どれ程時間がたったのか……,困惑するアスカとミサトの目の前で,物悲しい
レイの嗚咽は終わりを知らぬかの如く延々と続けられていたが,
「………私……」
不意に肩を大きく震わせ鼻をすすると,レイはその細い指で瞳から溢れる涙を
丹念に拭いながら,
「……碇君と……,暮らしてなんか……いないわ……。」
腹の底から搾り出すような声を上げた。悲しみを堪えるかの様に,彼女の顔の
奥から響く,小さな歯噛みの音に,アスカは微かに哀れみを込めた視線を向け
る。
(…アンタも……同じなんだ……。)
あれ程嫌悪した相手だというのに,レイとシンジの間に何の繋がりもない事を
知ったアスカは,彼女に対して同情している自分が不思議だった。
……結局,自分もレイも,シンジには受け入れてはもらえなかったのだ…。
そう思うと,悲しみも,憎しみも,嫉妬も,何もかも全てが空しくなってしま
ったアスカの心に,寒々とした風が吹いた。
(じゃあ……,)
だが,荒涼たる風が吹き抜けたようなアスカの心に,小さな疑問の灯がともる…。
(シンジは…何をしてるの……?)
ますます彼の意図が掴めなくなってしまったアスカは,この一ヶ月で苦悩の重
みを増してしまった頭をどうにか働かせようと,眉間に皺を寄せてきつく目を
閉じた。
…この娘はシンジの所に行き,何を見たのだ……?
『お人形さん』だったはずの彼女に,嗚咽する程の悲しみを植え付けたものの
正体を脳裏に描こうと,アスカは必死に想像を膨らました。
…皮肉なものだ……。迷走する彼女には,よもやその正体が自分だとは夢想だ
に出来なかった…。
(何なの……,この人……?)
押し黙って目を伏せるアスカに,レイは涙に濡れた顔を上げると,愕然とした
眼差しを向けた。
…これが,自分から愛した人を奪っていった相手なのか…?シンジが,全身
全霊で愛している人なのか…?久しぶりに目にした,恋敵のあまりの零落ぶ
りと思慮の浅さに,レイは呆れを通り越して怒りすら覚えた。
(情けない……。)
シンジの元を訪れたレイは,彼の心の中に自分がいない事を知った。……向き
合った現実は己が身を裂くほどに辛いものだったが,シンジのアスカに対する
想いの深さに打たれたレイは,憎しみと嫉妬を捨て去り,シンジの事を諦める
事が出来たのだ。
……彼との思い出は,優しい記憶として胸に残っている…。
(こんな人に……,私は負けたの……?)
日本を去るまでにまだ僅かに時間が残っていたレイは,その足で葛城宅へ向か
った。かつて世話になったミサトに,別れの挨拶をしたいとの思いも無論あっ
たが,
- …あの人に会ってみたい……。-
レイはふとアスカの顔が見たくなった。正直な所,彼女との間に良い思い出な
ど皆無に等しい。随分と毒も吐かれたし,『お人形さん』などと言う不名誉な呼
ばれ方もした。
だが,シンジの気持ちを知った今,アスカの激しい言葉の裏には,必死に彼と
の関係を守ろうとする,健気な想いがあったのではと考えたレイの心の中は,
長年の剣戟を振り落として軽くなった。
現実を見据えた事で,彼女は大きく成長する事が出来たのだ。だが……,
(あなたは……その程度の人なの……?)
葛城宅でアスカを見たレイは激しく落胆した。レイの目には,アスカは何一つ
理解しようとせず,自我と言う殻で覆われた世界の中に閉じこもって駄々をこ
ねている,子供に映った。
(碇君……,……どうして………?)
……彼の愛情を疑うばかりで知ろうともせず,挙句の果てには『あんな奴』と
罵倒したアスカを,レイは許す事が出来なかった。平手打ちにはそんなアスカ
に対する彼女のやるせない怒りが込められていたのだ。
氷の様なその顔を怒りで小さく歪めたレイの前で,彼女の怒りなど知る由もな
いアスカは,一つの結論を得ようとしていた。
「キツネノヨメイリ ‐四‐」
(……もしかして……,)
自分もレイも拒んだシンジの思考に近づこうと,重い頭を巡らせていたアスカ
は,刹那,脳裏に走った自らの想像に,微かに青ざめた……。
(……アタシもレイも,知らない女と……。)
シンジの傍に寄り添う,見たことも無い女の影がアスカの脳髄の奥に,蜃気楼
の様に朧に浮かび上がる。形も成さぬその影に,どんよりとした嫉妬の念を覚
えたアスカだったが,その嫉妬はもはや憎しみにも成長しなかった…。
馬鹿馬鹿しい…と呟いた彼女の唇から,乾いた哂いが漏れる。
「結局,アンタもアタシも,シンジに振り回されていただけだったってわけね……。」
この言葉に呆れてものも言えないレイは,薄い唇を僅かに開くと,小さく息を
吐いた。…誤解もいい所だ。身勝手な想像を振り回すアスカに,レイは冷たい
眼差しを向けた。
(………あんまりだわ……。)
想い人に理解されない事程虚しい事は無い…。レイの心は,葛藤に揺れ動いて
いた。アスカが彼との別離に思い悩み,苦しんでいたのなら手を貸そうと彼女
は考えていたからだ。
……好きだった男の恋を邪魔する程,自分の心は邪心に染まってはいない…。
(……これじゃ……碇君が可哀想………。)
だが,現実はどうだ。
「……アンタの話聞いて,すっきりした……。これで…心置きなくここを出て行けるわ…!」
「出て……行く……?」
涙で赤さを増したレイの目が見開かれる。小さな声で驚きを露にした彼女にアスカは,
「帰るのよっ!ドイツに!……シンジがどんな女と暮らしてるか知らないけど,
……アイツより…絶対に幸せになってやる……!!」
吐き捨てる様にそう叫んで落涙した。さらにこぼれようとする涙を堪えるつも
りなのか,歯を食いしばって俯いた彼女に,あなた……と,哀れむ様な声と共
に悲しげな眼差しを向け,レイはアスカに向かって身を乗り出した。
「本気で……そんな事を言っているの……!?」
この時点でアスカは,もうシンジの温もりの届かぬ所にいた。彼の気持ちを踏
みにじり続けるアスカに,
(あなたには…………碇君に愛してもらう資格なんか無い……!)
こんな身勝手な女など放っておこうと,レイは一瞬心の中で背を向けかけたが,
「………。」
ふと目元に寂しげな色を浮かべ思いとどまった。脳裏に……あの家で見た,疲
衰しきったシンジの顔が浮かび上がる……。
(……でも……,)
身を震わせると,レイは小さく唇を噛んだ。
(……碇君が………。)
……もし,自分がここで彼女に救いの手を差し伸べなければ,アスカは生涯彼
の優しさに気付かぬまま,故国でシンジを恨み続けるだろう。それはいい。…
…勝手にすれば…!と言うのが,レイの素直な気持ちだ。だが,アスカを失っ
たシンジはどうなるか…?
(……碇…君が……!)
考えるまでも無い。光の差さぬ闇から抜け出せぬ彼は,おそらく心身を摩滅し
きって,己の理想の上に斃れ臥してしまうだろう…。抜け殻の様になってしま
った彼を想像したレイは,その夢想のあまりの暗さに震え上がった。
強く握られた彼女の,白い手の中に汗がじんわり……と湧いて出る。
……自分は今,裂開の虚空の上に漂っている小さな羽根だ…。
アスカを助けるべきか,否か。いずれかの崖の縁に漂い落ちるしか道はない。
(……私は………,)
自分の発言が,二人のこれからの人生に大きく影響を与えるであろう事が恐ろ
しい程わかったレイは,胸の内で苦悩の濃さを増した。
………そんな女……放っておけばいい………。
………自分と同じ気持ちを…味わわせてやればいい………。
どろりとした苦悩と,アスカの狂奔ぶりが,彼女の心の中に封印されていた邪
心を呼び起こす。
……アスカには何の義理も恩も無い。シンジの優しい眼差しも,言葉も,温か
な手の感触も全て,……全て自分から奪っていったのは他でも無い,彼女では
ないか……。
(………どうしたいの………?)
憎まれ,蔑まれた記憶はあっても,優しさや慈しみを受けた記憶などありはし
ない。この娘は……報いを受けるのよ……。と,冷たく笑う自分がレイの首筋
にそっと手を回してくる。
(もし……私が何も言わなかったら………,)
ありもしないその感触はひんやりとして,でも,甘苦い誘惑の調べを含んでお
り,レイの心を容赦なく責め惑わした。
(この人は…………。)
心の色合いが黒さを増し,初めて味わった『邪悪』と言う名の果実の,ねっと
りとした暗い甘さに,徐々に酔いはじめたレイは俯くと,
(私と……同じ………,一人……ぼっち……。)
口元に,小さくねじれた笑みを,心の暗さをそのまま形にした様な笑みを浮か
べ,僅かに歯を除かせた…。が……,
- 綾波……!-
胸の奥にぽつり……と,邪心とは明らかに温度の異なる明かりが灯り,暗く闇
の淵に沈みかけた彼女の心を温かく照らす。
― ……また,会えるよね……?―
……別れ際に,シンジがレイに見せた最後の優しさ……。胸の内に湧き上がっ
たこの言葉を噛み締めたレイは小さく息を呑むと,怪訝な目で自分を見つめる
アスカとミサトの前で,左右に激しく頭を振った。
(違う………!!)
シンジの優しさに照らし出された,自らの邪心のあまりの醜さに慄いた彼女は,
必死にそれを振り落とそうと躍起になった。
「どうしたの……!?レイ………?」
「………私は………,」
小さな体を震わせて,再び涙を流したレイにミサトは不思議そうに問うたが,
彼女は答えなかった。
…ここでアスカの事を無視して立ち去る事は簡単な事だ。いつもの自分通り,
黙って背を向けて立ち去ればよい。
(……私は………!)
……だが,シンジのアスカに対する誠心な想いを知っていながら,黙って背を
向け,アスカの不幸を喜ぶ己の行為に,レイは言い知れぬ卑しさを感じて,満
身を自分に対する情けなさで染め上げた。
………そんな事をすれば,自分はただの卑怯者だ……。
(……卑怯者には……なりたくない………!)
叶えられぬ願いと知りながら,シンジは決して嘘や誤魔化しで自分に背を向け
はしなかった。最後まで,真正面から自分に向き合ってくれたではないか。
あの人の優しさを,踏みにじるわけにはいかない……,そう心の中で呟いたレ
イは,完全に邪心を捨て去ると,
「わかっていない………,」
涙を拭い去った瞳に,ミサトもアスカも初めて見る,強い決意の光を灯し,力
強い声と共にアスカに詰め寄った。
(なっ,……何よ………!コイツ………。)
その気迫に押され,アスカの足が意思とは無関係に僅かにあとずさったが,レ
イは語気を全く緩めること無く,さらに彼女に向かって挑みかかるように歩を
進める。
(…本当に……,あの…人形娘なの……?)
目を見張ったアスカは,動揺を隠せなかった。
「あなた,碇君の事何もわかってない…。何も見ていない,知ろうともしない……!」
口数が少なかったはずの彼女に,面と向かって投げつけられた,言葉のあまり
の激しさと熱さにたじろいでいたアスカだが,何ですってっ……!と目を吊り
上げると,すぐさま自分の感情を怒りで塗り替え,朱に染まった顔を猛然とレ
イのそれに寄せた。
「アンタもそんな事言うの…!?じゃあアンタにアイツの何がわかるって言うのよっ……!」
掴みかからんばかりのアスカの勢いに,レイは全く怯む事無く彼女を睨みすえた。
(……可哀想な人………。)
シンジの気持ちを知った事により,レイは他人の心の機微が,僅かではあるが
見通せるようになった自分を感じていた。
レイの目から見たアスカは,決して知恵の巡りの悪い方では無い。むしろ他者
よりは抜きん出ていると言っていいだろう。だが,暗い過去に捕らわれた彼女
の心は,自己を見つめ,他者を受け入れようという行為に対し,恐怖から途端
に曇りを見せてしまう。
(……あなたは,自分の心を知るのも怖いのね……。)
悲しい生い立ちがそうさせたとも言えなくは無いが,それは言い訳に過ぎない。
18年という歳月の中で,じっくりと自分を知る機会はいくらでもあった筈だ。
現実を恐れ,自己を成長させる事を拒んできた事で,アスカは外に向かって放
つべき知恵を,長い間内にこもらせて来てしまっていたのだ…。
「甘えないで……!」
再び自制を失い始めたアスカに,レイはぴしゃりと言い放った。……温言ばか
りに包まれていては,成長する事など出来はしない。元々憎まれている自分だ。
これ以上どうなるわけでもないと腹を据えたレイは,激しい言葉で容赦なくア
スカを攻め立てた。
(碇君は,私に背を向けなかった…。だから,私もあなたに背を向けない……!)
……この時レイは,アスカの母になった様な気持ちで,真摯に,だが厳しく彼
女の蒙さを啓こうと向き合った。
そんなレイに対峙したアスカの瞳に,ほんの少しではあるが,叱られた子供の
様な怯えが浮かび上がる。
「怖がってばかりで,自分で知ろうともしない。そんなあなたに,碇君の優し
さがわかるわけが無い……!」
唇を震わせながら,奇妙な虚ろさを見せたアスカは,レイから背けた視線を頼
りなさげに宙に泳がせた。
(……黙れ………!)
…恐ろしかった…。
(黙れ………!…黙れ……!!……黙れぇぇ!!!)
…アスカは,この時レイが恐ろしくてたまらなかった…。
大声で喚き散らして,掴みかかって,今すぐにでもこの女を玄関から放り出し
たい!と狂気の様に念じたアスカは,怒りで恐怖をねじ伏せ様にかかった。
(……あっ…アタシは………!)
が,いくら息を吸い込み足に力を入れても,アスカの体は震えるばかりで寸分
たりとも動こうとはしなかった…。
(アタシは……!)
アスカの心は,レイの体貌から発せられる心気に,完全に圧倒されていたと言
ってよい。
怒りの内で,アスカは驚愕していた。一体,この娘に何があったのか…?以前
のレイからは見られなかった,凛とした強さを感じたアスカは,彼女とは対照
的に見苦しく取り乱す自分と無意識に比較してしまい,反論する事も,レイを
直視する事も出来なかった。
(怖がってなんかいない……!!!)
心の底に湧き上がった言葉が,なすすべも無く再び底に溶け返って行く恐怖に
抗うため,アスカは怒りの感情を作り出そうと躍起になった。
……弱虫な自分を認めたくない自分が,胸に突き刺さるようなレイの言葉に怯
え慄き,心の隅に追いやられて行く…。
そんな,怯えの色を露にするアスカを前にしたレイの心の内に,何とも言えぬ
寂しげな風が吹いた……。
(……そう………そうなのね……,)
何故,自分がシンジに受け入れられず,アスカが受け入れられたのか…。意を
決してアスカに会いに来て,迷走する彼女を目の当たりにしたレイは,
(……だから……,)
ぼんやりとだが,自分が受け入れられなかった理由の一端が,理解出来た様な
気がした…。
……自分は,あまりにも人の心と言うものを画一的に捉えすぎていた。人間の
心は,感情や性情が縦糸を成して作られているだけの安易な代物ではない。縦
横無尽に複雑に絡み合った意思の集合体が人の心なのだ。
(……私じゃ駄目だったのね……。)
シンジと出会う前,感情の表し方が分からなかった彼女は,他人の模倣する事
で何とか自分を人に近づけようとした。
だが,それは表面的な部分を真似たに過ぎない。
完璧に真似ようとすればするほど,心の本質から遠ざかっている自分に,あの
時のレイは全く気付いてもいなかったのだ…。
(私は,あまりにも深く考えすぎていた……。)
……こんな簡単な事に,どうして今まで気付かなかったのだろう…と,レイは
胸の奥で自嘲気味に苦笑した。
……人は,極めて不安定な生き物だ。だから一人では生きてゆけない。シンジ
とアスカは,互いの異なる不安定さを,おのおのが持っている安定した部分で
補う事で,安らぎを共有しあう存在だったのだ。
(結局………あの頃の私は,この人の言うとおり,お人形さんだったのね……)
……感情や,心の持ち合わせの無かったあの頃の自分には,度重なる戦闘や父
との剣戟で疲労しきったシンジの心を,安寧にし続けてゆく事など出来なかっ
たろう……。
初めから,実るはずの無い恋だった事と,シンジの恋人になるにはあまりに役
不足だった自分を,レイは純粋に人間として生きているアスカを通して,初め
て見る事が出来たのだ。
「アタシの事置き去りにして,どこの誰とも知らない女と暮らしてる,アイツ
のどこが優しいって言うのよっ!!!」
どうにか呪縛を解いて声高叫んだアスカに,レイは突然,すっ……と,視線に
込めた怒りを霧散させると,柔らかな声で一言,
「……あの人は,誰とも暮らしてなんかいない……。」
小さく首を左右に振って見せたレイの全身から,険しさの角が剥がれ落ちる。
(……ありがとう……。)
レイは胸の中でアスカに礼を述べた。彼女との関係を恐れてここに立ち寄らな
ければ,自分は心と言う物がどういう物なのか,一生理解することが出来なか
ったろう。それでは,また同じ事の繰り返しだ。
(あなたにもう一度会わなければ,私はお人形さんのままだったかもしれない……。)
負うた子に教えられたようなものだと,レイは深くアスカに感謝を示した。
心は作る物でも,真似する物でも無い。思考を先に走らせ過ぎずに,感じたま
まに表現すれば良いだけなのだ。それは冷静に見つめれば,見苦しいものかも
しれない,恥ずべきものなのかもしれない。だがそれでいい。その不安定さこ
そが人なのだ。
うって変わってまなじりに慈愛の色を浮かべたレイの姿に,アスカは怒りを忘
れて息を呑んだ。
…醜い怒りには決して犯され事の無い静謐さと,清純さを湛えたレイが,突如
アスカの目の前に現出した…。
(私,あなたに会えて良かった……。)
レイにとって,この一時のみを持ってしてでも,アスカに再会した価値は十分
にあった。
……自分は,もう一度やり直せる。今度こそ,自分が本当に添うべき人を見つ
けるんだと決心したレイの胸は,シンジの家を後にした時よりも,一層軽く,
温かくなった。
「一人の寂しさに耐えているのは,あなただけじゃないの…。」
手にした日傘を傍らに置くと,レイは呆然としているアスカの手をそっと取り,
いたわる様に両手で包み込んだ。
……小さくても,ひどく温かな手だ……。
拒む事も,振りほどく事も忘れてしまいそうなその温もりに,硬く握られてい
たアスカの手が微かに緩む。
「碇君は,自分の自由を捨ててまで,あなたの自由を望んだのよ…。」
「…えっ……?」
歌うようにそう言うと,レイはアスカに柔らかく微笑んで見せた。
この一ヶ月,考えてもみなかったそんな彼の思いに,アスカは小さく目を見開
くと,にわかには理解できぬといった感じで,うろたえた様に口を僅かに開い
た。
「人は誰でも自由に生きる権利があるわ…。だけど,それは時に他者の自由を
奪う事も意味するの……。」
ゆっくりとした口調で,この娘の感情と思考が追いつくのを待つ様に,だが精
一杯の真心を込めて,レイは懇々とアスカに対するシンジの想いの一端を説い
て聞かせた。
(お願い………。)
自分では,シンジの事を幸せにしてやる事は出来ない。だがアスカなら可能なはずだ……。
(碇君の事……,幸せにしてあげて……。)
自身の想いも一つに合わせて,日本を去るレイは,アスカに全てを託そうと思った。
レイの言葉を受けたアスカの手から,徐々に力が抜けてくる…。思い出して…
と囁くと,レイはその手をもう少しだけ強く握り,アスカに慈顔を寄せた。
「あの人はとても優しい人…。沢山傷つけられたから,碇君は誰よりも人の痛みがわかるの…。」
わかるでしょ…?と,目語して,レイはアスカの反応を伺った。
感情の制御さえ出来るようになれば,本来は賢い娘なのだ。レイは決してアス
カの思考を急がせるような事はしなかった。
(どうして………?)
青い瞳の奥で,様々な感情が明滅している。
深い疑い…,
淡い悲しみ…,
微かな喜び…,
そして僅かな希望……。
それらの思考の束をまとめあぐねて,答えを欲したアスカは,すがるような眼
差しをレイに向けた。幼子を思わせるその様子に,レイは目を細めた。
「その優しさゆえに,碇君は自分の想いを遂げる事によって,あなたの自由を
妨げる事,傷つけてしまう事を何よりも恐れたの……。」
「どうして……,……アタシなんかに……そんな事………?」
湧き上がってくる興奮からか,僅かに赤みの差したアスカの頬に,レイは握っ
ていた手をそっと離し,それはね……と囁くと,
「…碇君の心の中にいたのは,昔も今も…,あなた一人だったからよ……。」
その手で,ふうわり…と優しく触れ撫でた……。
「……アタシ……が………?」
その感触に押されたように,空中で所在無さげに握られていたアスカの両手が
だらり…と下げられ,殆ど同時に彼女は力なく床にへたり込んだ。
驚愕と虚ろさが入り混じった視線をレイに向けるアスカに,ミサトが小走りに
駆け寄る。
(終わった……,これで…全て終わったわ……。)
全てを託し終えたレイが満足そうな息を吐く。もう…日本に思い残す事など一
つも無い。これで,心置きなく異国の地に旅立てると,レイは日傘を手に取り,
「話はこれでお仕舞い。…それじゃさよなら……。…元気で………。」
一息に言って深く頭を下げると,やって来たと時と変わらぬ静けさを身にまと
い,風の様にドアから出て行った。
白いその姿が消えた玄関に甘い香りが……,彼女が使っていた香水の,芍薬に
似た甘い香りだけがほんのりと漂っていた……。
「………。」
魂が抜けてしまった様なアスカの肩を抱いていたミサトは,しばし唖然として
レイが去ったドアを見つめていた…。
この家にやってきたばかりのレイと,今,ドアの向こうに消えていったレイと
は,何か,人としての輝きが違うとでも言うべきなのか…,明らかに異なる精
彩を放っていたからだ…。
(あの娘……,)
それに,彼女が最後に残した,…元気で………,の一言。何かを思いつめてこ
の家にやって来たのだろうと言う事は,ミサトにも十分わかった。だが,その
何かがわからない。
レイの思考に少しでも近づこうと,胸の内で『わからない』を繰り返し,頭を
巡らしていたミサトだったが,
(そう言えば……,)
レイの考えに近付こうとすればする程,自身の胸中に冷えを覚えた。
(あの子の事を…こんなに考えたのは初めてだわ………。)
かつてのレイは,確かに掴み所の無い,寡黙で奇怪な少女だった。…この娘は
何を考えているのかわからない,こちらの意思が通じない……。黙りこくる彼
女を前にして,扱いに窮したミサトは頭からそう決め付けていた…。
(私は……,)
アスカの肩にかけていた手を,だらり…と下げ膝に付けると,ミサトはあぁ…
…と,呻いて長嘆息した…。
あの頃,わからない事を理由に,レイと距離を置いて接していた自分がいた事
は,決して否定できない…。シンジやアスカの様に自分に親しみを見せないレ
イを,無意識に避けていた事を思い知らされたミサトの心に,激しい後悔が産
まれた。
(保護者失格だ………!)
わからないと言って傍観してきた事は,はっきりと言えば手をこまねいて,無
視して来たと同じ事だ。親しい人間から遠巻きに見られる悲しさは,どれ程レ
イの心を傷つけて来たのだろう…?
自分は,随分とあの娘に酷い事をしてしまったと感じたミサトは,芳香だけを
残して立ち去ったレイのいた玄関を凝視しながら,いても経ってもいられなく
なった。
(追いかけなくちゃ……!)
座り込むアスカの瞳の色から,もはやドイツに帰るなどと言う不穏な発想が,
生まれてくるはずが無いと確信した彼女は,レイの意思が知りたくてたまらず,
サンダルを引っ掛けると,慌ててレイの後を追って玄関を飛び出した。
(そう遠くには行ってないはず……。)
眉間に皺を寄せ,二度,三度と廊下に視線をめぐらせた彼女の視界の隅に,白
いものが映る。
……20m程先のエレベーターホールの手前で,日傘を手にしたレイがぽつねん
…と佇んで,エレベーターを待ちつつ,踊り場の庇の先に広がる,青い秋の空
を見つめていた。
「レイ!ちょっと待って!」
「…葛城……三佐………?」
よかった!と,安堵の息を吐きつつ駆け寄ってきたミサトの姿を認めたレイは,
意外そうにその赤い瞳の収まった目を僅かに見開くと,静かに彼女に向き直っ
た。
…二人が対峙したのと殆ど同時に,エレベーターが口を開けた……。
「さっき……,元気でって…言ったわよね…?……どうして…?」
荒い息のミサトの呼吸が整うのを,レイは何時もの無感情な表情で凝視しなが
ら,じっと待った。そして,一言,
「碇のおじ様と一緒に,日本を出ます……。」
「えっ………!?」
アメリカヘ…もう,お会いする事は,無いと思います……と,目を見張るミサ
トの前で,深く一礼した。この言葉にミサトが小さく息を呑む。
……この娘は,別れを告げにやって来たのだ。それも,再び会うことが無い別れを告げに…。
(そんな娘を……門前払いにしようとしていたなんて……。)
自らの人を目の蒙さと,不甲斐無さに肩を震わせ,そう…と,呟く様にしか,
ミサトには答える事が出来なかった。
恨み言の一つも述べられても仕様の無いとうな垂れるミサトに,レイは彼女の
心情がわかるのか小さく首を左右に振った。
「最後に,碇君にも会う事が出来ました…。…もう,日本に思い残す事はありません…。」
「……シンちゃんの所で,何があったの?」
ミサトの問いに,レイはしばらく視線を青い空に向け,何ごとかを考える様な
仕草を見せていたが,意を決したようにミサトに向き直った。
そして,形の良いその唇を僅かに開くと,
「………振られてしまいました……。」
清々しいが,どこか寂しげな笑みを浮かべた…。
レイが,こんな風に笑う事が出来る事を目の当たりにしたミサトは驚愕した。
同時に,この娘から感じられる雰囲気が一変し,冷たく感じられていた彼女の
心の手触りに,どうして温もりが宿ったのかが理解出来た…。
おそらく,レイはシンジの気持ちを余すところ無く知ったのだろう。シンジも
隠す事なく,自分の想いがアスカにある事を告げたに違いない。
(レイ………。)
彼の心が決して自分の物にならない事を知ったレイは,一度は絶望の淵に落ち
た。だが,彼女は絶望に屈する事は無かったようだ。
今目の前で清々しい笑みを浮かべているレイからは,絶望の汚濁に染まった暗
さは見受けられない。どういうきっかけが彼女をその淵から立たせたのかは知
らないが,絶望はレイを解き放った際に,彼女を割目させ,心を与えてくれた
様だ。
(あなたは……,現実から逃げなかったのね……。)
そう考えたミサトの心は,レイの心気にあてられた如く爽やかに澄んだ…。
(……でも………?)
だが,どう考えても一つだけ解せない事があった。そうだったの……と,呟き
ながら目の端に溜まった涙を拭ったミサトは,レイに僅かに探る様な目を向け
る。
「……どうしてアスカの事……?」
別れの挨拶をしに来たレイが,すさみきったアスカに救いの手を差し伸べた理
由が,ミサトにはどうしてもわからなかった。
「あんなに嫌われてたのに……。」
レイがアスカから露骨な嫌悪感を向けられていた事を,ミサトは十二分に承知
している。
親の敵でも見るようなアスカの目に晒されて来たレイにとって,アスカの凋落
は溜飲を下げる事はあっても,同情を誘うような事など無かったはずだ。この
ミサトの疑問に,レイは何の躊躇も見せず,
「あの人が望んだ事だから……。碇君を,悲しませたく無かった…。」
さも当然であるかのようにあっさりと答えた。ミサトは胸が詰まってしまった…。
人の世は足の引き合いの連続だ…。他人の成功や幸運を妬む輩は雲霞の如くい
ようが,落ちた人を助けようとする人間がどれ程いる事か…。
(レイ……。あなた…,)
シンジを失ったレイに,アスカを助ける義理など無いはずだ。この家に立ち寄
らず,さっさと日本を去ってしまえば,シンジを巡るアスカとの勝負は勝てな
いまでも,あるいは相討ちに終わったかもしれない。
だが,残されたシンジはどうなるか?…レイはきっとそこまで考えたのだ…。
(本当にシンジ君の事,大好きだったのね……。)
アスカを失う事で,シンジが崩壊してしまう事を恐れたレイは,苦悩の末,旧
悪を忘れてアスカに助力したのだろう。
「でも,碇君に会いに行った事も,ここに来た事も,後悔していません…。」
……ミサトがこの答えに行き着いた時,彼女の表情を見たレイは,嬉しそうに
微笑んだ。
ようやく理解してもらえたという…会心の笑みであった…。
「優しいのね……。」
その笑顔に連られたミサトの顔にも笑みが浮かんだ…。そんな二人の後ろで,
行き来を繰り返していたエレベーターの口が再び開く。チラリと腕時計を見た
レイは,それじゃあ……と一礼すると静かにエレベーターに乗り込んだ。
「がんばんなさい……!」
別れに涙を流してはならぬと,強く心に言い聞かせつつも瞳を潤ませたミサト
は,エレベーターの中に佇むレイに,満面の笑みで握手の手を差出した。
「…大丈夫!世界の半分は男よ♪……きっと…シンちゃんよりもずっと,ずっ
といい人が見つかるから……!」
ウィンクして見せた彼女に,一瞬レイはあっけにとられたようであったが,ク
ス…と笑声を洩らすと,差出された手をしっかり握り締めた。
「ありがとうございます…葛城三………」
……三佐…と言いかけたレイの唇が戸惑いがちに動きを止めた。ほんの一瞬,
考え込むような仕草を見せた後,レイはその白い頬を薄桃色に染めて,
「…ミサト…さん……。」
恥かしそうにそう言い,握られた手をそっと離した…。
「レイ………。」
エレベーターホールに,さようなら…の声がこだまする…。立ち尽くすミサト
の前で,エレベーターのドアが閉まり,硝子越しのレイの姿がゆっくりと沈ん
で見えなくなって行った…。
一人取り残されたアスカは,愕然となって呆けた様に床の一点を見つめていた
…。忘我の境地に立っていたわけではない。先程から耳孔で響き続けるレイの
言葉を,必死に反芻し続けていたのだ。
- …碇君の心の中にいたのは,昔も今も…,あなた一人だったからよ……。-
彼の心の中にいたのは,自分只一人……。この言葉の意味する事が何なのか,
それすらもわからなくなってしまう程,アスカの心は曇りきっていなかった。
(それって………,)
徐々に徐々に…早鐘の様に打ち始めた心臓が,熱い血液をめぐらせ始める。抜
けるように白かった頬には赤みが蘇り,絶望で暗い湖水さながらに澱みきって
いた瞳には,青い英知の光が再び煌き出した。
(……シンジが……アタシの事……。)
生気が体中を駆け巡り,死んだように眠りこけていた全身を次々と叩き起こし
て行く。僅かな痛みすら伴ったその快感に,アスカは大きく息を呑んだ。久し
く忘れていた感覚だ…。
彼の……シンジの傍をひた走っていた時に,いつも感じていたあの感覚。じり
じり増してくる心地よい疼きに,一ヶ月完全に凍り付いていたアスカの脳は,
動きをさらに活発化させた。
「…好き……って…事……!?」
そう呟いて勢い良く顔を上げアスカは,乱れきった呼吸と,激しく打ち続ける
心臓を落ち着かせようと胸に手を当て,何度も深呼吸を繰り返した。
緊張からか,喉が呆れる程からからになっている…。
好き………好き……好き…。
何度も口中で噛締める程甘みを増すこの甘美な響きは,乾ききったアスカの心
に慈雨の如く降り注ぎ,ひび割れ傷ついた彼女の心を優しく癒してくれた。
「アタシの事……好きなの……?」
アスカの頬を,一滴の涙が伝わった……。
「…シンジ……。」
潤いを取り戻した彼女の心は,あの聡明だった頃の澄みをもすっかり取り戻す
事が出来た様だ。シンジの名を呟き,唇に泣き崩れた小さな笑みを浮かべたア
スカの胸中に,一ヶ月前,シンジとキッチンで交わした会話が蘇った。
(そう言えば……,)
あの日…彼が放った『出て行く』の一言で脳内が燃え上がったように熱くなり,
何も考えられなくなってしまったが…,
(……あの時シンジ……,)
今となっては恥ずかしいくらいに荒れ狂っていた自分に,悲しげな目を向けてシンジは,
- だから…アスカにも自分のこれからの進むべき道を,よく考えて欲しいんだ…。-
良く考えて欲しい…,確かにそう言った…。
(…来て欲しくないなんて……,)
彼との会話を反芻していたアスカの目が,不意に大きく見開かれた。
(一言も……言ってないじゃない………!)
この結論に至り,アスカは自分の中でわだかまっていた,シンジへの恨みや疑
念が粉々に崩れていくのを感じた。
あの時は怒りですっかり取り乱してしまっていたが,シンジは自分と一緒に来
てくれるか考えて欲しい…,そう言いたかったのではないのか…?
アスカの脳内で推測は急速に膨らみ,この一ヶ月間胸中にバラバラな状態で蓄
積していた,あらゆる疑問や憶測,不安を巻き込んで,一つの現実になろうと
していた。
(じゃぁ……シンジは……。)
もう…答えがすぐそこまでやって来ている。はやる心を必死に押さえつけて,
アスカは今度こそ冷静にシンジの気持ちを知ろうと,恐ろしいほど慎重に思考
を巡らせた。
(どうして…アタシの事,置き去りにしたの……?)
……シンジが自分をこの家に置き去りにした理由。今回の一連の騒動の最大の
疑問はそこにある。
来て欲しい人間を遠ざけるなど,矛盾もいい所だからだ。好きだから来て欲し
いと一言言ってくれれば,自分はシンジについて行く道を選んだだろう。
(何故……?)
あえて回りくどい方法を選んだ彼の思考を,一瞬アスカは見失いかけたが,
- 碇君は自分の想いを遂げる事によって,あなたの自由を妨げる事,傷つけて
しまう事を何よりも恐れたの……。-
アスカの脳裏にレイの言葉が蘇る…。あ……!と小さく声を上げてアスカは身を震わせた。
(……アタシの……ために……?)
シンジの不可解な行動の矛盾は,レイのこの一言によりアスカの中で氷解した。
……シンジは遠まわしな告白をし,この自身の想いをアスカが受け入れてくれ
るかどうか,彼女にしっかりと考える時間を持って欲しかったのだ…。
そして,もしアスカの心が自分に無いのなら,きっぱりと諦めて,二度と会わ
ないつもりだったのだろう…。
(……一緒に来てくれって……,我が儘を言ってくれても良かったのに……。)
そう思ってアスカはうな垂れたが,すぐにその考えがあさはかであった事に気
がついた。彼女の耳に蘇ったレイの言葉が,アスカの嘆息を霧散させる…。
- あの人はとても優しい人…。沢山傷つけられたから,碇君は誰よりも人の痛みがわかるの…。-
……アスカを想うシンジには,その我が儘を言う事が出来なかったのだ……。
(………アイツの事だったら,何でもわかってるって…思ってたのに……。)
…自分もシンジも,何一つ自由にならない世界でもがき苦しんだ時期があった
…。自由な生活の素晴らしさは,二人とも痛いくらい知っている。それを奪わ
れる恐ろしさもだ。
レイの言う通り,シンジは優しい男だ…。たとえどんなに些細であろうとも,
自分の我が儘でアスカを傷つけ,自由を奪う事が,どうしても許せなかったに
違いない。
「アタシは……何も見えてなかった……。見ようともしていなかった……。」
赤く染まった目を何度もこすりながら,小さく涙声を上げた……。……自分が
……短慮な自分が情けなくて,恥ずかしくて仕方なかった……。
シンジの事を一番よく知っていると自負していた自分が,彼の気持ちを思えば
こんな行動を取るくらい予測出来たはずだ…。
なのに,この一ヵ月,口汚く罵って彼を恨んでいた自分は,はたから見れば知
恵の足らない駄々っ子に見えたろう。
(ファーストの言うとおりだ………。)
……その事に気づかせてくれたのは,かつて仇敵視していたレイだ。理由はわ
からないが,レイはシンジをめぐって争っていた自分を助けてくれた。彼女が
この家にやって来なければ,彼の気持ちを教え説いてくれなければ,今頃自分
は本当にドイツに帰ってしまっていただろう…。
すんでの所で奈落に落ちかけた自分を想像して,アスカは身震いした。
(もし………,アタシがファーストの立場だったら………。)
同時に,アスカは初めて彼女の優しさに触れた気がした……。
もし,レイと自分の立場が逆であったら,自分はレイに旧悪をかなぐり捨てて,
シンジと共に生きる道を指し示す勇気が持てただろうか…?
(アタシは……ファーストの事………)
ぼんやりと…レイの去っていた玄関を見つめながら,思いを巡らせていたアス
カは,首を静かに左右に振った…。……正直,考え抜いたアスカの答えは否だ。
それが大方の人間が出しうる答えだろう…。損得勘定で考えれば,アスカを助
けたところで,レイには何の得にもならないからだ。
誰に感謝される訳でもなく,シンジが自分のもとにやって来るわけでもない…。
だが,あえて彼女はその無益な勇気を示した。
「レイ………。」
現実から逃げなかった者の強さを目の当たりにしたアスカは,とても自分は彼
女に及ばないと大きく肩を落とした。
「アタシ………,」
荒れきって,受け入れようともしない自分を見捨てることなく,懇々と説いた
彼女の心痛はいかばかりであったのか……。
他人に理解されない辛さはアスカも十二分にわかっている。自分も,気持ちを
素直に表せられないこの性格のせいで,随分と酷い陰口を叩かれたものだ。
何にも知らない癖に…!と,アスカはそんな輩を胸中で呪ったが,レイに対す
る今の自分は,かつて自分に陰口を叩いていた者達となんら変わらない。いや,
身を持って知っていながら,平然としていた自分は,それ以下だ。
「………バカだ……。」
はらはら……とアスカは落涙して,床に手を付いた……。
(レイに……謝らなくちゃ……。)
ひとしきり涙をこぼし,ゆっくりと上げられた彼女の顔には,かつての力強さ
が蘇っていた。
……レイにこれまでの非礼を詫びたい…。
そう思うと矢も盾もたまらず,アスカは慌てて立ち上がると,裸足のまま玄関
を飛び出したが,ドアを開け一,二歩踏み出した所で,彼女は家に戻ろうとド
アに手をかけたミサトと,すんでの所で鉢合せになる所だった。
「っと……!ん……アスカ!?何処行く―――」
「ミサト!!ファーストは?レイは何処に行ったの!!?」
突然活気を取り戻し,噛み付く様にすがり付いて来たアスカに,ミサトは瞬時
に対応する事が出来ず,せわしげな視線を投げつけてくる彼女の前で,目を瞬
かせていたが,
「……帰ったわ…。司令――…,……シンジ君のお父さんと,アメリカに行くそうよ…。」
「えっ………!?」
もう…日本に帰ってくる事は無いって……。その言葉にアスカは青ざめると,
ミサトの話が終わらないうちに,どうしたの急に!?と,彼女の呼び止める声
を背に受けながら,踊り場に向かって走り去った。慌ててミサトがその後を追
う。
(いない……!)
秋風が吹き抜けるエレベーターホールは,閑散として人影一つ無い。素早く周
囲を一瞥した彼女の視線が,外に広がる青空に向けられた。
(下……!?)
…ミサトが出て行ってからしばらく時間が経っている。エレベーターに乗った
彼女は,もう既に下に到着してしまったかもしれない。何としても,一目でも
いいからレイに会いたい。
(ここで謝れなかったら,アタシはきっと一生自分を許す事が出来ない……。)
……自分だって,恥の意味くらい知っている……。
レイに対して行っていた事の非情さに気づかされたアスカは,彼女が日本を去
る前にどうしても謝っておきたかった。
踊り場から身を乗り出し,アスカは周囲を見渡す。
「あっ……!」
懸命に視線を走らせていた彼女の顔が,不意にピタリ……と動きを止めた。
(いたっ!)
眼下に,あの白いレースの日傘がゆっくりと歩み去ろうとしていた。持ち主の
心情を表すかの様にくるり……くるり……と,時折回るその寂しげな日傘に向
かって,アスカは大きく息を吸い込むと,
「レーーーーーーーーーーーイっ!!!!!」
力の限り声を振り絞り,大きく呼びかけた。甲高い声が澄んだ青空にこだます
る。
ぴたり…と日傘が動きを止め,アスファルトに咲いた白い花のようなレイが,
ゆっくりとマンションとアスカを見上げた。
「レイ……!!」
アスカの頬を涙が濡らす…。その涙を拭いもせずに,心を落ち着かせようと唇
を噛みつつ,真一文字に結ばれた口を,アスカは震わせていた。
……いつの間にか,彼女の傍らにはミサトがそっとたたずんでいた…。
意を決したアスカは,大きく息を吸い込むと両手を口元に添え,
「今まで…ごめんねーーーーーーーーっ!!」
力の限り階下のレイに向かって叫びながら,大きく手を振って見せた…。不思
議そうにマンションを見上げていたレイの口が,驚きからか小さく開かれる。
「…アンタも…元気でーーーーーーっ!!」
……本当は,もっと色々言葉を重ね,彼女に謝りたかった…。だが収まる事無
く溢れ出る涙に邪魔されて,
「……ごめんね……ごめん…ね………!」
喉からかろうじて上がったごめんねの声は,舞い散る風花の様に千々にほどけ
て,青空に吸い込まれてしまった…。だが,アスカの思いはレイに十分に伝わ
った様だ…。
- さようなら……。-
と,声こそ聞こえぬものの,レイの口が微かに,だが確かにそう動いた。
そして……,涙に歪んだアスカの視界の向こうで,……彼女は笑っていた……,
満足そうな笑みで,小さく……。
夢中で手を振るアスカに,しばらく佇んで控えめに手を振り返していたレイだ
ったが,やがて何も言わないままくるりと背を向けると,秋風の吹く,まだ夏
名残の日差しの下を,ゆっくり……ゆっくりと歩み去って行った…。
「……行っちゃったわね……。」
そっと…ミサトの手がアスカの肩にかかる…。涙を拭きながら何度も何度も頷
いたアスカに,ミサトは心の中でほ……っ,と一心地ついた。
(もう……大丈夫ね……。)
紆余曲折は大いにあったが,どうにかシンジの気持ちはアスカに届いたようだ…。
先程まで触れれば切れてしまうのではないかと思われる程,全身に鋭さを見せ
ていた彼女だが,今や憑き物が落ちたかの様に,清涼な雰囲気をみなぎらせて
いた。
レイの心気は,彼女の心にまとわり付いたあらゆる濁りを,綺麗に流し去ってくれたらしい…。
(ありがとう……レイ……。)
遠く,もはや姿すら見えなくなってしまったレイに,ミサトはアスカとシンジ
に代わって,心の中で深々と頭を下げた…。
「ミサト!」
青空の果てに,感傷の眼差しを向けていたミサトのすぐ傍で,生き生きとした
声が弾ける様に上がる。えっ!?と驚いた顔を向けた先では,
「長い間世話んなったわね!」
泣き腫らした瞳の奥に,煌々と活力の火を灯したアスカが,口元に笑みを浮かべていた。
数刻前までドイツに帰る…と泣き言を上げていたとは思えない変貌振りに,現
金なもんね…!と肩をすくめて苦笑したミサトは,あ~ら…とわざとらしく驚
いた声を上げ,澄ました顔にしたたかそうな笑みを浮かべた。
「随分とつれないわね。急に元気になったと思ったら,どちらにいらっしゃるのかしら?」
「…うるっさい……!」
……わかってる癖に……!と,消え入りそうな声を上げたアスカの顔が,真っ
赤に染まった。
……彼の気持ちがわかった以上,一刻も早くシンジの元に行きたいのだろう。
アスカの健気な気持ちが手に取るようにわかったミサトは,笑いをかみ殺しつつ,
「行くのはいいけど,家,どこにあるか知ってるの?」
「あっ………。」
今にも支度をしに部屋に戻りそうなアスカに,やや呆れ気味に問うた。はた…
と,アスカが動きを止める。
…言われてみれば,自分はシンジが何処に住んでいるのか全く知らない。愛用
していた携帯電話も,一ヵ月前,怒りに任せて自らの手で真っ二つにへし折っ
てしまっている。
アドレス帳をこまめにまとめる程几帳面ではない彼女には,シンジと連絡を取
り合う術が無かった…
(どうしよう………?)
再び泣き出しそうな表情になると,アスカは困惑の眼差しをミサトに向けた。
相変わらず,こうと思ったら脇目も振らずに突っ走るアスカの性格に変化は無
さそうだが,以前に比べて,こうして他人に頼ろうとする素直さが生まれただ
けでも,今回の騒動はアスカとって全く無益では無かった様だ。
勢いだけで突っ走らないの…!と,軽くたしなめてから,
「はい…これ。」
ミサトは,シンジから預かっていた封筒をアスカにそっと差し出した。
- ラブレターですよ……。-
と,シンジが恥ずかしそうに手渡してきた,あの空色の封筒だ。
随分遠回りになってしまったが,ミサトはこの手紙をようやく渡せることが出
来た事に,万感の思いで安堵の息を吐いた。
……自分の役目は,これで終わりだ。この一通の手紙を渡せば,保護者として
の自分の責務は終わる。
(長かったわね………。)
本来であれば,NERV解体が決まった四年も前に,自分の彼らに対する保護者
としての責務は終わっていた。だが,それはあくまで書類上での事だ。
(…これで……)
突如自由を告げられ途方に暮れる子供達に,肉親でも無いミサトが手を差し伸
べる必要も責任も有ったわけでは無い。…無視しても,誰一人ミサトを咎める
者は無かったろう…。
(ちょっとは罪滅ぼし,出来たのかな………?)
その無視が,彼女には出来無かった…。
生殺与奪の権限を無理やり奪い去り,一握りの大人達の為に幼かったこの子達
を指走させる罪の意識に,彼女は耐え切ることが出来なかったのだ。
そんな罪に対する……贖罪がしたかった。
シンジを送り出し,今,アスカを送り出す事になった彼女の,罪に怯える日々
が終わりを告げる…。軽くなった心に,祭りの後のような清々しい寂しさが吹
き込み,ミサトは不可思議な感傷に包み込まれそうになったが,
- 僕はあなたにも自由になって欲しいんです…。-
シンジの言葉を思い出したミサトは,心の中で大きく頷いた。
今度は自分の番だ。これで,大手を振って幸せになれる。感傷を振り払うと,
ミサトははっきりと心を決めた。
(終わりじゃない………これから始まるんだ……。)
手紙を手にした彼女の顔は,いつに無く晴れやかだった…。
「……何…?」
突然現れたこの謎の封筒に怪訝な顔を向けたアスカだが,シンジ君からの手紙
よ…の一言に,心臓が急加速する。
「決心ついたら,アスカに渡して欲しいって頼まれたんだけど――」
「ちょっと貸して!!」
ひったくる様に手紙を受け取ると,アスカはもどかしげに封筒を開き,中に収
められていた一枚の便箋を取り出した。震える手で,そっと広げられた飾っ気
のないその便箋には,懐かしい筆跡でたった三行,
愛しい君へ…。
第三新東京市港区希望町○-○○オーシャンコートキボウ503
碇シンジ
彼の思いを全て込めたと思しきこの文句と,シンジの新しい住所がしたためら
れていた…。
アスカの顔が瞬時に薔薇色に染まる。手紙を何度も何度も読み返し,丁寧にた
たんで愛しげに胸に抱くと,
「バカシンジ………。」
目を閉じてつぶやいたアスカの頬を涙が伝った…。
シンジのマンションは海を見下ろす小高い丘の中腹に,周囲の住宅街を見下ろ
す様にそびえ建っていた。左程大きい建物ではないが,大学生が一人で暮らす
には随分と贅沢な大きさに見える。
初めて見る建物だが,その見晴らしの良さと清々しい白亜の作りに,アスカは
即座に好感を持った。
ひゅうひゅう…と路傍の雑草を揺らしながら,塩気を含んだやや湿った風が,
アスカの眼下に広がる紺碧の水面から吹き上げ,彼女の髪を優しく揺らす。
大きく深呼吸し,吸い込んだ風は海の匂いがした……。
(静かな住宅街ね……。)
昼日中の住宅街は人影も無く,何処かの家の軒先に吊るされた夏名残の風鈴の
音色と,のんびりと青空を泳ぐ鳶の物悲しげな鳴き声が周囲に満ちているだけ
であった。
「ここで…いいんだよね……?」
茜色のトランクをマンション脇の植え込みを覆う,煉瓦造りの花壇に寄せ掛け
ると,アスカはマンションと,シンジの手紙を何度も見返し,不安を払拭しよ
うと自分に言い聞かせるように呟いた。
…身一つで飛び出してきたのだ…。もう,帰る場所など無い…。
万が一何かあれば,ミサトは快く受け入れてくれるだろうが,アスカはもうあ
の家には帰らないと心に決めていた。
(アタシは…アイツのそばにいたい…。そう決めたんだ…。)
自らも花壇の縁に腰を下ろすと,アスカは口を強く結んだ…。
じりり…と照りつける陽光が肌を刺す。日差しを避けるようにマンションの影
に身を寄せると,吹き付ける海風が存外冷たく,アスカは山吹色のワンピース
の上に羽織った,桜色のカーディガンの前を合わせ小さく身震いした。
彼に初めて出会った時に着ていた服と,よく似た服だ。シンジとの再会にこの
服を選んだのは,決して偶然などではない。
もう一度,初めてシンジに出会った時の気持ちを思い出して,彼との関係をス
タートさせたいと考えたアスカは,あえてこの装いを選んだ。
(シンジ……何処に行っちゃったのかな……?)
ちゃんと告白するんだと,勇躍してミサトの家を出て来たアスカだったが,買
い物にでも出かけていたのか,たどり着いたマンションにシンジは不在であっ
た。
すぐにでも会えると思っていたアスカは小さく落胆しつつも,先程からこうし
てマンションの前で彼の帰りを待ちわびていたのだ。
(早く会いたいよ………。)
ん……と伸びをして,見上げた空には,巨大な入道雲がまだ夏空の面影よろし
く,どっしりと鎮座している。雲間から覗く青が目に眩しい…。
その空のキャンバスに,アスカはシンジの顔を思い描いた。にこやかな笑顔だ
…。彼に最も似合って,そしてアスカが一番好きな彼の顔…。
「初めて会った日も……こんな空だったな……。」
船上に吹く悪戯な風にめくられた,ワンピースから露になった下着を見られ,
真っ赤になってシンジの頬を引っ叩いてしまったのは,もう四年前も前の夏に
なる。
口も聞きたくない!とむくれるアスカに,女の子慣れしていないシンジは,平
身低頭していた。あの時のシンジの狼狽振りを思い出したアスカは,口元を手
で隠すと,くすり……と笑った。
「……でも……。」
それから,小さく一つ溜息を付く……。
(……どんな顔して…,会えばいいんだろう……?)
彼と最後に顔を合わせたあの朝のキッチンから,アスカは思い返す事すら恐ろ
しい行為を繰り返し続けた。
シンジに茶碗を投げつけ,一方的に喚き罵り,写真一枚残して,およそ二人の
思い出と名のつくものは全て打ち壊してしまったからだ。
最低だ……と呟いた口吻がにわかに湿り気を帯びる。
(ごめんなさい……って,素直に謝るしかないよね……。)
昔に比べ,随分と涙もろくなってしまった自分を目の当たりにしたアスカの心
に,秋風に乗って寂しさがするり…と潜り込み,薄っすら涙を呼ぶ。
母の死んだ日からもう決して泣くまいと,心に決めたはずだったが,乾ききっ
たかに見えた彼女の涙腺は,シンジの優しさを知った日から潤いを取り戻して
いた。
(許してくれるかな……?シンジ……。)
不安は大きいが,今は一秒でも早く彼に会いたい。謝罪の文句をあれこれ頭の
中で並べてみながら,瞳の端に溜まった涙の粒をそっと拭った彼女の視界に,
……ころん………ころん………と,
何か檸檬色の塊が,目の前の坂道を飛び跳ねながら転がってゆく姿が映った。
「……え……!?」
……ころん……ころん………,
何事かと小さな叫びを上げ,坂道に顔を向けたアスカの目の前を,今度は蜜柑
色の塊が,やはり猛スピードで転がり去っていく。
(何…あれ……?)
不思議な色彩の流れは止まらない。
……呆然とする彼女の目の前で次々と,黄,橙,紅の塊が,歌い跳ねる様に坂
の上から転がり落ちて来ては,坂下の海めがけて落ちてゆく。訳がわからず,
アスカは首をかしげた。
……ころん………ころん……………こつん……,
そんな色彩の川から赤い塊が一つ,砂利にでも当たったのか,突如流れの矛先
を転じるとマンションに向かって転がり込んで来た。
「これ………,」
澄んだ音を立てて,アスカの真っ赤なハイヒールに衝突したのは,
「……林檎……?」
すっかり傷だらけになって,皮目から僅かに白い実がむき出しになってしまっ
た林檎だった…。
どうしてこんな所に…と,そっと拾い上げた林檎を,怪訝な目で見つめたアス
カは,原因を探ろうと,視線を林檎がやって来た坂の上に向けた。
「………。」
……その瞬間,しなやかな彼女の全身に一瞬にして緊張が走り,
「…ぁ………。」
ぽろり………と,彼女の手から林檎が零れ落ちた…。
「……シン……ジ………?」
戦慄いたアスカの唇から,懐かしい名前がこぼれる……。
……陽光の照りつける坂道の上,ほんの20メートルほど先に,秋風に黒髪を柔
らかく揺らしながら,信じられない…と言う面持ちのシンジが立ち尽くしていた……。
「…アスカ………。」
息を呑んだシンジの足元には,買い物袋から落ちた野菜や果物が散乱している。
転がり落ちていった色とりどりの塊と,アスカの足元に転がって来た林檎は,
ここからやって来たのだろう。
二人は,陽光の下に現れた互いの姿が信じられないのか,しばし小さく体を震
わせて見詰め合っていたが,
「シンジーーーーーっ!!!!!」
「アスカーーーーーっ!!!!!」
かっ…!と,ほとんど同時にアスファルトを蹴ると,涙で視界を覆いつくしな
がらも,互いの名前を大声で呼びあいながら走り寄り,
そして………しっかりと抱き合った…。
「会いたかった……!…アスカ……!」
アスカの柔らかな抱き心地と,甘い髪の香り…。夢でも,幻でもない。これは
現実…。
悪夢の中で,彷徨っても彷徨っても見つからなかった彼女が,今,自分の腕の
中に帰ってきた…。
想いが届いた嬉しさから,シンジはアスカの事を力の限り抱き締め,その髪に
顔を埋めた。じんわりと,シンジの熱い涙がアスカの髪を濡らす…。
「一人で……格好つけるなぁ……!ばかぁぁぁ!!」
胸の中で泣きじゃくっていたアスカが,弾かれた様に涙交じりの叫びを上げる。
ぎゅっ……!と,彼の背に回された彼女の手が,渾身の力で肉をつかみ,爪を
立て,シンジの皮膚を破って真っ白なシャツに小さな血の花を咲かせたが,激
しい痛みに彼は眉一つ動かそうとしなかった。
「バカシンジぃ!!よくも置き去りにしてくれたわねっ!!」
素直に『ごめんね…』と謝ろうと心に決めていたアスカだが,彼の姿を見たと
たん,鉄の意志はあっさり崩れ去り,震える口から飛び出した言葉には,いつ
もの弾ける様な勢いと共に,ほんのちょっぴりの苦さが添えられていた。
あぁ……!とシンジが擦れた声をもらす。
…一ヵ月の間,聞きたくて,どうしても聞きたくて仕方が無かった,アスカの
強がり…。何一つ変わらないその声音が嬉しくて,
「……ごめん……。」
そう言ったシンジの口元を,小さな泣き笑い飾った。
「謝るくらいなら最初からやるなぁ!!……何考えてんのよっ!!」
大バカシンジぃ!と,怒声と共にアスカの顔が勢い良く上げられた。真一文字
に結ばれた口がブルブルと細かく震えている…。
胸から上げられた顔には,涙と怒りが満ちており,しっとりと濡れた青い瞳が
鋭くシンジを睨んでいたが,
「……アンタが…いなくなって……,」
ぷつり…と緊張の糸が弾け飛んだように,突然彼女の全身に張り詰めていた力
が抜けた。視線に込めた力を緩めると,アスカは涙に濡れた顔を悲しげに歪めて,
「………凄く……寂しかった………。」
細い声で囁くように言いうと,再びシンジの胸に顔を埋めてしまった。
(ごめん……。)
口調とは裏腹に,哀願にまみれたその顔を見たシンジは,無言のまま胸の内で
もう一度謝った…。
化粧で巧みに隠してはいるが,彼女の頬はややこけ,抱いた体は以前に比べ線
の細さを増したようだ。……自分のせいだ…と,シンジは眉間に皺を寄せて目
を閉じた。
(僕は……君の言うとおり大バカだ……。)
シンジとて,何もかもが上手く行くなどと過信していたわけではない。だが,
自分の行為が彼女をここまで追い込んでしまった事を,彼女の体を通して知っ
たシンジは,己の知謀の無さを呪った。
…腕の中のアスカが激しく嗚咽を繰り返している。そんな彼女の背を何度も何
度も,愛しげにシンジが撫でてやると,大きく上下していたアスカの体は徐々
に動きを緩め,嗚咽はすすり泣きに変わっていった。
そのまま…しばらく二人は抱き合ったまま無言であったが,
「今度…アタシを一人ぼっちにしたら……,たとえアンタでも…許さないからね……!!」
シンジの背にかかったアスカの手に一層力がこもる。うん……と答え,シンジ
も彼女の背に回した手に力をこめた。
「僕も…もう君の傍を離れない……,」
絶対に……!と,力強く言ったシンジの顔を,アスカはそっと仰ぎ見た。
(もう一人ぼっちはイヤ……。)
黒い瞳が,じっとアスカを見ている…。きっと…この瞳に見つめられる生活を
もう一度失ったら,自分は壊れてしまうだろう…。
(伝えるんだ……,アタシの気持ち……。)
自分を助けてくれたミサトやレイの気持ちを無にしないためにも,アスカは今
度こそ自分の気持ちをしっかり伝えようと,勇気を振り絞って大きく息を吸い
込んだ。
(……シンジに。)
そして,一息に,
「アタシはアンタの傍にいる!アンタが嫌がっても,逃げても,どこまでだっ
て追いかけてやる!…一生,かけて…追いかけるんだからね……!そう決めた
んだから!」
文句ある!!?と,真っ赤になって告げたアスカの前で,シンジは大きく目を
見開くとアスカに劣らぬくらい顔を赤く染めた。
「……好きなんだぞ………,」
「えっ……!?」
赤い,薔薇の様に赤く染まったアスカの頬を涙が伝い,桃色の艶やかな唇が緊張に震える…。
「アンタの事…,ずっと……ずっと好きだったんだぞ…!!…早く気付け!鈍感!!」
そう言い切って,青い瞳でシンジを一睨みしたアスカは,この告白に呆然とし
ているシンジの顔を両手で抱き寄せ,勢いよく彼の唇に自分のそれを重ねた……。
(アスカ……!)
シンジの体が大きく震える。一度目のキスから決して忘れる事の無かった,こ
の甘く,柔らかな感触…。あの時の同じく,彼女の唇は小さく震えていた…。
答え切れなかった,受け止め切れなかった想いを,今度こそ全身で受け止める
時が来たと感じたシンジの心臓は激しく脈打った。赤と黒。二人の髪が秋風に
巻き上げられ,絡み交じり合って生き物の様にたなびく…。
……やがて…,二度目のキスを交わしていた二人の唇が,そっと離れた…。
「………嫌いだなんて言ったら,ただじゃおかないわよ……!」
赤い顔で睨んだアスカに,シンジが嬉しそうに微笑む。アスカの大好きなあの笑顔で…。
「僕も……,」
呼吸を整えつつ,シンジはそっとアスカの体を抱き寄せた。回された腕は何処
までも優しく,アスカは眼差しに込めた力をふ……っと,抜くと,陶然と見つめ返した…。
「君の事が,大好きだよ……。」
告白の言葉と共に重ねられた三度目のキスは,シンジからだった……。