私はよい子が嫌いだった。
何故なら、私がよい子だったから。
私がそうでないと、母が泣いてしまったから。
私がそうでないと、父が安心しなかったから。
私は両親に好かれたかった。彼らを愛したかった。
私は親子三人で仲良く暮らしたかった。それだけなのだ。
父が家に戻ると、家は両親の怒声に包まれた。
父の仕事のこと、母の買い物癖のこと、私の教育方針のこと。
上辺だけ見れば、どの家庭も抱えているようなごく一般的な問題だ。
だがそんな他愛もない問題でさえ、私の両親に掛かると、
一歩飛躍して家庭を危機に晒すものへと変わってしまった。
テーブルの下から見上げる空間では、罵声が飛び交い、時には嗚咽が漏れる。
幼い私は恐怖で足がすくみ、動くことが出来ない。
誕生日に与えられた2つのぬいぐるみを持って、私は笑顔を引き攣らせた。
両親から送られたそれ、どちらもお気に入りだったと思う。
私は震えが止まらない身体で、懸命に笑顔を取り繕う。
そんな姿は周囲から見ればさぞ滑稽だっただろう。
私は天井を見上げていた。古めのアパートに備え付けられたチープな蛍光灯に執心していた。
夕方のキッチンには蝿が飛び交い、それは走性に導かれ、その光へ向かって一心不乱に直進する。
蝿は電球に達すると、それの物理的な拒絶を受け、数十センチ先に弾き飛ばされる。
それでも、蝿は止めようとしない。ただ光へ向かって自らの身体を投げ打つのだ。
何度も、何度も、まったく諦めようとはせず。無知ゆえの勇敢。
しかし、やがて体力もそこを尽き、電球の囲いのへりに飛ばされ、それは動くのをやめる。
真っ白なカバーにポツンと一点、黒いものが出来る。
恐ろしかった。
両親はそんな私に気づくと、いつも決まって優しく声をかけた。
一瞬前までの般若のような表情を隠し、いい子だから向こうへ行ってなさい、とだけ。
両親は私に優しかった。
裕福でもなかったわりに、私が欲しい物は何でも買ってくれたし、
父に至っては、私が寂しいと言ったら、調査隊への同行まで許可してくれた。
しかし、今まさにこの時、こんな考えがふと浮かんだ。
彼らは、私が欲しかっただけなのではないかと。
私に、所有欲を感じていただけなのではないかと。
そりが合わない連れ添いに辟易し、挙句の果てには憎みさえしたのかもしれない。
その中で私という存在は、二人のどちらがより優れているか、
どちらがよりよい親なのか、ということを無意識に競い合わせるものではなかったのか。
本当のところは何も分からない。
これはあくまで憶測に過ぎない話だ。
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My Beautiful World - episode3 - written by rego
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少年は先ほどから俯いたまま、何も話さない。
だが、微かに息と肩が震えているのが分かる。
エレベーターから漏れる光が逆光となって、彼を包み隠す。
私は、やはりそれが気に入らない。
「いい、シンジ君…、ここ先はあなた一人よ。
全て自分で決めなさい。誰の助けもなく。」
「…僕は…、僕はダメだ。ダメなんですよ…。」
彼が呟いた。
久方ぶりに声を利いた気がする。
その言葉に自嘲の念が感じられるのは、勘違いではないだろう。
今までの鬱憤を晴らすかのように、彼は語るのをやめない。
「人を傷つけてまで、殺してまでエヴァに乗るなんて、そんな資格ないんだ…。
…僕はエヴァに乗るしかないと思ってた。
でも、そんなの誤魔化しだ。
何にも分かってない僕にはエヴァに乗る価値もない。
僕には人のために出来ることなんて、何にもないんだ…!」
捲くし立てる。
息を呑む声。
「アスカに酷いことしたんだ…。
カオル君も殺してしまったんだ。
優しさなんか欠片もない、ずるくて臆病なだけだ…!
僕には人を傷つけることしか出来ないんだ。
だったら、何もしない方がいい!」
彼は、思い切り網を握りつけた。
皮膚に血管が滲み出る。
「同情なんかしないわよ。
自分が傷つくのが嫌だったら、何もせずに死になさい。」
嗚咽。
「今、泣いたってどうにもならないわ!
嗚咽は止まない。
彼の心はどれほど荒んでいるのか。
私には、皆目見当もつかない。
「自分が嫌いなのね…。
だから人も傷つける。
自分が傷つくより、他人を傷つけた方が心が痛いことを知っているから。
でも、どんな思いが待っていても、それはあなたが自分一人で決めたことだわ。
価値のあることなのよシンジ君…。
あなた自身のことなのよ…!
誤魔化さずに、自分に出来ることを考え、償いは自分でやりなさい…。」
「ミサトさんだって…!
他人の癖に…!
何にも分かってないくせに!」
揺さぶられた。
私の心、あるいは私自身が。
気づけば、その思いは激昂となって彼に向かっていた。
「他人だからどうだっていうのよ!あんた、このままやめるつもり!?
今、何もしなかったら、私、許さないからね…。一生あんたを許さないからね…!
今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気づき、後悔する。
私はその繰り返しだった。ぬか喜びと、自己嫌悪を重ねるだけ。
でも、その度に前に進めた気がする。」
彼は動かない。
「いい、シンジ君。
もう一度エヴァに乗ってケリをつけなさい。エヴァに乗っていた自分に。
何のためにここに来たのか、何のためにここにいるのか、今の自分の答えを見つけなさい。」
「…嫌だよ…。自分勝手じゃないか…。
結局、…結局、僕はエヴァに乗らなくちゃいけないんじゃないか…。
それでまた、人を傷つけるんだろ…?
嫌だよ…。出来ないよ…。」
縋るような、怖がるような声。
彼は追い詰められている。
「…シンジ君。あなたはエヴァに乗って、人を傷つけた。それは事実かもしれない。
でも、それ以上の人を助けてもいる。これも事実だわ。
あなたがした、あなただけしか出来なかったことなのよ?」
「そんなの知ってるよ!
でも、僕は誰かを助けたくてエヴァに乗ったわけじゃないんだ!
人に好きになってほしかっただけなんだ!
自分に価値を作るために、エヴァを利用しただけなんだ!」
「シンジ君…。」
「そうじゃないと、誰も僕を見てくれなかった。
嫌だったんだよ、それが!
父さんも母さんも先生も、誰も見てくれなかった。
でも、こっちに来た途端、みんながチヤホヤしてくれた。
みんなエヴァのおかげじゃないか!僕自身の価値じゃないんだ!
ミサトさんが僕を引き取ってくれたのだって、エヴァがあったからだろ!?
そうじゃなければ、ただの同情じゃないか!
僕を好きだったからじゃない!」
違う。
それは違うと思う。
確かに、あの時、彼のことを好きだったわけじゃない。
私に限らず、初対面の人間なら誰だってそう思うだろう。
でも、あれは同情ではなかったのだ。
ましてや、憐れみですらなかった。
では何だ。
私はまた分からなくなった。
不意に両親の顔が思い浮かぶ。
普通の顔、怒っている顔、泣いている顔、
そして、笑っている顔。
恋しかった。
私はそれが大好きだった。
どんな代償を払ってでも手に入れたかったものだった。
それは私を幸福にし、悠久とも思える安らぎを与えてくれるものだったから。
でも、それは私の手からあっさりと零れ落ちていった。
「何とか言ってみてよ、ミサトさん!」
私は荒廃した世界で気を張った。
あの温もりを取り戻すため、心を満たすため。
失語症から回復した直後の努力は、尋常ではなかったと思う。
結果として、私は第弐東大に合格し、国際公務員となった。
人はこの経歴を羨むだろう。
大学で一人の男と出会った。
私は彼に恋をした。
彼とのキスは身を焦がし、その身体に抱かれたりもすれば、
私は快楽の絶頂へと誘われた。
あの男とのセックスは大好きだった。
彼に突かれる度に私の脳は痺れ、全てを忘れることが出来た。
男の安アパートで、ベッドもない所で私は彼に犯され続ける。
扇風機しかない常夏の部屋で、私たちは獣のように腰を振った。
私は男を求め、男は私を求める。
擦れ合う身体と、ずれてしまう布団。
蝉の声と、今では珍しくなったブラウン管のテレビの音が私たちの艶音楽だった。
幾度目かの絶頂のあと、部屋は決まって性の匂いに充満する。
隣に寝ている疲れきった男の寝顔を見て、私は満足するのだ。
汚れた自分を見るのは快感だった。
もう、父の面影は忘れたのだと。
最高に満たされていると感じた。
しかし、いつからだっただろう、それを否定するようになったのは。
男の顔が父親の顔に見えた。
私は父親に犯され続けていたのだ。
父のペニスが私を蹂躙する。
飽きもせず、何度も何度も。
それが気持ちよかった。最高に気持ちよかったのだ。
そんな自分に恐怖した。
私が私でなくなってしまうような気がした。
彼は何も悪くなかった。私を純粋に愛してくれた。
私も愛したかった。でも自信がなかったのだ。
だから別れた。
でも、嫌だった。怖かった。
温もりがなくなってしまったから。
後悔した。やり直したいと思った。ぽっかり空いた心の穴を埋めたいと思った。
とても寂しかったから。
そう、寂しかったから。
「寂しかったのよ…。」
彼は怪訝な顔で私を睨みつける。
感情の爆発は、今の彼にもこんな顔をさせる。
冷静になれば、彼の心情の吐露は私にとって驚く反面、嬉しくもある。
「寂しかったから…。
寂しかったから、シンジ君を引き取ったのよ…。
家に帰ってきたとき、誰かの温もりを感じたかったから…。
だから、君を引き取ったの。」
「…なんだよそれ。」
「そうよ。シンジ君じゃなくてもよかった。それは確かだわ。
誰でもよかった。自分の気持ちよさのために、私はあなたを利用したのよ…。」
彼の表情が生気を失い、再び絶望の淵に沈む。
「でもね、私はあなたが好きだと思うわ。
言い方は悪いけど、私の寂しさを紛らわせてくれるから…。
過程はダメなのかもしれない。でも、それって変なことかしら?
あなたが言うように、自分を保つために人を利用するのはそんなにいけないこと?」
彼は応えない。
「誰だって、自分を好きになってもらいたい。それに変わりはないわ。
だから、みんな努力する。
お化粧したり、優しくしてみたり。他人の気を引くためにね。
あなたの場合は、それがエヴァだった。
それだけのことよ…。」
「でも!それじゃあ!」
「それじゃあ、何なの?
言ってみなさい…。」
私は遮るように言った。
今は私の言葉を聞いてほしかったから。
「…それは…、卑怯だから…。」
「…シンジ君、結局、みんな同じなのよ…。
好意の出発点はみんな自分にあるの。
そして、そのベクトルが帰るところもまた自分なのよ。
シンジ君はそれを知ってる。だから、汚いとかずるいとか感じる…。
あなたはただ、優しすぎるだけなの…。」
「…でも!そうだとしても!
僕は自分が許せないんだ!卑怯だと感じるんだ!
仕方ないじゃないか!」
「そうやって、また逃げるのね…。」
「逃げてなんかないよ!」
逃げているのだ。それは。
「あなたは他人を信頼してないの。そして自分自身も。
心の闇を恐れてるのよ。
だから、そうやって逃げる。
もちろん、全部から逃げちゃダメとは言えないわ。
でも、今は…
…お願いよ…シンジ君。」
「でも、アスカに酷いことして…、終わりになって…」
「終わりじゃないわ。
アスカに酷いことしたんでしょ?
それなら、謝らなくちゃ…。
アスカは許してくれないかもしれない。
…でも、それでも言わなくちゃ。
ゴメンって。心を込めてね…。」
彼の肩が跳ねた。
次の瞬間、私の顔をゆっくりと見上げ、気まずそうな表情を浮かべた。
私は全てを語った。これ以上は何も言えない。
私の気持ちは伝わったのだろうか。
「私の言うこと、分かった…?」
「…わからないよ…、でも、今は…。」
「頑張ってみる…?」
私がそう言うと、彼は遠慮気味に頷いた。
私は、首に掛かっていたクロスを手渡す。
エヴァに乗る、乗らないではなく彼はいい子だ。
人の気持ちを知っている。
そして、そんな彼を愛おしく思った。
いい子は嫌いだったはずなのに。
「ありがとう…。
行ってらっしゃい…。」
彼の瞳を見据える。
迷い、憤り、不安、そんなものが感じられる瞳だ。
でも、それはさっきまでのように淀んではいなかった。
彼の顔を両手で持ち上げる。
驚くような仕草をしたが、私は気にせず彼の口を割った。
舌を口内に差し入れる。彼は私を受け入れた。
舌も歯も歯茎も、それこそ全体を嘗め回す。
彼もそれに応えるように、拙い舌使いで私のそれを犯す。
お互いの口内で唾液の交換が行われる。
淫靡な音が、辺りにほんの少しだけ漂った。
「大人のキスよ…。
帰ってきたら続きをしましょう…。」
開閉ボタンを押す。
エレベーターの扉が急に開いた。
彼は驚く表情を浮かべながら、その中に吸い込まれた。
彼は何に驚いたのだろうか。
エレベーターが開いたことか。それとも私のキスにだろうか。
後者だと嬉しい。彼とのキスは気持ちよかった。
大人のそれとは違い、加齢からくる口臭も、煙草の嫌な臭いもなかった。
ただ、人間のそれ。
何にも染まっていない綺麗な口内が少し羨ましかった。
私は体重を支えきれず、床に倒れこむ。
腹部から、いよいよ血が流れ出してきた。
私を中心に血液の輪が広がる。
薄汚かった。
もう、あの光景を見ることは出来なそうだ。
周囲を見渡すが、目が霞む。
ああ、嫌だ。
死にたくない。
もっと彼らを見ていたいのに。
徐々に痛みが鈍くなる。
意識も朦朧としてきた。
何とか見上げた天井には、光も、それに群がる蝿もいなかった。