第5話

見渡すばかりの凄惨な景色。

高温状態で閉じられていた空間には、ねっとりとした臭気が充満している。

キッチンから漂う異臭、シンクに溜まりきった汚泥、テーブルに散乱した腐ったカップめん。

部屋の中心部に進むたび濃くなっていくそれに、私たちは進行を躊躇する。

「僕、こんなの見たことないよ…。」

「いくらなんでも、私だってないわよ…。」

見るも無残な我が家の様子に、私たちは辟易した。

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       My Beautiful World       - episode5 -         written by rego
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「取りあえず、掃除しましょう…。」

「そうね…。」

彼はそう言うと、Yシャツの袖をまくって、リビングの掃除に取り掛かった。

キッチンの収納から60リットルのゴミ袋を取り出し、手当たり次第にゴミをぶち込んでいく。

何というか、凄い。今の彼の表情には鬼気迫るものがある。

腐ったカップめんに勇敢に立ち向かい、汁がこぼれるという反撃にもめげず、ただ、一心不乱に。

そんな彼は少し格好いい。惚れてしまいそうだ。

…私に少年趣味は断じてない。

「ミサトさん?ミサトさんは掃除機でもかけてください。

 それなら負担もないでしょうから。」

「わ、わかったわ。」

私の心を知ってか知らずか、彼は唐突に声をかける。

一瞬、焦って声が裏返ってしまったが、向こうに気づいた様子はない。

私は妙な罪悪感らしきものを感じながら、掃除機を持ち出す。

生活感を失った空間に放置されていたそれには、綿ぼこりが溜まってしまっている。

思えば、掃除機を手にするのは久しぶりかもしれない。

彼がこちらに来てからというもの、厳正かつ公平に決めた当番の割り当てで、

週の掃除当番はほとんど彼の仕事だったからだ。

おまけに、私は残業で家を空けることも多く、家事のほとんど彼に依存していた。

訓練や学校といった義務をこなしながら、家のことまで押し付けてしまったのだから。

彼の性格では、嫌とは言えなかったのだろう。私はそれに甘えきっていたのだ。

迷惑をかけたものだ。本当に。

これからはもっと頑張ろうと思う。

出来ることから少しずつ。

私は差し当たってリビングに掃除機をかけることにした。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

「気にしないでください…。

 仕方なかったんです。やっぱり僕が悪かったんだ…。

 ミサトさんに期待して、他人に期待するなんて、やっぱり間違ってたんだ…。」

「ごめんなさい…!ごめんなさい…!ああ!」

私は瞳からとめどなく大粒の涙をこぼし、彼の前に崩れ落ちた。

彼の表情はあの時のように絶望し、その瞳に私を映すことはない。

嗚咽を耐えながら、私は考える。

何がいけなかったのか。私は一生懸命やったのに。

それこそ、全身全霊を持って彼にぶち当たったはずだった。それなのにどうして…!

「いいから、休憩しててください…。

 ミサトさんに掃除させるなんて、僕が間違ってたんだ…。」

「撃たれた時より、断然辛いわ…それ…。」

彼は皮肉たっぷりとそう言うと、とっとと自分の戦場へ戻っていった。

リビングには、私が撒き散らした腐ったカップめんの汁の臭いが充満している。

一番酷いのはカーペットだ。染みがありありと浮かんでしまっている。

…あのカーペットは高かったのに。

確か、ドイツに居た時、ブランド店の家具コーナーで衝動買いしたものだ。

無地でうっすらとした手触りが気に入って、すぐに店員に値段を聞いたのを覚えている。

そういえば、あの時の店員には腹が立った。

確か、セミロングでセル眼鏡をかけた中年の小太りのおばさん、いや、バ○アだったはず。

若く、美しく、それなりに裕福且つ、国際公務員たる私のオーラが気に入らなかったらしく、

言うに事欠いてあのクソ○バアは、嫌味ったらしくネチネチと文句ばかり言いやがったのだ。

何が、日本人はお金持ちでよろしいわね、だ。反吐が出る。

日本人全員が金を持ってると思ったら、大間違いだ。

大体、ドイツ人だって十分金持ちのはずだ。

東洋人だと思って馬鹿にして。まったく、思い出しただけでも腹が立つ。

全部、あのババ○のせいだ。そうだ、私がカップめんを溢したのもそのせいに違いない。

くそう、あんなバカ高いカーペット買わなきゃよかったのだ。

そうでなければ、アスカの言うとおり、カーペットを替えておくべきだった。

あの少女はセンスがあるから、経済的で尚且ついいデザインのものを選んでくれた思う。

そうだ、アスカ。

きっかけはともかく、私は身体の態勢を入れ替え、彼女の部屋へと向き直った。

リビングからの廊下は彼女の部屋に続いている。

木で作られた襖の前に、立てかけが一言。

『許可なく立ち入りを禁ず。勝手に入ったら殺すわよ!惣流アスカラングレー』

口語でたどたどしく綴られたその言葉に、私はやるせなさを感じずにいられなかった。

プライバシーは誰だって必要だ。もちろん私も。

彼女自身も、含むところなくそういうつもりで書いたのだろう。

だが、今となっては、アスカ自身の心をそのまま象徴しているように思えてならなかった。

考えすぎだということは、重々承知している。

彼女の心の壁はどれほどのものだというのだろうか。

私はそれを知りたいと思った。

急な出来事が続いたおかげで、彼女のことをうっかり失念していたのだ。

私が先ほど、病室で聞き損なったことを彼に聞かなければ。

彼はまだ、掃除の最中だ。

声を出せば、聞こえる距離に居る。

躊躇はない。

「シンちゃん。」

「何ですか?」

「アスカはどうしてるの?」

彼は目を見開いた。

驚いたのだろう。当然だと思う。

だが、ここで彼に逃げることは絶対に許されない。

ケイジの時のそれよりも、今の彼には遥かに重要なことだから。

「知ってるんでしょ?」

彼は応えない。

掃除の手を止め、硬直してしまっている。

「私は知らないのよ。

 本部の職員にも教えてもらえなくてね。

 復帰までは私に対しても守秘義務を負うんですって。

 やーよねー、お堅い組織って。」

「…。」

「まあ、それは仕方ないとしてもさ。

 私は明日から職場復帰だし、制限を受ける必要はもうないの。

 だから、教えてほしい。

 シンジ君の、他でもないあなたの口から。」

「謝れなかったんです…。」

「…どういうことなの?」

彼は細々と語りだした。

「僕が、初号機に乗って上に出た時、

 アスカの機体はもうバラバラでした…。

 ケージにいる時にマヤさんの声が聞こえて…、それで…、僕は急いで…。」

「アスカは…、死んだの…?」

私は思わず唾を飲んだ。

衝撃的だった。まさかあの子がそこまでやられるとは。

「…ううん、無事でした。

 誰もが死んだと思ったんでしょう。僕もそう思いましたから…。

 左目に怪我をしてたけど、アスカは生きてて…、信じられないくらい元気で…。

 それで、僕は嬉しくて…謝ろうと思って…、でも!」

息を呑む。

「でも!アスカは!前と違ってて、僕と会ってもくれなくて!

 それが嫌で!だから…、だから僕は…!」

「アスカから逃げちゃったのね…。」

彼はゆっくりと頷く。

それを合図に泣き出した。

私はまた彼を泣かせてしまった。これで何回目だろうか。

でも、これは仕方ないことだと思う。

私たちにとっての一種の通過儀礼のようなものだから。

目の前で泣きじゃくる彼とは裏腹に、私は嬉しかった。

何故なら、アスカは生きているのだから。

キャンパスに絵を描くだけの絵の具は失われていないのだから。

「シンジ君、辛かったわね…。

 謝ろうとしたんだ…。偉いわよ…。

 でもね、もう一回頑張ってみない…?

 今度は私も一緒に頑張るから…。私もアスカに伝えたいことがあるから…。

 分かってくれないかもしれない。許してくれないかもしれない…。

 これは前にも言ったわ…。でも、やっぱり伝えなくちゃ…。

 ね?」

「でも、アスカは…」

「あなた、アスカのこと好きだった?」

「分からない…。」

「じゃあ、嫌い?」

「そんなことないよ!」

「それならいいのよ…。

 アスカもあなたもね…。それは希望だから…。」

私がそれだけ言うと、彼は嗚咽を耐えながら黙り込んでしまった。

リビングに時が流れる。

かしましい蝉の声も、区画整備の工事の音も聞こえない。ただ無音だった。

数分の後、彼は顔を上げ、穏やかな口調で言った。

「やってみたい…。

 頑張ってみたい…。そう思う…。」

「ありがとう…。」

不安な表情はそのままだったが、彼は涙ぐむ目で私に微笑んだ。

その顔はとても綺麗で、同年代のそれと比べても微塵も男臭さを感じない。

夏の太陽に光り輝くそれは、彼の決意を暗に示していたのかもしれない。

私はこの顔が大好きだと思った。愛しさがこみ上げる。

「ねえ…、この前の続き…、する?」

「え?」

きょとんとした顔をする。

私はそれが可笑しくてたまらない。

「だから、キスのつ・づ・き!」

「い、いいよ!」

「ホントはしたいくせに~♪照れちゃって、かっわいいんだからぁ♪」

「か、からかわないでよ、もう!」

彼は真っ赤な顔で清掃作業へと踵を返した。

ちらちらとこちらを伺いながら、掃除に没頭しているふりをしている。

とても気分が良かった。

私はアスカの部屋に入る。

その中は、雑誌や小物といったありとあらゆる物が散乱していた。

ベッドのシーツは破かれ、ぬいぐるみの首は飛んでいる。

不憫だと思った。

抱きしめ、抱きしめ合う相手さえいない中、彼女はどれだけ自分を保つのに気を張ったのだろう。

思わず、背筋が凍る思いがする。

誰かが彼女を抱きしめてあげなければならない。

誰かに人の温もりを教えてもらわなければならない。

その相手が私たち二人であることを願って、私は彼女の部屋を出た。