其ノ弐拾:ゼンヤ

葛城家の玄関先。

夕食を一緒に食べるだけのために本部から帰宅したミサトは、任務に戻るべく家を出ようとしていた。

その隣には、レイ。

彼女もまた、待機命令に従いミサトと共に本部へ向かう。
仕度を整えたミサトは、見送りのふたりに笑顔を見せた。

「ふたりともちゃんと睡眠を取っとくのよ?

体調不良になりました、なんてのはシャレにもならないんだからね・・・・・」
「大丈夫よ。

ミサトこそ、睡眠不足はヤバいんじゃない?とっくに曲がり角過ぎてるンだから♪」
「そうそう、25過ぎるとお肌も・・・・・・って、何言わせンのよ!?」
「はははは・・・・・・」

ムッとするミサトに、ニヤニヤ笑うアスカ。

ふたりのやりとりに、シンジは苦笑するほかない。

レイは腕時計をチラッと見ると、ミサトに声を掛けた。

「ミサトさん、時間・・・・」
「あ、そうね・・・・・・行きましょ、レイ。

それじゃ、行ってくるわね。」
「いってきます、にいさん、アスカ。」
「「行ってらっしゃい。」」

綺麗なユニゾンで見送るふたりを背に、玄関を出るミサトとレイ。

ミサトは廊下へ一歩踏み出したところで、ふと何かに気付いたように振り返った。

「・・・・・・・・・・あ、シンちゃん?」
「何ですか?」
「ふたりっきりだからって、アスカにヘンなコトしちゃダメよん♪」
「「ミ、ミサト(さんっ)!!」」
「じゃぁねんっ♪」

ヒラヒラと手を振ったミサトの姿が、プシュッ、という排気音と共に閉まるドアの向こうに消えていく。

玄関に残ったのは、熟れたトマトのように真っ赤になっているふたりだけ。

暫し沈黙の後、シンジはボソっと呟いた。

「あ・・・・あのさ、アスカ?」
「・・・・・・・何?」
「えっと・・・・・・・ミ、ミサトさんの言った事は気にしないでよ、ね?」
「・・・・・・・わかってるわよ、それくらい。

ミサトが余計な一言を言うのはいつものコトでしょ?いちいち気にしてらンないわよ・・・・」
「なら、いいんだけど・・・・・」

シンジはぎこちない笑顔をアスカに向けた後、そそくさとキッチンへ戻ってしまった。

シンジの背中を見ながら、アスカは小さな溜息と共に呟いた。

「・・・・・別に・・・・・・アタシはいいんだけどな・・・・・・・」

福音ヲ伝エシモノ    

其ノ弐拾:ゼンヤ    

 

夕食の後片付けを終え、エプロンを椅子の背に置いたシンジ。

リビングに目をやると、アスカの形の良い足が見え隠れしていた。どうやら、寝転がって雑誌でも読んでいるようだ。

シンジはケトルに水を入れると、コンロの火を点けた。

ティーサーバーとカップをふたつ、用意する。

戸棚の中から茶葉の入った缶を取り出し、蓋をスプーンで抉じ開ける。

ふわっ、と杏の香りが漂う。

アスカとふたりで喫茶店に入った時、彼女はフレーバーティを頼んだ。

それが気に入って以来、アスカは数種類の茶葉を試した。

今一番のお気に入りが、このアプリコットフレーバー入りの茶葉なのだ。

ほのかな香りと甘味が、いたくお気に召したらしい。

やがてケトルがけたたましく自己主張を始めた。

コンロの火を消すと、分量通りの茶葉が入ったティーサーバーへ湯を注ぐ。

同じようにカップへ湯を注ぎ、暖まったところでシンクへと流す。

お盆の上にサーバーとカップを載せ、シンジはリビングへ向かった。

「アスカ、紅茶・・・・・飲むでしょ?」
「あ、淹れてくれたの?ありがと。」

アスカは雑誌をパタン、と閉じ、シンジの横へ座り直した。

茶葉が十分に開き切るのを見計らって、シンジはカップへアプリコットティを注いだ。

アスカはシンジからカップを受け取ると、何度も息を吹きかけて冷ました後でカップを口にする。

そして、満足そうな笑顔を向けた。

「・・・・シンジってさ、器用だよね。」
「そうかな?」
「だってさ、炊事・洗濯・掃除・・・・・・・・どれも中学生の男子レベルじゃないわ。」
「最初は必要に迫られたからだったけど、慣れてくると面白くなってきてさ。

やり方変えたり、工夫したりできる事って多いし。性に合ってるのかもしれないね。」
「アタシもシンジみたいになれるかなぁ?」
「アスカなら大丈夫だよ。

探究心旺盛だし、努力家だからね・・・・・僕なんかすぐに抜かされちゃうよ。」
「えへへ。

シンジにそう言ってもらえると嬉しいな♪」

アスカは目を閉じ、シンジの肩にそっと寄り添うと腕を絡めた。

「ずっとこうしていたいなぁ・・・・・」

邪魔者は誰もいない。

シンジと、ふたりだけ。

そんなシチュエーションに、アスカは満足していた。

シンジも随分と慣れたようで、そんなアスカを優しく見つめている。

静かな夜がふたりを包み込んでいった。

 


 

「・・・・・ダメだ、眠れないや・・・・・・・」

枕元の目覚し時計を見ると、日付が変わってからまだ数分の位置を指し示していた。

アスカと他愛もない会話を一時間ほど交わした後、自分の部屋へ戻りベッドにもぐりこんだシンジ。

眠気が来るどころか、ますますめは冴えていくばかり。

今、ひとりでいるからだろうか。

なんとなく寒々とした雰囲気がある、自分の部屋。

隣と同じ間取りなのに、随分と感じが違う。

よくよく考えてみると、彼の傍に他人がいない状況など、今までにはない。

第三新東京市に来るまでは、叔父の家にいた。

ここにきてから、ミサトと共に暮らし始めた。

人間関係が良好とはとても言えなかったが、必ず傍に人はいたのだ。

シンジはレイがかつてひとりで生活していた部屋を思い浮かべる。

壊れたままのインタフォン。

装飾のまったくない室内。

血まみれの包帯、薬、ビーカー。

おざなりでつけたような、パイプベッド。

生活感など全くない空間。

そんな場所で、レイは暮らしていた。

けれど、自分は違う。

寂しくなったら、隣に行けば良い。

玄関が違うだけで、同じ家に住んでいるのと同様なのだ。

もっとも、今アスカのところに行くわけにもいかないが。

月の光が、部屋の中を照らす。

シンジはべッドから起き上がると、光に誘われるかのようにベランダへと出た。

雲ひとつない夜空。

数多の星が煌く中、真ん丸い月がぽっかりと浮かんでいた。

手摺に寄り掛かりながら、ぼんやりと月を眺めるシンジ。

どうして眠れないんだろう。

どうして目が冴えるんだろう。

自問自答を繰り返す。

突然、浮かび上がる残像。

吹き飛ばされた頭部の残骸。

両手と頭をもぎ取られ、横たわる弐号機。

残った右腕にN2爆弾を抱え、突進する零号機。

そして、爆発。

初号機の出撃。

爆発によるダメージを微塵も見せず、触手のようなブレードを不気味に蠢かす使徒、ゼルエル。

空になった電源、動かない初号機。

ホワイトアウトする視界、溶けていく感覚。

狂気。

恐怖。

暴走。

シンジは、身体が小刻みに震えているのを自覚した。

全身に、冷たい汗が流れる。

今までとは比べ物にならないほど圧倒的な力量を持つ使徒、ゼルエル。

シンジは決意を持って、それに立ち向かわねばならない・・・・・・・・・・・夜が明けたら。

以前のシンジならばとっくに逃げ出していた。

けれど、逃げるわけにはいかない。

アスカ達を護ると誓ったから。

みんなが自分を信じてくれるから。

自分自身で、望んだ事だから。

この戦いが終わった時、自分はどうなっているのだろう?

生きているのか、死んでしまうのか?

仮に生き延びたとしても、五体満足でいられるのか・・・・・・?

自問自答の末、シンジは結論に達した。

己の中に巣食う、恐怖心に気付いたのだ。

「・・・やっぱり・・・・・・・・・怖いんだ。」
「そンなコトだろうと思ったわ。」

ポツリと呟いた瞬間、背後から聞こえた声。

シンジは驚きながら振り返った。

そこに立っていたのは、既に寝たと思っていたアスカだった。

「・・・・・・アスカ・・・・・・寝てなかったの?」
「なんとなく寝付けなくって・・・・・・」

アスカはベランダに出てくると、シンジに寄りそうように立つ。

タンクトップから剥き出しになった肩がシンジのTシャツに触れた時、その冷たさにアスカは驚いた。

シンジの手を取り、強引に部屋の中へと引きずり込む。

突然の行動に呆然と立ち竦むシンジを横目に、アスカはクロゼットの引出しを開けてTシャツを取り出した。

「シンジ、そんな格好じゃカゼ引いちゃうよ?

シャツだけでも着替えた方が良いわ。」
「あ・・・・・うん。」

アスカが目の前にいるというのに、シンジは躊躇いもなくTシャツを脱ぎさる。

汗を吸い込んですっかり重くなったTシャツを受け取ると、アスカは部屋を出て行った。

風呂場にある脱衣籠にTシャツを放り込み、部屋に戻った時シンジは着替えを終えていた。

「ありがとう、アスカ。

でも、こんな時間に・・・・・・・・・・どうしたの?」
「シンジもまだ起きてるンじゃないかなぁ、って思ったからコッチに来たのよ。

予想通りだったけどね。」
「でも、早く寝ないと。」
「ひとりじゃ寂しいの。

だから・・・・・・・・・ココで寝かせて?」
「なら、布団を用意するからちょっと待っててよ。」
「いらないわ。

ココで寝るって言ったでしょ?」
「えぇ?!」

再び驚くシンジを横目に、アスカはベッドへ寝転んでしまった。

シンジが寝られるだけのスペースを空けて。

「ちょっと、アスカ・・・・・・・」
「別に良いじゃない。

アタシ達、コイビト同士・・・・・・なんでしょ?」
「それとこれとは話が別だろ?」
「あーーー!

シンジはアタシが寂しいって言ってるのに、ソレを無視するんだ?」
「そんなわけじゃないけど・・・・・・」
「なら問題ないじゃない。

ミサトだって『ヘンなコトしちゃダメ』って言ってたでしょ?

シンジがソレを守ってさえくれれば良いだけよ。ネ?」

アスカはポンポンとシーツを叩いた。

上目使いで見つめるアスカに、シンジが敵うはずもない。

シンジがベッドに身体を横たえると同時に、アスカは首に腕を回して抱きついた。

「あ・・・・・アスカぁ!?」

いきなり抱きつかれて慌てるシンジ。

思わず身体を引こうとするが、アスカは逃すまいと腕に力を込めた。

密着する身体。

心拍数が一気に上がりかけたその時、アスカの身体が小刻みに震えている事に気付く。

アスカも、僕と同じなんだ・・・・・・。

そう思った瞬間、シンジは落ち着きを取り戻していった。

アスカの細い腰に手を添え、そっと抱きしめるシンジ。

アスカはシンジの胸に顔を埋めたまま、小声で話し始めた。

「・・・・・・・ゴメンね、我侭ばかり言って・・・・・・・・・・。

アタシ、怖いの・・・・・ひとりで寝ていると、嫌なコトばかり考えちゃうのよ。

安心、できないの。」
「我侭なんかじゃないよ。

アスカも僕と同じで、怖かったんだね・・・ひとりでいるのが。」
「シンジと一緒にいる時は感じなかったの。

でもね、『おやすみ』ってシンジがドアの向こうに消えた時、急に寂しくなった。

部屋の中も、ベッドの中も冷たく感じた・・・・・とても。

何故か、この世にアタシひとりしかいないって・・・・・・そんな気がしたのよ。」
「僕も、そう思った。」
「レイの部屋からも、ミサトの部屋からも何も聞こえてこない。

当然よね、ふたりとも本部にいるんだから。

でも・・・・・ココにシンジがいる、壁一つ隔てた向こう側にシンジがいるって思ったら・・・・・・ガマンできなくなっちゃったの。

ねぇシンジ、アタシ・・・・・・・もうダメかもしれない。

きっとひとりでは生きていけない。

シンジが傍にいなきゃ・・・・・」
「アスカ・・・・・」
「昔のアタシは、誰にも頼ろうとしなかった。

誰も信じず、誰にも寄り掛からずひとりで生きていくんだって、そう決めてた。

『トップでありつづける事』が、アタシという人間を形成するために最も重要なモノだと思ってた。

だから、ドイツにいた時は死にもの狂いで訓練も、勉強したわ。

誰にも負けたくなかったし。

でも日本に来て、シンジやミサトと暮らすようになって、学校に行くようになって・・・・・・・。

アタシ、変わっていったと思う。

傍に他人がいるから、アタシを見て欲しいって思いが強くなった。

アタシに構って欲しいとも思った。

ドイツにいた頃みたいに、孤独になる事を嫌がってた。

アタシ、多分・・・・・・その頃からシンジを求めていたんだと思う。ただ、ソレに気付いてなかっただけで。」

アスカは腕の力を緩めると、胸に埋めていた顔を上げた。

アスカの独白は続く。

「でも、アタシは孤独になる事を選択してしまった、自分で。

シンジがアタシよりも高いシンクロ値を出した時、アタシの存在理由が奪われたって思ったわ。

だからシンジを拒絶した。

ミサトはシンジだけをかまっていると感じたの・・・・・嫉妬していたのかもしれない。

だからミサトを拒絶した

アタシがアラエルに攻撃を受けていた時は見捨てたのに、レイが危険に陥った時、司令は凍結中の初号機を送り出したじゃない?

ショックだったわ。

アタシより、レイのほうが大切だって宣言されているのと同じだから。

誰も『用済み』のアタシの相手なんてしないと思った。

だからそれまで以上にレイを・・・・・・・みんなを、拒絶したの。

そして・・・・・アタシは、壊れた。」

アスカの声が、肩が小刻みに震える。

シンジのシャツが、アスカの涙で濡れる。

シンジはアスカをきつく抱きしめた。

華奢なアスカが、まるで折れてしまいそうな力で。

「シンジ、苦しいよ・・・・」
「あ・・・・ご、ゴメン。」
「シンジを責めてるわけじゃないの。

だって、あの頃は誰もが酷い状況で、傷ついていたから・・・・・・仕方ないのよ。

それに、あの時を過ごさなければ今のアタシ達はなかったわ。」
「・・・・・・そうだね。

もしもEVAがなかったら、僕達がこの街に呼ばれなかったら、きっとお互いの存在を知る事はなかったと思う。」
「うん。

辛くて、寂しくて、互いを傷つけ合うだけの時間だったけど・・・・・・それが運命だったのかもしれないわね。」
「僕は・・・・・アスカに出逢えて良かった。」
「・・・・・アタシも、シンジに出逢えて良かった。」

アスカはそっと唇を合わせると、シンジの胸に頭を寄せた。

シャンプーの香りがするアスカの髪を、シンジはそっと指で撫でる。

つい先程まで感じていた不安が、互いのぬくもりにかき消されていく。

ふたりは無言のまま、じっと抱き合っていた。

時が静かに過ぎていった。

 


 

翌朝。

アスカが目覚めた時、そこにシンジの姿はなかった。

久し振りに得た安眠の充足感と、シンジのいない不安感に包まれるアスカ。

慌ててベッドから起き上がり、ドアを開けた瞬間に不安感は消え去った。

アスカを出迎えたのは、キッチンで朝食の支度を終えたシンジ。

まるで朝日のように眩しく、清々しい笑顔だった。

「おはよう、アスカ。

良く寝てたからさ、起こさなかったんだ・・・・・・朝食、できてるよ?」

アスカは朝の挨拶に答えることなく、シンジのそばへ歩み寄った。

そして、唐突に唇を合わせるとすぐに身体を離す。

「えへへ・・・・・・一度やってみたかったんだ、おはようのキス・・・・」

目をぱちくりさせるシンジに、ちょっとだけ照れたような笑顔でアスカは言った。

はたしてシンジの耳にその台詞が届いていたかはわからない。

彼は真っ赤な顔をして、その場に立ち尽くしていたから。

アスカは少しだけ不機嫌そうに、それでいて嬉しそうな声でシンジに告げた。

「ンもう・・・・・いちいち固まらないでよ?

これからずっと、何度も機会はあるだろうけど・・・・・早く慣れてよね。」
「え・・・あ・・・・・・・ずっと?」
「そうよ?この先ず~~~~っと♪」

腰に片手を当て、もう一方の手でビシっ、と指差すアスカ。

満面の、笑顔で。
つられるように笑顔になるシンジ。

彼はゆっくりとアスカに近づき、その身体を抱きしめた。

そして耳元に口を寄せ、小さく囁く。

「・・・・・ずっと・・・・・・だよね・・・・・・・・」
「そうよ・・・・・・覚悟、しときなさい?」
「お手柔らかに、ね。」

互いの体に腕を回しながら、クスクスと笑い始めるふたり。

もう一度軽く唇を触れ合わせると、シンジはアスカを促した。

「冷めちゃう前に、食べよう?」
「うん♪」

エプロンを外し、椅子の背に掛けるとアスカと向かい合わせの席に腰を降ろし、静かに両手を合わせた。

「「いただきます。」」

朝食の時間に会話の花を咲かせるふたり。

彼らの頭の中から、使徒の事はすっぱりと消え去っていた。

楽しげな笑い声が、部屋の中に響いていた。

決戦当日の朝の事だった。