- 黄金色の絨毯だ……。-
見渡す限りの黄金色に染まったその風景に,女は魅入られた様にほっ……と,
小さく息を吐いた。
さわり さわり さわり………。
稲穂だ。
鮮やかな金色に色づいた見渡す限りの稲穂の群れだ。しっかりと実が入り,重
く頭をたれたその金色の実りの上を,遥か先に広がる森に向かって風が渡って
行く…。
さわり さわり さわり………
さわり さわり さわり………
さわり さわり さわり………
風が鳴き,稲穂を揺らすたびに絹と絹をこすり合わせる様な音が,人通りのな
い畦道に響き渡る。この静物画を切り取って無造作に置いた様な世界に影が二
つ。畦道を歩みつつ,どこまでも広がる金色の原を見つめていた。
一人は女,
もう一人は男。
二人共,年の頃は二十歳前後と言った所か。女のまとったウェディングドレス
を思わせる純白のワンピースが,この秋の野に一足早く訪れた雪の様に鮮やか
だ。
服から覗くシミ一つ無い彼女の肌は,これまた雪のごとく白い。だが,女の被
る赤いリボンが巻かれた,白いつば広の帽子から溢れる豊かなその髪は,服や
肌とは対照的に燃え盛る炎の様に赤かった。
「もう,すっかり秋だね…。」
男のつぶやきに無言のまま小さく頷くと,女は歩みを止め軽く帽子のひさしを
持ち上げ,生き物のように波打つ金色の原をゆっくりと見渡した。
そっと…音も無く女の傍らに男が寄り添う…。
恋人同士なのだろう…。無言のうちにも互いの心情がわかるのか,二人の挙措
は極自然で,何気ない仕草にも互いを思いやる温かさに満ちていた。
さわさわ……と,
音を呼んだ微かな風にワンピースの裾が僅かにはためく。悪戯なその風に,彼
女の薄い,血の透けて見える様に鮮やかな紅色の唇が,笑みを形作った。稲穂
の間に点在する彼岸花の群れが,彼女の唇の色を映したかのような赤い花を風
に揺らす…。
「悪戯な風………。」
女の言葉に答えたわけでもあるまいが,ふわっ!と,今度は風が一段と強く吹
いた。
突風だ。風が,稲穂の群れをえぐり,大きく揺らす。
まるで,目に見えぬ巨大な獣が,実り豊かなその上で一心に踊り狂っているか
のごとく稲穂をたわませ,金色の絨毯の上に,柔らかな猫の肉球を押し付けた
様な窪みが次々と生まれる。
同時に,稲穂が見えぬ獣の歯や爪に切り裂かれ,千々に細裁されては宙に舞
い,風が金色に色づいた。
思わぬ風の襲撃に二人は目を細めた。風から守るつもりなのか,男の腕が傍ら
の女の体を,そっと包み込むように抱く。ほとんど同時に,金色の風が二人を
巻き込み,男の腕の中で短く悲鳴をあげると,女は帽子をしっかりと押さえた。
ひゅうひゅう…と,
帽子を奪い損ねた風の獣が,二人の耳元で悲しげな咆哮を上げる…。やがて,
二人の見つめる前で踊り飽きた獣は,ちぎれた稲穂の断片を従えながら,彼方
の森の奥へ去っていった。
「風が踊ってる……。」
やや目深にかぶった帽子を押さえながらゆっくりと目を見開くと,女は風の
去った森を見つめながら小さくつぶやいた。その言葉を受けて,女の傍らに立
つ男の唇が僅かに割れ,白い歯が覗く。
「そうだね…。まるで…大きな猫みたいだ…。」
晴れた夜空の様に黒く澄んだ男の瞳が,うな垂れた稲穂が作った獣の足跡様の
窪みを,笑みを浮かべつつ眺めていた。
「猫ぉ!?…アンタばかぁ!?稲穂に猫は似合わないわよっ!」
男の言葉に帽子の下からさも不服そうな声が挙がる。いつまで抱き付いてんの
よっ!と鼻息も荒く,依然自分の体に廻されていた男の腕を振り払うと,女は
苦笑を浮かべる男を尻目に,再び畦道を歩きはじめた。小さく肩をすくめると
男も後を追う。
「相変わらずセンス無いわね……!」
ブツブツこぼす女に,男の唇が再び歯を覗かせた。
「昔に比べて随分とマシになったとは思うんだけどな。……君のおかげでね。」
秋の日差しに男の顔が照らし出される。
長身の男だ。身長は180cmを越えるだろう。共に歩く女も背が高い方なのだろ
うが,この男の横に並んでしまうとまるで少女の様だ。
飛び抜けて美男子と言う訳ではないが,どこか幼さを残したその整った顔に
は,優しい笑みがたたえられ,黒い瞳が数歩先を肩で風を切って歩く女の背
を愛しげに見つめていた。
「…そうやってちったぁ感謝してんなら,少しは教育の成果をアタシに見せて
みなさいよ!」
傍から聞くとずいぶんと居丈高な女の声音に,慣れっこなのか男は余裕の表情
で口元に涼しげな笑みを浮かべる。そうだね…と,さも思案顔で腕を組むと,
「…じゃあ…カワウソ。」
「却下!」
「タヌキ。」
「もう一歩…ね。」
「……アライグマ…!」
「……喧嘩売ってんの!?」
低い恫喝の声と共に女が不意に立ち止まる。腰に両手を添えて,クルリと背後
の男に向き直ると,はるか頭上の男の顔を,帽子の影から僅かに覗いた瞳がキ
ッ!と睨んだ。
秋の柔らかい陽光にキラリと光る眼差しは,この金色の野とは対照的に,青く
澄んだ海の色をしていた。
「もっと稲穂に相応しい動物がいるでしょ!?………って,……何…笑ってん
のよ…?シンジ…。」
一息に言って睨んだ視線の先で,シンジは相変わらず腕を組んでにこやかに女
を見ていたが,
「…そういう真剣な君,好きだなって,思ってさ…。」
言葉と共にその手を解くと,不意の言葉に真っ赤になって目を丸くしている彼
女のつば広の帽子の縁に手をかけ,ゆっくりと持ち上げた。
ふぁさ…と,
女の豊かな赤毛が,まるで帽子の中から盛りの曼珠沙華の花が零れ落ちるかの
様に湧き出し,風になびいた。
「キャっ……!」
溢れた赤毛は風に大きくたなびいて女の顔に撒きつく。
小さく悲鳴を上げて目を細めた彼女は,…美しかった…。
ほっそりとした面立ちに,すっ…と高く伸びた鼻梁が,凄みの効いた物言いに
反して上品な美しさを形作っている。
風になびく髪の隙間から,あの青い瞳が主の激しい気性を現すかのような,
僅かに鋭く吊り上がった眼窩の中で,シンジの突然の行為に驚きと怒りを
浮かべて瞬いていた。
「もうっ!ちょっ,ちょっとっ……!」
生き物の様にまとわりつく自らの髪を,懸命に払いながら女は小さく唇を噛ん
だ。
薄く朱を引いた形の良い小振りな唇が,白い肌に映える。しっとりと濡れたそ
の唇と,払う動作に合わせて服越しに揺れる豊かなバストが,上品なだけでは
ない,どこか艶かしい空気を女の体から立ち上らせた。
「いきなり何すんのよっ!このバカシンんうぅ!」
顔にまとわり付く髪をどうにか払って覗いた女の唇に,シンジは自分の唇をそ
っと押し当てた。暖かな感触に女が細めていた目を見開く。
不意に唇を奪われた事に驚いてシンジから離れようとしたが,彼女の細い体は
あっさりとシンジの腕に絡め取られた。
「やっ,ヤダぁ……ん…!…ぁ……はぁ……!」
より強く抱きしめられ,軽く身をよじりながら抵抗する女の唇から,甘い喘ぎ
が漏れる。少しばかり強引に女の身をその腕で拘束すると,シンジはさらに情
熱的に唇を重ねた。
風になびく黄金色の海の中で口付けを交わす二人…。
いつの間にか,女の細い両腕がシンジの背にしっかりと廻され,強く彼の身を
抱き締めていた…。
欲しい…もっと欲しいと…,
風になびく女の赤い髪が,それ自体生き物のようにシンジの体を包み込む。美
しくも妖艶な光景であった…。
「シン…ジぃ……ふぁ……。」
重ねた唇の隙間から漏れた女の声音からは,先程までの強さはすっかり消え去
り,蜜のように甘い粘性を帯びた声に変わっていた。その甘みに,互いの唇に
よる愛撫がさらに熱を上げる。
溶けて一つになってしまうのではないかと思われるくらい熱い口付けは,延々
と続けられたが,すっかり力の抜けてしまった女の唇からシンジが唇を離し,
彼女を胸に抱く事で終わりを告げた。
赤い髪から覗く女の耳が,ほんのりと紅く染まっている…。
その耳元に男にしては薄い唇を寄せると,青年は愛しげに彼女の名をそっと囁
いた…。
「アスカ………。」
ざわり…と,
森の奥から舞い戻った,あの獣の風が再び稲穂の上で踊り始める。シンジの口
からこぼれた愛しい人の名は,風に乗り風に溶けて,澄み切った秋の青空に消
えていった…。
碇シンジ
惣流・アスカ・ラングレー
二人を,二十一回目の秋が包み込んでいた…。
「キツネノヨメイリ ‐壱‐」
-三年前…-
コンフォート17葛城家
「出て行くって…,…この家を…?」
「はい。」
呆然としたミサトの声に,シンジは出来るだけ感情の色を抑えた声で静かに,
だが毅然と答えた。
何事も無く始まるはずだった一日…。キッチンの上には昨日となんら変らぬ,
シンジお手製の朝食が,暖かな湯気を昇らせながら並んでいる。平凡だが,平
和そのものの朝食風景は,一人居住まいを正したシンジの唐突な一言で,まる
で日が陰ったかのごとく急速に冷えた。
「どうして…?別に,この家から遠い大学じゃないんだし,今まで通りここか
ら通ったらいいじゃない。」
これまでシンジがそういう素振りを微塵も見せていなかっただけに,ミサトの
頭の中は軽い混乱状態だった。飲みかけていたエビチュをそっと置くと,理解
に苦しむと言った感で首を捻るミサトに,
「もう,ずいぶん前から考えていた事ですから…。」
シンジは僅かに微笑むと,そっと首を横に振った。
「大学に合格したら,ここを出ようって…。」
からん…から………と,何かがテーブルの上を転がる音が響いた。
静まり返ったキッチンに響いた,そのあまりに現実的な音に,呆然としていた
ミサトの意識が現実に引き戻される。
「………。」
音の先には,無造作に転がった茜色の女物の箸と,蒼く血の気の引いた唇を震
わせながら,薄っすら涙の張った瞳で,ほとんど睨みつける様にシンジを凝視
するアスカの顔があった…。
この年の春,18歳になっていたシンジは,かねてより強く進学を希望してい
た,第三新東京市内の某医科大学に,苦難の末見事合格を果たした。
- 医者になりたい。-
『ある』事件以来,シンジはそう願うようになっていた。
あの日…,事故とは言え,知らなかったとは言え,友人に手をかけ,命こそ奪
わなかったものの,取り返しのつかない傷を負わせてしまった日…。
- 気にせんでくれへんかの…,シンジのせいやないのやから…。-
ベッドの上で弱々しく微笑む友人を前にする度に,シンジは己の胸を掻き毟り
たくなる様な罪悪感に苛まれた。
- ごめん……。-
磨り減るくらい使ったこの言葉が,舌に乗る度にシンジを傷つける。不甲斐な
い,何の力も無い無力な自分が情けなくて,憎らしくて仕方が無かった。
だからこそ,チルドレンと言うこの忌まわしい仕事から解放された後は,少し
でも人の役に立つ仕事に付きたかった。罪と血にまみれたこの手が,僅かでも
浄化されるのなら…と。
医者になりたいとこころざし,シンジは己の身を削るかのごとく勉学に勤しん
だ。
『真剣になっちゃって,ばっかみたい!……別に…アンタのせいじゃないんだ
から,そんなに気に病む事ないでしょ…。』
寝る間も惜しんで勉強をするシンジを,同居人であり戦友のアスカは,表面上
呆れたような面持ちで眺めていたが,
『そうだね………。だけど,全てをダミープラグのせいにして澄ましていられ
る程,僕は非情になりきれないんだ…。』
小さく笑みを返すシンジを見ては,内心はシンジに対する感心と焦りの入り混
じった不思議な感覚に捕らわれていた。
(何だか…,…シンジが遠い…。)
暗い夜の廊下にシンジの部屋のドアから漏れる,いつ絶えるとも知れぬ明かり
を見るたびに,アスカはとてつもない疎外感に襲われ,愁眉を浮かべながら小
さく溜息を付いた。
数年前に海の上で出会ってから,共に死地を踏んだ少年は,かつてのおどおど
とした性格を何処に置いてきたのかとアスカが驚くほど,見違えるくらい冷静
沈着で落ち着いた優しさを湛える青年へと成長を遂げていた。
成長を遂げたのは,シンジの性格ばかりではない。
(……アイツ…,アタシの事…,どう思ってるのかな……?)
同じ屋根の下に暮らすようになって四年。当初,アスカはシンジの内向的な性
格にイライラさせられる事が多く,酷い時などは目を合わしたり,傍にいられ
る事すら嫌悪した時期さえあった。
だが,不思議な事にシンジと距離を置けば置くほど,何故か不安や苛立ちが一
層つのった自分がいた。
シンジの視線が自分に注がれていない事に苛立ち,シンジの笑顔が自分に向け
られていない事に苛立ち,シンジが自分の傍にいない事に苛立ち,
…そもそも…,どうしてこんな取るに足らない事で苛立っているのか,はっき
りとわからない自分に苛立ち…,
アスカはそんな濃縮されきった苛立ちを全てシンジにぶつける日々を繰り返し
た。悪循環だった…。………はずだった…。
嘘ばっかり…と,
繰り返される日々を,後悔というフィルターにかけて思い返しながら,アスカ
は苦々しげにつぶやく。苦さは自分に向けられたものだ。
わかってる癖に…と,
さらに自らを嘲る。自分で勝手に悪循環だと思っているだけ…。そう思いたい
だけ…。
本当は…。苛立ちの理由が,心の片隅では分かっていた…。
子供が母親に構ってもらいたくてぐずっている様な物だ。身勝手な苛立ちを作
って,それにシンジを巻き込んで,困った笑顔を浮かべる彼が見たくて,そん
な稚拙な行為から,彼と僅かでも繋がっているという確たる証が欲しかった。
熱だ…熱病の様な物だ…。
恋の病なんて言葉は,物語の中だけの物だと思っていたアスカだったが,狂お
しい程に高まり続ける熱い想いは,いつしか心の中に閉じ込めておけない程の
大きさまでに膨れ上がっていた。
『アタシね…,アンタの事…,好きなんだよ……。』
暗闇の中に沈む物言わぬシンジの部屋のドアに向かって,アスカは小さく本心
を吐露する…。
無論返事は返ってこない。当然だ。ただのドアだから…。
小さな彼女のつぶやきが,夜の廊下の静寂を嫌が上にも強め,蛇のようにする
り…と忍び寄った例え様の無い寂しさに身を巻かれ,アスカは涙をこぼした…。
『好き…なんだよ…。シンジぃ………。』
一人取り残された様な気分になって,初めてアスカは…シンジの事が好きな自
分に気付かされた…。
だからこそ,受験に,自分の未来に没頭しているシンジを見ていると,安穏と
生きている自分が,一人このだらだらと続く日常の檻の中に置き去りにされて
しまいそうな不安で,胸が押しつぶされそうになった。
(シンジ…,アタシを…見て…。)
そんな不安から逃れたいがために,少しでもシンジの傍に居るという実感が得
たくて,彼が受験勉強のため部屋にこもり勝ちになり始めてから,夜が来ると
アスカはこっそり廊下に出ては,シンジの部屋のドアに背を預けて座り込み,
じっと耳を澄ませた。
(寂しいの………。)
カリカリ…とペンの走る音,暗記をしていると思しきシンジのつぶやき声…。
聞いていると,心の中に巣食った不安が嘘の様に消えてゆく…。
シンジのすぐ隣に腰掛けている様な錯覚が,廊下に座り込み始めた頃は彼女の
冷えた心を温かく満たしてくれた。
だが,最初のうちだけだ…。
『慣れ』の二文字が彼女に再び暗い孤独の影を投げかけるまでに,さほど時間
はかからなかった。それから…
トントン……。と,
深夜の廊下に小さな音が響く様になったのは,受験勉強も佳境に入り始めた頃
だった…。
『あっ,…あの……。』
『…?…アスカ…。どうしたの……?』
『コーヒー…入れてみたの……。あんまり根詰めると,体に良くないわよ…。』
すでに廊下に座り込む事だけでは満足出来なくなっていたアスカは,想いの強
さにも背中を押され,勇気を振り絞ってお世辞にも上手とは言えない味のコー
ヒーや夜食を,そっとシンジの元に運んでやったりするようになった。
仏頂面を赤く染めて,それらの差し入れを運んでくるアスカに,
『ありがとう…。』
シンジはいつも優しい笑みを浮かべて短く謝意を述べた。慣れない頃はそんな
笑顔を向けられると,恥ずかしさに耐え切れずアスカは慌てて部屋を駆け出し
て,自室に逃げ込んでしまうのが常だった。
呼吸が止まってしまうくらい恥かしかったが…,『ありがとう』の言葉と笑
顔が,嬉しくて…,嬉しくて仕方なかった…。
(アタシね…。アンタの笑顔が…大好きなんだ………。)
この笑顔が見たくて,アスカは何かと理由を付けては,シンジの元に通いつめ
た。アスカにとって,シンジの笑みはまさに魔法の笑みに等しく,どんなに不
安な気分になっていても,恐ろしいほどの孤独感に捕らわれていても,その笑
顔はアスカの心の中から彼女を怯えさせる全ての物を駆逐してくれた…。
(温かくて…,優しくて…,凄く…安心出来るから……。)
『ねぇ…。』
そしていつの間にか…,
『ん……?…何だい…?』
もっと,もっと傍にいたくて…,
『邪魔,しないからさ…。ここにいても…,いい……?』
『……いいよ。アスカがそうしたいのなら……。』
アスカの居場所は廊下から,シンジの部屋の中,さらにはシンジのベッドの上
と徐々に彼との距離を縮めていった。
何かするわけではない,シンジが眠りにつく明け方まで,ぼんやりと,筆を走
らせる彼を彼のベッドの上に寝転びながら見ているだけ。
がんばれ…がんばれ…と,静かに心の中で念じながら…。
…もっとも,大抵アスカはいつのまにか眠りこけてしまって,ふと目覚めると
その体にそっと毛布がかけられており,かけた当の本人は床で雑魚寝している
のだったが…。
(シンジ…。…風邪ひいちゃうよ…。)
安らかな寝息を立てるシンジの体に静かに毛布を返して,アスカはその寝顔を
飽く事無く眺めた。シンジにすら見せた事の無い,優しい…優しい眼差しで…。
愛しげなその眼差しで見つめたまま,眠れるシンジの頬に顔を寄せると,柔ら
かな唇でそっと触れる……。
(ありがとう………。……でも……ごめんね…。)
アスカの謝意の意味も込められたキスだった………。
(…アタシ…迷惑かけてるよね…。)
何も言わずに,快く場所を提供してくれるシンジの優しさに甘え続けている自
分が,アスカは心底情けなかったが,同時にそうしている事でシンジとの一体
感を得られることが,得もいえぬほどアスカは幸せだった。
アスカにとってシンジは,不安も悲しみも孤独も,全てを忘れさせてくれる聖
地そのものだったのだ…。
だから…。
「どうして……!」
落とした箸を拾い上げるでもなく,アスカは手にした茶碗をテーブルに荒々し
く放り投げると,バンっ!と勢い良くテーブルに両手を付き,青い瞳に涙を一
杯に溜めつつシンジを睨み付けた。
茶碗は穏やかにアスカを見つめるシンジのすぐ前で,派手に音と破片を撒き散
らしながら,粉々に砕け散った。
「どうして…,アタシに何の相談も無くそんな事決めたのよっ!」
だから…,何の前触れも無くシンジの口から『出て行く』の言葉を聞いた時,
アスカの思考は一瞬にしてその全てが停止し,頭の中から音を立てて剥がれ落
ちた。
僅かでも繋がっていると信じていたのに…。身勝手な想像かも知れないが,こ
の切ない想いが少しは伝わっていると信じていたのに…。なのに…シンジはア
スカに背を向けた…。
剥がれたアスカの思考の下には,裏切られたと言う,激しい怒りが渦巻いてい
た…。
「相談したら…,賛成してくれたかい…?」
「ふざけないでよっ!!」
パァァァンッ!!
悲鳴に近いアスカの罵声と,乾いた音がキッチンに満ちていた静謐な空気を引
き裂く。眉をひそめ,僅かに背けられたシンジの片頬がさぁ…っ,と赤く発赤
した。
アスカの放った強烈な平手打ちのせいだった…。
「しっ,シンジ君………!」
「明日…。出てゆくから…。」
手を伸ばしかけたミサトを片手で制して,シンジは痛む素振りを微塵も見せ
ず,先程と変わらぬ穏やかな調子で告げた。
明日……!?とシンジの言葉を上ずった声で小さく反芻して,信じられないと
…と言った面持ちを見せたアスカは,胸の奥から噴出してくる感情の波をこら
えるように,強く唇を噛んだ。
「勝手に出て行けばっ!?さぞかし清々するでしょ……!こんながさつな女共
の面倒見なくて済むようになるんだからさ!!」
ぽろっ…と涙が彼女の頬を伝う。…出来た涙の道を次々と涙の粒が滑っては大
きな雫となってテーブルに落ち,小さなシミを幾つも作った。
「…そんな言い方やめろよ……!…そんな事思っていない……,僕だって――」
「じゃあどうしてこの家を出て行くのよ!!?」
「………。」
血を吐く様なアスカの言葉にシンジは僅かに俯いて沈黙で答えた。ただ,彼の
顔に浮かんだ苦悩は,答え辛い何かを抱えていると言うよりは,慎重に言葉を
選んで話そうと沈思している,どこか冷たい思考の澄みを含んでいた。
だが,アスカはシンジの態に気づくことができなかった……。
怒りに任せてシンジに詰め寄ると,アスカは彼のシャツの襟を荒々しく握り締
めて捻り上げた。何の抵抗も見せず,シンジは黙したまゆっくりと立ち上がっ
た。彼の沈黙が,アスカの怒りを一層掻き立てる…。
「ほらみなさいよっ!否定出来ないから何も言えないんでしょ!?ミサトや,
……アタシと暮らすのがうっとうしくて仕方ないから,この家を出て行くって
本当は言いたいんでしょ!!!?」
「違う……!アスカ…僕は――」
「うるさいっ!聞きたくない!アンタの言う事なんか何も聞きたくない!」
半ば開きかけたシンジの口元から目を背けると,アスカは襟から手を離し,両
手で耳を覆い,目を硬く閉じると激しく顔を振る。
嘘だと,悪い夢だと思いたかった…。だが,頬を伝う涙は紛れも無い現実の熱
さをアスカに与える。
(何で……何で……何で…!)
何故シンジが出て行ってしまうのか,アスカには全くわからなかった。故に怒
りの理由は極めて単純で,だが,口にする事が出来なくて。出来ることなら怒
りと混乱の激しく交錯する頭を,どこかに投げ捨ててしまいたかった。わかっ
ているのに……。
(お願い…!アタシも…連れて行って…!)
一言口にすれば,この苦しみから逃れられることがわかっているのに…。拒絶
されるのが怖くて,顔を覆ってただ涙を隠すことしかアスカには出来なかった
…。
だが,覆った両手は強い力でたやすく頭から剥がされた。アスカが驚いて涙に
濡れた顔を上げる。
「アスカ…!僕の話を聞いて…!」
「……いやぁ…!!離して…!離してよ…!!」
涙を振りまきながら抵抗するアスカを,シンジは今まで見せた事の無い真剣
で,熱い眼差しを彼女に向けた。視線にこめられた熱に耐えきれず,アスカ
は涙で赤く染まった目を背けようとしたが,
「アスカ!」
シンジの強い呼びかけにアスカの身がびくりと震える。息を呑んで恐る恐る戻
した視線の先にあった彼の眼差しは,先程よりも幾分その熱が和らいでいた様
だったが,相変わらずアスカの事を強く射抜いてた。
「僕たちはもう子供じゃないんだ!自分で判断して,自分で決めた道を歩いて
いかなきゃいけないんだ…!……いつまでも…他人の決めた道を歩いていちゃ
いけないんだよ……!」
「………。」
「だから僕は…ここを出る。そう決めたんだ…。」
震える唇を真一文字に結んで,このシンジの決意の言葉を無言で聞いていたア
スカの唇が僅かに割れる。掴まれた両腕を渾身の力で振りほどくと,あらん限
りの力を込めて震える拳を握り締めた。
「…何よ………!何でも一人で勝手に決めて………!!」
「えっ……?」
「アンタ…アタシの…気持ちなんか…,何にも…わかってない癖に……!!」
擦れ出た言葉は涙にまみれてほとんど言葉の形を成していなかったが,どうに
か言い切るとアスカは激しく嗚咽しながら,顔を両手で覆うと大声で泣き始め
た。
「アスカ………!」
ミサトが目を見張る。無理も無い…。かつて二人が『チルドレン』と呼ばれて
いた頃,どんなにつらくても人前で涙など見せた事の無かった彼女が,肩を震
わせながら大声を上げ泣きじゃくっているのだ…。
愁眉を寄せると,シンジは僅かに目を伏せた。
「わかっていないのは…アスカの方だ………。……僕達は…いや…君は,自由
なんだよ……。」
自由…。かつて憧れ続けたこの言葉に,アスカははたと泣き声を止めると,そ
の身を震わせた。
…自分を捨てて出て行くのもまた自由だとでもシンジは言いたいのか…?震え
る手をどけ,うつろな目で見つめたシンジの顔には,何故か悲しみを湛えた苦
悩の色が浮かんでいた…。
(何で……?)
「………。」
「もう…アスカを縛ったり,やりたくも無い事を押し付けてくるものは,とう
の昔に無くなったじゃないか……!…これからは…自分の幸せだけを考えて生
きていけるんだよ……。」
(何で…そんな悲しそうな顔するの……?)
「だから…アスカにも自分のこれからの進むべき道を,よく考えて欲しいんだ
…。」
「………わかんない………!」
混乱も,シンジと向き合う事もう限界だった…。
「アタシ…,シンジの言ってる事………わかんないよぉ…………!!」
そんな激しい思いに突き動かされたアスカは,青い瞳を涙で潤ませたまま,く
るりと背を向け足早にキッチンを出て行った。アスカの気持ちを代弁するかの
様に,凄まじい音を立ててドアが閉じられる…。
その音の余韻がゆっくりと消え,再びキッチンに重苦しい静寂が戻った頃,シ
ンジは小さくため息をついて椅子に戻った。
「………。」
苦悩の色を浮かべるシンジにどう声をかけたものかわからず,ミサトもただ沈
黙するしかなかった。
カチ…コチ……と不気味なくらい鮮明な時計の音がだけが部屋にこだまする…。
実際,ミサトにも何故シンジがこんな行動に出たのか理解しきれていなかっ
た。この家を出て行くという事に自体に問題があるわけではない。関係が冷
え切っているとはいえ,シンジには毎月父親から莫大な生活費が振り込まれ
ている。十八の若者が手にするにはあまりにも法外な額の金だ。相当贅沢な
一人暮らしをしても十分に釣りがくるだろう。
さらには,二年前使徒との戦いが終結し,NERVが解体され国連の一機関とし
て吸収されてしまった今,エヴァの存在価値は地に落ちた。
同時に,チルドレンとしての役目も終わった彼に対して,もはや『保護者』と
いう自分の存在自体が形骸化している。故に,シンジをこの家に縛り付けてお
く理由など皆無に等しかった。
(理由…か………。)
いや…,たった一つ,シンジをこの家に縛り付ける理由があった。
アスカだ…。
NERV解体に伴い二人には自由が約束されたが,二人はミサトの元を去らなか
った。
上向きの理由はそりの合わない親元に帰りたくないとの事だったが,言葉にす
らしないものの,もう,あの頃すでに二人の心の中では,お互いがかけがえの
無い存在になっていたのだろう…。
離れたく無い…,
この一心で,二人は肉親を捨て,共に暮らす生活の継続を選んだに違いない。
そうしてこの二年間,シンジの受験という一大イベントを除けば,赤の他人が
三人そろって,平凡ながらも幸せな家族ごっこに興じていた…。
「ねぇ…シンジ君…。」
重苦しい沈黙を破って声を上げたミサトに,シンジがそっと顔を向けた。
「あなた,アスカの事どう思ってるの…?」
「えっ………?」
故に問題なのは,それ程までに想う相手であろうアスカを,何故シンジが突然
手のひらを返したように、冷たく突き放したのか理由が全く見えなかった。
(不透明ね…,シンジ君の気持ちが………。)
本来恋愛に伴う問題は当事者同士が悩んで解決すべきだ,という意識の強かっ
たミサトは,これまで二人の関係に口を挟む事を極力差し控えてきた。
しかし,これではあまりにもアスカが哀れでならなかった…。
彼女は隠していたつもりであろうが,ミサトは受験勉強に没頭するシンジに,
陰でアスカが何くれとなく世話を焼いていた事を知っていた。
自分に負けず劣らずガサツで不器用な彼女が,危なっかしい手つきで嬉々とし
てコーヒーや夜食を用意する姿を,ミサトは何度も目撃していたのだ。それ
は,『友情』という枠を遥かに超えた,『愛情』にたっぷりと彩られた行為
だった。
そんな彼女の健気な行為に対するシンジの仕打ちがこれかと,ミサトは混乱と
共に,淡い怒りを抱いていた。
(もしかして…あなたにとってアスカの行為は,ただの迷惑でしか無かったの
……?この家に残る事にしたのも,司令の元に帰りたくなかっただけのためな
の…?)
口は悪いが,アスカは根の優しい娘だ……。保護者としてアスカの良いところ
も悪いところも熟知しているミサトは,この時,何とかしてアスカを助けてや
りたいと思った。
そんな義憤に燃えた彼女は,シンジのこの冷たい仕打ちに対する怒りも込め
て,長年彼女の中でくすぶり続けていた疑問と共にシンジにぶつけてみた。
「あれじゃ…いくらなんでもアスカが可哀想よ………!……あの娘……君の事
――」
「………好きですよ……。」
鳶色の瞳にほの淡い怒りの火を灯し,小さく語りかけたミサトの言葉を継い
で,意外にも何の逡巡もなく返って来た返事に,質問をした当のミサト自身
が驚いて目を剥いた。
「えっ……!?」
あまりのす軽さに驚くミサトの視線を受けて,先程まで冷え冷えとしていたシ
ンジの眼差しが緩む。昔から,あまり感情の起伏を表さない彼だが,珍しく目
元を桜色に染めると僅かにうつむきながら,
「アスカの事……,好きです…。」
ぽつり…と囁くように漏れでたシンジの言葉には恥じらいと,それにも勝る恐
ろしいまでに力強さに満ちており,ミサトの抱いた淡い怒りを粉々に打ち砕い
た。
「他の誰よりも好きです。彼女がいない生活なんて…考えられません………!」
一息に言い切って,シンジはうつむき加減だった顔を上げ強い眼差しをミサト
に向けた。
…嘘も,偽りも…一切の穢れを寄せ付けない澄んだ眼差しだった。
「…彼女の事……愛してるんです……!」
「だったら………!」
この温かく力強い言葉にひとまず安堵の息を吐きつつも,ミサトは小首をかし
げた。
「どうして…一緒に行こうって…,言ってあげないの…?」
そこまで言い切るのなら,何故彼女をおいていく必要があるのか…?二人とも
十八歳,法に触れることなく大手を振って結婚出来る年齢に達している。シン
ジが一声かければ,おそらくアスカも表面上は文句を言いながらも,彼につい
ていくはずだ。手に手を取って二人で新たな生を歩み始めればいいではないか
…?
「ミサトさんのおっしゃりたい事は…よくわかります………。」
何故…?とでも書いていそうなミサトの顔に向かって,シンジは寂しそうに微
笑んだ…。
「でも…こうするしか無かったんです…。彼女…アスカの決意を知るすべが,
他に見つからなかったんです…。」
彼の瞳に浮かんだ寂しさは,己の才の低さに向けられた,自嘲の寂しさだった
…。
「決意も何も,あの娘の心の中にいるのはシンジ君,君なのよ……!…彼女の
想い…気付いてるんでしょ!?」
「わかってますっ!」
日ごろ冷静なシンジシにしては珍しく大きな声に,ミサトが目を見開く。一
瞬,感情的になってしまった自分を恥じるかのように,シンジは僅かに頬を
茜色に染めると,小さくすいません…と謝った。
「…………わかっているから………なおの事なんです…。」
「……あたしは君の言ってる事が,わかんないなぁ…。シンジ君はアスカの事
が好き,そしてアスカもシンジ君の事が好き。一緒にこの家を出る理由として
は充分じゃない…。まだ何か足りないの…?」
依然首をかしげるミサトに,シンジは澄んだ瞳を向けた。それは強いが,どこ
か悲しげな光に満たされていた…。
(この子…随分変わったわね……。)
シンジは昔から口数が少なく,控えめな性格だった。
一言で言えば『暗い』。
心の中に蓄積した自己への不満,他者への不審,満たされない愛情…。くるぐ
ると渦巻き濁りきったこれらの感情が,当時の彼の暗さを形作っていた。
適格者としての身分を押し付けられ,望みもしない戦場に駆り出され,挙句は
…殺伐な行為に手を染めさせられて…。そこには何の自由も無かった。
がんじがらめになった世界から脱却しようと,おそらく彼は必死の思いで,自
己の変革に挑んだのだろう。
(なんて悲しい目なんだろう……。とても,十八の若者とは思えない……。)
目の前にいるシンジの口から発せられた言葉が,相当に深い哲理から発してい
る事を感じ,ミサトは彼が自己の変革と共に得た境地の深さに微かな恐れすら
抱いた。
…悲しげな瞳はその境地を得た事の代償なのだろう…。
(この子には…悲しみを癒してくれる相手が必要……。)
そんなミサトの心情を敏感に感じ取り,シンジは再び目を伏せた。そしてポツ
リ…と,
「アスカには…もう,後悔の無い人生を送って欲しいんです……。」
(…………アスカ……か…。)
「後悔………?」
「アスカは血の通った人間です…。与えられただけの役目をこなせばいいだけ
の,人形じゃない…。来て欲しいとお願いするのは簡単な事です。多分,色々
と言われると思うけど,きっと彼女は来てくれると思います。しばらくは,仲
良くやれるかもしれない…。…だけど,そんなのは見せかけの幸せです。どこ
にもアスカの意思が無い…。」
「あるじゃない…。今のシンジ君の話だと,アスカは君と一緒にいたいから来
るんでしょ?それはアスカの意思じゃ……」
「いいえ………。」
囁きにも似た否定の言葉と共に,シンジは目を上げ軽く首を横に振った。そし
て,ミサトを見据えた。彼女の喉のすぐ下まで出掛かっていた言葉が,この全
てを見透かすような眼差しに押し返される。
「…来て欲しいと願ったのは僕だけです。…ミサトさん…『お願い』って,結
構傲慢な言葉なんですよ……。」
「えっ……?」
「願うって事は,相手に意思を殺して欲しいと言っているのと,同じ事なんで
す……。」
「あっ………!」
短く呻いてミサトは呆然となった…。ここに来て彼女はシンジのアスカに対す
る,行為の真意がようやく理解する事が出来たからだ。シンジの気持ちはすで
に『好き』のはるか向こう側に到達していた。
驚きに言葉を失ったミサトに,シンジは小さく頷いて見せた。
「……どちらかが意思を殺して始まった恋愛関係が,長続きするわけがありま
せん…。押し付けられた意思は,必ず歪みとなって彼女の心を蝕みます。……
僕は,もうそんな事で苦しむアスカは見たくないんです!………だから…,ア
スカには自分で考えて,判断して,その上で……僕が彼女にふさわしい男なの
かどうか,見極めて欲しいんです。」
(あなた……そんな事まで考えていたの……!?)
寡黙だったシンジの胸に秘められていたアスカヘの想いの深さに,ミサトは呆
れとも感嘆ともつかない眼差しを向け,大きく息を吐いた。
人を愛すると言う行為は,己の中に相手を取り込むと同時に,相手の中に自ら
の全てをなげうつ行為に他ならない。言わば他人と生を一つにする事だ。
好きだから一緒にいたい…。こんな事は小さな子供にでも言える言葉だ。その
場限りの,勢いだけの,何の中身も無い言葉だから…。アスカを想うシンジの
気持ちは,そんな上っ面だけの軽薄なものではなかった。
シンジは,アスカに自分と一つになる事が出来るか?一生共にいてくれる事が
出来るか?暗に問うたのだ。だが……感情的になってしまったアスカは,そん
なシンジの心情を理解する事が出来なかった。
(難しい…。アスカ…とてもそこまで理解出来ていないもの……。)
「難しいのはわかっています……。もしかしたら…このまま彼女と理解し合え
ぬまま,一生離れ離れになってしまうかもしれない…。」
そこにこの青年の苦悩があった。まかり間違えばアスカを失ってしまう事にな
りかねないが,シンジは己の欲求を満たすよりも,アスカの自由を望んだ。そ
の代償が彼女を失うという結末になる恐れを,内包している事も理解していな
がら…。
「だけど,僕は誰かに何かを押し付けたり,押し付けられたりする,そんな人
生はもう沢山なんだ………!」
「………。」
吐き捨てる様にそう言って,シンジは僅かに唇を噛みつつ再び軽く目を伏せ
た。この言葉にミサトも顔を伏せた。
…自分こそ……『作戦部長』の名の元に彼らに無理難題を押し付けていた張本
人ではないか……。
シンジの言葉の中に皮肉めいた匂いを感じ取り,ミサトは沈黙するしか無かっ
た。だが…,
「それにね,ミサトさん………。」
シンジはそんな彼女の手を,両手でそっと包み込むように握った。不意の温も
りにミサトが驚いて顔を上げる。
「アスカだけじゃありません…。僕はあなたにも自由になって欲しいんです。」
「えっ……?」
包み込んだ手にそっと力を込め,シンジはミサトに向かって深々と頭を下げた。
「四年間,本当にありがとうございました。血の繋がりもない僕やアスカに,
実の姉のようにしてくださった,この四年のご恩は決して忘れません。」
「シンジ…君…。」
頭を上げたシンジの瞳は,涙に濡れ光っていたが,口元には優しげな笑みが浮
かんでいた。ミサトの頬がほんのりと赤く染まり,見つめたシンジの顔が,ぼ
んやりと涙で歪んだ…。
(実の…姉……か………。)
NERVの解体が決定し,エヴァが永久凍結され,軍人としてのミサトの日々も
終わりを告げた日…。
上官でも保護者でも無くなり,国連の一職員になった自分に,さぞや溜まりに
溜まった恨み辛みが述べられるだろうと,覚悟しながら自宅に戻ったミサト
を,二人は笑顔とささやかなパーティで出迎えた。
- ミサトさん,長い間お疲れ様でした。-
- お疲れ,ミサト!これでようやく花嫁修業に専念出来るわね♪ -
二人を前にして声を詰まらせて泣いてしまった,あの時の事を思い出した彼女
の頬を,あの日流したのと同じ,熱い涙の粒が伝った。
(そんな風に言ってもらう資格なんて,私には無い……。)
数々の仕打ちを許してくれと,二人に面と向かって言った事など無い。沈黙す
る事に後ろ暗さを憶えつつも,せめてもの罪滅ぼしと,彼女なりに必死に二人
の面倒を見てきた。だが,喉元まで出掛かった謝罪の言葉は,ついに喉の外に
出す事が出来なかった。
「ご恩なんて……,私は,あなた達に散々酷い事させた女なのよ…,……それ
を――」
「家族じゃないですか…。僕ら…。」
「家族………?」
言葉を濁しうな垂れるミサトに,シンジはにっこりと微笑んだ。温かな,春の
日差しのような笑みだった。握った手に少しばかり力を込めると,
「僕達に家族と家庭の温かさを教えてくれたのは,ミサトさん,あなたじゃな
いですか……。」
「………。」
「そんなあなたに感謝こそすれども,恨む筋合いなんて,これっぽっちもあり
ません…。」
いつの間にか『ごっこ』だった家族は本当の家族へ………,
「………ごめんなさい…。」
握られた手にすがり,ミサトはその手に重ねるように顔を伏せた。
ぽたり…ぽたり…と,涙のしずくが温かく二人の手を潤す。
軍人という非情の仮面をかぶっていた日々に鬱積し堰き止められていた,罪の
意識や,懺悔の思いが,堰を切ったように溢れ出し,涙となって目から溢れ,
あれ程出す事が出来なかった言葉が,喉の奥からこぼれ出た…。
「二人には,辛い事ばかりさせてしまったわね……。……本当に…ごめんね…
……。」
年端もいかぬ子供達に過酷な使命を押し付けて,平然としていられる程彼女の
心は冷え切っていなかった。
罪の意識に怯え,疲衰しきった子供達を見ては,許して…許して…と溢れ出よ
うとする懺悔の言葉を,『任務』の二文字で必死に押し止めていた苦い日々
が,ミサトの中で音を立てて崩れ去って行く……。
「もう,僕達に囚われないで…。ミサトさんの人生を生きて下さい…。」
幼かったシンジは,心も体も,大人へと成長していた……。
「ありがとう……。」
「加持さん…待ってますよ。きっと……。」
ミサトの恋人でもあり,二人の兄的存在とも言える彼の名に,思わず顔を上げ
たミサトの顔には,涙交じりの苦笑が浮かんでいた。
(何だかなぁ………。)
バカねぇ…何言ってるの……!と涙声で笑いながら次々溢れる涙を拭うと,ミ
サトは小さく鼻をすすった。
(……知らない間に,すっかり大人になっちゃってたのね…。)
顔を見合わせて,二人は微笑を交わした。優しげなシンジの笑顔に,ミサトの
瞳から再び涙が溢れる。そんな彼女の涙が収まるのを見定め,シンジは握った
手を離すと,
「アスカの事,頼みます……。」
軽く握った両の手を膝の上にそっと置き,居住まいを正して深々と頭を下げ
た。ミサトに自分の気持ちを理解してもらった以上,彼の心にくすぶる懸念
は,この家に残していかざるを得なくなったアスカだけだった。
「…わかったわ…。」
顔を上げて…と促すと,ミサトは真剣な眼差しを向けた。
「でもね,シンジ君。この家を出て行く前に,保護者として,……いえ……,
姉として…最後に一つだけ言わせて頂戴。」
「えっ……?」
「アスカ…,あの娘は見かけほど大人でもないし,強くも無いの。誰よりも近
くにいた君なら,わかっているでしょ……?本当は,人一倍臆病で,寂しがり
屋で,とても弱い女の子なのよ……。そんなあの娘を幸せに出来るのは,共に
暮らし,共に戦ったあなただけなの……!」
二人が互いの生い立ちを語り合った事があるのかミサトは知らない。いくら身
近な間柄とは言っても,おそらくそこまで踏み込んだ会話は無かったであろう。
だが,二人ともどこか互いが似ている事に,心の奥では気付いていたはずだ。
実際二人の生まれ育った境遇は酷似していた。
「はい……。」
「それにね,君の事を優しく包み込む事が出来るのも,また彼女だけだと思う
の……。」
似ているがゆえに,二人は魅かれ合った。ようやく出会うことが出来た,己の
傷を癒し,埋めてくれる存在に…。
傷ついて空漠となった二人の心の隙間を埋める事が出来るのもまた二人なのだ
と,ミサトはシンジとの会話から確信した。
「だから,これだけは約束して。もし,シンジ君の考えがアスカに間違った形
で伝わってしまって,あの娘があなたの前から去ろうとしたら,何もかもかな
ぐり捨てて,あの娘の事を追いかけてあげて……!」
それだけに,万が一アスカが背を向けても,シンジには自分の理想に殉じて欲
しくなかった。
「アスカの自由を尊重するシンジ君の気持ちは,素晴らしい事だと思うわ。だ
けどね,人生時には自分の考えやプライドを捨て去らなきゃいけない時がある
の。事,男女の仲においてはね。」
僅かに沈思してから,ミサトをじっと見据えていたシンジの顔が,こくり…
と,縦に振られた。
「…わかりました…。約束します……!」
「ありがとう…。それなら,安心してあなたをこの家から送り出せるわ。」
シンジの強い言葉にミサトは小さく破顔した。
「格好つけてますけど……」
ミサトの笑顔にシンジは僅かに目元を染めて恥じらいを見せると,口元に小さ
な笑みを浮かべて頬を掻いた。
「本音はどんな事してでもアスカ来て欲しくて,仕方が無いんです。ミサトさ
んとの約束が無くても,きっと彼女の事,止めに行くと思います。」
頬を掻く手を止めると,シンジは,はは…と力なく笑って顔を伏せた。
「あれだけ啖呵切っておいて……情けないですよね………。」
年不相応の表情の仮面の下に覗いた,シンジの含羞を帯びた告白に,ミサトは
かえって安心感を覚えて口元を淡い笑みで染めた。
シンジは若い。己の理想と現実の狭間に斃れるには,まだまだ早すぎる。
笑い,泣き,悩み,安堵し…。それこそが純粋に人というものだ。みっとも
ないくらい貪欲な恋情に身を任せる時間が彼には必要だと,ミサトは一人
思った。
それには,是が非でも彼のそばにアスカが必要なのだ。
「情けなくなんかないわよ。それが人間……。」
そっと手を伸ばすと,彼女はこの愛すべき弟の頭を愛しげに撫でた。実の父に
すらされたことの無い行為に,恥じらいを隠せぬのかシンジは一層頬を赤く染
める。
いくら大人顔負けの思考を持っているとは言えども,心の芯にはまだ子供の部
分が残っているのだ。それでも…僅かでも背伸びをせざるを得ない境遇の彼
が,ミサトには哀れでならなかった。同時に,
(血より濃い水ってのも……あるのね…。)
血の繋がりも無いはずのシンジだが,ミサトには本当の弟のように愛しかった
…。
ほろり…とこぼれた涙を人差し指で軽く拭って,悪戯っぽい笑みを浮かべると,
「………本当に好きなのね…。あの娘の事。でも,上手くいったらいったで,
きっと苦労するわよ…!十二分にわかってるとは思うけど。」
明るさを多分に含んだこの予見に,朝から陰鬱の淵に沈んでいたシンジの顔に
ようやく明るい笑みが戻った。
「惚れた,弱味ですから…。」
恥らう彼のつぶやきで,寒々しかった食卓に僅かではあるが温もり蘇った様だ
った………。