「………。」
クリーム色のツーピースに身を包み,白いレースの日傘を手にしたレイは,黙
したまま小さくミサトに向かって会釈した。ショートに刈られた銀色に輝く髪
と,その奥に光るアスカとは対照的なガーネット色の瞳…。
背が伸びて僅かに大人びた風貌を得た以外,昔と少しも変わらぬその面立ち
は,無感情だがどこか和人形を思わせる静謐感を湛えていた。
(今まで……何処で何していたのかしら……?)
この突然の訪問者にミサトは戸惑いを隠せなかった。NERVを離れて以来,
今日まで彼女には一度も会っていない。
無論,彼女の事を意図的に遠ざけていたわけではない。所在が全くわからなか
ったからだ。
シンジやアスカは,ミサトと共に暮らす生活の継続を望んでこの家に残った
が,元々孤独な生活を送っていた彼女には,この先頼るべき人も身を寄せる
場所も無かった。
- どう…?行く当てが無かったら,うちで…一緒に暮らさない…? -
そんなレイを哀れに思ったミサトは,冗談じゃない!!と猛反対するアスカを
制して,NERV解体が決まった日にそう申し出てみたのだが,
- ……いえ,結構です……。………ありがとうございます…。-
小さく首を左右に振ると,レイは表情一つ変えずぽつり…と,短く謝辞を述べ
て,三人の前から姿を消した。
彼女とは,それっきりだった……。
後に,ミサトは風の噂でレイがシンジの父に引き取られたらしいとの話を耳に
したが,事の真偽を確かめようの無いまま月日は流れ,何の音信も無い彼女の
事などほとんど忘れかけていた。
(雰囲気は変わらないけど……,元気そうで良かったわ……。)
黙し続けるレイを見つめるミサトの瞳から戸惑いが薄れると共に,胸の内に微
かな懐かしさがこみ上げる…。
「久しぶりね…。元気にしてた……?」
「……はい……。」
小さな声でそう答えたレイの言葉と,耳孔に残る幼かった頃の彼女の声が胸の
内で重なり,ミサトは瞼の裏に僅かに湿り気を覚え,どこか遠い目でレイを見
つめた…。
作戦部長を勤めていたミサトは,彼女を含めこれまで5人のチルドレンを見て
きた。どの子も一癖ある子達ばかりであったが,レイほどその心情を図りかね
た子供はいない。
およそありとあらゆる感情を捨て去った様なレイと言う存在は,ミサトにとっ
て常に疑問の種だった。素行や思想に問題があったわけではない。むしろ無さ
過ぎる。
「で…,どうしたの…?急に……?」
「……。」
ミサトの問いにレイは沈黙で答えた。この娘は昔からこうだ…と,言葉にこそ
しない物の,まるで感情の色を浮かべない,紅く澄んだ瞳を湛える彼女を前に
して,
(…あいも変わらず,だんまりか……。)
どう扱ったものかと軽く頭を振ると,ミサトは先程から脈打つ様に痛み始めた
こめかみをそっと押さえ小さく嘆息した…。
「キツネノヨメイリ ‐参‐」
レイは例えるなら底の見えない真っ白な箱の様な少女だった。どんなものでも
拒まずにその底知れぬ内に受け入れるが,受け容れた物の感情の色には一切染
まらない。
一見強固な意志と自我を有しているのかと思われるが,そうではない。その箱
の中を探って『綾波レイ』と言う中身を探そうとしても,おそらく見出す事は
出来ないだろう。
ミサトの目から見た彼女には,『個』と言うものが存在しなかった。それは
広義の意味では,心が無いとも言い換えられる。
18歳と言う多感な時期を迎えている彼女だが,初めて出会った14歳の頃と少
しも変わらぬ,熱のこもらない眼差しで黙したまま自分を見つめ続けるレイに,
「せっかく来てくれたのに悪いんだけど…,今,ちょっと取り込み中なのよ……。」
埒が開かぬと,ミサトは後ろを気にしつつそう告げると,無理矢理笑みを作っ
て見せる。今の所シンジの部屋に置いてきたアスカに動きは無さそうだが,予
断は許さない。
ドイツに帰る…と,悲しげに心情を吐露したアスカには,今にも部屋を出てき
て荷造りを始めてしまいそうな勢いと覚悟があった事を思い出し,ミサトはレ
イとの再会の懐かしさを振り払った。
「…惣流さん…いますか…?」
だが,そんな切羽詰った彼女の様子など気にしていないのか,レイは眉一つ動
かさず僅かにミサトの後ろを覗き込む様にしながら小さく問うた。その問いに
一瞬おやっ…?と言った感じでミサトの片眉が僅かに上がる。
……たしか,レイはアスカの事を『弐号機パイロット』と呼んではいなかった
か…?初めて彼女の口から出た『惣流さん』の名に,いささかの違和感を覚
えつつも,
「いるにはいるんだけど……。」
と,背後で静粛を保っているシンジの部屋に,苦い目を向けたミサトが言葉尻
を濁す。今のアスカはどう考えてもまともに会話できる状態ではない。その上
相手はレイだ。
(何が目的かわからないけど…,)
ミサトは昔からアスカが彼女に対して良好な感情を持ち合わせていない事を知
っている。その主たる理由を聞いたわけではないが,二人の素振からアスカが
レイへ嫌悪の情を湧かせている原因が,シンジにある事くらいは朧げながらに
わかっていた。
(今は会わせるわけにはいかない………。)
ゆえにどういう目的で彼女がアスカに会いに来たのかは不明だが,今二人を会
わせる事は両者の溝を深めるばかりか,ささくれ立ったアスカの感情をさらに
刺激しかねない。
「急ぐ…用事なの………?」
この会見が得策ではないと判断したミサトは,
「………別に…。」
「…そう………。」
何も言わずに帰って欲しい…と,目語しつつレイの顔色を伺った。二人を挟む
空間に気まずい空気が満ちる…。
「………。」
「………。」
…しばしの沈黙の後,
「………わかりました……。」
拒絶されている事がわかったのか,人形の様な顔を僅かに伏せてレイは先程よ
りもほんの少しだけ小さな声でそう答えた。
表情こそ変わらないものの,寂しげなその様にミサトの胸がチクリ…と痛んだ…。
「ごめんね……,」
眉宇に憂色を漂わせながらも,玄関先に佇むレイに努めて柔らかく微笑んで見せる。
「今,アスカ会える状態じゃないの……。出直してもらえ―――」
バァァァンンンッッッッッ!!!!
ミサトの言葉が結ばれようとした瞬間,勢いよく弾き飛ばされたドアが発する
凄まじい音が,彼女の背後から響き廊下にこだまし,
「んなっ………!」
ミサトは驚きに身を反らすとそのまま背後を振り返った。
きぃ……きぃ……と,
言葉を失ったミサトの前で,静寂の戻った廊下に蝶番が不気味に軋む音だけが響く…。
刹那,時間が止まったかのようなその廊下に,ゆらり…と音も無く現れた人物
を見やり,目を見張ったミサトの喉が小さく上下した。
「あっ,アスカ………!?」
「………。」
無言のアスカが憑物の様な目でミサトを…,…いや,その向こうに立ち尽くす
レイを見ていた…。
小さな肩を微かに震わせ,苛立ちと怒りで瞳が薄赤く染まった,どこか人間離
れした様相のアスカにいささかの怯みも見せず,レイはやって来た時と同様に
涼しげな眼差しで,怒りに震える彼女を見つめていた。
(その目…………!)
「………久しぶりね……。」
レイの言葉に鋭い視線を解かないまま,アスカは硬直しているミサトを脇に押
しのけ歩を進めると,唇を強く結んで彼女に対峙した。
赤い瞳が静かにアスカを見つめている…。嫌悪感から僅かに肌を粟立たせると,
(アタシの…嫌いな目だ………!)
アスカは両手を力一杯握り締めた。怒りをこらえる意味もあったが,そうでも
しないと,落ちるところまで落ちた自分のこのすさんだ心を,隅々まで見透か
してしまいそうな彼女の目が,
…どこか………恐ろしかった……。
「…何しに……来たのよ………。」
口元を歪め,押し殺した声に精一杯の棘を含ませつつ,アスカはレイに苦りき
った言葉を浴びせた。呪詛の様なその声音に,壁際に押しのけられたミサトの
背を冷や汗が走る…。
想像以上の嫌い様だ…。予想を遥かに上回る現実を眼前で見せ付けられたミサトは,
(どうすりゃいいのよ………!?)
アスカの全身から立ち上るレイへの嫌悪感のあまりの激しさに,二人の間に割
って入る事すら出来ず,立ち尽くすしかなかった…。
「…あなたの顔が見たくて……。」
炎の様な感情の刃を突きつけられても何の恐怖も覚えないのか,冷えた目元を
崩さぬレイに気勢を削がれ,アスカは小さく歯噛みすると僅かに顔を背けた。
(こいつ………!)
アスカは,レイが嫌いだった…。何処が嫌いなどと言う生易しいものではな
い。彼女の言葉が,仕草が,面立ちが,考え方が…,レイと言う存在全てが
アスカを苛立たせる要素であり,仇敵と言ってもよい程心底憎んでいた…。
(そうやっていつも…いつも…,何でもわかってるみたいな顔して………!)
…もっとも,出会った当初から,こんなにも嫌悪していたわけではない……。
人形の様にまるで表情を変えないレイなど,はっきり言ってしまえば好悪の彼
方の存在であり,あらゆる面で人間らしい自分の方が勝っていると,アスカは
疑いもしていなかった。
- 変わった娘ね……,何か…人形みたい……。 -
哀れみも含めたそれが…アスカのレイに対する第一印象だった……。
「アタシは…別にアンタの顔なんか見たくないわ………!」
「アスカ……そんな邪険な言い方しなくても―――」
「ミサトは黙っててよっ!!!」
小さくレイを弁護しようとしたミサトの言をヒステリックに退けると,アスカ
は再び燃えるような眼差しでレイを睨み付ける。
いつの頃からこんな風に彼女を嫌い始めたのか,アスカの記憶には無い。
だが,きっかけとなった出来事だけははっきりとアスカの胸の内に残っている。
目だ……。……赤い…あの目だ………。
レイと出会ってから暫くの間,アスカの彼女に対する評価は変わらず『変わっ
た娘』でしかなかったが,もう一人のチルドレン,シンジとの関係が親密にな
り始めたある日,アスカは自分に向けられる一つの視線に気付いた。
………見ていたのだ,レイが…。
アスカが学校やNERVでシンジにちょっかいを出して笑いあっている姿を,レ
イがあの無感情な赤い瞳でじっ…と見ていたのだ…。
- 何よ…あの女……?アタシ達の事じっと見て……。-
その時はレイの行為の意味が理解できず,何かモヤモヤとした不可思議な感情
が,胸の奥に小骨の様に小さく引っかかっただけでしかなかった。
そんな痛みすら覚える事のない瑣末な出来事に過ぎなかったレイの行為は,
日々の生活の中に埋もれすっかり忘れ去られていたが,時の経過と共にアスカ
がシンジとの関係をさらに深め,彼の事を以前とはほんの少しだけ違った目で
見始める様になった頃,アスカは再びあの瞳に対峙した。
- ファースト……?-
共に暮らすマンションに帰ろうと,シンジと並んでNERV本部内を歩いていた
アスカ達の前に,曲がり角から不意にレイが現れたのだ。
思わず歩を止めた二人の前で,レイも静かに立ち止まり,そして,あの瞳をア
スカに向けじっ…と見つめる…。
『何か…用………?』
…その邂逅はただの偶然だったのかもしれない。だが,天のもたらしたその瞬
間は,二人の間に埋めようの無い深い溝を生む最初のきっかけとなった。
『………。』
怪訝な顔で歩み寄るアスカにレイはひたすら無言であったが,何気なく彼女の
瞳を覗き込んだアスカは,その瞬間,息を呑むと全身を震わせ思わず後退さった。
- コイツの目………!-
レイの瞳には,今まで見たことも無い感情の揺らぎがありありと写っていたのだ…。
初めて見た人間らしい彼女の姿…。底知れぬ淵を覗きこんだ先に潜んでいた怪
物と目を合わせたしまった様に,アスカの体は自由を失い石の如く硬直した…。
- 人形なんかじゃ……無い……。-
常日頃,『お人形さん』と揶揄してはばからなかったレイの,赤いガラス玉
の様な瞳に浮かび上がったそれは,
羨望………
そして,焼け付く様な渇望………。
生々しい人間的な欲望の秘められたその視線の先を辿って,彼女の見つめる先
に目をやったアスカはさらに恐慌した。
- アンタ……,-
………アスカを映さぬその瞳には……,
- アンタ……まさか……… -
アスカの傍らに立つシンジの姿が映っていた…。
- シンジの事………!-
アスカが,初めてレイの瞳に怒りと焦りを覚えた瞬間であった…。
「アンタのその澄ました顔見てると…頭くるのよっ!!」
「………。」
彼女の瞳を覗き込んだあの日から,アスカのレイに対する感情の温度は急速に
冷え,彼女に投げかける言葉には,周囲の人間が眉をひそめる程の毒が含まれ
る様になった。
レイの気持ちがシンジに向けられている事に気付いたアスカにとって,レイは
もはや『お人形さん』などではなく,憎むべき『恋敵』へと変貌していたのだ
……。
(何で…現れたの………!)
突如自分に怨毒を浴びせ始めたアスカに,レイは何の反応も見せず,ただひた
すら寡黙を貫き通した。彼女の瞳には,全ての物が氷細工で形作られているよ
うに,硬く冷え切って映っているのだろうか…。
そんな感情の温度差がアスカのレイに対する憎しみを増幅させ,NERV解体に
よって彼女がアスカの前から姿を消すまで,アスカはレイを敵視し続けた。
…怖かったのだ………。
高圧的な態度で接し,蔑み,憎み…常に彼女よりも優位に立っている自分を夢
想していないと,シンジをレイに奪われてしまいそうな恐怖でアスカは気が変
になってしまいそうな程の怯えを,彼女から感じていた…。
(アタシは…アンタに勝ったはずだったのに………!)
ゆえに,数年前の決別によってレイが目の前から姿を消した時,全てが終った
とアスカは心中安堵を感じていた。
…自分は,あの人形娘に勝ったんだと…。
…でも,同時にそんな下卑た感情を抱いている自分が,心の底では嫌で…嫌で
仕方なかった…。
今思えば,そんな暗い感情から逃れるためにも,アスカは受験生活に入ったシ
ンジを夢中になって追いかけ始めたのかもしれない。
やがて月日は流れ,シンジとともに過ごす安逸な日々の中,いつしか彼女の事
はアスカの中から忘れ去られていった…。
だが,シンジを失ってしまったアスカを嘲笑うかの様に,レイは再び彼女の前
に姿を現したのだ…。
「…黙ってるだけなら帰って!!」
(アンタの顔なんか見たくもない!一秒だって同じ空気を吸いたくない!!)
何も語ろうとしないレイに,アスカは玄関を指差すと激しく言い放った。投げ
つけられた言葉に押される様に,レイの顔伏せられる。
僅かに上目使いで向けられた,取り乱す自分をまるで哀れむ様に見た彼女の眼
差しが,アスカの怒りをさらに掻き立てた。
(人形の…癖に………!!)
もう,何も話すことなど無い。アスカは黙りこくる彼女を蔑む様な眼差しで一
瞥すると彼女に背を向けた。だが…そんな彼女の背に向かって一言,
「私……,碇君の家に行ったわ……。」
人形の様に佇むレイの口からこぼれたこの小さな呟きが,怒りで燃え上がった
アスカの体内を冷水の様に走り,彼女の足をぴたり…と止めさせた。傍らで二
人の様子を緊迫の面持ちで伺っていたミサトの目が見開かれる。
「……何ですって………!!?」
震えながら僅かに振り向いたアスカの目に,明らかな驚愕の色が浮かんだ。
…自分すら知らないシンジの居所を,この娘はどうして知りえたと言うのか?
いや…そんな事よりも何故自分は拒絶され,彼女は受け入れられたのか…。
- アンタ…負けたのよ…,まだわかんないの……?-
心に潜む,あの闇の片割れが冷笑しつつ彼女の頭の中でそう語りかけた時,暗
い夢想が激流の如き勢いを持って,アスカの胸の内で連鎖して行く。
(アタシ……負けたの………?アンタに………。)
…シンジは,自分ではなく,レイを選んだのだと,彼女の歪んだ妄想は黒い翼
へと姿を変え,瞬時に彼女を押し包んだ…。
黒い翼はその禍々しき力で,アスカの心の底に残されていた,芥子粒程までに
縮みきってしまった,シンジとの甘い思い出までもどす黒く塗りつぶし,彼女
の心を憎しみの一色で染めつくした。
憎い………。
(あの男……見せ掛けだけの優しさで,アタシを…弄んだのね…!)
憎い……憎い……憎い……!
……強く,あまりに強く食いしばられたアスカの唇が破れ,血が滲む…。凄惨
な色に染まったその唇を歪ませると,
「そう……,そういう事………!」
身の毛もよだつ様な笑みを浮かべた…。
「あの男…,アンタと暮らすために…ここを出たってわけね……!」
「……あなた…,何を言ってるの…?」
これまで全く表情を作る事の無かったレイの眉が微かに上がる。鬼気迫るアス
カの様に怯む色も見せず,小さく首をかしげたレイにアスカは,白々しい…と
吐き捨てると,
「見せつけに来たんでしょ…,シンジが出て行ってアタシがどんな顔してるか
見てやろうって,哂ってやろうって…!」
大きく身を震わせた。…歪んだ妄想と絶望に取り付かれ,感情を制御する術を
失ってしまっていたアスカにとって,シンジはもはや心の底から憎悪すべき対
象に成り果てていた。
…凄惨な笑みは,そんな男に心を奪われていた己の愚かさを嘲笑った笑みだった…。
(許さない……!絶対に許さない………!!)
激しく床を踏み鳴らしてレイに歩み寄ると,アスカは目尻に涙を浮かべつつレ
イを燃える様な瞳で睨み付けた。
「お生憎様!!あんな奴!こっちから願い下げ―――」
パァァァンッ!!
「っつ……!」
玄関に響き渡った鋭い音と共に,アスカは顔をしかめると小さく苦鳴を上げ
て,左頬を抑えた。指の隙間から覗く彼女の雪の様な肌が発赤している。不
意に頬に走った痛みと,驚愕に埋め尽くされた顔を上げた先では,
「………。」
無言のレイが…,あのレイが見た事も無いような怒りの眼差しに,ありったけ
の涙をたたえながら,その小さな肩と,アスカの頬を張った右手を虚空で震わ
せていた…。
(レイ………!)
レイのさして大きくも無い体貌から発せられる,荒れ狂う北風にも似たその怒
りの凄まじさに,二人のやり取りを青ざめて見つめていたミサトは愕立した。
…氷細工の様な彼女が初めて見せた『怒り』と言う感情…。その鋭い切っ先に
触れ,最も驚いたのはアスカであろう。何の感情も持たないと思っていたこの
娘が,初めて見せた激しい行為に,アスカは一瞬怒りを忘れてそのあまりの恐
ろしさに立ちすくんだ…。
「あの人の………」
怒りに震え続ける彼女の唇から小さく言葉がこぼれる…。
「なっ………!」
「…あの人の事を悪く言うのは……許さない………!」
レイの気迫に押され忘我の境地に佇んでいたアスカだが,ジンジンと頬を伝わ
る平手打ちの痛みに意識を取り戻すと再びレイに炎のような目を向けた。
「コイツっ……!何すんのよっ!!!!!?」
「アスカっ!!やめなさいっ!!」
怒りに任せ猛然とレイに掴みかかろうとするアスカを,ミサトが背後から羽交
い絞めにする。
腕の中で身悶える彼女の力強さに,長くは持たぬと瞬時に判断したミサトは,
早く帰ってっ!と,レイに甲高い声で退去を促したが,依然険しい表情を解か
ぬレイは立ち去ろうとはしなかった,それどころか,
「……何…で……!?」
小さな声で二人に何ごとかを問うた…。
赤い瞳から溢れた涙の粒が彼女の白い頬を伝わる。幾つも…幾つも…。どこか
諦めきったやるせなさを含んだ口調に,気勢をそがれてアスカはミサトの腕の
中で抗うのを止め彼女を見やった。
「はぁ………?」
突如涙を流し始めたレイの言わんとする事が理解できず,アスカは怒気を脇に
置いた様な気の抜けた様な返事を返す。
人並みに泣くんだ…と,胸の内で呟いたアスカの激しい感情が,急速に熱を失
い萎んでゆく…。ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したアスカにレイはもう一
度,
「何で……,私じゃなくて,あなたなの……!?」
謎めいた一言を洩らし,ついには白魚のようなその両手で顔を覆うと,細い声
で嗚咽し始めた……。
「……何言ってるのよ……,アンタ……?」
レイは答えない…。細く小さく,まるで小雨がそぼ降るように繰り返される彼
女の嗚咽に,修羅場と化していた玄関は雪原の如く冷え切った。完全に動きを
止めてしまったアスカを解き放つと,
「レイ……どうしたの………?」
不思議そうに涙の理由を問うてみたが,何で………?何で………?と涙声で繰
り返すばかりでやはり答えようとはしなかった。
レイの涙によって瞬時に空気が変わってしまった玄関で,二人はどうしてよい
ものか分からず眉をひそめて顔を見合わせた………。
どこまでも…どこまでも暗い闇だった…。
完全な闇ではない。よくよく目を凝らせばそこはかとない明かりによって照ら
されている様にも感じる淡い闇だ。
何も無い茫漠たる空間に,見通せるようで叶わぬ霧を思わせる闇が満ちてお
り,澱んだ淵の底に座しているような鬱々とした感覚を見るものに与えた。
- あぁ………。-
不愉快なその感覚に耐え切れぬ何かが潜んでいたのか,闇の底から暗い呻き
があがり,再び闇に溶ける…。
轟々と……,風なのか,人の声なのか…,逆巻く大河の流れに似た音がこの空
間を押し包んでいた。
- また…この闇だ………。-
さほど時を置かずしてもう一言。闇そのものが発した様なその声は,一瞬たり
とも止む事の無い不思議な音の流れる闇の淵にあっても,掻き消えてしまう事
なく周囲にこだまする。
悲痛な…声だった…。
- ………シ………ジ………。-
不意に,あの耳障りな音が止み,暗い淵の底にもう一人の声が響く。…女の声だ…。
擦れ,途切れ途切れに繰り返されるその呼び声に反応する様に,闇の一部が熱
を帯びた。
- アスカ………!-
ぞわり…と,
闇の一部が人の形を取って立ち上がったように見えた。何かを夢中で探すよう
な仕草を見せるその人の形をした闇のすぐ近くで,
- シンジ………。-
悲しげな女の声が再びあがり,闇はびくり…と身を震わせ動きを止め周囲を見
回す。見えるものなど無い…。虚無を具現化したこの闇の底で,目に入るもの
といえばただ,
黒
…これだけだ………。
- …寂しい…の………。どこ……?どこにいるの……,シンジ………。-
- アスカっ,僕はここだ!ここにいるよっ!!-
女の涙声に影はたまらず声を上げた。だが,見えない,見つからない。触れる
ことすらかなわぬその懐かしくも愛しい声に身悶えると,
- アスカーーーーーーーー!!!!!!!-
発狂せんばかりに絶叫した影の前で,闇が……夢が破れ,光が満ちた………。
「アスカ………!」
悪夢にうなされ,ベッドの上で跳ね起きたシンジは荒い呼吸で周囲を見渡し
た。闇などどこにも無い。明るく,柔らかい光で満たされた一人ぼっちの部
屋が,どこかよそよそしく彼の目の前に横たわっているだけだ。
まだ夢の残渣が心にこびりついているのか,シンジは一ヶ月を経てようやく慣
れ始めた自室に虚ろな視線を漂わせた。
「…また……か………。」
細く開けられた窓から入る風が薄いカーテンを揺らし,汗まみれの彼の顔にそ
っと吹き付ける…。
(あの夢………)
首筋を伝う冷えた汗を拭うと,シンジはようやく現実の縁に手をかけた感を得
て脱力した。
…もう,一ヶ月もこの夢に悩まされ続けている。闇の中に聞こえるアスカの泣
き声と,彼女を探して必死に彷徨う自分。夢が破れ,ベッドの上で脂汗をかい
て目覚めた朝を何度繰り返した事か…。
(嫌な夢だ………。)
眠りから覚めたばかりだというのに,激しい疲労感を覚えてシンジは面貌を憂
色に染め上げると,再びベッドに横たわった。
日増しに鮮明になってくるその夢に不吉なものを感じ,シンジはそんな暗い想
像を振り払おうと目を閉じる。視界が闇に覆われると,…どこにいるの…と,
悲しげに泣き叫んだアスカの声が耳孔に蘇り,
「僕は…ここにいるよ……。」
虚しく呟いたシンジは,この一ヵ月満足な睡眠を取っていなかった。決して眠
くないわけではない。眠れないのだ…。目を閉じると瞼の裏に浮かぶアスカの
寂しげな眼差しと,あの悪夢が決まって彼の深い眠りを妨げた。
(僕は………間違っていたんだろうか………?)
孤独は人を強くもするが,弱気をも生む。シンジはふと己の行為に疑問を覚え
て胸の内に薄ら寒さを覚えたが,慌ててその雑念を振り払った。
…この期に及んで,後戻りなど出来るはずが無いのだ。
(こうなる事は十分わかっていたじゃないか……!今更弱気になるな…。)
…悲しい別れから一ヵ月たったが,アスカが来る気配も,ミサトから連絡が入
る気配もない。二人で暮らしていたあの甘い記憶を糧に,孤独に耐える生活に
も陰りが見え始めており,安眠を奪われ,衰えていく自分の弱さをシンジは
哂うしかなかった…。
(君がいないと…僕はただの弱虫だ……。)
目を閉じているだけでも襲い来る,たとえようの無い圧迫感に耐え切れず,シ
ンジはベッドから跳ね起きた。
無言で洗面所に走りこむと,蛇口をひねり勢い良く噴出した冷水を頭からかぶ
る。1分…2分……3分………,冷え切った水が彼の脳髄までも冷やし,頭の芯
に微かな痛みを覚えた頃,シンジは水を止め大きく息を吸い込んだ。
「………。」
髪や,顔を水滴が滴る…。傍らにかけられた薄水色のタオルをつかむと,少し
ばかり荒っぽく水気を拭う。余すところ無くふきあげ,顔を上げた先には,
「………酷い……顔だな………。」
頬がこけ,目元には薄っすらと隈が張られた無惨な自分が,鏡の向こうで幽鬼
の様に佇んでいた…。
「…会いたいよ………。」
乾いたシンジの頬を一筋の涙が伝う…。会いたい…会いたい…会いたい…。う
わ言の様に呟く彼の,真っ白になってしまった心の壁に描かれたのは,ただこ
れだけだった…。
「アスカ……。」
離れてみて改めてわかった事だが,シンジもアスカに強く依存して生きていた
のだ。
合わせた貝が引き剥がされては生きられない様に,二人は一つの心を共有して
生きて来た言わば二枚貝の様な存在だった。どちらかの貝殻が欠けてしまえ
ば,片方は心を失い,片方はむき出しの心を傷つけられる…。
当然の理だが,剥がされればどちらも長くは生きてはいられまい…。
心も,体も,もはや孤独に耐えられる限界に到達しようとしていた…。
「弱いな……,僕は……。」
両手を流しに付けがっくりとうな垂れたシンジの耳に,
ピンポ~~ン…と,不意に間延びしたインターホンの音が飛び込んで来た。
「えっ………!?」
がばっ!っと上げられた彼の顔には,僅かな赤みが差していた。来客のよう
だ。この家の場所はミサトにしか教えていない。物売りもほとんど訪れない彼
の家にやってくる人間を消去法で考えた場合,ミサトか…,
(まさか………!)
「アスカ…!?」
懐かしいあの笑顔を思い浮かべ,嘘のように軽くなった足と心でシンジは玄関
に小走った。胸の内に温かさが差し込み,ちっぽけな希望が心音と共に膨らん
でいくのがわかる。
本当に彼女なのか…?と言う小さな疑念は,この歓喜の前に押しつぶされた。
…例え疑念があろうとも……すがれる物なら,もう,どんなものにでもすがり
たかった…。
「はいっ!どちらさ―――」
勢い良くドアを開けたシンジの体が,虚しくその場に凍りついた。
「……綾…波………。」
ドアの向こうで頬を僅かに赤らめ,静かに佇んでいたのは,かつての戦友であ
り,数年間全く音信の途絶えていたレイだった…。
「久しぶり………。」
「…どうして……ここが……?」
驚きに見開かれる目とは対照的に,シンジの音吐から急速に力が抜けていくの
を敏感に感じ取ったレイの眼差しが微妙に塞ぐ。
(…私を…喜んで迎えてはくれないのね……。)
彼の口調には数年振りの再会を懐かしむよりも,何故ここに来れたのかと言う
驚きの方が多分に含まれていた…。シンジの問いにレイは司令が…と言いかけ
てから,僅かに顔を振ると,
「碇のおじ様に聞いたら,ここにいるって……。」
「父さんが……。」
冷徹な父の顔を思い浮かべたシンジはレイに見えない様に唇を噛んだ。まだ僕
の周囲を見張らせているんだな…と,内心小さく舌打ちする。
実の父と子と言う関係にありながら,もう,随分と長い事直接面語した記憶が
無い。…出来れば,声も顔も思い出したくない相手だ…。
この親子の剣戟は今に始まったわけではない。妻の死を境にシンジに対する愛
情が急速に薄れた彼の父,碇ゲンドウは,非情にも彼を親戚の元に追いやった。
- 僕は…捨てられたんだ……。-
幼いシンジは父の行為を『愛情の放棄』とみなし激しく彼を憎んだ。憎しみを
糧に育ったと言っても,決して過言ではない。だが,成長と共に彼は憎しみ続
ける事に言いようの無い虚しさを感じ始めた。
憎んでも,何一つ満たされなかったからだ…。
憎むという行為は,結局己の心身を損なうものでしかない…。戦場と言う不条
理の塊のような場所に放り込まれた少年は,身をもってその理を知り得た。
その境地を得た事で,シンジは父を憎む事止めた。決して許したわけなどでは
ない。父と言う存在を自分の意識の外に置いたと言った方がこの場合正しい。
…自分が父を捨てたとのだと…,そう思う事で,この暗い関係に一つの区切り
を付けたかった。
- 生活費の振込みは職を得たら返上する。それまでは手切れ金だと思ってもらっておくよ。-
背を向け続ける父に,シンジは不敵な笑みを向けつつ言い放った。自分の殻の
中に閉じこもりきっていたそれまでの彼からすれば,その行為は放胆と言わざ
るを得ない。
そういう胆の太さを得たのは,皮肉にも父が組織したNERVによってだった…。
「私,来たら……いけなかった……?」
シンジの表情に僅かに走った険しさに,レイは自身が拒絶されたのかと不安げ
な顔を向けた。
「そんな事はないよ…!…久しぶりだね。元気だった?」
「ええ……。」
含羞を帯び,赤く染まったシンジの面立ちに,かつてのあどけなさと優しさを
見て取り,レイも雪のような頬を薄赤く染めると小さく微笑んだ。
笑うと,花が咲いた様に見える。
(変わらないな…,何一つ……。)
路傍に咲く小さな花だ…と,シンジは胸の内で彼女の美しさをそう評した。
アスカが庭園を飾る大輪の赤い薔薇なら,さしずめレイは野に咲く小菊と言っ
た所か。共に美しい事に変わりは無い。様は美しさの質の違いなのだ。
「父さんと,暮らしてるんだ…?」
「良くしてもらってるわ……。」
他人に対しては寡黙を貫くレイだが,シンジと対峙する時は不思議と能弁にな
り,花の盛衰を思わせる豊かな表情を見せる。
懐かしげな眼差しに込められた温もりに恥かしさを憶えたのか,レイは一層頬
を染めるとややうつむき加減に,
「上がっても…,いい……?」
彼女の言葉にシンジの眉宇が悲しげに曇った。…レイを…この家に上げるわけ
にはいかない…。
「ごめん…ちょっと散らかってるから…。話があるなら外で話そう…。」
…この家の敷居を最初に跨ぐ女性は,引っ越してきた時から心に硬く決めてい
た。それを破る事はその女性を,自身をも裏切る事になる。
「そう……。」
几帳面な彼の部屋が散らかっているわけなどない…。優しい虚言だ…。
シンジの言葉から自分が暗に拒絶されている事が,わかり過ぎるほどわかった
レイは,寂しげな返事を返した。…昔から,優しいが彼は決して『友人』とし
ての一線を越えてくれる事は無かった。
(やっぱり…だめなのね………)
その一線を踏破した人物は,レイの良く知っている人物だ。後にも先にも,そ
の人物だけが『友情』では無く『愛情』を一身に受けていた。そんな彼女を,
何度羨望の眼差しで見つめた事か…。
決して届く事の無い木に実った甘い果実…。翼も無ければ,登る術も知らない
自分には,手を触れる事すら叶わなかった…。
(……私じゃ……,あの人の代わりには…なれないのね…。)
…それでもレイは,シンジの事が好きだった…。
出会った頃からその優しさに惹かれていた。シンジを知る前,レイにとって他
人とは距離を置いて接する存在だった。…当然だろう。
寡黙で,表情一つ変えない,素性すらはっきりしない彼女は誰の目から見ても
奇異そのものだったからだ。
- 他人の目など気にする事は無い。-
そんなレイにシンジの父は短く,だが精一杯の温かさを込めて慰めてくれた
が,彼女の心が安らぐ事は無かった…。
- 私は……何なの………?-
自分は一体何なのだ…?表情を作るどころか,感情を表す事すら自由に出来な
い自分は,どういう存在なのか…。
周囲の視線にさらされればさらされる程,『綾波レイ』と言う存在はレイの
心の中で形を失い,寡黙な彼女は一人懊悩し続けた…。だが……,
- 笑えば…いいと思うよ……。-
彼女の前に突如として現れた一人の少年は,どういう顔をして良いかわからず
困惑する彼女に,こともなげにそう言い,優しい笑顔を見せた。
その瞬間,雷に打たれた様に何かが彼女の中を走りぬけ,不可思議な,だが心
地のよい熱を胸の中に残した。
- うん………。-
小さく頷いた彼女の顔から,……あれほど出す事が出来なかった笑みが…自然
にこぼれた…。
この日からレイはシンジを見つめ続けた。控えめな彼女の,控えめな愛情表現
…。彼の傍にいると心が安らぎ,何の迷いも無く心情を表情に投影する事が出
来る自分が,おかしくも嬉しい日々が続けられていたが…,
- アンタがファーストチルドレンね!?仲良くしましょっ!-
突如吹いた一陣の赤い風が,彼の心を巻き上げて彼方に運び去ってしまった
…。同時に,その風はレイの顔からも表情を奪い去った…。
「ちょっと待ってて,着替えてくる。」
「待って,碇君…。」
踵を返そうとしたシンジをレイは呼び止めた。えっ……!?とシンジが足を止
めて振り返る。レイが,訴えるような眼差しで自分を見つめていた…。
「ここで構わないから…。時間が無いの…。」
「時間が…?何か…急ぎの用事でもあるのかい?」
「夕方には発たなきゃいけないから,日本を……。」
レイの声音が一層細くなる。数日前,この事をゲンドウに聞かされたレイは,
生まれて初めて眩暈の様な悲しみを覚えた。
- もう,日本に戻る事はないかもしれん…。今のうちに会っておきたい人がい
たら,会っておけ。-
そう結ばれた彼の言葉に,レイの心に浮かんだ面影は唯一つ。
- 碇君に……会いたい……。-
だが,シンジに接触する事はゲンドウよって硬く禁じられていた。理由はわか
らない…。親子の確執がそうさせるのか,自身に彼に会ってはいけない何かが
秘められているのか…。シンジに関して,ゲンドウの口は重く,堅かった。
それでも,レイはシンジの居場所を教えてくれるよう必死に彼に懇願し,以後
は絶対に連絡を取らないという約束で,どうにかこの場所を聞き出す事が出来
た。
(一つになれなくてもいい……,でも………。)
……もう,二度と会えないのなら,
(あなたに……私の気持ちを………)
最後に,自分のこの想いをシンジに知って貰いたかった…。
「だから,今日は…お別れを言いに来たの…。」
お別れ…!?と,突然の言葉にシンジは驚きもあらわに彼女に歩み寄った。レ
イの顔が上がる。
薄っすらと涙の張られた瞳が,決別の悲しみと,哀訴が入り混じった赤い海の
様だった…。
「どこかに行くのかい?」
「……おじ様と一緒にアメリカへ…。向うで仕事があるからって…。…もう,
多分帰って来る事は無いと思う…。」
レイの告白にシンジは目を見開くと,小さく息を吐いて寂しげに微笑んだ。
「そうなんだ………。」
苦も楽も共にしてきた大切な戦友だ。突然胸に空いた寂寥感の穴を埋めるもの
が見当たらず,シンジは微笑むことしか出来なかった。
「…寂しくなるな…。……元気で…。」
差し出された握手の手をレイが悲しげな顔を背けて拒む。気持ちの整理を付け
ようとシンジの元を訪れたが,自身の想いとシンジの感情の温度差を改めて感
じ取り,
(…それだけなの……?たった…それだけなの…?)
レイは小さく肩を落とした…。
わかってはいた事だが,こうして態度に表されてしまうと受けた衝撃は彼女の
想像を遥かに上回っていた。優しいはずの言葉が,レイの胸に小さな傷を生ん
だ…。
その傷口から,今まで味わったことの無い感情が染み出し,じわじわとレイの
全身に微毒の如く回り始める。
(何……?この気持ち……?)
まとわりつくような熱と粘性を帯びた不可思議な感情。心地の良いものでは決
して無い。
だが,少しでも気を許しその熱に身を任せると,理性を奪い去り,一つに溶け
てしまいそうな禍々しい感情の,それはまるで渦の様だ…。
(胸が…,痛い……。)
もし,人の心を見通す力を持った者がいたなら,彼女の心の奥に逆巻く感情
に,『嫉妬』と名付けただろう。この世に生を受けて初めて抱いた負の感情…。
レイは,シンジの心を捕らえて離さないアスカに,心の底から嫉妬した。
「止めて……くれないのね……。」
初めて聞く彼女の恨みがましい声音に,虚しく空中に残された手を下げると,
シンジは微笑を収めた。
視線の先で,強い光を湛えたあの赤い瞳が自分を射抜いている。レイの瞳に突
然現れたその得体の知れない激しい感情に愁眉を寄せると,
「……綾波が決めた道だろ。僕がとやかく言う事じゃないよ。」
低い声で少しだけ突き放すようにそう答えた。
彼女の声の下に見え隠れする自分への想い…。ずっと以前から,シンジは彼女
の自分に向けられる想いに気付いていた。
(綾波…君の気持ちは知っているし,とても嬉しい……。)
ひたむきで,純粋で,野の花と評した彼女をそのまま表すような控えめな想い
だ。だが,シンジはあえて彼女を父と同様に意識の外に置いた。
(でも,君じゃないんだ………。)
…事実,シンジにとって彼女の存在の重さは,アスカのそれよりも一段と低かった。
…昔から,彼女とは一歩離れて接するようにシンジは心がけていた。決して嫌
っていたわけではない。一つは,アスカが彼女にあまり良い感情を抱いていな
い事を知っていたシンジは,自分がレイに近づく事でアスカが傷ついてしまう
事を恐れのだ。もう一つは…,
「あの人が……。」
「えっ…?」
レイの口調は次第に熱を帯び,氷のような自身を必死で否定しているようなそ
の様はどこか…哀れですらあった…。
レイが口にした『あの人』の言葉にシンジの片眉が僅かに上がる。
「弐号機パイロットが同じ事を言ったら,止めるの……?」
「彼女の事は今関係ない……,」
これ以上の問いを拒否する様に,シンジは彼女の言葉に素早く自身の言葉を重
ねた。
レイが自身の気持ちを整理するためにここにやって来たであろう事はわかって
いる。シンジは,あえて声音に色合いを込めないように注意を払った。中途半
端な優しさも,偽りの優しさも共に彼女を傷つけ,互いの関係に深い禍根を残
すことになるだろう。
(いっそ,僕の事を嫌ってくれたほうがいい……。)
叶わぬ想いを抱いて,この先長い間苦しむのはあまりにも辛い……。突き放し
た言い方が,むしろ彼の優しさのであり,思いやりでもあった。
「…それと,弐号機パイロットって呼ぶの,やめてくれないか…。」
「碇…君……。」
「彼女には,惣流・アスカ・ラングレーって名前があるんだ…。」
レイは愕然となった…。
シンジの彼女に対する思いやりの深さにだ。アスカがレイの事を『ファース
ト』や『お人形さん』と呼んだ時,シンジは,
- アスカ……!-
と,たしなめる様な表情は見せたものの,決してここまでの優しさを見せてく
れることは無かったはずだ。
(私とあの人…何が違うと言うの………!?)
レイの脳内で青い炎が燃え上がった。…互いの呼び方などたわいも無い事だ
が,レイにはその差が,アスカと自分の愛情の注がれ方の差が万里の隔たり
に思えた。
嫉妬に震える身をシンジに向けて一歩踏み出す。…パサリ…と彼女が手にして
いた日傘が床に落ちた…。
「どうして……?」
「えっ………?」
涙まみれの瞳で見つめるレイの小さな呟きに,シンジは僅かに眉をひそめ問い
返した。
「どうして…あの人にはそんなに優しいの…?…どうして…私には同じように
優しく…してくれないの……?」
「綾波……。」
震える声にシンジは彼女の名を呟くしか出来なかった。答える事などどうして
出来ようか…。
(誰も傷つけずに生きる事は…難しい……。)
彼女を前にしてシンジは痛感した。
正直,全く心魅かれなかったわけなどではない…。だが,シンジの目はレイに
向けられることは無かった。
レイに対峙した時,シンジはアスカと接している時とは違った安らぎを覚える
事がよくあった。出会ってからしばらくして気付いた事だ。
アスカがシンジにもたらしてくれる安らぎは,自分を理解してくれる者が与え
てくれる,言わば恋人同士の様な,横の繋がりでの安心感なのだ。
「どうして…あの人は『アスカ』って呼んでもらえて,私は『レイ』って呼ん
でもらえないの……?」
小さく唇を噛んで,彼女の問いから逃れるようにシンジは僅かに視線を落とした。
(君が………母さんみたいだったから……。)
レイのもたらす安心感は,母の腕の中にいる様な温もりを連想させた。これは
レイにも,無論アスカにも言えない事だ。シンジ自身も,この気持ちは墓場ま
で持って行くつもりだった。
(だから……僕には出来なかったんだ……。)
これこそがレイへの距離を取らせたもう一つの理由…。何故か母を思わせるレ
イの,何が自分にそういう気持ちを生じさせるのかは,シンジにもわからない。
きっと,知らないほうがいい事なのだ……。
それでも,一度はその温もりに触れてみたいと思ったシンジだが,その行為に
歪んだものを感じた彼は思いとどまった。
(君の温もりに浸りきる事が……愛する事が……。)
子は親から離れてゆくものだ。決して交わるものではない。彼女から発せられ
る母性が,彼女との間に見えた越えてはならぬ壁だったのだ…。
「あなたは…酷い人…。優しくて…酷い人……」
だが,壁は知らぬうちに彼女を傷つけていた。酷い人とは寡黙な彼女の,自分
を無言のうちに傷つける壁を作った,シンジへの精一杯の恨み言であった…。
何かを堪えるように強く口を結ぶと,レイは顔を伏せた。
「…でも………。」
呟きと共にあげられた顔の中で,赤い瞳が涙で光る。哀訴の濃さの増したその
瞳ですがりつく様にシンジを見つめると,レイはもう一歩,彼に向かって踏み
込んだ。
「……私はそんなあなたが大好―――」
「もうやめよう!!」
大好き……と結ばれようとした彼女の言葉はシンジの叫ぶ様な声で遮られた。
レイの目が見開かれ,瞳の内に収まりきれなかった涙がこぼれる。
「…………………やめてくれ………。」
彼女の言葉が何なのか,それがどういう意味を持つのかもシンジにはわかって
いる。だが,彼女の口からその言葉を解き放たせるわけにはいかない。…形に
してしまえば,共に傷つく。
(やっぱり…言葉にしなきゃだめなのか………?)
もう,突き放した物言いで彼女を諦めさせる事が無理だと判断したシンジは,
これから自分の舌鋒を刃と化さねばならぬ事に素早く覚悟を決めた。彼女の眼
差しから目を背けず,はっきりと彼女を視界に留めると,
「………これ以上話しても僕の気持ちは変わらない。なら,お互い綺麗な思い
出のまま別れたほうがいい……。」
「………。」
はっきりとそう宣告されて,レイは言葉を続けることが出来なかった。小さな
肩をがっくりと落とすレイに,シンジは口調を僅かに和らげると,
「…誤解しないで。綾波が嫌いなわけじゃない…。友人として君の事は尊敬し
ているし,好意も持っている。でもそれは君の事を愛していると言う事じゃな
いんだ……。」
一言一言,告げるたびにシンジの手に汗がにじみ出る。これは全て真実だ。虚
飾も,優しさも,全て剥ぎ取った彼の本心だ。
彼の告白を聞いていたレイの白い顔が,恐ろしい程青ざめた……。
「…僕の心の中に,君はいないんだ………。」
口舌の刃を振るいレイの心を切り裂く手ごたえを感じる度に,シンジの心は悲
しみに張り裂けそうになった。
…人の心を傷つけて喜ぶ者などいるものか…。いるとすればそれは異常な性癖
の持ち主だ…。
(許して……。)
純粋に人であり,優しい心の持ち主である彼の苦悩は深かった。
「………察して欲しい……。」
察して欲しい…とは,もうこれ以上言わせないで欲しいとのシンジの懇願も含
まれていた。だが,刃を鞘に収め悲しみに肩を落としたシンジにレイは食い下
がった。
(……認めない………!)
イヤイヤをするように涙まみれの顔を小刻みに左右に振る。言葉一つで…認め
る事がどうして出来るというのだ。シンジは自分を拒絶しアスカを選んだが,
アスカはそんな彼のそばにいないではないか。
「でも,あの人はここにいない……!」
…愛されている事にも気付きもしない彼女に,シンジが愛情を注ぎ続けている
事がレイには全く理解出来なかった。
…自分は…必死の想いを携えてここまで来たというのに…。想いの大きさと深
さでは決してアスカに負けてなどいないと言う自負が,レイの嫉妬の炎を煽り
立て,見苦しく食い下がる恥を忘れさせた。
………憎い……。
半ば,自暴自棄に近い彼女の心の奥から,嫉妬よりも暗く禍々しい感情がぞわ
り…と湧き出る…。
あの人が………憎い…。
…在りし日に,アスカから人形とあしざまに言われた心を持たぬ少女は,人の
優しさを知り,他人への羨望を知り,嫉妬を知り,そして……ついに憎しみを
知る存在となった。
無垢な彼女は穢れを知る事でようやく人たるを得たのだ。………レイの変貌は
人の心の縮図であり,あまりにも残酷な現実そのものだった…。
「あなたを見てもいない…。なのに,どうしてそんな―――」
「いいんだ………。」
ふうわり…と,シンジはレイの小さな両肩に手を添えると,駄々をこねる子供
に言って聞かせる様に静かに彼女の激しい言葉を遮った。
かつて…感情の表し方も知らなかった自分に,笑顔を教えてくれたあの優しい
声だ。添えられた手が,ゆっくりと彼女の髪に伸び,そっと撫で擦るその感触
にレイは涙が止まらなくなった。
同時に,レイの胸中を満たす青い嫉妬の炎が大きく揺らぐ。
(碇…君………。)
乱れきっていた彼女の呼吸が落ち着きを取り戻すのを,シンジはその黒い瞳で
じっと見つめながら待った。…澄んだ,真冬の星空を思わせる透明な黒だ。
(わかってる………,)
どんなに求めても,決して自分を映してはくれないその瞳に見つめられ,レイ
の小さな胸を襲う痛みが鋭さを増した。
(あなたの気持ちが変わらないなんて……わかってる………。)
手に入らない事など…アスカが現れた頃からとっくにわかっている。自分は,
孤独な壁の花にすぎなかったのだ…。
それでも,レイは物静かな彼女なりにシンジに夢中になる事で,その現実から
目をそむけようとした。
(でも…駄目なの……。)
……だが,絶望の輪郭が鮮明になるばかりで,いつまでたっても現実を忘れる
事など出来なかった…。
(どうしても…あなたの事が諦めきれないの………。)
そんな気持ちに整理をつけるために今日ここにやって来たのだが,…本当は,
自分を欺き続ける日々から逃れたかったのかもしれない。諦めと言う名の…現
実が欲しかったのかもしれない…。
(……綾波……。)
…黒い瞳が見ていた。深い悲しみの色を湛えて…。受け入れてもらえぬ苦しみ
が存在するのなら,慕うものを拒絶しなければならない悲しみもある。
(もっと早く僕の気持ちを告げていれば……君を苦しませる事は無かった……。)
想いが成長しきる前に,彼女に真実を告げる勇気が無かった自身を,シンジは
今ほど不甲斐無いと思った事は無い。
人は,時には非情にならねばならぬ時もあるのだ。
(父さん………。)
シンジの脳裏に,ふと父の顔が浮かんだ。………もしかしたら,考えたくも無
い事だが,父が自分を見る冷ややかな視線には,何か自分には想像もつかない
悲しみが裏打ちされていたのではないのか…?
(あなたも…,本当は…こんな悲しみを抱えていたんですか……?)
他者の気持ちは,その者と同じ立場に立ってみて初めて理解出来るものだ。シ
ンジの瞳に,先程とは質の違う悲しみが浮かぶ。
(……僕は……まだまだガキだ……。)
同年代の若者には及びもつかぬ世界を覗いて,修羅を味わった自負があったシ
ンジは,無意識に思い上がっていた自分を知り,恥ずかしさと情けなさを満腔
で味わわされた。
……自分は知識も,経験も,父には及ばぬ…。
新たに瞳に浮かんだ悲しみの色は,そんな悲しみの色だった…。
「綾波……僕はね……」
レイの呼吸が僅かに穏やかさを取り戻したと感じたシンジは,ごめん……と胸
中で謝すると,震える彼女から手をゆっくりと離した。
…未熟な自分に出来る事などたかが知れている。だが,せめてこの娘を欺くよ
うな事はしたくないと,シンジは誠心を持って彼女に向き合った。
「…彼女を縛り付けてまで,僕の事を見てもらおうとは思わない。愛してもら
おうとは思わない……。」
涙で赤さを増したレイの瞳が,シンジの言葉に小さく見開かれる。シンジの語
ったのは受け入れる事が出来ない謝罪の言葉でも,言い訳でもない。
…シンジの,アスカに対する気持ちだった。
「そんなのは愛じゃない。愛情の押し売りだ…!……ただの傲慢だよ……。」
シンジの言葉にレイは全身から力が抜けそうになった。こういう愛情の示し方
もあるのか…と…。
物心付いた時から,レイは大人に囲まれて生活していた。彼女にとって,シン
ジの父親の与えてくれえる世界が全てであり,同じ年頃の子供から見れば,随
分と大人びた非常識の世界が彼女の常識だった。
(碇君………。)
『愛憎は表裏一体』。幼い自身の目の前で繰り広げられる,大人たちの見苦
しい痴態を見て育った彼女の目には,他人を愛するという感情は,真実と欺
瞞が入り混じった,複雑怪奇な代物に映った。だが,
「彼女が自由になる事で僕が捨てられるのなら,それでも構わない……。」
シンジはこともなげに,その愛を失っても構わないと断言した。そこには何の
欺瞞も無い,純粋に一人の人が,もう一人の人を愛する姿があった。
(そんなに……あの人の事……。)
……アスカのためなら…,自分一人が苦しんですむのなら,喜んで彼女のため
に身を引こうと。
まさに直言だ。
…レイの心の底で燃え上がる嫉妬の炎が大きく揺れ,火勢が恐るべき速さで小
さくなって行く。
(……あなたが……それを望むなら……。)
そんな彼の言葉に,諦めと言う寂寞とした安寧が彼女を包もうとした時,
いや………と,
彼女の心に残る諦めきれないもう一人の自分が,寡黙な彼女に代わって高らか
に叫ぶ,
諦めたくない………と,
「…私………」
そんな,暗い衝動に駆られたレイの唇が微かに割れる。震える唇を震わせなが
ら数度戦慄かせたレイの口から,
「…あなたの見ているあの人が……憎い…。」
思わずこぼれた言葉は羨望と怨嗟にまみれていた…。
「綾波っ!!」
レイの言葉を受け,悲しげに彼女の名を叫ぶと,シンジは裸足のまま玄関に駆
け下りた。
唐突な彼の動きにレイの赤い瞳が驚きに見開かれる。身構えるまもなく,彼女
の細い体はシンジの腕によってしっかりと包み込まれ,力一杯抱きしめられた。
「いっ,碇……君……!?」
初めて抱き入れられた愛しい人の腕の中…。レイはそのあまりの優しい温もり
に恍惚となった。朱に染まった彼女の小さな顔が,シンジの胸に押し付けられ
る。
「君を憎しみにまみれさせてしまったのは…僕のせいだ…!……君に真実を
告げる勇気が無かった僕が…全部悪いんだ……。」
ぽたり…ぽたり…と,何かがレイの髪に落ち,滑り落ちてゆく。髪の隙間を縫
って,レイの頬を塗らしたそれは,シンジの涙だった…。
「…だから君の気がすむのなら,いくら憎んでくれてもいい……。だけど………!」
必死の叫びを上げるシンジの胸板の向こうで,トク…トク…と,不思議なくら
い静かに彼の心臓が命の時を刻んでいる。その音にさらされる度に,彼女の心
にまとわりついた,あの禍々しく不快な憎悪の黒い蜜が剥がれ落ちて行く…。
「だけど…アスカだけは憎まないで……。」
優しくて,でも厳しさを失わない彼の声…。この先,自分の生がいつまで続く
かなどはわからない。だが…もう,この温もりに抱かれることは無いだろう…。
レイは全身全霊で彼を感じようとそっと瞼を閉じ,その身を預けた。
(………風…………?)
…締め切った玄関に風など吹くはずが無い…。だが,
(……風が………吹いている………。)
シンジの腕に抱かれたレイは,確かに柔らかな風を感じた。
「……僕が背負うから…,彼女への,綾波の憎しみは僕が代わりに背負うから…!」
それは体ででは無く,心で感じた風であったのかもしれない…。シンジの体貌
…,いや…心から吹き付けてくる気を,レイは暖かな風として自らの心で感じた。
捨身。
彼の心身を固く貫きその芯をなしていたのは,アスカのために生きて死ぬとい
う,捨身の心だった。そこに一片の我利も存在しない。
「だから……,どうか……彼女だけは憎まないで……。」
ひたすらに純粋な彼の心に触れて,レイの心に悲鳴をあげつつしがみ付いてい
た,憎しみの最後の一欠けらが粉々になって崩れていった時,
(………負け……た………。)
シンジの胸の中で,レイは全身でアスカへの敗北を感じ,それを受け入れた………。
あの風が,レイの胸中を再び吹きぬけ,憎悪の残渣を吹き散らす……。
不思議な安堵感に包まれたレイの瞳から涙がこぼれ,シンジの服に吸い込まれた。
彼の香りと共に小さく吸い込んだ息が……爽やかだった……。
「………碇……君……。」
レイの体を抱いて硬く目を閉じていたシンジの耳に,彼女の声が小さく胸元か
ら上がった。擦れてはいるが,優しい声音だ。夢中で抱きしめた腕の中の彼女は,
「ごめんなさい……。もう…平気……。」
小さな声でそう言って,濡れた瞳を上げてシンジ見つめながら,どこか寂しげ
に微笑んだ…。
「綾波……。」
それでもまだ不安げなシンジに,…ありがとう……と囁くように言うと,レイ
はそっと彼の腕の中から抜け出た。ここは,自分のいるべき場所ではない。彼
の温もりを味わえる人間は,今もこれからも,ただ一人だろう…。
シンジが己を厳しく律しきれる稀有な性情の持ち主だと言う事を,レイは良く
知っている。
「…碇君の気持ち…よくわかった……。」
自分の腕の中に抱く女性も,シンジはただ一人だと頑なに心に決めていたはず
だ。そんな彼が,たった一度だけ許してくれた温もりと,アスカへの想いの大
きさに,レイは長い間苦しめられ続けた,シンジへの想いから解き放たれた…。
(………諦めます……,あなたの事……。)
ありがとう…とは,見苦しく食い下がった自分を,最後まで真正面から受け止
めてくれた彼への,謝罪と感謝の気持ちだった。
「僕は…随分長い間,君を傷つけてしまっていた……。恨まれて当然の男だよ…。」
もういいの……と,うな垂れるシンジの頭を,レイはまるで母親の様に優しく
撫でた。…何故か懐かしいその感触に,シンジは頬を染めてぼんやりとレイを
見つめた。あどけないその表情に,
「私………,最後に碇君の気持ちが知れて…良かった……。」
レイは柔らかく微笑んで見せた。迷いの消えた彼女の笑みは,シンジが今まで
見たどの笑みよりも優しく,神々しいまで清らかだった…。
瞳の端に残る,乾きかけた涙を拭い去ると,レイは床に転がった日傘を拾い上
げ汚れを丁寧に落としつつ,腕時計に目をやる。
「もう行くわ……。おじ様が待ってるし,他に行きたい所もあるから…。」
「…わかった……。あっ,綾波……!」
踵を返そうとしたレイに,シンジは先程拒まれた手をもう一度差出した。
「また…,会えるよね……?」
シンジの言葉に,レイは目元を僅かに曇らせた…。
…彼の父には,二度と会ってはいけないときつく言い渡されている。おそら
く,彼とは今生の別れとなるだろう…。シンジもその事は薄々わかってはい
たが,あえて彼女との再会を望んだ。
…一つにはなれなくても,大切な友だ。
(……本当…,あの人がバカシンジって…言うわけだわ……。)
愚直なまでの彼の優しさに,レイは心中で苦笑した。こんな風に,苦笑する事
を教えてくれたのも彼だ……。
寂しげな表情を浮かべるシンジに,きっと,気付いてないのよね……と,小さ
くため息をついたレイの心の中に,ちょっとした悪戯心が芽生えた。
(私の事,忘れて欲しくないから…,だから……,)
差し出されたシンジの手を掴むと,
「えっ……!?あっ,綾波……?」
(だから…たった一度だけ…,私の我儘を許して……。)
レイは不意に彼を引き寄せ,驚く彼を腕の中に優しく抱きしめた。まるで,母
の胸に抱かれた様な甘く穏やかな抱擁に,シンジはその腕から逃れる事すら忘
れて呆然となった。
(唇は…あの人だけのものだろうから……。)
そして…僅かに上気した彼の頬に…,
「……さようなら………碇君……。」
小さな決別の言葉と共に,薄桃色の唇でそっとキスした……。
それは,物憂げな秋の日が生み出した幻だったのか。唇の柔らかさと,彼女の
腕の温もり,体から香る芍薬に似た甘い香りに,シンジがほんの一瞬失ってい
た自我を取り戻した時には,すでにレイは彼に背を向けていた。
「綾波………!」
マンションの廊下に続くドアが開き,玄関に澄んだと秋風と,陽光が満ちる。
シンジがまぶしさに目を細めた先で,
「……元気で……。」
振り返る事の無かった彼女の姿は,別れの言葉だけを残して陽光の中に消えて
いった……。