ!!」
「やだぁ!!何で?こんなに晴れてるのに!?」
悲鳴をあげ,帽子を押さえたアスカを庇う様に,シンジは羽織っていたジャケ
ットを脱ぐと,帽子の上から彼女にかぶせた。
「ジャケット駄目になっちゃうわよっ!」
「かまわないよ。どうせそろそろクリーニングに出そうと思ってたから。…そ
れよりも……!」
素早く周囲を見渡し,雨宿り出来そうな場所を探す。遠出するつもりでも無か
った上に,雨を降らしている空は,不思議な事に見渡す限りの青空である。二
人とも当然傘など持って来ていない。
見る見る雨を含んで色を変じていくジャケットに,チラリと渋い視線を送ってから,
「ついてないな……。」
天を仰いで小さく舌打ちしたシンジの視界の隅に,畦道の終点に佇む木造の小
さな小屋が映った。建物の小脇に微かに見える看板から察するに,バスの待合
の様である。
「あそこで雨宿りしよう!」
叫ぶようにそう言ってアスカの手を取ると,二人は雨水を跳ね上げながら,こ
の奇妙な天気の下に伸びる,畦道をバス停に向かって一心に駆けていった…。
ほとほと…と雨が降っている…。
ぴちぱち…と周囲の草木を鳴らしながら,ほとほと…と雨が降っている…。
地を水で満たすほどの猛烈な雨ではない。霧雨の様に優しく周囲の風景を煙せ
たかと思えば,時折雨粒が肥大しているのか,バス停の屋根を葺くトタン板を
賑やかに打ち,たん…とん…と,調子はずれな音色を奏でていた。
奇妙な驟雨である。
何が奇妙なのかと言えば,その雨を降らせている天は青い。多少くすんではい
るものの,太陽さえも浮かんでいる。
陽光と空の青さが加わり,天から落ちてくる雨は不思議な輝きを持って,地表
を潤していた。
「やれやれ…,人心地ついたね…。」
持参していたハンカチをアスカに手渡しながら,シンジは小屋の内部を見渡し
た。木製の外壁に,赤錆びたトタン屋根,土作りの床には,もう字すらも読み
取る事が出来ないほどペンキの剥げ落ちた,広告付きのベンチが一つ据えられ
ている。みすぼらしい作りだが,風雨を避けるには問題無さそうだ。
雨の匂いと,足元からむっと立ち上る土の香りに,何処で咲いているのか,金
木犀の甘い芳香が合わさった濃密な香りの重奏に,小さなバス停はすっぽりと
包まれていた。
「急に降って来るなんて…,天気予報なんて当てになんない!」
受け取ったハンカチで帽子や服についた水滴を丹念に拭いながら,アスカは不
機嫌そうな眼差しで体中を見回した。
彼女の白いワンピースには,点々と黒い泥跳ねの後が目立つ。土がむき出しの
畦道を,それも雨の中走り抜けたのだから,白い服などひとたまりも無いだろ
う。
「やだぁ~~~!!ここにも泥が跳ねてる!……こんな事なら,白のワンピー
スなんて着てくるんじゃ無かったわ…。」
最低……!と毒づきながら睨んだ空は青く,彼女の怒りを嘲笑うかのように雨
を降らせている。その雨を含んで,バス停の前の道を挟んだ草叢に咲いている
シロツメクサの花穂が,重く頭を垂れていた。
「帽子もへなへなになっちゃって…。お気に入りだったのよ…これ…。」
少しでも乾かすつもりなのか,しっとりと重くなった帽子をベンチに掛けたア
スカは,大きく溜息をついた。
「はは…,キツネノヨメイリまで予測は出来ないよ。家に帰ったら,ちゃんと
シミ抜きしてあげるから…。」
むくれるアスカをなだめるつもりか,シンジは柔らかく微笑んで見せた。そん
な彼に,…キツネノヨメイリ…?と,アスカがきょとん…とした顔で鸚鵡返し
に問う。
ドイツを離れ,日本に住むようになってからもう随分と経つが,『キツネノヨメ
イリ』とは初めて聞く言葉だ。
「…何それ…?」
彼の口ぶりからすると,どうもこの天気の事を指しているようなのだが,お天
気雨に狐と嫁入りが,一体全体どういう関わりを持っているのか理解できなか
ったアスカは,目を瞬かせると,訝しげな顔を乗せた首を捻った。
「こんなお天気雨を,日本では昔から『キツネノヨメイリ』って言うんだ。」
釈然としない表情のアスカに微笑むと,シンジはバス停の壁に立てかけてあっ
たぼろ傘を手に取り,その先端を使って地面の上に器用に絵を描き始めた。
何する気よ…?と目を見張るアスカの前で,さりさり…と音を立てて傘が土を
掻く度に,地面の上に絵が広がって行く。
「…アンタ…こんな事も出来るんだ!?」
滑らかなその動きに,アスカは驚嘆の声を漏らした。
「医大の実習って,スケッチする事が多くてね…。綺麗に描きたくて練習して
いたら,いつの間にか描ける様になったんだよ。」
家事が得意で,チェロも難なくこなすシンジを,アスカは常々器用だと思って
いたが,まさか絵の才能まであるとは思わなかった。初めて見る彼の意外な特
技に,驚きの眼差しでしきりに地面と自分を見比べるアスカに,シンジは涼し
げな笑みを浮かべて答えた。
その間もシンジの手は休まる事無く動き,絵は見る見る広がり,彼の手によっ
て生命を吹き込まれて行く。
「…これが………,」
ひとしきり描き終えると,こんな感じかな…と,シンジは筆代わりの傘を元あ
った所に立てかけてから,手に付いた泥を軽く払った。
「キツネノヨメイリ……。」
感嘆を含んだ呟きを漏らしたアスカの前に広がった絵は,粛々と進み行く,狐
達の婚礼の列を写し取ったものだった…。
馬鈴や錦紐で華やかに飾り立てられた馬に跨った,白無垢姿の花嫁を先頭に
,その馬の手綱を引く羽織袴姿の花婿と,二匹の眷族達が手に手に提灯や朱傘
を持って静々と続く。
狐たちは何処から来て何処を目指すのか…。
土の上に描かれたそっけない絵ではあるが,シンジの手によって生き生きと描かれた
その絵がかもし出す,幽玄な空気に触れた様な気がしたアスカは,うっとり…と目を細めた。
「迷信なんだろうけどね…。昔の人は,お天気雨の中でこうして狐達が結婚式
を挙げてるって,信じていたらしいよ。」
「ふ~ん……,雨の中のウェディングパーティーかぁ…。悪く無いけど,折角
の結婚式なんだから,もう少し天気のいい時にやればいいのに。」
何も雨の日に好んでやらなくても…と,雨嫌いなアスカは,バス停の庇の向こ
うで依然ほとほと…と水滴を振りまく蒼天を仰いでから,少しばかり呆れたよ
うに苦笑した。
「人に見られたくないんだよ…,」
その雨がもたらした微かな冷気が沁みるのか,ワンピースから覗くむき出しの
白い肩を,小さく震わせたアスカを温める様に,背後からふうわり…と抱きし
めながら,
「だから,雨を降らせて人を遠ざけるのかもね…。」
シンジもまた,遠く雨に煙る晩秋の峰々を眺めながら,ポツリ…と穿った事を言った。
「恥ずかしがり屋なのね,狐って…。」
小さく呟いてから,シンジの腕の中でアスカが柔らかな笑声を上げる。
(キツネノヨメイリかぁ……。)
それにしても上手い事を言うものだと,アスカは心中でこの言葉を反芻した。
お天気雨とは常識で考えれば,本来ありえない現象である。雨は雲が降らせる
物であって,青い空では決して無い。無論,科学的に究明すればきちんとした
理由があって,青空は雨を降らせているのであろうが,昔の人々の目には雲も
無いのに雨が降ってくるこの天気が,ひどく奇異に写ったに違いない。
そのありえない現象の中に,同じくありえない狐の嫁入りと言う,幻想の産物
を取り込んで畏敬の対象とした,昔の人間の想像力の豊かさに,アスカは面白
味を感じた。
(どんな感じなんだろ……?)
シンジの描いたキツネノヨメイリの絵を,目の前に広がる雨に濡れた稲穂の海
に思い描きながら,空想を楽しんでいたアスカの前で雨が一段と強さを増す。
地を弾く雨粒が霧と化して宙に舞い上がり,稲の根元を白く霞ませた。
(ちょっと…見てみたいかも…。)
その霧に金木犀の香りが濃く混じり,とろり…と甘い湿った空気を胸いっぱい
吸い込んで目を閉じたアスカは,…もしかしたら,音だけでも聞こえないもの
か…?と,じっ…と耳を澄ませた。
さわさわ…と地を打つ雨音…,木陰を探し逃げ惑うヒバリの囀り…,稲穂を揺
らす風…,シンジの息遣い…,渾然一体となった音の波がアスカの耳朶を打つ。
見せないよ……,見せないよ……。人間には見せないよ……と,
その波の下から朧に聞こえた嘲笑う様な声無き声は,耳で聞き取ったか,心で
触れたか。アスカにはわからなかった…。
二人は抱き合ったまま,しばし黙って雨の降る景色を見つめていたが,
「ねっ!?」
何を思ったのか,不意にアスカがシンジの腕の中でくるりと身を返す。青い瞳
をきらきら輝かせながら,シンジを見上げた顔には,子供のようにあどけない
笑みが顔一杯に浮んでいた。
「もしかしたらさ,さっきの二匹…結婚式に向かう途中だったのかな!?」
アスカの言葉に,二匹って…?と言いかけたシンジの脳裏に,先程稲穂の群れ
の中に消えていった二匹の夫婦狐が,鮮やかに浮かび上がる。あぁ……!と声
を上げた彼も小さく破顔した。
「成る程,そうかもね…。」
言われてみれば確かにあの狐達が去った直後,キツネノヨメイリが始まったわ
けだから,この雨が二匹の結婚式を告げる雨だと言う,アスカの言もわからな
くは無い。
微かに頷いたシンジに向って,きっとそうよ!と自信満々な笑みを見せたアス
カだったが,不意に眼差しを曇らせると,両手をシンジの背に回し,きゅ…っ
と力を込めて抱きついた。
「…だって……,凄く幸せそうだった……。」
甘える様に頬を彼の胸板に擦り付け,アスカは拗ねる様な口調でそう呟いた。
この一言のにシンジの眉宇が,小さな苦悩の皺を結ぶ。
その皺を見られない様,シンジはアスカの体を抱くと,彼女の顔を軽く胸板に
押し付け,髪に顔を埋めた。
(アスカ………。)
彼女の言わんとする事がシンジには痛いほどわかる。仲睦まじげな二匹の狐に,
自身の境遇を重ね見た彼女は,『結婚』と言う幸せを自分にもたらしてくれない
シンジを,やんわりとなじったつもりなのだろう。
少なくともシンジは彼女の言葉をそう解釈し,そしてほんの少しだけ落胆した…。
(…結婚って…,そんなに必要なものなのかい…?)
この三年間,シンジは学業を除けば,その時間のほぼ全てを,アスカのために
費やしてきたと言っても決して大げさではない。そこまでやったと胸を張って
言えるだけの自信が彼にはある。
…アスカがしたいと言った事は可能な限り叶えて来たし,彼女を悲しみにさら
した事など一度も無いはずだ。
-僕は,彼女を守り通したんだ…。-
そういう思いが,誰にも言えないシンジの輝くべき誇りであったのだ。だが,
皮肉にも遠まわしに自分が満たされていない事を訴えるアスカによって,その
誇りは微塵に打ち砕かれた。
(よくわからないよ……僕には……。)
瞳に浮かんだ微かな悲しみをこらえようと,シンジはそっと目を閉じ,アスカ
の髪に頬をこすりつける様にして小さく頭を振った。一度は決心をつけたプロ
ポーズだったが,
(………結婚って,何なんだろう…?)
と,心中で改めて自問してみると,シンジにはその言葉の先にあるものがうま
く見えてこない。共に暮らし,共に生き,愛し合いながら苦しみも悲しみも折
半する事が,結婚だと言うのなら,今と何が違うというのか?
…それならば,経済的にも社会的にも,結婚すべき条件が整うまで,待ってく
れても良さそうなものなのにと,結婚に対するアスカとの感情の温度差に,シ
ンジは寂しさを隠せなかった。
(少し…こだわり過ぎなんじゃないのかな……。)
シンジとてこの三年間で,彼女との結婚について全く何も考えていなかった訳
ではない。ゆったりと構えてはいたが,いつかアスカと結婚したい…と,思い
を胸に努力を重ねていたつもりだった。
だが彼女はそれでは足りないと訴える。置き去りにされた子供の様な眼差しと,
遠まわしな言葉によって。
(僕だって…何も考えてなかったわけじゃないんだよ……。)
こんなにがんばっているのに…などと,思い上がった言を吐くつもりなど毛頭
無いが,伝わらぬ努力と,アスカの態度がシンジの心に反骨めいた気を生み,
せっかく腹をくくった結婚への足を鈍らせた。
「……アスカはさ……,」
もし,アスカの結婚したい理由が,ミサトやレイへの憧憬や対抗心だけである
ならば,それは単なる見栄の問題でしかない。
結婚と言う響きに軽い失意を憶えつつも,シンジは彼女の心が知りたくて,腕
の中のアスカにそっと呼びかけた。
「今,幸せじゃないって…,思ってる…?」
この言葉に,アスカははっ!とシンジの胸から顔を上げ,彼をまじまじと見つ
めた。…幽かな悲しみを湛えたシンジの眼差しが,自分を射抜いている…。
「ぁっ………,」
小さく声を上げると,アスカは思わず彼の胸元に目を伏せてしまった…。目の
前のそれは,随分前に自分が駆逐したはずの,あの悲しげな眼差しだ…。
「………ごめんなさい…。」
そんなつもりじゃなかったの…と,自分の言葉がシンジを傷つけてしまった事
を悟ったアスカは,彼の胸板に顔を押し付け,小さな声で素直に詫びた…。彼
女の仕草に,シンジが口元に困った様な笑みを微かに浮かべる。
「……ごめん…,聞き方が悪かったね…。」
…昔のアスカなら,こんな素直な謝り方はしなかったろう。お願いが叶わない
とわかると,駄々をこねる子供のように,ぶすっ…と,反感も露にむくれて見
せたり,不機嫌そうに押し黙ってしまう。それが,かつての彼女だった。
たが今は違う。この三年で,少なくともシンジに対しては,素直に頭を下げる
勇気と慎みが彼女の中に生まれていた。こう言うアスカに弱いシンジは,心に
生まれた反骨の小さな棘を慌てて振り落とすと,
「でもね,もしアスカが幸せじゃないって思っているのなら,教えて欲しいんだ。」
少し意地悪な問いだったかと後悔し,黙ったまま顔を上げようとしないアスカ
を慰めようと,きゅ…と抱きしめた…。
「………。」
「僕はアスカに出来るだけの事をしてあげたい。もちろん,叶えてあげられな
い事だって,あるかもしれないけど…,」
しと………と,シンジのシャツの胸元が熱くなり,それから少しずつ冷え,ま
たしと……と,熱くなる。
…彼女は,泣いているようであった……。
「僕は,いつでも君の事だけを考えている…。」
「………。」
「…それだけはわかって欲しい…。」
と,その涙を押さえ込む様に,シンジは言葉と腕に力を込めた。涙が出尽くす
のを待っているのか,語りかけるべき言葉を捜しているのか,腕の中のアスカ
は,黙したまま身を小さくして震えていたが,
「………幸せよ………,」
シンジの胸から顔を上げると,当たり前じゃない……!と,ほんの少しだけ怒
ったような口調でシンジの問いに答え,泣き濡れた青い瞳で彼をひと睨みした。
…アスカも彼が自分だけを見てくれている事は,十分過ぎる程わかっている。
それを無視して,幸せじゃない!と喚く様では,それこそ自分はどうにもなら
ない女に成り下がるだろう。
- …アタシは,そこまで無神経な女じゃない…。-
ねめつけた瞳には,そういう怒りや悲しみが込められていた。…そのまま,じ
っとシンジの事を睨んでいたアスカだが,
「……でもね,」
ふっ…と,眉宇にこめた力を抜くと,寂しげに微笑んで見せてから,彼の腕を
すり抜けバス停の入り口まで静かに歩み寄った。
アスカの背の向こうに広がる野には,相も変わらずほとほと…と,狐達の祝福
の雨が降り注いでいる。
「…満足は…してないわ………。」
……欲張りな女だって…思う…?と,ささやく様な声が,黄金色の雨に吸い込
まれ,雨に照り返す陽光の煌きの中にアスカの背が沈む。眩しさにシンジは僅
かに目を細めながらも,
「いや…。」
彼女の背に向かって首を左右に振った。自分もアスカも,もう十分に不幸の底
でもがき苦しんだはずだ。もし,人生に『幸せになる権利』が存在するのなら
ば,心ゆくまで行使しても罰は当たるまい。
…アスカの事を欲張りだなどとは,欠片も思っていない…。
「じゃぁ,どうすればいい…?」
…では彼女の考える幸福の極みとは何なのだろう…?それはやはり結婚なのか,
それとも,実は自分のまだ見ぬ頂が,彼女の中にあるのか?重みを増した頭を
ふりつつ,シンジは一歩,アスカに歩み寄った。
「どうすれば,アスカを満足させてあげられるのかな…?」
ざり…と,シンジの靴底が小石を噛む音に,アスカが振り返る。小屋の暗がり
に浮かび上がったシンジの顔を見つめた彼女は,少しだけ困った様に微笑んだ…。
「バカ……,そんな顔しないでよ…。」
アスカを見つめる彼の目もまた,薄闇の中困惑気味に明滅していたからだ。弱
りきった彼に歩み寄ると,アスカは微笑を収め真剣な眼差しでシンジを見据え
直した。そして,俯き加減の彼の柔らかな頬をそっと触れ撫でる。
…子供を諭す母の様な,優しい温もりを帯びた手だ。
「満足してないとは言ったけど,だからって,両手に抱え切れないくらい,沢
山の幸せが欲しい!…なんて言ってないわ…。」
その温もりと,アスカの言葉がじんわり…と心に沁み入り,シンジはようやく
憂色を和らげた。その様子に,
(……バカみたいに真っ直ぐなんだから…。)
アスカは微苦笑した。『バカ』。アスカはシンジにこの言葉を良く使うが,シン
ジは決して頭の巡りの悪い男ではない。それどころか,時に怜悧とも思える程,
思考に鋭さを見せる事が多い。
(こればっかりは,変わらなかったわね…。)
アスカの目から見たシンジは理の人である。何事においても深く思考を巡らせ,
最も良いと判断した事を着実に実行してゆくタイプの人間なのだ。感情を露に
させる自分とは,明らかに質が違う。
生きて行く上で,彼の様に考えを深める事も重要ではあるが,恋愛は男女の情を
練り上げて一つの形にした物だ。理で割り切る事は出来ない。出来ない物を無理に
割ろうとするから,そこに迷いや混乱を生じている。
彼が恋愛に対して愚直としか思えない様な言動を取る時があるのはそのためだ。
(これじゃ,当分プロポーズなんかしてくれそうも無いか…。)
ちらり…と彼の顔を見やったアスカは,しょうがないなぁ…と,胸の内で柔ら
かな呆れを含んだ溜息をついた。
こんなシンジを,もどかしいと思う事も無くも無いアスカだが,その愚直さも
彼の良さであり,アスカが彼を好きでいる理由の一つでもある。
(あぁ~ぁ……)
自分の幸せを願うシンジの真剣な口ぶりから,自分との未来を全く考えていな
いわけではなさそうな事が窺えたアスカの心は,見えぬ未来と言う重石から少
しだけ解放され軽くなり,
(もう少しだけ…,待ってあげようかな……。)
そのゆとりが,シンジを見つめる眼差しと口調に優しい色を漂わせた。
だが,そうは言っても彼の迷いを,迷いのまま残しておくのは彼にとって良い
事ではない。アスカの考える幸せの形を,彼に知っておいてもらう事は,シン
ジにとってもアスカ自身にとっても,益こそあれ決して悪い事では無いだろう。
相互理解は互いの愛情を深める事を,アスカはこの三年で学んでいた。
「アタシが欲しいのは,ささやかなものよ…。」
「ささやか……?」
そう…と,首を傾げるシンジに微笑んで見せてから,アスカは何かを思い出す
様な,遠く寂しい眼差しを,雨の降る黄金色の海に向けた。
「……小さい頃ね,アタシの周りは不安で一杯だった…。」
前に少しだけ話したわよね…?と,振り返ったアスカの口から語られ始めたの
は,彼女の幼い頃の苦い思い出だった…。
「…ママが自殺して,パパはアタシを置いて知らない女とどっかに行っちゃっ
て…,子供だったアタシは,どうしていいかわからなくて,毎日毎日,どうや
って生きて行ったらいいのか,不安で仕方が無かった…。」
共に暮らすようになって,随分と色々話し合った二人だが,互いの暗い過去に
関してだけは,ついつい口が重くなってしまう。
だが,眉宇を曇らせたシンジとは対照的に,今昔語りをするアスカの顔は,か
つての重さや暗さをどこかに置き去って来た様な清々しさに満ちていた。
「朝目が覚めると,今日一日,また一人ぼっちで生きなきゃいけないって,不
安になって…。一日が終わって夜になると,明日になれば,また一人で生きて
いかなきゃいけないって,不安になって…。あの頃は,生きていて楽しいなん
て,一つも思わなかったわ…。」
アタシの性格が悪くなったのは,きっとこの時ね…♪と,おどけたようにアス
カはシンジに笑って見せた。シンジが大きく首を振る。
「アスカの性格は悪くない…。」
「……シンジだけよ…,そう言ってくれるの…。」
つ……と入り口から離れると,アスカは温もりを求める様にシンジにふわりと
抱きついた。しっとりと雨気を含んだ彼のシャツ越しの胸に,何度も何度も頬
ずりを繰り返す。
シンジと暮らし始めてから,彼女の性格が以前に比べて丸みを帯びた事は確か
だが,それでもそれはシンジや極親しい人に限られての事である。
元々,歯に衣を着せぬ彼女の物言いに,不快を覚える者が多いのも隠しきれぬ
事実だ。そう言う輩の陰口から,シンジはアスカを守り続けたが,それでも全
てを押さえ込めるわけではない。
彼の知らない所で,心無い一言が亀裂から染み入る汚水のように,彼女の心を
汚していたのだろう。
(満足していない…って言われても…,仕方が無いか…。)
守り通したと慢心していた己の疎漏が悔しくて…,小さな体を抱いた腕に力を
込めつつ,シンジは虚しさに囚われかけたが,
「シンジに会えなかったら…,きっとアタシはいつか,不安に耐え切れなくな
っておかしくなってしまったかも知れない…。」
小さく声を上げながら,アスカはシンジの胸からゆっくりと仰首すると,青い
瞳でじっと彼の事を見つめた。
「…だから,もう,一人ぼっちで不安に怯えて生きるのはイヤ…。」
その紺碧の向こうに見えたのは,何かを強烈に求める様な乾きでも,他者を羨
む貪欲でも,満たされぬ不遇を嘆く哀訴でも無い。
すずやかで,でも,決して冷えに染まらない,温かな目容がシンジを貫き,虚
しさの淵から彼を引き戻してくれた。
「一日が始まる朝には,今日はどんな素敵な事があるんだろうって思えて,一
日が終って夜になれば,今日は昨日よりも,ほんの少しだけ余計に幸せだった
な…って,そう思える日々を生き続けたいの…。」
「アスカ………。」
「二人で一緒にいれば,それが可能なはずよ…。……だから,アタシはシンジ
の事を好きになったんだなって…,思うんだ…。」
(あぁ………。)
アスカの言葉にシンジは胸の中で小さく叫んだ。
…何の事は無い,彼女が求めていた幸せの形とは,結婚の先に見据えていた物
とは,今の二人の生活そのものだ…。ただ,シンジの目はそれを二人で暮らす,
ありきたりの日常と捉えていたに過ぎない。
(こだわり過ぎていたのは,アスカじゃない…。)
結婚と言う言葉に高質な響きを持たせるのは悪い事ではないが,シンジの目は
あまりにも高みを見つめ過ぎていた。経済的にも,社会的にも確立していない
上に,婚約指輪の一つも贈る事の出来ない,学生と言う中途半端な身分の自分
が,本当にアスカを幸せに出来るのかと,心のどこかで怯えていたのだ…。
(僕の方だ………。)
だが,金や身分や指輪が,必ずしも相手に幸せをもたらすとは限らない。アス
カはそんな物よりも,日々の生活を振り返った時に,ふと思い出して微笑む事
が出来るような,ささやかな幸福が永遠に続く事を望んだ。
「ねっ…!?そんな小難しい顔して,悩む程の事じゃ無いでしょ…?」
わかったら笑いなさい,バカシンジっ!と,アスカは急に口調を荒げ,苦笑交
じりにシンジのほっぺたを両手で摘むと,まるで搗き立ての餅でも練っている
様に,むにむにと捻り上げた。
「あっ,あのさ…,」
「ほ~らほら,笑わないと,ほっぺを取っちゃうわよっ!」
アスカが摘んだ両手を上下させるたびに,シンジの顔に不恰好な笑みが作られ
る。女の子の力なので,じっと摘まれているだけなら我慢できない事は無いが,
こうして上下に揺さぶられるとそれなりに痛い。
「結構…痛いんだけど…,アスカ…。」
明るい声を張り上げるアスカに,シンジは痛みをこらえかねてそう言ったが,
「うるさい!アンタが笑うまで止めないんだから!」
一人沈鬱な表情をしていたシンジをどうしても笑わせたかったアスカは,手を
緩めようとはしなかった。
笑いには人の心を豊かにする力がある。その力を持って,アスカは落ち込んで
しまったシンジを,慰めようとしたのだ。多少の傍若無人さを含んではいるが,
「わかったよ…。」
彼女らしい優しさをまとった行為に,シンジはついに愁眉を開くと,両頬を掴
んでいるアスカの手をそっと押さえ,
「これでいいかい…。」
と,含羞を含んだ笑みを見せた。シンジがよく見せる,アスカの心を蕩かして
しまう,あの涼しげな笑みではない。悪戯を見つかって母にたしなめられた子
供の様な笑みだ…。
「………やれば出来るじゃない。……上出来よ。」
ようやく明快さを取り戻した恋人の見せてくれた笑みに,アスカの胸の奥が,
嬉しさから空気に触れた熾火の様に,ほわ…っと熱を持つ。
「……そうかな…?」
思わず顔に手をやったシンジに,うん……!と,アスカも嬉しそうに笑顔で答
えた。その笑顔のまま,アスカは再び彼の胸に飛び込み,温かく大きな胸板に
全身を預け,
「…………アタシ………アンタの笑顔が大好きなんだ……。」
今度は甘える様な声音で,そっと囁いた。その言葉にシンジは笑みを一層深く
する。
二人で見つめ合って笑い,抱き合う…。…たったこれだけの事であったが,シ
ンジは自分の心に重くわだかまっていた不安や怯えが,さらり…と崩れてゆく
爽快感と,それ以上の幸福感を感じた。
(何をやってたんだ……僕は……。)
幸福とは,存外近くにあって気付かぬものだ。高みを見つめ,その高さに自分
を置こうと必死になって背伸びしていたシンジは,自分の足元に置き去りにし
てしまっていた,『ささやかな幸福』に目をやる事を,すっかり忘れてしまって
いた自分に気付かされた…。
(躊躇する事なんて,何も無かったってわけか…。)
自分が物の軽重にこだわり過ぎていた事を,アスカの言葉から教えられたシン
ジは,恥ずかしさから俯き,頬を薄っすらと染めると,はは……と,乾いた声
で小さく笑った…。
(やっぱり…君はいつでも僕の先生だ…。)
彼女の元で,彼女の幸せ守りながらこの先一生学んで生きたい…と,初めて結
婚と言う言葉の先に広がる世界が燦然と見えた思いがしたシンジは,口元に浮
かべていた笑いを収め,大きく息を一つ吸って,下腹に力を込めつつ静かに目
を閉じた。
(アスカ………。)
…雨に冷えた空気に,胸の奥に残った最後のわだかまりがゆっくりと溶けて行
く…。そっと彼女を抱いた腕を解くと,
(僕も…君と生きて行きたい……。)
割目し,胸中のよどみと共に息を吐き出したシンジの相貌は,凛とした気迫に
満ち溢れていた。
「ちょっと……,」
不意に腕を解かれたアスカが,不思議そうに首をかしげるその前で,シンジは
無言のまま彼女に背を向け,
「シンジどこ行くの…?」
バス停の庇を越えて,雨のそぼ降る青い空の下にゆっくりと足を向けた。あっ!
と,驚いたアスカが制止の言をあげる間も無く,シンジの長身が雨の中に沈む。
ようやく乾きかけていたシャツに,再び雨を含ませながら,彼は道脇の草叢に
生い茂るシロツメクサの一群の前まで歩み寄り,何故か……,ぴたりとその足
を止めた。
「何やってんの!?濡れちゃうわよっ!!」
ほとほと…と,雨が稲穂を,草叢に生え盛るシロツメクサを,そして,佇むシ
ンジを濡らしている…。
バス停の中で大声を上げるアスカの呼びかけが耳に届いていないのか,シンジ
は髪先から水滴を滴らせながら,黙って足元のシロツメクサを見つめていたが,
不意に身を屈めると,草叢から一輪の花を摘み取った。
純白の,一際大きくて美しいシロツメクサの花だ。雨の中,朧に浮かぶ太陽に
その花をかざしながら
「これかな……。」
シンジは一人満足そうに呟くと,ゆったりとした足取りでバス停の中に戻って
来た。ぽたり…,ぽたり…と,シンジが歩むたびに彼の髪や服から水滴が滴る。
「ほらぁ…,びしょ濡れじゃない…!」
すっかり濡れ鼠と化した彼に,アスカはハンカチを片手に慌てて駆け寄った。
「………。」
「突然わけわかんない事して!風邪ひいたって知らな―――」
シンジの顔を伝う水滴を拭き取ろうと,伸ばしたアスカの左手が空中で動きを
止めた。温かくて大きなシンジの手が,アスカの手を掴んでいる。…ふうわり
…と,まるで卵でも掴んでいる様に優しい手つきだ。
突然の事に,アスカは喉元まで出掛かった声を飲み込むと,
「………どうしたの……?」
自分の手をとったまま,真剣な眼差しを向けて黙りこくっているシンジを,ま
じまじと見返した。だが,…シンジは答えない。黙って,その澄んだ黒い瞳に
アスカの姿を映している…。
「そんな真剣な顔して……?」
手を引き戻す事も忘れて,アスカは彼の瞳に見入っていたが,その手がゆっく
りと下げられる感触に,彼女は視線を落とした。手にしていたハンカチは,い
つの間にか彼のシャツの胸ポケットに収められている。何かをこらえる様にほ
んの一瞬,唇を噛んだシンジだったが,
「アスカ………,」
優しく握った彼女の左手の薬指に,先程摘み取ったシロツメクサの花をそっと
巻きつけると,茎で器用に結びつけた。
アスカの白い手よりもなお白い花が,花弁に小さな水滴をダイヤの様にまとっ
て,指の根元できらり…と輝く。
「シンジ…これ……,」
その様は,まるで………,
「指輪の…つも―――」
「僕と結婚してくれないか…?」
えっ……?と,一瞬,アスカは彼の口から放たれた言葉の意味がわからず,呆
けた様な顔で自分の指に巻かれたシロツメクサの指輪と,彼の顔を見比べた。
(今………何て……?)
さわ……と,バス停の中に吹き込んだ秋風が,アスカの白いワンピースの裾を
揺らし,赤毛を炎の様になびかせる…。
今,結婚してくれないか…と,自分に囁いたのはシンジでは無く,この風だっ
たのではないか…?アスカの耳孔に響いた彼の言葉は,それほどまでに唐突で,
風の様な希薄さを持っており,アスカの思考の届かぬ高みを吹いていたが,
「結婚して欲しいんだ。」
困惑した彼女を現実に引き戻すほど,力強さに満ちた求婚の言葉が,今度はは
っきりとアスカの耳朶を打つ。
温かな響きは耳から真っ直ぐに彼女の胸の底に落ち,瞬時に彼女の血液を沸騰
させ,徐々に激しく打ち始めた心臓の鼓動によって,その熱い血は轟々と全身
に流れ始めた。
「結婚…って……,アタシと………?」
アスカの顔はおろか,首筋までもが,秋の峰々を彩る紅葉の様に赤く染まる。
しっとりと潤み始めた瞳を瞬かせながら,驚いた様に自分を見つめるアスカに,
シンジは大きく頷いた。
「僕の前には,君しかいないよ。」
アスカの瞳の端に浮かんだ涙の粒が急激に大きさを増し,重力に負けてぽろり
…と,頬を伝った。赤く染まった顔を慌てて背けると,アスカは唇を震わせな
がら涙声で,
「あっ,アンタばかぁ……?」
いきなり何言い出すかと思えば……と,言葉を詰まらせた。
…結婚して欲しい…と,まさか彼の口から今言われるとは,予想もしてい無か
ったアスカの衝撃は大きかった。
(アタシが……シンジのお嫁さんに……,)
この日が来る事をあれ程夢見ていたにもかかわらず,いざ受け止めてみると,
何と甘く,そして重みのある言葉なのか…。
彼と結婚するんだと,この三年間で努力して高め続けていた自信が,急速に喪
失して行く恐怖を感じたアスカの口吻は,恐怖を抑えるためか少しだけ鋭さを
増した。
「知ってるでしょ…!?アタシ…,アンタみたいにお料理も,お洗濯も,お掃
除も…,ろくに出来ないのよ!?」
自分の積み上げた努力や自信など,結婚と言う名の風の前では砂上の楼閣に過
ぎない。プロポーズをもう少し待ってあげようかな…などと,シンジに偉そう
な思いを抱いていたが,思い上がりも甚だしい。
(……やっぱり…無理よ………。)
時間が必要だったのは自分の方だ…。求めた物の想像以上の大きさに直面した
アスカは,今更ながらに自分の生活能力の欠如を恨んだ。
「アタシが…お嫁さんなんかになれるわけないじゃない……。」
そう言い捨てて,アスカは彼から一層顔を背けようとしたが,シンジはそれを
許さなかった。
「そんな事無い…,」
彼女の両肩を掴むと,少しだけ強引に自分の方を向かせ,じっと彼女の目を見
つめた。…優しくて…力強い眼差しだ…。
「忘れたの?僕が受験していた時,アスカはよく夜食を作ってくれたじゃない
か…。僕はね,あんなに美味しい料理は初めてだった。凄くうれしかった…。」
「シンジ………。」
「アスカの作ってくれたフレンチトースト,僕は好きだよ…。」
シンジを見つめるアスカの顔がさらに赤く染まる。あの時何を作ったのか,シ
ンジに言われるまで作った自分ですら,すっかり記憶の奥に埋没させていたが,
…あんな…料理とも呼べないような代物を,この青年は大切な思い出として覚
えていてくれた…。好きだと言ってくれた…。
「わからない事や出来ない事があったら,二人で一緒に覚えて行けばいいじゃ
ないか…。アスカ器用だから,きっとすぐに上手になるよ。」
温かい言葉と眼差しが,彼女を擁懐していた不安の殻に小さなひびを走らせる。
だが,まだ彼女の心が孵化出来るほどの物ではない。瞳を曇らせると,アスカ
は訴えかける様に,
「でっ,でも…,ほらっ,アタシ短気だよ…!おまけに口は悪いし…,乱暴だ
し……,わがままばっかり言ってシンジの事困らせる,…やな女だよ………。」
最後に言った『やな女』の一言は,地の底に消え入ってしまう程小さく,シン
ジの胸に寂しく沁み込んだ。
21年間と言うさして長くない人生を共に歩んで来たこの性格が,アスカ自身は
嫌でたまらないようだが,シンジはそんな彼女の性格を知り抜いた上で,彼女
にプロポーズしているのだ。
さっきも言ったけど…と,柔らかく微笑んで見せると,
「僕はアスカの事を『やな女』だなんて思わない。アスカは気付いていないか
もしれないけれど,君は誰よりも優しいよ…。」
「………。」
この言葉にアスカは頬を染め,恥ずかしそうに押し黙ってしまった。
アスカは確かに他の同世代の女性に比べると,幾分激しいものを内包している。
自分の心を素直に表現する事が苦手な彼女は,すぐに手を上げたり厳しい言葉
を投げつけたりして,対峙した相手に不快感を与える事が多いが,言動とは裏
腹に,心根は細やかな優しさで満ちており,陰湿な影は微塵も無い。
「おとなしいアスカも好きだけど,僕はいつも真直ぐで,何事にも真剣な君が
好きなんだ。」
自分を知ってもらいたい,自分の思いを伝えたいと言う,真っ直ぐな心情と激
しい性格が,彼女をほんの少しだけ粗暴に見せているだけだ。
もっとも,この事を熟知しているのはアスカと長い間生活を共にして来たシン
ジを除けば,ごく少数であろう。
「わがままなお願いかも知れないけど,いつまでも,僕の大好きなアスカのま
までいて欲しい………。」
絶対多数の人間に理解される事が,必ずしも人に必要とされる資質とは限らな
い。たった一人でもいい…,こうして自分の事を心底から理解してくれる人が
いると言う有難さは,何物にも変え難い事だ。
「シンジぃ………。」
シンジの言葉に,アスカはついに涙が止まらなくなってしまった…。
「愛してるよ…アスカ…。」
何一つ飾らない,ありのままのアスカを,シンジは心から愛していた…。
ばかぁ……と,恥ずかしさと嬉しさを堪えかねたように,アスカは赤い顔を両
手で隠し軽く俯いたが,
「あっ,あとね……,アタシ…凄いヤキモチ焼きなんだよ………。変な勘違い
して,シンジに迷惑…かけちゃうかもしれないよ………?」
覆われた指の隙間から漏れた言葉に,シンジは微苦笑した。
…これはアスカ自身の欠点を言っていると考えるべきなのか,はたまたやんわ
りと牽制されたと考えるべきなのか…。彼女の独占欲が異常なまでに強いのは,
シンジも身に沁みて知っている。
「信じてもらえるかわからないけど…,」
もとより浮気をするつもりなどさらさら無いが,今後の事を考えると,こう言
う事はお互いの為にもはっきりさせておいた方が良い。
「浮気なんか絶対にしないから大丈夫…!」
顔を覆った彼女の手を優しく剥がしながら,シンジは力強く断言した。涙に濡
れたアスカの明眸が,僅かに安心した様な明るさを取り戻す。が,不安は尽き
ぬのか,すぐにその顔を愁眉に埋めると,でも…アタシ……と,口ごもったア
スカの唇を,
「んん………!」
シンジがすかさず自分の唇で塞いだ…。
驚いて微かに抵抗を見せたアスカであったが,シンジは彼女の体をしっかり抱
きしめて離そうとはしない。やがて,アスカの小さな抵抗が止み,強張ってい
た体から力が抜けきった事を見定めたシンジは,ゆっくりと彼女から唇を離し
,真正面から見据えると,
「何があっても,何を言われても,僕がアスカと結婚したいって気持ちは変らない。」
「シン…ジ……。」
「僕と一緒に,生きてください…。」
彼女に向かって小さく頭を下げた。アスカを硬く包み込んでいた不安の殻に大
きくひびが入り,今度こそ音を立てて崩れ去る。
(シンジ…,アタシ………。)
殻の中できつく折り畳まれていた心と言う羽は,未来と言う空を与えられ,伸
びやかにはばたいた…。
(今,凄く幸せだよ………。)
この先,自分は長い人生を生き抜いてゆく事になるだろう。それは,決して楽
な道のりでは無いはずだ。時には不幸や不運にまみれなければならない時もあ
るだろう。
順風満帆な人生などあるはずが無く,人は己の身に降りかかった不幸を日々忘
れようとしているに過ぎない。それは酷く骨の折れる事であるが,もう自分は
一人ではない…。
「全く…!アンタ…どうしようもない物好きね……!」
瞳に残った涙を拭い取り,アスカは呆れ顔で笑うと,いつもの,あのちょっぴ
り怒ったような口調でそう言い大げさに嘆息してみせた。
「そこまで言うなら,しょうがないから……結婚…してあげる…!!…アンタ
の人生…一生かけて感謝…しなさいよ…!!!」
「ありがとう…。…アスカ…。」
声を震わせながら,真っ赤になって言い放ったアスカを,嬉しそうにシンジは
抱きしめた…。彼女の胸の前で組まれた手に,あのシロツメクサの指輪が白く
光る。
「婚約指輪,今はこんなものしかあげられないけど,自分で稼げるようになっ
たら,一番にプレゼントするから…。」
抱いた腕を解くと,シンジは赤く染まった頬を申し訳なさそうに掻いた。
今は瑞々しくアスカの指を飾っているが,根を失った花はいずれ枯れてしまう。
いくら指輪を買う事が出来ないとは言え,婚約者にそんな物を指輪代わりに与
えた自分が恥かしい。
恥らう彼に,期待して待ってるわ♪と,アスカはおどけた笑みを見せつつも,
「でもね……,」
そっと左手を上げ,庇の隙間から降り注ぐ陽光にシロツメクサの指輪をかざし
た。白い花弁の隙間に点在する雨粒が,陽光に映え,キラキラと黄金色に輝く
様が,たとえようも無い程美しい。
(シンジがくれた,世界で一つだけの指輪……。)
花の美しさもさることながら,彼の真心がこの指輪をさらに美しく見せている
のだろう。たとえ明日にも萎れてしまう運命がこの指輪にあろうとも,アスカ
はこれ以上の指輪がこの世にあるわけが無いと,心底から思った。
「でも………?」
「この指輪以上に素敵な指輪,探してくるの大変だと思うわよ。」
小首を傾げる彼の前で見せたアスカの笑顔は,シンジが今まで見た中で一番優しく,
幸せに満ちた笑みであった…。
雨が遠のいてゆく…。
黄金色の稲穂の海を照らす日差しが強さを増し,バス停の屋根を打ち鳴らす雨
音が,次第にその激しさを失いつつある。
狐達の婚礼の宴が終わりに近づき,彼らの作った,彼らしか住まえない幽玄の
世界が,人の世界の中に飲み込まれようとしているのだろう。
雨に霞み,朧だった風景の輪郭がはっきりしていく儚い様子は,夢から覚めて
いく瞬間にどこか似ていた。
「結婚式はね,春がいいな……。」
その夢の境に佇むバス停のベンチに腰掛け,失われつつあるキツネノヨメイリ
を眺めながら,二人は楽しげに会話を交わしていた。しっかりと繋いだ手の間
には,瑞々しさを失わない,シロツメクサの指輪が咲き誇っている。
「春?ジューンブライドじゃなくていいのかい?六月の花嫁は,女の子の憧れ
って聞くけど。」
「そんなの迷信よ!アタシ…ずっと決めてたんだ…。結婚式は,冬が終わって
花が一杯咲き乱れる春がいいって…。」
春か…と呟き,脳裏にカレンダーを描いたシンジは,僅かに表情を引き締めた。
季節は秋の最盛期を迎えており,一年に与えられた四季は,もはや冬を残すば
かりだ。婚約指輪こそ後回しになったものの,結婚式はすぐに挙げたいと言い
張るアスカに屈したシンジは,残り数ヶ月の間に,彼女との挙式と結婚指輪の
費用を捻出しなければならない。
婚約指輪が後で,結婚式が先。何とも奇妙な装いだが,アスカは全く意に介し
ていないようだ。
(…バイト,増やさなきゃいけないな…。)
軽い疲労感に襲われたシンジだったが,
「大きな式じゃなくていいのよ…。どこか小さな,お花畑に囲まれた教会を借
りて,二人っきりで挙げるの…。」
嬉々として語るアスカの笑顔を見ていると,不思議と自分も嬉しさと力が,腹
の底から湧き上がって来る感を覚えた。
…これは,彼女の願望を満たすだけの行為ではない。二人の未来を切り開いて
ゆくための,その第一歩なのだ。
(これも…夫の務めか……。)
握った手に僅かに力を込めると,シンジは実現できるように頑張るよと,アス
カに力強い笑顔を見せた。
……結婚は,どうやらシンジをさらに成長させてくれた様である…。
「それでね,結婚式の時に着る衣装なんだけ―――」
シンジの答えに嬉しそうに微笑んだアスカは,さらに結婚式の様子について語
ろうと口を開きかけたが,
「………。」
不意に口をつぐみ彼から顔を背けると,もう微になってしまった雨の中に浮か
んでいる,黄金色の稲穂の群れに視線を移した。突然静かになった婚約者に,
シンジが不思議そうな視線を向ける。
「どうしたの……?」
「今………,狐の鳴き声がしたような…。」
「狐の…?」
…確かにしたのよ…と,アスカは目を閉じて耳を澄ませた。……だが,耳に入
ってくる音と言えば,バス停のトタン屋根を打つ雨音や,風に鳴る草木の音ば
かりで,狐の鳴き声など僅かも聞こえない。
「空耳じゃないのかな?」
と,同じように耳を済ませているシンジはそう言ったが,違うわっ!と,アス
カは大きく首を振った。
(空耳なんかじゃない……。)
高く澄んだ声で,ケン……!と一言鳴いた狐の声が,確かに聞こえたのだ……。
目を閉じたアスカの脳裏に,畦道で出会った,あの幸せそうだった二匹の夫婦
狐の姿が鮮やかに浮かび上がる。
(あの子達なのかな……?)
…あの時,自分は未来の見えぬ悲しさから,二匹に嫉妬めいた視線を向け,無
謀な愛情合戦を挑んでしまったが,きっと,不安の狭間でもがいている自分の
姿は,狐達に見苦しく映った事だろう。
(アタシもね……結婚するんだよ……。)
アスカはそっと目を開くと,傍らで目を閉じ,耳を澄ましているシンジを見つめた。
(この人と…。)
だが今は,自分の隣には生涯の伴侶となってくれる人がいる。同居人よりも,
恋人よりも,はるか上の存在である夫と呼べる人が傍に…。
共に生きて欲しい…と言ってくれた彼の言葉を思い出したアスカは,口元に優
しい笑みを浮かべた。
(素敵でしょ…アタシの旦那様……。)
……もし,もう一度彼らに会う事が出来たなら,今もこれからも,二人一緒に
幸せに生きて行くと,胸を張って言う事が出来るだろう。
― しゃらん………,-
(ん…………?)
もはや叶わぬであろう二匹との邂逅を想像しながら,ぼんやりとシンジを見つ
めていたアスカの耳を,明らかに雨や風の音とは違う,金属をめいた音が打つ。
小さくは無いが,さりとて耳をつんざく様な不快な音ではない。優しくて温も
りすら感じる音色だ。周囲に響き渡るその音色に,何事かとアスカは目を瞬か
せ,僅かに顔を上げると耳を傍立てた。その耳孔を,
―しゃらん……しゃら……,-
美しい音色が走りぬけ,彼女の脳内で心地良く反響した。
(………鈴……?)
鈴だ……,鈴の音だ……。どこから響いてくるのか,しゃら…しゃら……と,
澄んだ鈴音が風雨に邪魔される事無く,辺りに響き渡っている。
(どこから聞こえてるの……?)
不思議に思ったアスカは,おもわず身をまさぐったが,自分もシンジも鈴など
一切身に着けていない。行き交う人も無く,自分達以外には人もいないこの寂
しげなバス停に,突如響いた鈴の音はあまりにも場違いだ。どこから発してい
るのかと,顔を巡らせていたアスカだが,
「ぁ………。」
彼女の目が小さく見開かれ,端正なその顔が稲穂の中に赤々と咲き誇っている,
彼岸花の群れに釘付けになった。
(何………あれ………,)
…馬が一頭,蒼く淡い焔の様に揺らめく馬が一頭,背に,白無垢の花嫁をちょ
こん…と跨らせ,羽織袴をまとった狐に手綱を取られて,赤い彼岸花の中に幽々
と佇んでいたのだ…。
馬は錦の紐や,馬鈴で賑々しく飾り立てられており,しきりに首を振っては
,たてがみを野に吹く風になびかせている。
鈴の音色は,この馬が身につけた馬鈴が発していたのだ…。
(もしかして………。)
現実とは思えぬその光景に,驚嘆して言葉を失ったアスカの前で,馬鈴がしゃ
らしゃら…と澄んだ音を立てるその度に,提灯や朱傘,花籠に太刀と,思い思
いの道具を手にした狐達が彼岸花の中から現出し,見る見るその数を増やして,
長い長い行列となり馬の後に続く。
身じろぎ一つしない狐達の行列の向こうには,薄青く染まった秋の風景が,ぼ
んやりと浮かんで見えた。
……透けているのだ…。その姿は,どう見てもこの世のものではない。
(キツネノ……ヨメイリ………?)
そぼ降る雨に濡れる彼岸花の中に,朧に浮き上がった姿は,先程シンジが描き
示したキツネノヨメイリそのものだ…。
「…嘘でしょ……?」
足元の消えかけた絵にチラリと視線を送ってから,小さく呟いたアスカは息を
呑み,我が目を疑った…。
「……どうかした…?」
僅かに口を開いて,呆けた様に一点を見つめている彼女に,シンジが不思議そ
うに問う。自制を取り戻そうとアスカは激しく首を振ると,驚きに満ちた顔で
シンジとキツネノヨメイリを何度も見比べた。
どうもこうも無い。消える事無く雨の中に揺らいでいるあの異様な光景が,鳴
り止まぬ鈴音がこの青年にはわからないのか?
「どうしたのって…,あっ,あれよ………!」
見えないの…!?と,震える指でアスカは彼岸花の中に延々と佇む,狐達の列を指
差したが,ちらり…と視線を向けたシンジは,
「あぁ…,彼岸花が綺麗に咲いてるね……。」
それがどうかした……?と,柔らかな笑みを彼女に向けた。あっけない彼の反
応に,そうじゃなくて……と言いかけた口を,アスカは慌ててつぐんだ。
シンジの視線は確かに狐達の足元に赤く咲き乱れている彼岸花に注がれてはい
るが,その上に佇むほの青い陽炎じみた狐達には向けられていない。
(………アタシにしか………見えてないんだ…。)
そうに違いない………と,胸の中で確信したアスカは驚きを収めると,
「………なんでもない………。」
口元に何ともいえぬ嬉しそうな笑みを浮かべ,傍らに腰掛けるシンジの腕にひ
し…と抱きついた。彼の温もりが腕を伝いアスカの体を温めてくれる。その温
もりを楽しみながら,アスカは彼岸花の中に佇む馬上の花嫁をじっと見つめた。
白無垢から覗く花嫁の瞳もまた,アスカとシンジを見つめている。
……きっと,同じ花嫁となるアスカにだけ,狐の花嫁は自分達の婚礼の儀を見
る事を許してくれたのだろう……。
(……ありがとう…………。)
アスカは心の中で狐達に礼を述べた…。その声が合図になったのか,しゃらん
……と,一際大きく鈴の音が鳴り響き,手綱を手にした花婿がゆっくりと歩み
始める。燦々と照りつける陽光の下,いつの間にか,雨はもうほとんど姿を失
いかけていた。
……別れの時が来たのである………。
- 待ってて……。-
しゃらん……しゃん……と,馬鈴の音を響かせながら,狐の花嫁を乗せた馬が
雨の彼方に去ってゆく…。
手綱を引く花婿が目指すのは,何処の森なのか…?
-アタシも…,すぐに追いつくから………。-
キツネノヨメイリ……。それは幻だ,何もかも,全て幻だ。朧に浮かんだ狐達
の婚礼の列は,古来よりの言い伝えから生まれただけの幻に過ぎない。だが,
アスカの目にはさわさわ…とそぼ降る雨の向こうに去って行く,幸せそうな狐
達の列がありありと写っていた。
そして,自分もそんな風に幸せでありたいと願った…。
- 春になって,この黄金色の原が,蓮華草の桜色で埋め尽くされる頃…,-
雨露に重く濡れ下がった彼岸花の花弁の向こうに,まだ微かに降り注ぐ針より
も細い雨を見つめながら,アスカはシンジの手をそっと握り締めた…。
- アタシ…この人の元にお嫁に行きます……。-
降り注ぐ雨が陽光の中に霞んで消えていく…。止み行くその雨の中に消えよう
とした馬上の花嫁が,そっとアスカの方を振り返った。
-あっ…………!-
白無垢の下から覗いた花嫁の口元には,確かに小さな笑みが浮かんでいた…。
お・わ・り