使徒の驚異が薄れ、エヴァンゲリオンの不要論が囁かれるようになっても、ネルフが不夜城であることは変わらなかった。ただその目的は、戦闘が行われているときとは大きく異なっていた。現時点で忙しいのは、高度な先端技術を保持している技術部と、その技術の不用意な拡散を阻止しなくてはならない監査部だけだったのである。しかしその技術部にしたところで、エヴァ絡みではむやみに予算を使うわけには行かず、焼けただれた10号機の修復を持って、エヴァに関しては最低限の定期保守のみに業務は制限された。今技術部の中で、もっともホットな課題は、エヴァが不要と判断されたときの大深度地下への保管方法と、シンクロ技術の理論的整理による他分野への応用技術の模索、そしてMAGIのさらなるバージョンアップである。また他研究者の刮目すべき成果に触れた赤木リツコの提言により、各先端分野の研究者同士のネットワークの構築作業も行われていた。
この国境を越えたネットワークづくりには、各国からの根強い反対が有った。なにしろ、特許ノウハウに類する技術は、その国にとっての重要な戦略アイテムとなっているからである。その考え方、そして権利は保護されるべきだとも言えるのだが、中には自分たちが価値を見いだしていなかった研究への高評価で、メンツを潰された役人の嫌がらせと言うつまらない物も有ったのである。そんな壁を一つずつ乗り越え、各国の利益を損なわず、かつ研究者間の連携で、新たな派生技術・複合技術を生み出す道筋を作るのは、技術者と言うより政治家向きの仕事であった。今やリツコの時間は、自身の研究より、そう言った国連の役人へのネゴや各国財界との地ならしに使われることが多くなっていた。もちろんリツコ一人ではこういった仕事は手に余る、そのためサポートとして選ばれたのが仕事の無くなった作戦部である。未だに警戒態勢は解かれていないのだが、それでも戦闘態勢に比べれば必要とされる人員は少ない。さすがに作戦部長が不在では意味がないので、葛城ミサトはその任に当てられなかったが、日向マコトや青葉シゲルと言った面々は、リツコの手足となって忙しく世界を飛び回ることとなった。当然、戦闘時においては必ずしも必要でない冬月司令は、いい加減嫌気がさすほど各国を調整の為に飛び回っていた。その結果、発令所に居るのは、戦自から出向してきた大和副司令代行と葛城ミサト作戦部長、並びに3交代で勤務するわずかな数のオペレータ達だけとなっていた。
そのトップ二人が平時は何をしているかというと、戦略立案訓練という立派な名目が着いているが、要はMAGIを使った大規模な戦争シミュレーション、つまりゲームである。戦自への復帰という道が有る大和はいいとして、元からネルフにいるミサトは、首筋に冷たい風を感じながら大和との時間つぶしを行っていた。
「う~~~ん、やっぱり撤退しかないか……」
ミサトの眼前には、大和率いる西軍の勢力データが示されていた。最初は互角の設定で始めたはずなのだが、今やミサトの配下は0に等しくなっていた。
「撤退というより、降伏を選択すべきだよ。
葛城君は、無駄なあがきをしすぎる」
「そうは言ってもですね、降伏って言葉の通用しないのだけを相手にしてきましたから。
っと、こっちはどうかな?」
そう言ってミサトは、虎の子だった残存部隊を山岳地帯へと移動させた。撤退と言う言葉を裏切り、まだまだ抵抗を続けるつもりのようだ。
「おしいな、初めの頃なら有効だったのかもしれんが、すでに君によって使い古された手だよ」
「そうですかぁ……ちょっち、ひねりが無かったかなぁ」
「まあ、こうも同じ事を繰り返していれば仕方がないだろう。
ほい、これで王手だ!!」
その作戦を読んでいた大和は、その一帯に設置してあった爆雷による攻撃を行った。ミサトは、地上兵力に対して強力な布陣を取ったのだが、逆に狭い地形が災いして退路を塞がれていた。
「あああっ……しょんなぁ……」
「これで私の60勝22敗だ。
ちなみに、現在私の15連勝中だな」
そう言うと大和は、画面に流れる戦略分析のデータを見ないで端末の電源を落とした。そしてその横でがっくりと肩を落としているミサトの肩を叩き、ラウンジでコーヒーでも飲もうと誘った。
「奢りですか……?」
「ああ、いいよ、今日は私が奢ろう」
大和は少し引きつった笑みを浮かべ、ミサトを連れて綱紀のゆるみがちな発令所を後にした。
対戦成績には大きな開きがあるが、大和はミサトの戦略立案に対してはかなり高い評価をしていた。ごく限定された条件下では、ミサトは大和すら考えもつかない作戦を立案し、かつそれを成功させるのだ。しかもミサトの能力は、極めて不利な条件下において顕著に発揮され、何度も土壇場での大逆転を達成していた。その卓越した発想を大和は買っていたのである。もちろん対等、もしくは有利な条件下では大ぽかをするところは、減点材料となっていた。まあ、はさみは使い方を間違えなければいいのである。
「葛城君は、この後どうするつもりかね?」
薄日の差すジオフロントの景色を眺めながら、大和はそうミサトに尋ねた。ネルフを解体し、研究機関だけの組織にするという構想は、日を増すごとに現実味を帯びてきている。これまで使徒迎撃にあたっていた作戦部にとっては、これからの身の振り方に無関心ではいられなかった。
「副司令代行は、戦自に復帰されるのですか?」
「そういうことになる。
もともと、ネルフと戦自の橋渡しのために来たようなものだからな。
戦う必要が無くなったと成れば、古巣に戻るしか有るまい」
「私はどうしようかなぁ……」
ミサトはそう言うと、頭の後ろに手を組んで天井を見つめた。
「加持君だったかな、彼はネルフに残ることになる。
だが、君の居場所はここには残っていない」
「そうなんですよね……
かと言って、今さら堅気の仕事には戻れそうも無いですし」
「なら私についてくるかね?
統合作戦本部付きと言う事になるが?」
大和の提案は、ある程度予想されていたことだった。ここのところ行っていたゲームの形を借りたシミュレーションが、ミサトの実力を測るためだというのは薄々気づいていたのだ。
「戦自ですか……」
「気に入らないかね?」
「いえ、大和副司令代行の人柄は存じております。
ですから、大和副司令代行のお話なら大丈夫だとは思うんですが……」
「なら、何が気に入らないんだね?」
「どうしても前のことが頭に残っているんです……」
ミサトの言う前とは、サードインパクト直前の出来事である。そのときの戦自の行為は、彼女の中でいまだに割り切ることはできないことだった。
「なるほど、確かに感情の問題は難しいな」
「はい、頭を切り替えなくてはいけないことは分かっているのですが……
もう少しだけ考えさせていただけないでしょうか?」
「ああ構わんよ。
ネルフ解体といっても、まだ決まったことじゃない。
私の復帰の日程もまだ決まっていないしな。
だが、私としては君を評価していることを忘れないでくれ」
「恐縮です……」
ミサトはそう言って大和に頭を下げた。
「別に恐縮に思うことではないよ。
それより、明日だったな……シンジ君の退院は。
君はどうするのかね?」
「顔だけは出そうと思っています」
「そうするといい。
役には立たんかも知れんが、一応私が詰めておこう。
ゆっくりとしてくればいい」
「ええ、でもあまり長居をすると“おじゃま”になるでしょうから」
「あまり気にすることも有るまい。
どうせミドリさんがつきっきりに成るだろう。
それに夜はささやかなパーティーを開くと聞いている。
君が居た方が、シンジ君もアスカ君も嬉しかろう」
「アスカ…がですか?」
大和から出た意外な名前に、ミサトは驚いた。
「失礼ですが、副司令代行がアスカのことを気に掛けているとは思っていませんでした」
「んんっ、娘のことかね?
確かに娘をシンジ君の所に嫁に出したいとは思っているよ。
だがそれは当人達の問題だよ。
私の希望は希望、シンジ君の希望とは関係の無いことだ。
それに親としての私とは別に、シンジ君やアスカ君の悲しい顔を見たくないという私も居るんだ」
「そうですか……」
それでも納得がいかないと言う風情のミサトに、大和は苦笑を浮かべた。
「娘から聞いた話だが、アスカ君も悩んでいるらしい。
今、うちの家族と霧島の家族だけのパーティでは、彼女も気が休まるまい」
「アスカが悩んでいるんですか……」
「ああ、その理由はおおよそ察しがつくがね」
「副司令代行がですか?」
「ああ、想像だがね」
「お聞かせ願えますか?」
いいだろうと大和は答えた。そしてウエイターにコーヒーを二つ頼むと、席をコーナーにあるボックスへと移した。
「あくまで私の想像だが、彼女はシンジ君への気持ちに疑問を感じている」
「アスカがですか?まさか!」
「そのまさかだよ。
それは気の迷いとも言えるものだろう。
だが、シンジ君のことだけを考えていられない自分にジレンマを感じている」
「そんな、それが普通です」
「ああ、一人だけのことを思って、視野狭窄に成っている方がおかしい。
だが、シンジ君の手伝いをするレイコを見て、勘違いをしているのは確かだ。
自分はあそこまで献身的になれないとな」
「そんなことは比較することじゃ有りません!」
「その通りだ。
それは比較するようなことじゃない。
だがレイコの観察では、彼女はそれを引け目に感じているそうだ。
何かにつけて自分と比較するとレイコが心配していたよ」
「アスカが……そうですか?」
ミサトは、そう言って俯いた。
「彼女は自分で溜め込む癖があるようだね」
「……そう、そうですね……」
「それから、彼女はこれからのことも悩んでいるようだ」
「ゲイツ氏の誘いのことですね?」
大和はうんと頷いた。
「エヴァに乗ることが無ければ、彼女にとっては刺激の少ない毎日だろう。
シンジ君が居ればこそ耐えられるのだろうが、それでも欲求不満が溜まっている」
「確かに、今の環境はアスカのためとは言いがたいのは分かっています」
「ダンチェッカー氏が彼女のことを評価していたからな。
今、アメリカに渡れば彼女の才能を伸ばすことにもなる。
そのことを彼女も薄々気づいているのだろう。
ここにとどまることに対して、漠然とした不安を感じているという所だろう」
「しかしネルフでもアスカの才能は生かせます」
「もちろん、研究機関と成れば有能な人材が必要となる。
そのためには、彼女のような人材は貴重だろう。
しかし、MSIは彼女に魅力溢れる世界を見せてしまった。
その誘惑には抗し難いだろう」
「それでアスカが悩んでいるんですか……」
「あくまで私の想像だよ。
大きく外れては居ないと思うがね」
黙ってしまったミサトを前に、大和はそう言ってコーヒーで口を湿らせた。
シンジの退院が翌日に控えた今、アスカの憂鬱は最高潮に達したと言っていいだろう。もともとその美貌のため、声を掛けるのには勇気が必要だったのだが、今では全身から放たれる鬱屈とした雰囲気のため、更に周りから人を遠ざけることになっていた。
それでも例外というものは存在するようで、アスカの放つ鬱屈とした空気を物ともせずに、それ以上の気軽さで声を掛ける存在が一人だけ居た。彼女は、退屈な授業が終わってそそくさと出て行こうとするアスカを見つけると、自分も慌ててカバンを持ってその後を追いかけた。
「アァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっスカッ、待ってよう!!」
カオルは足早に去っていこうとするアスカをそう呼び止めた。人と話をしたい気分でないアスカも、これでは何か気が抜けたようになってしまう。アスカは足を止めると、半分呆れた顔で大声で自分を呼び止めた友人が追いついてくるのを待った。
「いっやぁ、さっすがはスタイルのいいアスカさん!!
歩幅が違う違うぅ!!」
ぬんと大股開きをして言うカオルに、アスカは苦笑を浮かべていた。
「ところでアスカ……聞きたいことが有るんだけど?」
「なによ?」
馬鹿なことをやっていたかと思うと、急にまじめな顔をする。その代わり身の速さには、感心しないわけにはいかない。アスカは、急に小声になったカオルの言葉に耳を傾けた。
「アスカ……もしかしてあの日?」
「なっ、違うわよ!!何でそんな話になるの!!」
内緒話をぶち壊すようなアスカの大声に、カオルは思わず顔をしかめていた。かなり耳に響いたようだ。
「だぁってぇ、アスカッたら一日中難しい顔をしているんだもの。
重いって聞いたから、そのせいかなぁって思ったわけよ」
「べつに、あたしが難しい顔をしててもいいでしょう」
「だめよっ。
あたしのアスカちゃんにはそんな顔は似合わないわ」
「だぁれがあんたの物だって?」
「あの日、体育倉庫で愛を確かめ合ったのは嘘だったの?」
よよとわざとらしくシナを作るカオルに、アスカは冷たい眼差しを向けた。
「勝手に言ってなさいよ」
「あれぇ、アスカったらノリが悪いわね。
そんなことじゃあ、関東のお笑い会を制覇できないわよ」
「誰がそんなものを制覇するって言った!!」
「そうそう、ちゃんと突っ込んでくれなくちゃ。
ボケには突っ込み、お笑いの基本なのよ」
「そんな基本なんてどうでもいいわよ」
本気で怒りかけているアスカに、カオルは分かっていないとばかりちっちと人差し指を振って見せた。
「だめね、宴会といえばかくし芸!
明日は大宴会なんでしょう?
今から準備を重ねておかなくちゃ」
「なんで、あたしがお笑いを披露しなくちゃいけないのよ!!
それに、明日のパーティーにはカオルは関係ないでしょ」
「えええっ、親友のよしみで呼んでくれるんじゃないのぉ。
せっかくシンジ様を誑かすチャンスだと思ったのにぃ」
「あんたねぇ……あたしを前にしてよくそんなことが言えるわねぇ」
「あら、アスカの前だから言えるんじゃない。
レイコちゃんだっけ?あの子の前で言ったら命が無いもの」
「ほほう、あたしならいいと言いたいわけね?」
指をぽきぽきと鳴らしながら、アスカはカオル向かって凄んでみた。
「だぁあって、アスカはシンジ様と別れるんでしょ?
だったら問題無いじゃない」
だがカオルは、アスカの脅しに負ける事無くニヤリと笑ってそう言い返した。その言葉に、意外なほどアスカは慌てていた。
「なっ、何であたしがシンジと別れなくちゃいけないのよ!!」
「だってアスカ、あなたは別れる理由を捜しているじゃない?」
「そ、……そんなことが有るわけ無いじゃない」
「アスカはそう思いたいだけよ。
でも、本当は愛することが重荷になっている」
「……カオル……」
似合わないまじめな顔をしたカオルに、アスカはピンと来るものが有った。
「それって昨日のドラマのセリフでしょう?」
「あはっ、やっぱりばれた??
いやぁ、なかなか様になっていたでしょう?
『おまえは逃げ出すための口実を探しているんだよ』
シンヤ様がリエに言うセリフなのよねぇ。
で、『おまえは俺が好きなんだよ』って……
アスカ、私に惚れないでね!」
「なぁんで私があんたに惚れなくちゃいけないのよ」
「それもそうねぇ。
やっぱり私はノーマルだしぃ。
いくらアスカが綺麗でも遠慮するわ」
「はんっ、あんたがノーマルだったら、異常者が世界に居なくなるわ」
「つまり私は多数派ってことでしょう?
それって、私が正常って証明じゃない」
「どこをどう解釈すればそういう風になるのよ……」
「へんっ、これでも期末は現国32点だったんだぞ!!」
「あの試験って、平均48点じゃなかった?」
「だから?」
「だからって…あんたが現国の点を持ち出したんでしょうが」
「そうだけど?」
「そうだけどって……はあぁっ、もういいわよ」
「勝ったっ!!」
「勝ったじゃない!!」
「危ないなぁ」
ぶんと振られたアスカの手を避けるように、カオルはその場を飛びのいた。
「危なくしてるんだから!!」
「そんな角はやさないでよぉ」
「これは髪飾りなのよ!」
アスカは怒鳴ってはいるが、内心話題がシンジからそれたことでホッとしていた。愛することが重荷になっていると言う言葉が胸に突き刺さっていた。
だが、そんなアスカの思いとは関係なく、カオルは次の獲物を見つけ大声をあげていた。
「おーい、サルバパンツ君!!」
「誰がサルバパンツだ!!」
「んじゃあパンパース君!!」
「だから何でそんな名前で俺を呼ぶっ!!」
「だぁってねぇ」
下駄箱で靴を履き替えていた綾波レイは、あまりの言われ様に思いっきり顔を顰めた。
「いまどき、そんなことを持ち出すのはお前だけだぞ!」
「みんな、気を使って触れないようにしているのよ」
「だったらお前も気を使えよ」
「えぇ~っ、使ってるよう?」
「その大声のどこが気を使っていると言うんだ!
しっ、しかも惣流さんの前で……」
「何でアスカの前だといけないのぉ」
赤くなっているレイをからかうようにカオルは畳み掛けた。
「こ、このやろう…いけしゃあしゃあと」
「ねえ、何で何で!?カオル馬鹿だからわかんなぁい」
「あっ、あのなぁ……ちょっと顔を貸せ!!
お前とはじっくり話し合う必要がある」
「うふっ、二人の将来のこと?
でもダメよ!私にはシンジ様って人が居るんだから」
「そんなんじゃない!!
とにかく来い!!!!!」
「ああん、強引なのは好きよぉ」
靴を履くのもそこそこに、レイはカオルの首根っこを捕まえると表に連れ出した。アスカは苦笑いを浮かべながら二人を見送ると、ため息を一つ吐いて、その向こうで待っている少女に向かってぎこちない笑みを向けた。
その頃、すでにシンジの母ミドリは、シンジの病室へとやってきていた。表向きの用向きは、退院を明日に控えた息子の荷物の整理。だがミドリは、シンジの病室に入ると椅子に座り込んでじっと息子の顔を見つめていた。
「かあさん……どうしたんだい?」
「ん、ちょっと息子の成長した姿を確認したかっただけよ」
「どう、ちゃんと成長していた?」
そうね、とミドリは自分で煎れたお茶に手を伸ばした。
「おとうさんの次ぐらいにいい男になったかな?」
「何だよ、それ」
「あら、最高の誉め言葉よ。
だって、愛するおとうさんの次にいい男だって言ってあげてるんだもの」
「ちぇっ、のろけか」
やってられないと、シンジもお茶に手を伸ばした。
「で、本当の所、何をしに来たんだよ」
「あら、母親が入院している息子に会いに来るのに理由が要るの?
やっぱり彼女が出来ると、母親って邪魔になるのね」
わざとらしく、よよとよろめくミドリに、シンジは醒めた視線で応酬した。
「はいはい、それで僕に何を言いたくて来たのかな?」
「もう…、もうちょっと遊んでくれたっていいじゃない。
こうしていられる時間もあんまり無いんでしょう?」
「はぁ?退院したら毎日のことじゃないか」
マナと二人でからかうんでしょ?とシンジは目で語った。だがミドリは、そんなシンジに取り合わず、大真面目な顔をしてアスカのことを聞いてきた。
「シンジ、あなたアスカちゃんのことは好き?」
「何だよ、いきなり」
自分をからかっていたところにこれである。シンジはまた何かが有るのかと、自分の母親に警戒した。
「あなたの気持ちを聞いているの。
あなたはアスカちゃんのことをどう思っているの?」
「そ、そりゃあ、その、好きっていうか、愛していると言うか……」
「世界で一番?」
「世界で一番」
「シンジにとって、一番いい女はアスカちゃん?」
「……もちろんそうだけど……」
初めは腰の引けていたシンジだったが、ミドリの瞳に浮かんだ真剣な色に、居住まいを正してシンジもミドリを見つめ返した。
「レイコちゃんは?」
「大切な子だよ。
でもマナもそうだけどアスカとは比べられない」
「あら、先に答えられちゃったわね。
わが愛娘も玉砕か……」
「何のことだよ……」
ころころと話が飛ぶ展開に、正直シンジはミドリの真意を測りかねていた。だが一方のミドリは、のほほんとお茶をすすっているだけだった。
「ん、ひまな主婦の楽しみだと思って。
邪魔したわね、帰ってダーリンの夕食でも用意するわ」
「ダーリンって、それより退院の片づけをしに来たんじゃないの?
どうすんだよ、準備は!!」
「後から、アスカちゃんが来るでしょう。
二人で仲良く片しなさい」
「そ、そんな無責任なぁ」
「もう普通に動けるんだから甘えないの!
明日はちゃんと迎えに来るから。
お母さんのおっぱいはそれまで我慢しなさい」
まったくもう、と言うシンジの不平を気にすることなく、おほほという笑い声を残してミドリは病室を去っていった。一人呆然とたたずむシンジの元に残されたのは、まだ湯気を立てている二つの湯飲みと、お茶の葉も捨てていない急須だけだった。
「まったくなんだって言うんだよ」
シンジはそうぶつぶつと呟きながら、ミドリが残していった洗物を籠へと放り込んだ。こうしておけば、後からやってきた“レイコ”が洗ってくれることになっていた。
平和が訪れたと言っても、それは使徒に関してと言う但し書き付である。その証拠に、ゲイツは自分の端末に届いたメールの山と格闘していた。彼の政治力によって、エヴァの隠蔽自身は彼の事業に影は落とさなかったのだが、砦を失った事の純経済的な損失は馬鹿にならなかったのである。しかも完成の域にあと一歩だったBIACの技術の大半が、何千万トンと言う岩盤の下に埋もれてしまったのだ。タイタンPJの進捗遅れとあわせて、ボディーブローのように彼の業績に影響を及ぼしていた。
「ようジョン、相変わらず死にそうな顔をしているな」
そう言ってCEO室に入ってきたのは、すっかりMSIに馴染んでしまったダンチェッカーだった。MSIの業績に興味のない彼にしてみれば、友人のさえない表情はからかいの対象でしかなかった。
「うちの株が10%値を下げたんだ。
このまま行けば、訴訟沙汰になる」
「そんなもんは、BIACを発表すればおつりが来る事だろう。
そんなにしけた顔をするほどでも有るまい?」
「中国、砦と成果を潰してしまったんだ。
だがそんな事はまだいい、フィリップスを失った事が大きいんだ」
なるほどと、ダンチェッカーはゲイツの説明に納得した。優秀な推進者の一人を失ってしまったのだ。プロジェクト全体に陰を落とすのも仕方がないと言えるだろう。
「ふむ、それは大変と言ってやろう。
だが、そんな事でいつまでも足踏みをしているようなお前では有るまい?
ちゃんとこれからのことは考えているのだろう?」
「それはそうだが、些か迷っているところだ」
ほう、とダンチェッカーは、ゲイツの迷っていると言う言葉に驚いて見せた。これまで的確な判断を、迅速に下してきた男なのだ。なにを一体迷っているのかと言う事に興味があった。
「ジョン、なにを迷っているんだ?」
「アスカの事だ……」
それを聞いて、ダンチェッカーは彼の悩みに納得がいった。ビジネスと友情の間で板ばさみになっているのだと。
「確かにそれは悩ましい問題だな。
だがジョンとシンジでは、勝負にならないのじゃないか?」
「何のことだ、クリス?」
「独身主義を返上するのは構わないが、相手は選べと言う事だ」
明らかにからかわれているのだが、今ひとつ面白くないとゲイツは嘆息した。
「頼むから、からかうんならもう少し現実的なことで頼む。
今更十代の少女に手を出すつもりはないよ。
ところでクリス、ケイコは元気にしているか?」
「はて、どうしてそんな事を俺に聞く?」
「いやなに、日本へずいぶんと出張しているなと思っただけだ」
食えない奴だと、ダンチェッカーはそうゲイツを批評した。足元を見られないように、MSIに関係のない旅行社を使っているのに、全部筒抜けになっているのだ。もちろん、そんな事で動揺するほど、ダンチェッカーは子供ではない。
「まあ二人の事が気になるからな。
そろそろシンジも退院するそうだ」
「なら、そろそろ一悶着あると言う事か」
「あの二人も辛いだろうに……」
ダンチェッカーには、夢、希望、しがらみ、想い、そんなものが二人を縛っているのが見えるような気がした。そのため、二人が身動きできない状態に陥っていると。
「妥協を覚えるには、まだ二人は若いんだよ」
それはいいことなんだとゲイツは口にした。それが若さの特権なんだからと。
「だが、それが二人を苦しめる事になるんだぞ?」
「クリスも分かっているだろう?
今は二人が悩まなければならないときだと。
今二人が抱えている問題を先送りにしたのでは、
すぐに破綻するのが目に見えているだろう?」
「確かにそうだな。
いつかは越えなくてはならない難問なら、早いうちに超えておくに越した事はないからな」
二人の想いが確かな今が最適だろうとダンチェッカーは思っていた。だがダンチェッカーは、その思いの事でアスカが悩んでいる事を知らなかった。
続く