最終話

セミが鳴き陽炎が立ち登る。
世界的にもまれなこの国の内乱は他国の介入もなく無事に終結した。と言うよりは全てが終結してから、人々はその事実を知ったのであった。時間にして24時間に満たない短い間ですべては始まり、そして終結していったのだ。当事者でない限り誰も説明のしようがなかった。
ただそれに払った代償は大きく、自慢の軍隊は全く無力化していた。国連という存在がなければあっという間に乗っ取られたであろうが、それ以前にどこの国の政治家もまず自分たちの保身を考えるのは同じであった。無力化してるとは言え、わざわざこちらから攻めていく危険を冒す気もなかった。また、セカンドインパクトで上昇してしまった海水がこの国を攻めるには大きな障害になっていた。どの陸地からも大きく離れているこの国を攻め滅ぼすにはよほどの艦隊か航空兵力が必要であった。自然の要塞と化した、言い換えればその気がなくても鎖国状態にすることが出来るこの地形がこの国を外敵から救ったとも言えよう。
かくしてこの国は再び国力の増大のために動き始めることとなった。

すなわちそれは政治屋の台頭である。
国家権力を笠に着て一攫千金を狙おうとする自称「政治家」は、ここぞとばかりにその貪欲さを解放し始めた。
国力増大のためと称した税率の上昇、国家権力の増大。それらは国民の意見を反映させるはずの彼らの代表者数百名によって一方的に可決された。セカンドインパクト以来国民総生産高は上昇傾向にあったが、それを遙かに上回る上昇率で国民に負担が課せられた。その割には福利厚生関連の予算は何ら変わることもなく、市民の生活を圧迫し始めている。そしてその負担を背負うべくスーツを身にまとって燃えるアスファルトの上をひたすら歩き続ける人たちが多くなった。負担が多くなったからといって、手放しで自分の生活が保障されるわけでなく、その分余計に働かなくてはいけなくなった。そんな境遇に嫌気がさしたのかどうかはわからないが、この国の犯罪件数は一時のバブル経済のような上昇率を示し、まじめに勤務している町の警察官は苛立ち始め、暑さと不快指数は確実に彼らの上に降り注いだ。その一方ではクーラーの効いた部屋で犯罪対策をああでもないこうでもないと堂々巡りの会議を延々続けるふりをし、その打ち上げと称して彼らが取り締まるはずの飲食店で肌の露出も露わな女性達と食事をする上司がいたし、この国の政治は相変わらず冬の季節で議会と官僚が民間企業を巻き込んで、意味不明な論議を繰り返しながら自分たちの利益のためだけに汗を流していた。

 


 

 

再建の始まった第三新東京市。
それまで市政を取り仕切っていたMAGIは解任になり、かわりにみたことも聞いたこともないような人材がこの市の議員や市長に成り代わった。彼らの多くは国からの派遣でこの市にやってきた者で、その裏で国家権力とつながっているのは明白であったが、誰も口出しする者がいなかった。誰もできなかった。そして彼らもまた、大きな力を持つこの市の権力を我が物にしようと必死に汗を流すこととなり、その汗の結晶はこの市に多くのゼネコンを呼び込み、不必要なまでの金と資材を持ち込んだ。戦災により人の住める場所は限られていたが、土地面積が狭くなってしまった上、人口増加率が次第に上がっているこの国において、遊ばせている土地はほぼ皆無に等しい。それ故の再建計画が立案され、実行に移されていた。ただその資金と資材と再建計画とが一致しないことに気がついていたのはごく限られた一部の人間ではあったが。
特務機関ネルフはその呼び名を研究機関ネルフと改められ、所属も国連の秘密裏の組織ではなく、この国の公的機関として活動を再開することになった。その事をこの国の功績と呼ぶ連中もいるにはいたがその実体といえば、国連における発言力ではなく、旧時代から延々と引き継ぐ根回しのたまものであった事は以外に知られていない。民主主義資本主義社会において似合わないその懐柔策はこの混乱の時代にも、いや混乱しているからこそ根強く続いていた。ゼーレと呼ばれる委員会もすでに崩壊状態にあった国際連合はこの国に対してなんの効力も発揮することなかった。もしかしたらその活動内容が不鮮明な割に金ばかりかかるこの組織を手放したかったのかもしれない。そしてネルフ自体も、活動内容が公にされた。スーパーコンピューターMAGIの運用と開発、そして壊滅した自衛隊が回復するまでの、この国の防衛システムを一身に背負うことになった。

「まったく。これならおとなしく田舎に引っ込んでおくんだったな。」
新生研究機関ネルフの初代所長には冬月コウゾウが任命された。所長とは名ばかりの責任者という役割ではあったが、自分の部下のためにも残ることにした。
旧ネルフの人間の多くが残った。保証された給料と身分。そして少なくなった危険性。それらが彼らを残す直接の原因だったとも考えられた。そのようなこととは無縁に残った人間もいる。あのとき最後まで発令塔を脱出しなかった5人がそうであった。
彼らは以前と同じく旧第2発令塔最上部にいた。今ではそこがこの施設で唯一の発令塔として稼働している。
青葉シゲル、日向マコト、伊吹マヤ、赤城リツコ、そして葛城ミサト。
彼ら5人は冬月直属の部下として動くことになった。リツコは研究主任として、ミサトは総務主任として。
「まったく。リツコは前と同じだからいいけど、なんであたしのとこにはこんなに雑務ばっかりあるわけ?」
ミサトは愚痴る。自分の意志で残ったとはいえ、研究施設の修復と縮小、人事経理関連、その他雑務が山のようになって襲いかかっているのである。
「仕方ないでしょ。昔から総務なんていう名前の部署は雑用係なんですもの。」
リツコは相変わらず、というより、以前の自分を取り戻したように見えた。彼女が使う機材はEVAの関連を除いて、奇跡的に損傷を免れていた。EVAも指令があるまでは凍結ということになっていたので、目下のところ彼女の仕事はMAGIの運用と機能拡張にあった。
「でも、不思議ですね。つい一ヶ月前にあんな事があったなんて嘘みたいです。」
モニターに向かって右側の席に座るマヤがそう言った。かわいい柄の珈琲カップにはなみなみと注がれた濃い珈琲が波打っている。つい先ほどまでMAGIのメンテナンスをしていたのだが、ようやく一息ついたようだ。
「そうだねぇ。最近は仕事が身にしみてきて、思い出すこともなくなったもんなぁ。」
向かって真ん中の席、日向マコトはコンソール上で各種情報の操作をしていた。彼が扱う情報の多くは人事・経理にと、ミサトがやるべき仕事の大半であり、彼は彼女の直属の部下として、それらをこなしていた。
「いいじゃないか。こうして仕事があるうちが花かもしれないぜ。」
左側の席、シゲルはコンソールから目と手を離すこともなく、言った。彼が担当するのはその機能が大幅に縮小になってしまった迎撃システムのメンテナンスであった。第三新東京市は、これれからは対使徒迎撃要塞都市ではなく、自衛隊の基地として稼働する。その為の準備である。
「まあなんだな。こうやって思いの外平和にここを利用するとはな。皮肉なもんだが仲間がいるからこそ出来るんだろうな。」
冬月が彼らの会話を聞いてそんなこと言った。とりあえず使徒が攻めてくることはなくなっていたし、委員会が保有していたEVA量産機も今は壊滅してしまい、その委員会自体も解散に追い込まれている以上、この都市の仕組みは全て利用されることはないだろう、と彼は思っていた。
こうして生き残っている以上、それは当然の思いでもあった。
「ところで葛城君、時間の方は良いのかね?」
「あっ! じゃあこれで失礼します。」
ちらりと時計をみた冬月の問いにミサトは短く答えると、出かける準備をした。とはいえ上にジャケットを羽織るだけの簡単な支度ではあったが。
「ああ。」
冬月の言葉を最後まで聞くことなくミサトは駐車場に向かった。

——

市内に急造された総合病院。
先の戦闘や、慢性的な患者のために作られた病院は規模こそ小さいものの必要な設備は整っていた。ネルフ本部に設置されていた病院は戦闘時に大破してしまっていたが、その設備で使えるものだけはここに移された為である。そして目の前に大きな広場まで作られており、市民の、特にお年寄りの憩いの場にもなっている。
そんな中、一人の少女がロータリーで突っ立っていた。足を肩幅に開き、くびれた腰に両手を当て、じっと真正面を見つめていた。
「まったく。いつになったら時間をちゃんと守れる大人になるのかしら。」
第三新東京市市立第一中学の制服を着た彼女はロータリに向かって爆走してくる車をみて、そう呟いた。彼女は呟いたつもりだった。その声がお年寄りの耳に届いているとは、彼女自身は思っていなかった。
ただそんな声の大きさも気にならないようなけたたましいブレーキ音をならしながら、その車は正確にその少女の前に止まった。
「ごめんアスカ!仕事が長引いちゃってさ。」
「うそ。ミサトって、いつもてきとーにさぼっちゃうくせに。」
「だ、誰に聞いたのよ。」
「誰だっていいじゃない。いくわよ。」
「ちょっとアスカ。おいていかないでよぉ。」
惣流アスカ・ラングレーは遅れてきたミサトと一緒に病院の中に入っていった。
彼らの命の恩人はそこにいた。

「ねえシンジ。いつになったら起きてくれるの?」
二人はある病室にはいると、そのベットの側にあった椅子に腰掛けた。そのベットの上では点滴を受けながら眠り続けている碇シンジがいた。すでに一ヶ月が過ぎようとしている彼の入院の始まりは、あの戦闘のすぐあとのことであった。
体力的に言っても、満足に治療を受けられないまま北海道で過ごし、ようやく動けると言った状態で、あの戦闘の始めから終わりまで先頭を切って戦い、被害を最小限にしようと努力し続けていたのだ。その衰弱ぶりと来たら医者に匙を投げつけられてもおかしくなかったという。
精神面などはそれこそ本人すらも判らないところで疲労しづけていただろう。ここネルフの本部から死ぬつもりで出ていき、それもかなわずに北海道まで行ってしまった。そこである程度回復してはいたが、それもままならないままあの戦闘で多くの一が負傷し、戦死していく姿を見て、さらには自分の親までも殺してしまったのだ。このことを聞いた精神科の医者などは話の途中で卒倒しかけたという。
そのような状況でありながら生き続ける彼は、未だ目を覚まさない。
「ねえシンジ。見て。学校の制服だよ。明日からねぇ、また学校始まるんだって。ヒカリやあんたの悪友も明日から来るんだよ。早く一緒にいけるといいね。」
アスカは優しそうに声をかける。声をかけた主は眠っていたので、彼女は恥じらいだとか意地だとか、そういった感情は沸き上がってこないようだ。それに自分をいろんな意味で救ってくれた同い年の少年には、いくら感謝しても足りない。
そんな彼女を見てミサトはいったん病室を出た。外にはシンジの担当医が立っていた。ミサトは目的の人物がすぐ側にいたことを意外に思いながらも、丁寧に、そして冷静に聞いた。
「どうですか?シンジ君の容態は。」
「肉体的にはほぼ回復しています。前からも言っていますが、これすらも不思議なことですね。脳波も平常値まで戻ってきてます。あとは彼が目を覚ますのを待つだけです。」
「それはいつなんでしょう。」
「さぁ、彼が起きたいと思えば今すぐにでも起きるでしょうし。そればかりはなんとも。」
「そうですか。」
ミサトはがっくりと肩を落とした。シンジが入院すること自体は半ば慣れていた。使徒との戦いの後などは、いつもいつも病院に運びこまれていたのだ。それが今回は回復こそしてるものの、いまだに目を覚まさないのである。
「ところで、いつもは3人じゃなかったでしたっけ?今日は一人見あたりませんが。」
医者は気を利かせようとして話題を振った。いつもはここにいるミサト、病室の中にいるアスカと、もう一人がいたのであった。
「ああ。霧島さんね。あの子は自分の所に帰っちゃったの。」
そういうと、ミサトは先日マナが帰るときのことを思い出した。彼女は「シンジが起きるまで帰らない。」といつまでもだだをこねていた。北海道の彼女の所属する基地はこれから建て直しが必要なため、一人でも人材が惜しいと言うことで、司令官自らが出てきて説得に当たった。延々数時間に及ぶ説得の上、シンジが起きたら司令の手はずで一度北海道に来てもらうことにして、どうにかマナを連れ戻すことになった。
「それにしてもうらやましいですな、碇君は。女性の方3人にこれほどまで心配していただけるというのは。なんにせよ後は起きるのを待つだけです。辛抱強く待ってみてください。」
そういうと医者はつかつかと歩き出した。ミサトはその後ろ姿を見ると軽く会釈をして、再び病室に入っていった。そこで彼女が見たのは、シンジの手を握りしめながら眠りかかっているアスカの姿であった。ミサトは軽くため息をつくとその顔に笑みを浮かべて、そーっと病室を後にして、ロビーに向かった。ロビーまでの道のりはさほど遠くなかったが、病院という特性上、どうしても病んだ空気というのはつきまとうわけで、ミサトはそれを感じながら歩いていかざるおえなかった。
「何度来てもこの空気だけは慣れないわ。病院に勤務してる人って、よほど元気か、自分も病気じゃなきゃ勤まらないんじゃないかしら。」
そう呟きながら自販機の前にたどり着いた彼女は紙コップの珈琲を買い求めると、手近にあった長椅子にそっと座った。長椅子の反対側にはお年寄りが座っていたため、ネルフの施設の中のようにどかっと座ることが出来なかった。
「まったくなんでこんなに高くなっちゃったのかしらねぇ。こんな小さい珈琲だったら60円で飲めた時代だってあったのに。」
ミサトは財布の中から百円玉が無くなって、手元にまだ熱い珈琲があることを確認してそう呟いた。セカンドインパクト以前に採用された消費税は、今ではその倍以上にまで膨れ上がっていた。消費税というのはその流通経路までもが課税の対象となるので、実際消費者の手元に来るまでには相当の額が加算されていることが当たり前になる。そこに自称政治家が口を挟むと流通経路自体が4重5重になり、さらにその分、消費者の負担額が増す、というわけである。こういったことはすでに日常と化していたし、疲弊しきっている国民はその事にいちいち疑問を持つ事はなくなってしまっていた。その事がさらに負担を増大させる、等という想像力すら奪われてしまうまで、疲弊しきっていた。
幸いにもまだそこまでは疲れていないミサトは、その事はいったん頭の片隅にしまい、他のことを考えることにした。
「アスカも変わったわね。最初はシンジ君への憎しみで生きているのかと思うぐらい怖いものがあったけど。それがいつの間にかあんなになっちゃて。保護者としては嬉しい限りだけどねぇ・・・」
そういいながら程良く冷めた珈琲を一口すする。
「それにしても一体いつ起きるんでしょ、シンジ君は。起きて霧島さんの所にも挨拶いかなきゃいけないのよ。」
ミサトは以前自分の救った、そして今回シンジを救った少女のことを思い浮かべた。

——

「まったく。なんで私がこんな時にこんな所でこんな事しなきゃいけないのかしら。」
霧島マナは北海道の自分の所属する基地で、ロボットを操りながら鉄板を敷く作業をしていた。先の爆撃による基地の滑走路再建の作業である。従来通りのコンクリートだけの滑走路では戦闘機はともかく、ロボット隊が派手なことをするとすぐにだめになってしまうため、このような手間を強いられているのである。ここ北海道基地と九州基地には優先的に予算が割り当てられ、壊滅してしまった部隊の再構築がすでに始まっていた。珍しい国産のジェット戦闘機が多く配備される事になり、その滑走路を確保するのは何よりも優先される事項であった。この戦闘機配備に基地の司令官である東条はいささか疑惑をいだいたが、真っ先に配備してくれた政府に対して、とりあえず何も言うことは出来なかった。
『霧島君、気持ちは分かるが碇君が起きたら真っ先に来てもらうんだから、そうぼやかないでくれ。』
音声モニターが筒抜けになっていたマナの機に対して、司令は慰めにならないような言葉を書ける。彼女と同い年ぐらいの操縦者はそこそこいたが、彼女ほど使えるものがいなくて司令は困り果てたあげく、苦肉の策で彼女を連れ戻したのだった。マナが帰ってくる前は、壊れた滑走路の排除だけで戦闘機が数機買えるほどの費用をロボットの修理費に充ててしまったのだ。基地再建のためとはいえ、ただでさえ費用のかかるロボット隊の補修費をこれ以上増やすことは出来なかった。
「シンジぃ。早く起きて私に会いに来てよぉ。それともこの仕事をちゃっちゃと終わらして私の方から行こうかしら。」
ぶつぶつ言いながらも彼女は正確に鉄板を次から次へと敷き詰めていく。偽物とは言えEVAシステムを搭載した兵器をこのようなことに使う基地司令の考えといい、その事をなんの苦とも思わず単純作業を繰り返す彼女といい、まったくいい根性をしている。基地にいるほとんどの作業員はそう思っていた。
「それにしても碇君は良くやってくれた。今だ目を覚まさないというが、今はゆっくり休んでくれ。」
司令はそう呟きながらマナが鉄板を敷き詰める作業を見ていた。文句を言いながらもよく帰ってきて、単純ながらも重要な作業をしてくれる彼女に司令は感謝していた。

—–

そして未だ病室で眠り続けている少年、碇シンジはその手にぬくもりを感じ取ることもなく、遠い空の下で自分の名前が呼ばれていることも知らず、ただ夢の中にいた。ただ彼自身は自分が夢の中にいることを知らなかった。多くの人がそうであるように。
いつ終わるとも思えないほどの平らなだけの空間に彼は一人たたずんでいた。いや、一人浮かんでいた。何故だかはわからないが、プラグスーツでも私服でもない、彼の通う中学校の制服を着て。
彼のさらに上空では彼が倒した使徒、彼が倒した量産機が群をなしてどこか遠くを目指しているかのように飛んでいた。シンジはその事に気がつくと、一人の人物を捜し始めた。
渚カヲル。
シンジの親友であり、シンジを好きになった、シンジも好きになった人物であり、そして使徒であり、シンジがその手で握りつぶした敵であり、初めて人を殺めてしまう奈落を味わうきっかけになった人物である。
そしてシンジの願いは程なくして叶った。今彼が浮かんでいるのはどこかの白い雲の上のようなところで、その中からシンジの探す姿が現れた。彼もまた、シンジと同じ服を着ていた。
「シンジ君・・・」
「カヲル君・・・」
「君はこんな所で何をしているんだい?」
カヲルは少し困ったような、悲しいような、そんな顔をしてシンジの前に来た。
「僕?・・・わからない、気がついたらここにいたんだ・・・」
「そうか。」
カヲルにしては珍しく言葉に切れがない。シンジが冷静であればその事に気がついたかもしれない。
「シンジ君。ここは君が来るような所じゃない。」
カヲルはそういうとシンジと自分の上空を飛ぶ、同じアダムより生まれし者の群を眺めた。
「カヲル君・・・」
「君は確かに僕を倒した。それは君自身が生き続けたいと願ったから。そして僕はそれを受け入れた。そうしなければ君が死ななければならなかったから。このことはあのときにも言ったよね。」
「で、でも・・・」
何か反論しようとしたシンジの口を、カヲルはその繊細そうな指先でふさぐ。そしてその瞳に安堵のような表情を蓄えて再びシンジに向かって言った。
「シンジ君。その事は事実であり、もう変えようのない過去のことだ。僕も全然気にしていない。ただこれからシンジ君は未来を生きて行くんだろ?だったらこんな所からは早く行かないと。でないと僕はなぜシンジ君のために死んでいったのか判らないじゃないか。」
「僕のために・・・」
「そう君のために。」
「カヲル君・・・ごめん・・・」
「別に謝る事じゃない。だがもし君にそういう気持ちがあるなら生きてくれ。僕はいつでも君が生きている姿をここから見ることが出来るからね。」
その言葉を聞いてシンジはその頬を一筋濡らした。
「カヲル君・・・ありがとう。」
そういわれたカヲルは初めてシンジと逢った時のような、あのすがすがしい笑顔でシンジの方を見た。
「シンジ君。」
カヲルは再び彼自身が好きになった少年の名を呼んだ。
「なんだい?カヲル君。」
「一つだけお願いがあるんだ。この後もう一人君の良く知る人が来るだろう。その人と話をしてから戻って欲しい。」
「わかったよ。カヲル君。」
「じゃ、僕は行くよ。君に逢えて嬉しかった。」
「僕も・・・だよ。」
「じゃ、これで。」
カヲルは「さよなら」とは言わなかった。また遠いいつか、シンジと逢えるような、彼にしては楽天的な考えが頭をよぎったし、その言葉は彼の後に現れる少女のためにとっておいてあげたかった。そして彼は再び上空に向かって飛び立っていった。その様をシンジはいつまでも見守っていた。
涙を流しながら上を向いているシンジの前に、カヲルが予言したように、一人の少女が現れた。その少女もまた彼自身が通っていた中学校の制服に身を包んでいた。カヲルと同じような紅い瞳に抜けるようなシンジが見上げている空の色に似た髪。
「あ、綾波・・・」
「碇君。」
いつもながらの無表情な様子ではあったが、彼女はシンジを確認すると空に向かうのを一時止めた。
「碇君はなぜ此処に居るの?」
「多分、綾波やカヲル君を見送るため・・・じゃないかな。」
シンジはカヲルと同じ問いをしてきたレイに、先ほどとは違う、それでいて彼自身が自信を持って言える答えを言った。
「そう・・・」
「うん・・・」
二人の間に沈黙が流れる。音らしい音といえば上空で量産機が羽をゆっくりと羽ばたく音だけであった。
「碇君・・・ありがと。」
「えっ?」
「あなたに逢えて、私とっても良かった。」
レイは言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと話した。
「あなたに逢ったから、私は私でいられたと思う。人形じゃなくて済んだのだと思う。」
言葉が少ないほど、彼女の話すことは重みがある。
「うん。綾波は人形なんかじゃないよ。」
「うん・・・」
再び沈黙する二人。そこにはかつて死線を分かち合った者だけが持つ特有の心のつながりがあるようにも思えた。
「碇君・・・私のこと、好きだった?」
その意外な台詞を、意外な人物から聞いてシンジは一瞬うろたえた。だが、いつしか優しい少年の笑顔に戻ってこう言った。
「うん。」
そういわれた少女、レイは微笑んだ。いつかシンジに助け出されたとき見せた、あの笑顔がそこにあった。その事を彼女は知らなかったが、シンジはその時のことを鮮明に思い出すことが出来た。
「碇君、さよなら。」
そう言ってレイはシンジの頬に両手を当て、自分の顔を近づけた。
そしてそのままシンジの唇に自分の唇を軽く重ねた。
ほんの一瞬の出来事であった。
再び宙に浮かんでいくレイ。
それを見届けるシンジの目には涙が再び浮かんでいた。その涙の向こうではレイが微笑みながら泣いていた。
それはシンジが見た、最初で最後の、一番いい表情をしたレイの顔であった。
「綾波、カヲル君、さよなら。安らかに・・・」
シンジは涙を拭いながらその瞳を閉じた。
瞳を閉じたら、徐々に全身に重力を感じ始めた。
その手が温かいことを感じ始めた。
その耳に自分の名を呼ぶ声がするのを感じ始めた。

シンジの手を握りしめてうとうとしているアスカ。

二人で暮らした場所で、シンジの名を呼ぶマナ。

そして彼に助けられた多くの人々。

シンジは再び彼らの元に戻っていく。
二人の笑顔を見送り、また一つ哀しみと優しさをたずさえて。

World Not The End