第37話 穏やかな決着 -2

結婚の報告を聞かされたミサトは、二人の前で思わず頭を抱えてしまった。祝福したいという気持ちは、他の誰よりもあると思っている。それでも、今のネルフが置かれている状況を考えるにつけ、勘弁して欲しいと考えてしまうのだ。何しろ、ネルフ解体に向けて、政治向きの仕事がてんこ盛りになっているのである。そこに来て、チルドレン二人の結婚とも成れば、またまた山のような政治調整が必要となってしまうのである。
だが、そんなミサトの様子を見せられれば、アスカならずとも不安になってしまう。政治的な理由は予想してきたのだが、何かそれ以上に悪いことがあるのではと思えてしまうのだ。

「ミサトは、祝福してくれないの?」
「もちろん祝福するわよ、したいわよ。
でもねぇ、後のことを考えるとそうばっかりは言っていられないのよ。
出来ることなら、そう言う相談は後半年待ってもらいたかったわ」

ここしばらく、冬月どころか日向の顔も見ていないのだと。それぐらい、政治折衝に全員が借り出されているのである。ミサトは、そう言って左手で両方のこめかみをつかんだ。

「だいたい、あなた達の結婚自体は誰も反対なんかしないわよ。
でもよ、今だから言わせてもらえば、どうして慌てて結婚する必要があるのよ。
誰もあなた達を引き離そうともしていないし、同棲だってして居るんでしょう?」
「でも、ミサトさん。
同棲と結婚の意味が違うのは、よく分かっているでしょう?」

シンジに加持とのことを言われ、ミサトはうぐと答えに窮した。

「確かに、結婚したからと言って、僕たち二人の気持ちが変わる訳じゃありません。
でも、結婚すると言うことは、僕たちの意志を周りに示すことになると思うんです。
それに、形を整えて置いた方が便利なことがあると思います」
「便利なこと?」

それは何だと、ミサトは首を捻った。

「夫婦という関係は、いろいろと法律で保護してもらえると言うことですよ。
この先、僕たちを取り巻く世界で何が起こるのかは分かりません。
もしかしたら、一時的にも離ればなれに成ることもあるのかも知れません。
でも、そう言うときに、法的に僕たちが結婚していることは利用できると思っています。
夫が妻に、妻が夫に会いに行くのは、誰もが納得してくれる理由になるからです」
「そう言うことを考えていたのね……」
「ネルフが忙しいことは分かっています。
でも、逆に言うと、今だから出来ると言うこともあるんです。
そもそもネルフが解体されたら、僕たちは誰を頼れば良いんですか」

確かに一理ある。シンジの言葉に、ミサトは二人を取り巻く環境を考えた。ネルフは解体されても、エヴァは残るのである。そうなると、二人にはまだまだ利用価値があると考えられるだろう。そして彼らを支える基盤は、今よりも確実に弱体化する。

「あなた達は、自分たちの立場は分かっていると言いたいのね」
「そう言うこと。一人のわがままを通すためには、どちらかが我慢しなくちゃいけないこともね」
「僕たちは、相手だけに我慢させるというのは嫌なんです」

二人の言葉に、ミサトはうんと頷いた。

「気持ちは分かったわ。
でも、それと結婚のどこが結びつくのかしら?」
「僕はアスカを愛しています」
「私も、シンジのことを愛しているわ」

そう言って見つめ合う二人に、ミサトはやってられないとぱたぱたと扇いだ。

「ああ、わかったから、そう言うお熱いのはやめてくれない。
でも、二人が形に拘るのなんて、結構意外だわ」
「日本人は、形からはいるものだって言ったのはミサトさんですよ。
まあ、そのことは置いておくにしても、僕たちの間で何か印が欲しかったんです」
「しるし?」
「ええ、たとえ離れていても僕たちはいつも繋がっているって。
そして、逢いたくなったら、いつでも逢いに帰る場所があるんだって」
「これで、シンジはあたしのものだって堂々と主張できるでしょう?」
「アスカは、僕のものだからね」

だぁっと、ミサトは溜まっていた書類を放り投げた。放っておくと、すぐに二人の世界に入っていってしまうのだ。何か、真剣に相談に乗っている自分がばからしく感じられてしまう。

「とにかく!!
二人の希望は了解しました。
このことは、総司令には伝えておきます。
ただし、正式の決定があるまで、このことは関係者以外には秘密にしておくように。
いいですね!」
「関係者って……両親はだめなんですか?」
「家族ぐらいは大目に見るわ。
でも、それ以上は情報の漏洩が管理できないから許可できないわ」
「ヒカリもだめなの?」
「ムサシ達にも、教えないと不味いんだけど」
「チルドレンは、関係者だから問題ないのよね?」
「ダンチェッカーさんに相談しちゃだめですか?」
「そうそう、あたしの身の振り方もあるから、早いうちに相談しておかないと……」

勝手なことを言う二人に、思わずミサトはこめかみを揉みほぐした。

「取りあえず、伝えておきたい人をリストアップして。
期限付きで情報統制をすることにするから」
「すみません、ミサトさん……」
「悪いわね、ミサト」

口調はどうあれ、ミサトに感謝する気持ちは二人同じだった。結婚という、個人的問題だけでは収まらないことを、ミサトに押しつけていることも理解していた。だから二人は、特に他人に頭を下げないアスカも、揃ってミサトにお願いしますと頭を下げた。

「あ~あっ、そう言う他人行儀なことはやめてくれる。
仮にもあたしは二人の保護者だったのよ。
だったら、あたしが二人のために骨を折るのは当然のことでしょう?」
「ミサトにも仕事が出来るしね」

にやりと笑ったアスカに、どういう意味だとミサトは食ってかかった。

「だって、暇そうにコンピュータゲームしているって、もっぱらの評判よ」
「作戦立案のシミュレーションと言って。
せっせと技能の研鑽に励んでいるのよ」
「物は言いようってことね」
「あによ、あたしは事実を言っているのよ」
「はいはい、そう言うことにしておきましょう」
「しておかなくても、そうなの!!」

まったくと、ほおを膨らませたミサトに、シンジはごめんなさいと謝った。

「別に良いわよ。
余所でも言われていることだから。
それから、あなた達、特にシンジ君はご両親に許して貰わなくちゃいけないんでしょう。
だったら、いつまでもこんなところで油を売っていないで、早く説明してらっしゃい」
「はい、そうさせて貰います」
「邪魔したわね、ミサト!」

それではと、二人はもう一度ミサトに頭を下げた。

「だから、そう言う他人行儀なことは良いって言ったでしょう。
時間も遅いから、さっさと行った行った!」

そう言って、苦笑混じりにミサトは二人を追い出すように手をしっしと振った。

本当にありがとう。そう言って部屋を出て行った二人を見送った後、ミサトは肘掛け椅子にもたれ掛かると、机に置かれた写真立てを持ち上げた。そこには、彼女が結婚するときに撮った、加持と自分、そしてリツコの写真がはめ込んであった。

「加持君、リツコ……ようやくだよ。
ようやく二人がここまでたどり着いたよ。
良かった……本当に良かった……」

写真に語り掛けたミサトの瞳には、今にもこぼれそうな大粒の涙が浮かんでいた。

***

いくらサルになったからと言って、二人が重要な問題を放置したと言うことはない。もっとも、結婚と言う目標が出来たことが、その問題に向き合うきっかけになったことは明らかなのだが。
前夜が前夜だけに、やけに早起きをした二人は。ようやく役に立つ機会を得た寝間着を着て、早朝の食卓に着いた。もちろん家事は分担しているのだが、アスカの身支度に時間がかかるため、どうしても家事の多くはシンジが分担することになっていた。二人は、取りあえずの空腹を克服すると、主にアスカの抱えている問題を話し合うことにした。

「アスカは、学校が退屈なんだろう?」

シンジは、自分が気づいている問題をアスカにぶつけた。うんと頷いた後、アスカは自分の感じていることを話し出した。

「退屈ばかりじゃないわよ。
シンジのことを抜きにしても、ヒカリやカオル達と居るのは楽しいもの。
でも、どうして自分がこんなところにいるのかって思うことはあるわ。
友人と言うことを除けば、今の高校で学ぶことは何もないもの」
「授業がつまらないって言うのも、アスカの場合は意味が違うからね……」

仕方がないかと、シンジは頷いた。

「それで、アスカはどうしたいと思っているの?」
「あたしは……」

そこでアスカの視線は、答えを探すように宙を彷徨った。

「とりとめが無くても良いよ。
思っていること、したいことをそのまま言ってくれればいいんだ」

シンジの言葉に、アスカはうんと頷きとつとつと心の内を吐きだした。

「シンジと一緒にいられるのが嬉しい。
私にとって、一番大切なのはそのことだわ……」
「でも、それはアスカが何をしたいかと言うことにはなっていないよね」

そうだと、アスカはそのことを認めた。

「たぶんあたしは焦って居るんだと思う。
高校にいることは楽しいわ。
シンジが居るし、友達もいる……」
「でも、ゲイツさんのプロジェクトが気になっている」
「……否定しないわ。
シンジの治療の時、少しだけタイタンに触れてみたのだけど……
BIACを使ったコントロールは、とっても刺激的だった。
コンピューティングに、新しい可能性を感じたもの」
「アスカは、自分も関わりたいんだろう?
一緒に入っていって、役に立ちたいと思って居るんだろう?」
「そう言う気持ちが強いことも否定しないわ……」

でもと、アスカは言葉を続けた。

「私にとって、一番大切なことはシンジと一緒にいられることなのよ。
そして、私がタイタンに関わると言うことは、そのことを諦めることになるの。
私一人がアメリカに渡ることは、思っているほど難しいことじゃないわ。
エヴァは1機しか残っていないし、シンジはこうして復帰したわ。
だから、2番目の私の重要性はずっと低くなっているもの。
でも、シンジも一緒というのは、結婚することよりももっと難しいのよ」
「でも、アスカはアメリカに行きたいと思って居るんでしょう?」
「だから、焦って居るんだと思うって言ったの……
フィリップスさんが亡くなられて、MSIは大変なことになっているわ。
今なら、あたしが行けば役に立てる……
フィリップスさんにも恩が返せる……その気持ちが強いから、焦って居るんだと思う」
「でも、アスカが居れば役に立つことは事実なんだろう?
それに、一命を賭けてフィリップスさんがエヴァを止めてくれたことも確かだよ」
「でも、アメリカに行くことを選んだら。
あたしは、シンジと一緒にいられなくなる!
もう、一人は耐えられないのよ!!」

そう言ったアスカの瞳には、涙が浮かんでいた。アスカは顔を歪ませると、シンジと居たいのだと繰り返した。

「だから、後少し我慢すれば良いと思っていた。
MSIじゃなくて、ネルフの中に自分の居場所を作ることが出来ると思うから……」
「でも、ネルフに残ったからと言って、一緒にいられる保証は無いんだよ」
「それは……それは、考えないようにしていたわ。
だって、アメリカに行くことを選んだら、すぐにでもシンジと離れることになってしまうもの。
ネルフに残るのだったら、まだ結論が出るまでかなりの時間がかかるわ」
「アスカは、やりたいことがはっきりと見えて居るんだろう?」

シンジの問いに、アスカははっきりと頷いた。

「そして、僕がアスカを引き留めている」
「違う、シンジが引き留めている訳じゃない。
あたしがシンジと一緒にいたいだけだから……」
「僕もアスカと一緒にいたいよ」

シンジは立ち上がると、椅子を持ってアスカの横へと行った。そしてアスカに並んで腰を下ろすと、そっとアスカの肩を抱き寄せた。

「アスカは、もっとわがままを言って良いと思う。
パイロットなんて、ずっと続けていく仕事じゃないよ。
僕だって、近いうちに新しい道を探さなくちゃいけないと思うんだ。
アスカは、今その道を見つけたんだろう?
だったら、迷うことはないと思うんだ」
「でも、シンジと離れたくないの」
「だったら、離れなくてもすむ方法を考えれば良いんだ。
その方法を考えないうちに、夢を諦める必要はないと思う。
僕は、アスカに我慢をしないで貰いたいんだよ」
「シンジは、我慢していないの?」
「僕は……」

そう言ってアスカを抱きしめたシンジは、潤んだ瞳のアスカに喉が渇いてくるのを感じていた。

「まだまだこれからだと思う。
これから、僕は自分の道を探していくんだと思うんだ。
それを、アスカと一緒に探していけたら良いと思っている」
「あたしだって、シンジと一緒に探していきたいと思う……」

アスカはそう言うと、シンジを見上げてそっと瞳を閉じた。その意味を理解したシンジは、そのままアスカへと口づけをした。

***

ミサトに話をすることに比べたら、シンジの両親への説明は簡単な物だった。何しろ、同棲すると言って出て行った息子が、その相手を連れて相談したいと帰ってきたのだ。およそその理由は想像が付くという物だ。
それでも、まだ若すぎる二人の結婚話に、最初はユウイチとミドリは難色を示した。反対するつもりはないが、それにしても性急すぎると感じてしまうのは仕方がなかった。

「お父さんが言うとおり、まだ早すぎるのかも知れません……
でも、アスカと一緒にいたい。その気持ちは昨日今日のことではありません」
「今のまま、同棲を続けるのではいけないのかい?」
「僕たち二人が、ずっとこのまま日本にいられればそれでも良いと思います。
でも、僕やアスカは、この先どういうことになるのか分かりません。
だから、二人で助け合うためにも、一緒になりたいと思いました」

まっすぐに自分を見つめるシンジに、ユウイチはどうした物かと腕組みをした。二人の年齢を考えれば、結婚を焦るような年ではない。一生のことなのだから、もっとじっくりと考えればいい。たとえ、結論が同じであってもだ。
そんな常識的なことを考えながら、この二人に常識を当てはめるのも酷だとも同時に考えていた。確かに、シンジが言うとおり、二人の身柄は完全に自由になることはあり得ない。それに、二人が経てきた時間と経験を考えれば、常識を持ち出すことが非常識になりかねないのである。それが分かるからこそ、ユウイチも言葉に困るのである。
そんな夫の気持ちが分かったのだろう、ネルフの方は構わないのかとミドリが尋ねてきた。二人の立場のことを持ち出すのなら、まず一番先に解決しなければならないのがネルフの問題なのだ。ネルフのことを持ち出したミドリに、シンジはごめんなさいと謝った。そして、すでに話はしてあるのだと打ち明けた。

「ミサトさん……葛城さんにお話をしてあります。
本当は、お父さんお母さんに最初に相談すべきところだとは思ったんですが。
やっぱり、ネルフの反応が気になりましたから」

先に謝られてしまうと、それ以上何も言うことは出来ない。本当なら、自分たちよりネルフを優先したことに文句の一つも言いたかったのだが、二人とミサトの関係にそれも仕方がないとミドリは小さくため息を吐いた。

「それで、葛城さんはなんて仰ったの?」
「この忙しい時にって、文句を言われました。
同棲までして居るんだから、そんなに急ぐ必要もないだろうって。
でも、冬月総司令に話をしてくれると言ってくれました」
「今のところ、反対ってことはないのね」

そう言われて、シンジは反対とも賛成とも言われていないことに気が付いた。

「そう言えば、その辺りをはっきりとは聞いていなかった……」
「たぶん、だめだと言うことを前提にしていないからだと思います」

ミドリが不安に成るようなシンジの言葉を、すかさずアスカがフォローした。

「おばさま、いろいろと無理を言っているのは分かっています。
結婚を考えるには、まだ若すぎると仰るのも分かります。
私だって、以前はこんなに早く結婚しようと言う気持ちになるとは思っていませんでした」

アスカはそう言った後、違うと首を横に振った。

「いえ、別に結婚なんてしなくても良いと思っていました。
自分にはいろいろとやりたいことがあるし、子供も欲しいとは思っていませんでしたから。
結婚自体、自分のキャリアにプラスに成るとも思っていませんでした。
結婚なんて、結局は書類上の問題でしかないんだと。
でも、シンジに結婚しようと言われたとき……
どうしようもなく、嬉しいと感じている自分に気が付いてしまったんです」

アスカは、そう言って隣に座るシンジの顔を見た。

「私たちが出会ったのは14の時でした。
そのときから1年間は、本当にいろいろとあった1年間でした。
おばさまも、シンジを通してその時のことを想像できると思います。
本当に、良いことよりも悪いことの多すぎた1年だと思います。
そのときの私にとってのシンジは、今の気持ちとは大きく違っていました。
居れば苛立ち、居なくなればもっと苛々とする。
どうして知り合ってしまったのかと思う存在でした。
そしてその後の2年間は、シンジと離れて暮らしていました。
シンジが居ないことへの苛立ちは、次第に感じなくなりました。
恋人と呼ばれる人も出来ましたし、シンジの存在は次第に薄れていきました。
それでも、私の心のよりどころはシンジでした。
そのことを、使徒再来の時に思い知らされました……」

シンジを見つめるアスカの顔は、少し潤んだ瞳も相まって、とてもしっとりとした落ち着きを感じさせるものだった。その表情を見たミドリは、目の前の女性に対して年のことを持ち出すのは間違いだと知らされた。
アスカは、ミドリの方へ振り返ると、少し表情を固くした。

「私たちは、お互いを傷つけあってきました。
私がシンジに傷つけられたと感じているのと同様に、私もシンジを傷つけています。
シンジが私たちのところを出て行ったとき、私は彼を恨みました。
あのころの私は、シンジへのこだわり、恨み、その他諸々の思いだけが支えでした。
そして今は……いえ、今もですけど。
シンジの居ない世界は受け入れられません。
これは、決して甘えや比喩などではありません。
半年前の戦いで、私は使徒に精神攻撃を受けました。
私を夢の世界に閉じこめた使徒は、私が夢から覚めないように、
とてもとても幸せな夢を見せてくれました。
その世界では、私は恋人や優しい家族、優しい仲間……
今では、望んでも叶えられない普通の生活がありました。
使徒の意図は、私をその世界に閉じこめて、この世から消し去ることでした。
でも私は、その幸せな世界を選びませんでした。
だって、いくら幸せな世界でもそこにはシンジが居なかったのですから。
だから、どんなに幸せな気持ちになっても、何かが欠けているのを感じてしまいました」

そう言って、アスカは目をつぶると心臓のあたりに両手を当てた。

「今なら、何が欠けていたのかはっきりと分かります。
今私の胸を満たしている物。
私を愛してくれているシンジの心……
それが足りなかったのです」

どうしてここまで人を愛することが出来るのか。どうしてここまで美しくなれるのか。アスカの告白を聞いたミドリは、自分がどうしようもなく目の前の女性に嫉妬しているのを自覚してしまった。そして同時に、その愛を向けられる息子が、どうしようもなく誇らしかった。
ここまで聞かされれば、答えなど決まっている。横で惚けたようになっている夫を、ミドリは肘でつついた。妻につつかれたユウイチは、感じた気恥ずかしさを紛らわすように咳払いをすると、真剣な眼差しのミドリに頷いた。

「……二人の気持ちはよく分かった。
私は、人それぞれに決断を下す時期があると思っている。
いささか寂しい気持ちはするが、お前達二人にとって、今がその時なのだろうな……」

そこまで言うと、ユウイチは冷めてしまったお茶で喉をしめらせた。

「シンジ、アスカさん……私たち夫婦は、二人を祝福するよ。
お前達二人に、今更先輩としての言葉も必要ないだろうな」
「幸せにね……」

両親の祝福に、シンジとアスカは黙って二人に向かって頭を下げた。

「なぁんか、すごく悔しい!」

でもと、マナは幸せに輝いているアスカをじっと見た。

「でも、それ以上に嬉しいわ!!」

そう言ったマナに、アスカはありがとうと頭を下げた。そんなアスカに、マナは照れてやめてよと言った。

「お姉ちゃんになるんだから、妹に頭を下げなくても良いの。
でもさ、今のお姉ちゃんを見ていると嫉妬したくなるわね」
「シンジのこと、ごめんなさいね」

マナの抱いていたほのかな恋心ぐらいアスカも知っていた。だからこその言葉なのだが、それは勘違いだとマナは笑った。

「私が嫉妬したのは、お兄ちゃんによ。
なんて言ったらいいのかなぁ、今のお姉ちゃんがとっても綺麗なのよ。
そりゃあ、もともとお姉ちゃんは綺麗よ。
でも、そう言うのとは少し違うって、なんて言ったらいいのかなぁ。
女の私から見ても、お兄ちゃんが羨ましくなるくらいにね」
「でもね、今のあたしが有るのはシンジが居るからなのよ」
「そりゃあ、分かって居るんだけどね……」

そう嘆息すると、やっぱり悔しいとマナは吐きだした。

「こんな恋愛、ドラマでも無いよ。
こんな情熱的で、激しい恋愛なんて……」
「でも、良いことばかりじゃないのよ。
どっちかと言ったら、苦しいことの方が多かったわ。
出会わなければ、ううん、生まれてこなければ良いと思ったこともあったもの」」
「でも、今はそんなことはないんでしょう?」

そう尋ねたマナに、アスカははっきりと頷いて見せた。

「そうね、この時のために今までの苦労があったのなら……
それも、すべて許せる気がするわね」
「……のろけね」
「ええ、もちろん!」

アスカとマナは、顔を見合わせた後思わず吹き出してしまった。だがすぐにマナは、まじめな顔をした。

「今更お姉ちゃんに言うことじゃないと思うけど、
お兄ちゃんって、キング・オブ・ネガティブシンキングなの。
だから、びしびしお尻を叩いてあげてね」
「マナ、キング・オブはないだろう?」

あまりの言われように文句を言ったシンジだったが、いやいやとマナは首を横に振った。

「あたしは、震えながら寝ていたお兄ちゃんを知っているのよ。
それに、そんなに昔のことを持ち出さなくても、
ここに来たときのことも覚えているもの」
「あ、あれはね、そう言うことじゃないんだけど……」
「どういうことでも、あの時のお兄ちゃんが情けなかったのは確かなことなの。
まあ、お姉ちゃんに責任が有ることも分かっているから、
だからお姉ちゃんにお尻を叩いてってお願いして居るんじゃない!」

ぴしゃりと言い切ったマナに情けない顔をするシンジ、アスカは思わず吹き零していた。そしてアスカは、マナに向かって大丈夫だと言い切った。

「もう、あたし達はお互いを見失わないから。
あたし達が信じ合っている限り、どんなことが起こっても大丈夫よ」
「お姉ちゃんの保証なら大丈夫ね」
「僕の保証だとだめなの?」
「そのあたりは、過去の実績だと思ってね」

そう言ったマナは、ともかくと二人の手を取った。

「おめでとうございます。
不肖霧島マナは、二人の結婚を全力で応援します!!
お兄ちゃん、お姉ちゃん……いつまでもお幸せに!!」

そう祝福したマナに、二人は心からの笑みで答えた。その笑顔に照れたマナだったが、一つだけ大切なことがあると急に真顔になった。

「お隣さんへの報告は、しばらく待って。
いくら割り切っていると言っても、たぶんレイコにはつらいから……」
「でも、それは僕がしなくちゃいけないことだろう?」
「するなって言う訳じゃないの。
レイコにも、心の準備をさせてあげたいの。
だから、私が良いと言うまで、お兄ちゃんは我慢してちょうだい」

マナの言葉に、そう言うことならとシンジは納得することにした。

***

その日は、実家に泊まると言ったシンジ達だったが、見せつけるんじゃないと言うマナの一言で、二人は夕食だけで追い出されることになった。既に夜の帳はおり、空にはぼんやりとした星々が輝いていた。アスカのマンションは、シンジの実家から徒歩でおよそ20分の距離にある。しっかりと手を繋いだ二人は、ゆっくりとその道を歩いていた。時間は既に9時を回っていた。

「ねえシンジ、今何を考えているの?」

沈黙も心地よかったのだが、敢えてアスカはシンジにそう問いかけた。そんなアスカの問いかけに、シンジは立ち止まると頼りなく輝く星空を見上げた。

「今までの僕たちのこと、そしてこれからの僕たちのことかな……」
「今までの、これからの?」
「そうだよ」

そう答えて、シンジはアスカの方へ視線を向けた。そのシンジの視線に、どくんとアスカの鼓動が跳ね上がった。

「両親にアスカが自分のことを話しただろう。
そのことを思い出して、いろいろと考えたのさ」
「どんなこと?」
「アスカが言うほど、僕はたいした物だったのかなって」
「あたしの言うことが、信じられないって言うの?」

少し柳眉を持ち上げたアスカに、シンジは小さく苦笑を返した。

「アスカの中に居る僕と、僕が考える僕が同じとは限らないからね」
「シンジの中に居るあたしと、あたしの考えるあたしが違うように?」
「そう言うことだよ。
今更言うのは何だけど、自分自身情けない奴だと思っていたからね。
だから、アスカに構ってもらえるだけでもましだと思っていたんだ」
「それなら、あたしだって同じような物よ。
自分でも、欠点だらけの人間だと思っているわ。
だからシンジに、愛想を尽かされるんじゃないかといつも思ってた。
シンジが入院しているときだって、あたしは何の役にも立っていなかった。
よっぽどレイコがそばにいる方が、シンジのためになると思っていたわ。
だって、シンジったらあの子が側にいてもとっても自然だったじゃない」
「僕の言いたかったことは、そう言うことだよ」

そう言って、シンジはもう一度星空を見上げた。

「だからと言って勘違いして欲しくない。
どんなに嫌いでも、情けなくても、それが今の僕なんだ。
それが分かっているのなら、なおしていくことが出来ると思うんだよ」
「あたしの中に居るシンジに近づくために?」

アスカの答えに、シンジは少し違うと笑った。

「アスカの中に居る僕を、もっと格好良くするためにさ」
「ずいぶんと、志が低いのねぇ」
「それって、どういう意味?」

不満から唇をとがらせたシンジに、アスカはくすりと笑みを零した。

「あたしの中のシンジは、現在赤丸急上昇中なのよ」
「喜んで良いのか、悲しんで良いのか……」

今度は逆に、どういう意味かとアスカが聞き返した。

「だって、急上昇するってことは、もともとそんなに高くなかったという意味だろう?
そう思ったら、素直に喜ぶことができないなぁって」

シンジの答えに、アスカは少し目を細めた。

「ふ~ん、じゃあシンジの中のあたしはどうなの?
全然変わっていないの?」
「それは……」

そう言われて、シンジは気づいてしまった。何のことはない、自分の中のアスカも、どんどん大切な物になってきているのだ。だからシンジは、ごめんとアスカに謝った。

「アスカの言うとおりだ。
僕の中で、アスカはどんどん大きくなってきている」
「そう言うこと。
こういうことには、上限はないものなのよ!」

アスカはそう言うと、シンジの左手を抱え込んでシンジの方を見上げた。何を催促されているか、さすがにシンジにもそれくらいのことは分かるようになっていた。シンジは、そのまま体を寄せると、そっとアスカの唇を奪った。
いつ誰に見られるのか分からない公道と言うことも、今の二人は気にならなかった。感じるお互いの温もりだけが大切だと、キスを繰り返しながら二人は抱き合った。

「ねぇ……」

シンジの胸に抱きしめられたアスカは、どうしようもない心地よさを感じていた。

「そうだね……」

シンジもまた、抱きしめた幸せを逃がしたくないと切望していた。
だが、二人はもう一つだけ片付けなければならない問題が残っているのを知っていた。二人は、抱きしめていた手を離すと、体を離して暗い道を見た。それでも二人離れないようにと、その手はしっかりと繋がれていた。

「そろそろ決着をつけようか……」

そしてシンジは、その暗闇に向かって声を掛けた。

「居るんだろう、綾波、カヲル君」

シンジの声に答えるように、暗闇の中から二つの影が現れた。

続く