ネルフ本部で最初の起動試験をしてから1ヶ月。その間にネルフを取り巻く世界は大きな動きを見せていた。それは最初にリツコが危惧したとおり、ネルフ内の権力闘争の形で表に現れた。陰に陽に、ドイツ支部長ハインツ・オッペンハイマーは多数派工作を繰り返してきたのである。そのための決め手はエヴァンゲリオン9号機。本部のそれを凌駕する戦闘力は、彼の持ち札として多いに役に立った。
ネルフ司令である冬月がその動きに気づいたときには、すでに内堀も外堀も埋められた後だった。
起動試験のデータが散乱する赤木リツコの部屋を、葛城ミサトは訪れていた。目的は、二人のパイロットの成績確認。それが、本部としての最後の砦なのである。
「どうリツコ、うまくいってる?」
だが、その状況が芳しくないことなど、今更聞かなくても分かっていることだった。だが、それでも聞かずにいられないと言うのが、ミサトだけでなく、本部全員に共通する思いでもあった。だが、そんなミサトに向かって、彼女の親友である赤木リツコは、疲労の色を隠しもしないで力無く首を横に振った。
「全然駄目。
どこをどういじってもアスカに太刀打ちできないわね。
これ以上実験を続けるのはパイロットに酷だわ」
事実、ここのところ鈴原、相田の両パイロットによる起動試験は、毎日のように続けられていた。もちろんその目的は、ドイツ支部とのシンクロ率の差を埋めるためである。少なくとも、敵のアドバンテージを消しておく必要があったのだ。しかし連日の努力にも関わらず、その差は縮まることはなかった。
「冬月司令はもうスイスへ出発したわよ」
「わかってるわミサト。もう手遅れだってことぐらい」
リツコは実験データの入ったファイルを放り投げると、コーヒーサーバーへ行き2杯のコーヒーを入れた。
「やっぱり意地をはらずに、シンジ君に来てもらうべきだったかしら」
ミサトの言葉に、リツコはため息を返した。
「あなた、なんて言ってシンジ君に来てもらうつもりなの。
ネルフ内部の権力抗争なんて協力してもらえると思うの」
あまりに正論な親友の言葉に、それはそうだけどとミサトは言い返した。
「そうよね~さすがにそんな理由じゃ呼び出せないわよね~
しっかし、迂闊だったわね。まさかドイツ支部長があんな裏工作をしてくるなんて」
そう言ったミサトの顔には、はっきりとしたあきらめの色が浮かんでいた。
「そうね、それで加持君はなんて言ってるの」
「四分六で不利だって」
これでもずいぶんと控えめな数字なのだとミサトはぼやいた。実際には、99%負けることは分かっていたのだ。
「いったい諜報部は何をしていたのよ」
理不尽な怒りとは分かっていても、ミサトはその矛先を諜報部の無精ひげに向けるしかなかった。別にネルフの転覆を謀っているわけでも無ければ、技術の漏洩でもない。保安諜報部が動く理由はどこにも無いことはわかっていてもだ。
「しょうがないでしょ、保安諜報部は外向きの組織なんだから。
ネルフ内部、しかも権力争いまでは関与できないわよ。
それにドイツ支部ぐるみだからね」
「案外あの支部長タヌキだったというわけね」
「そうね」
ミサトはカップのコーヒーを飲み干し顔を歪めた。やけにコーヒーが苦く感じられてしまったのだ。
「こんなことなら、なんとしてもアスカを引き留めておけば良かった」
これもまた何度も繰り返された愚痴である。そんなことが出来ないことなど、初めから分かっていたことだった。
「仕方ないわよ、アスカの国籍はアメリカだし、ご両親はドイツにいるのよ。
正式な申し入れに対して日本に引き留めておける理由はないわ。
それにアスカ自身が同意している以上、理由もなく引き止めたらそれこそ国際問題になるわよ」
これもまた何度も繰り返されてきた答えをリツコは返した。
「参ったなぁ、次期司令はあのタヌキがなるのぉ。
アタシあの男嫌いなのよね」
心底いやそうな顔をするところを見ると、ハインツは相当嫌われているようだ。そんなミサトに、問題は好き嫌いじゃないだろうとリツコはつっこんだ。
「好き嫌いだけなら碇司令だって嫌いだったでしょ。
問題はそんなとこじゃないわよミサト」
そのいやそうな顔を見る限り、リツコも個人的にハインツを嫌っているようだった。
「わかってるわよ、あの男の胡散臭さぐらい。
どうせネルフ司令の座も次へのステップなんでしょ」
二人はヤニついたドイツ支部長の顔を思い浮かべて、さらにげっそりとした顔となった。
「そう、そのためあの男が打ち出した政策がエヴァンゲリオンの各国配備」
「あきれたわね。そんな金があったらやらなきゃいけないことなんて山ほどあるのに」
「単なる工作のための方便よ。
力のリバランスなんて考えてないわよ。
でもドイツ支部のデモを見たでしょ。
あれを見せられたらどこでも欲しくなるでしょうね。
全く売り込みのうまさだけは見習わないとね」
ドイツ支部の行った模擬戦では、アスカの乗った9号機はN2爆雷を含む攻撃をしのぎ。そして尋常ならざるな破壊力を見せつけていた。もちろん、エヴァの破壊力など今更言わずもがなのことである。だが、ドイツという大国と結びついた破壊の力は、各国を震撼させるのに十分な意味を持っていた。
「で、自分を支持したところには優先的に配備すると餌をまいたわけね」
「そう、そして言うことを聞かない相手へは恫喝……
確かにアスカの乗った9号機を止めることはできないけどね。
その裏付けにアスカのデータの公開と一緒にうちのデータも出てたわよ。
ついてたコメントが笑わせるけど」
「『この違いは両国の技術差』から始まる迷文?」
「技術差だけで言ったら、エヴァの運用に関するノウハウで本部に並ぶことは出来ないわよ。
ただシンクロ率だけはチルドレンの資質の差なのよね。
つまるところは。やっぱりアスカは天才だったと言うことね」
その時点で、アスカのシンクロ率は50を超えていた。弐号機でマークした値に比べれば大したことはないとは言え、現状では驚異的な高さであった。話がアスカに移ったところで、ミサトは身を乗り出すとそちらにも問題があるのだと切り出した。
「そう、そのアスカのことだけどボーイフレンドができたって話覚えているわね」
「ええ、タヌキの息子でしょ。
私も一度会ったことがあるけど、なかなかの好青年みたいね。
それに研究員としても有望のようよ」
リツコの答えに、ミサトはさも困ったことのように眉をひそめた。
「確かにそう言う顔も有るわね」
「何よ、彼に何か問題があるの……」
「加持に頼んでちょっとね……
まあ、杞憂に終わったんならそれで良かったんだけど……」
ミサトの表情に、何かあったのだなとリツコは先を促した。
「お見事な女性関係が続々……」
「まあ、あの容姿、家柄なら仕方ないんじゃないの。
まさかミサトは、そう言った倫理に厳しいとでも言うの」
「ここにファイルがあるから見てみる?」
揶揄されたことを気にすることも無く、ミサトはリツコに一枚のMOを渡した。そのファイルを開いたリツコは、その中に過去フランツと関係の有った女性のプロフィールを見た。
「あらあら、確かにお盛んだわね。でもこれがどうしたの」
それにしても驚くことではない。交際範囲が手広いこと自体は罪でもなんでもないのだと。
「相手の年齢と、そのときのフランツの年齢を見てみてよ」
「なるほど、みんな年上ね、それも結構」
「そう、それにみんな髪の毛はプラチナブロンド、瞳はグレー」
「アスカと全然違うと言うわけね」
リツコは、漸くミサトが何を言いたいのか分かってきた。
「そう、それにこの中の一人とはいまだに交際しているわよ」
「なるほど、ミサトの言いたいことはわかったわ。
でもこれだけじゃ単なる女好きなだけじゃない。
損得づくめだとしても、彼がアスカとつき合うこと自体おかしなことではないわ」
「そういうだろうと思ったわ、そこにタヌキ親父のデータも入っているから見てみてよ」
ミサトに言われてリツコは新しいウインドを開いた。そしてそこに映し出されたデータを見て天を仰いだ。
「なんて分かり易いの……これってまんまじゃない。
……と言ってあげたいけどね。
でも、これでは状況証拠でしかないわ。
だからといってフランツとアスカの関係がカモフラージュとは言えないじゃない。」
「それくらい分かっているわよ。
でも危険性は十分あるのよ。
分かっていて何もしないんじゃ悔しいじゃない」
「ミサトのことだから何か手は打ったんでしょ」
「なかなか難しいのよ……
リツコが言ったように証拠がないしね。
アスカに対するドイツ支部のガードも固いから……
加持が何とかこのデータをアスカに渡すことは出来たみたいだけど。
それ以上何もさせてもらえなかったわ」
「後はアスカ次第というわけね」
「そう、あの子が冷静であることを願うわ」
そう言ったミサトだったが、すでにアスカが不幸から逃れられないのを感じ取っていた。
国連特別部会にて行われたネルフ司令更迭に関する緊急動議は、大差をもって可決された。そこには苦虫をかみつぶした冬月と全身で喜びを現わすハインツがいた。冬月の任期は6月末までとされ、7月からはハインツがネルフの新司令となることが決定された。また同時に議題とされたエヴァ9号機の日本への移管は、大差をもって否決された。
時間は遡って5月初めのボン旧市街のカフェ、うららかな陽気の中、加持はさめたカプチーノをすすりながらアスカを待っていた。約束の時間からはすでに1時間が経過していた。万が一にも間違えのない身の上のアスカなのだから、おおかた着替えでも長引いているのだろうと加持はのんびりと空を見上げていた。そんな時、少しも悪びれた様子もない少女の声が聞こえてきた。
「か~じ~さん。待った?」
ふと目を向けた先には、満面に笑みを浮かべたアスカの顔があった。きれいになったな、それが加持にとっての第一印象だった。
「まあ、それなりに」
そういいながら加持は足下に散らばるたばこの吸い殻をけ飛ばした。アスカはそれにちらっと目を向けると加持に遅くなったことをわびた。しかしその目は笑っていた。
「ごめんなさい。
久しぶりに加持さんに会えると思ったらうれしくて。
着ていく服を選ぶのに時間がかかっちゃった。
どう、似合ってる?」
若草色のツーピースを身に纏ったアスカは、そういうと加持の目の前でくるりとターンした。アスカによって引き起こされたそよ風が運ぶ甘い匂いが加持の鼻孔をくすぐった。
「ああ、とっても似合ってるよ。
しかし驚いたな……前から綺麗だとは思っていたけど。
しばらく見ないうちにもっと綺麗になっている」
加持の賛辞を聞いて、アスカはさらに顔をほころばせた。
「ありがとう。ミサトと別れる?」
「ああ、少し早まったかな?
このあたりで後悔がとぐろを巻いてるよ。
守備範囲を下げることも考えないとな」
加持はそういうと、自分の胸のあたりをぽんぽんと叩いて見せた。
「お世辞でもうれしいわね」
「お世辞だなんてとんでもない。本心だよ。ところでなアスカ……」
「なあに、加持さん」
「ドイツに帰ってきて良かったか?」
アスカは加持が問いかけの形を取ったことを正確に理解していた。加持はアスカがドイツに帰った理由を知っている数少ない人だからだ。
「そうね良かったと思っている。
まだ全部忘れられたわけじゃないし、こだわりもある。
だけど今は毎日が充実しているわ。
アタシを好きだと言ってくれる人もできたしね」
この時加持の表情がかすかに動いたが、アスカはそれに気づか無い振りをして言葉を続けた。
「冬月司令には申し訳ないけど、アタシはネルフ内部の権力争いには興味がないわ。
アタシはエヴァのパイロットとして全力を尽くしている。
今はもうエヴァに乗ることは私の全てではないけど、やりがいではあると思っているわ」
まっすぐに前を見つめたアスカの瞳に、加持はアスカにとってドイツへの帰国はプラスに働いていると思った。しかし、同時に大きな気がかりもあった。
「オレもそれで良いと思うよ。
アスカはアスカでできることをしていればいい」
「ねえ、こっちの話だけじゃなくて日本の話もしてよ。
こっちにいるとなかなか聞こえてこないのよ」
そのリクエストに応え、加持は一つ一つ細かく近況をアスカに伝えていった。ミサトの酒量は相変わらず多いこと。殺人的な料理の腕は相変わらずのため、ほとんど加持が食事の支度をしていること。リツコがまだ独身であること。日向、青葉の両オペレータがマヤに猛アタックをかけていること。鈴原、相田の両パイロットがアスカの数値を目指して頑張っていること。鈴原、洞木ヒカリの二人がつき合いだしたこと。みんな同じ高校に通っていること。
アスカは時折笑い転げたり、うんうんと頷きながら加持の話を興味津々で聞いていた。一通りの話が終わったとき、アスカは加持があえて話題に出さなかった話題……碇シンジの消息……に着いて聞くべきかどうか迷った。アスカには、加持が何故シンジの話題をしなかったのかその理由もわからなかったのだ。しばらくの逡巡の後、アスカは思いきってシンジの状況を加持に尋ねた。
「ねえ加持さん、アイツ……シンジはどうしてるの」
加持は残り少ないカプチーノをすすった。
「アスカはどこまで知っている?」
「ミサトの家を出てった後のことはよく知らないの」
「そうか……」
そう答えた加持は、何から話すべきかと少し考えた。
「シンジ君は今のネルフに関係していない。
だから私生活の監視はされていない。
身辺の警護だけだ。だからネルフにいるみんなほど細かな情報はない」
加持はカップの中身を飲み干すとさらに続けた。
「まずシンジ君は、あの後養子に迎えられた。
今は養子先のご両親と、一つしたの妹さんと九州の新鹿児島市に住んでいる。
初めの頃は精神的に参っていたようだけど、今ではすっかり立ち直っているらしい。
親しい友人も何人かできているそうだ。
元気にやっているそうだよ」
シンジが元気であることを聞くとアスカは嬉しそうな顔をした。
「そうかあいつも元気にしているんだ……」
「ああ、それに今は剣術を習っていて相当の腕前らしい」
剣術という言葉に、アスカはへぇーと言った顔をした。
「あいつ侍なんてやってるの?似合わないわね……っと」
アスカは急にまじめな顔をすると、じっと加持の瞳を見つめた。
「ところで加持さん、あたしに会いに来た理由はそんなことじゃないでしょ。
話してくれる?」
加持はお見通しかと頭を掻いた。
「やっぱり、アスカは成長したな……わかっていると思うがハインツとフランツの親子のことだ」
アスカはやっぱりかと言う顔した。そして加持から視線を外し、ぽつりぽつりと話し出した。
「あたしがのぼせ上がっているとでも言いたいの?
わかっているわよあの二人が胡散臭いことぐらい。
でもね、あたしの中にはフランツを信じたいという気持ちがあるのも確かなの。
たとえ父親があたしに対してどんな気持ちを抱いていても……
フランツは……初めてあたしのことを一人の女として扱ってくれた。
嘘かもしれないことは分かっている。
それでもあたしはうれしかった。
騙されていたいのかも知れない……」
加持は、アスカの言葉に愛を知らずに育った少女の心を見た気がした。責任の一端は自分にもある。自分はアスカからは必ず一定の距離を置いていたのだ。そしてその距離以上決して近づこうとはしなかった。過去にその距離を越えたのはただ一人……しかしその少年もアスカの元を去っていた。
「アスカがそこまでわかっているのなら何も言わない。
ここに調査資料がある……それだけは目を通しておいてくれ」
そう言って加持は1枚のMOをアスカに渡した。アスカは少し迷ったが、それを受け取ると加持に向かって言った。
「ありがとう……中を見させてもらうわ。
それからミサトに伝えておいて……心配してくれてありがとうって」
「気づいていたのか?」
「そりゃあ、こんな3面記事的な発想はミサトぐらいなもんよ」
加持ははっきりと苦笑い浮かべた。
「すると俺の発想もワイドショー的か……」
「ふふ、そうかもね」
そう言って、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「じゃあな、アスカ……またいつかな」
「ええ、加持さん……今度落ち着いたらね」
加持はアスカを残して去っていった。その後ろ姿を見詰めながらアスカはつぶやいた。
「もう少しだけ……もう少しだけ夢を見させて……」
アスカは、加持からもらったディスクを近くにあったごみ箱にほうり込んだ。
加持と会ってからも、アスカのフランツへの態度は変わらなかった。今まで通り二人で食事に行き、自宅までフランツの車で帰ってきた。そして何事もなく、フランツは帰っていく。何度かアスカはフランツを自宅へ誘ってみたが、フランツはいつもはぐらかし、アスカの部屋を訪れることはなかった。そのことが加持のもたらした情報の確からしさを増していった。そうしてアスカにとって何事もなく日々が過ぎていった。
そしてハインツの本部への赴任が間近に迫ったある日、アスカは支部長に呼び出しを受けていた。
「支部長からの呼び出し?なによ今ごろ……」
アスカは呼び出しを告げに来た技術部員にそう愚痴った。
「さあ、支部長もあとちょっとでここを離任しますからね。
最大の功労者のセカンドチルドレンにお礼の一つでも言おうというのでは?」
技術部員は自分でも信じていない言葉を吐き出した。
「あのタヌキがそんな殊勝なことを考えるわけないでしょ!」
アスカの反論に、そこにいた技術部員たちは苦笑を浮かべるしかなかった。彼らとて、支部長にまっとうな心が有るとは思っていなかった。
『支部内では大丈夫だろう』いささか心許ない理由を胸に、アスカは支部長室へと向かった。
『セカンドチルドレンを解任する』
支部長室に入ったアスカにぶつけられたのは、意外な言葉だった。
「理由を説明していただきたいのですけど……」
いきなり告げられたパイロット解任の命令に、アスカは理由を教えろとハインツに詰め寄った。ハインツはそんなアスカの剣幕を気にもせずに平然と言い放った。
「知りたいかね?
理由を言えば、わしは君を拘束せねばならん。
君の功績が大であることは、わしが一番よく知っている。
だからここは穏便に解任だけで済ませておこうと考えたのだがね」
「私には拘束される理由はありません」
そう言い放つアスカにハインツは1枚の写真を見せた。一月ほど前にカフェで加持と会っている写真だった。
「これが何か?」
アスカにはその写真が、自分の解任につながる理由が思いつかなかった。
「調べによると、彼はゼーレの指示でネルフを内偵していた」
「馬鹿なそれは昔のこと……」
「さらに、日本国政府の内偵としても動いていた...」
「それだって昔のことです」
「我々が内偵して分かったことだが、パイロットにドイツ支部の重要人物の暗殺を指示した疑いがある」
アスカはあきれた。この男はいったい何を言いたいのか。こんな与太話をいったい誰が信じるのか。
「どうすればそんな話が信じられるのですか。
大体どうしてそんないい加減な理由で、私が解任されなくてはいけないのですか」
ハインツはかかったとばかりにやりと笑い、近くにいた保安部員に指示を出した。指示を受けた保安部員二人はアスカを両側から抱えると机に押さえつけた。
「止めてください……いったいどういうつもりですか」
ハインツはアスカに近寄ると、自分のポケットから小型ナイフを取り出した。そして、やけにまじめな顔でそれを保安部員へと手渡した。
「おい、これを証拠物品として押収しろ。
それからお前たちはもういい。別命あるまで外で待機しろ」
そしてハインツは、保安部員たちにアスカを解放させると、そのまま退席するようにと命じた。ここから先は、自分一人で尋問するのだと。
「初めからこれが狙いだったわけね……汚いやつ」
保安部員もぐるであることをアスカは理解した。証拠などでっち上げればいい。この男は過去そうしてきたのではないか。アスカ自身、少しぐらいの罠なら切り抜ける自信があった。だが今回は、その自信が徒となってしまった。
「それは誉め言葉として受け取っておこう」
勝ち誇ったように、ハインツはアスカを見た。
「アタシにどうしろって言いたいの」
「それは君が一番よく理解しているだろ?」
アスカは腹の底からハインツを嫌悪した。そしてこの男の片棒を担いでいたフランツも同様に嫌悪した。
「それでしたらお断りします。
どうぞ拘束でも何でもしてください」
「いいのか、あの男の立場はどうする」
「あの人は大丈夫です。
修羅場を沢山くぐってきた人ですから」
ハインツは「ふむ」とあっさりと引き下がった。その様子にアスカは拍子抜けするものを感じていた。だがそれは、まだアスカに仕掛けられた罠の第一弾でしかなかった。アスカの目の前に、別の写真が差し出されたのだ。その写真には、一人の日本人の少女が写し出されていた。その顔に心当たりのないアスカは、どういう意味だとハインツをにらみつけた。
「サードチルドレンには可愛い妹がいるそうだ。
その写真がその子だよ」
ハインツはもう一枚の写真をアスカに見せた。そこには仲良く腕を組んでいるシンジとその少女の姿が映し出されていた。
「サードチルドレンはずいぶんと家族を大切にしているそうだ。
妹の方もずいぶんと兄を慕っているらしい。
彼女は兄の窮地にどういう対応をするかな...」
ハインツは、自分の言葉にアスカの顔色が変わったことに気をよくし、さらに畳みかけるようにアスカを追いつめていった。
「別にキミでなくてもいいんだよ。
その時にはサードチルドレンの妹に代わりをして貰えばいい。
なかなかの美少女だろう」
「変態...」
「なんと言ってくれてもいいよ。
私にその体を差し出すことだね。
何、悪いようにはしないさ。
たっぷりと時間を掛けて可愛がってやろう。
もっとも君にはそれを拒否することも出来る。
ただその結果がどうなるかは私には保証できないがね」
すでに勝利は自分の手にある。いささか早計ではあるが、ハインツはアスカが落ちたと考えていた。
「一つだけ教えてくれる。フランツはこのことを知っているの」
「無論だ。あいつは私の指示で動いていた」
「そう...」
俯いたアスカに、ハインツの心は躍っていた。相手が強気であればある以上、精神的に屈服させる喜びは大きくなる。彼にとって、自尊心の強いアスカのような少女は、格好の陵辱対象であるのだ。
「……脱がせてくれる」
俯いているため、アスカの表情は見えない。だが、少し震えて見える肩に、ハインツの嗜虐心は大いに高まっていた。
「……良いだろう」
ごくりと喉をならし、ハインツはアスカの後ろから抱きかかえるように、胸元のボタンを外そうとした。しかし、その瞬間アスカが動いた。
アスカは自分の胸元に伸びたハインツの手をひねりあげると、床の上にうつぶせに転がした。そして馬乗りになると、頸動脈を締めそのまま落とそうとした。それは、ハインツが自分に何が起きたのか理解できないほど、見事な攻撃だった。形勢逆転、アスカの瞳には炎のように燃える強い意志があった。絶対に屈服などしないと言う強い意志のこもった瞳だった。
「もう一つの選択肢が有るのを忘れていたようね。
アンタを亡き者にして、正統な裁判を受けると言う手もあるのよ。
自分で言っておいて忘れるなんて間抜けね……」
暴れるハインツを押さえつけるように、アスカは首を極めていった。このまま行けば自分の思い通りになる。こんな下司をのさばらせておいてはいけない。とどめを刺そうと、アスカは両腕に力を込めた。このまま行けば、アスカのもくろみ通りに運ぶところだった。
しかし、ハインツも支部の頭を勤めるだけあって、用心に抜かりは無かった。いや、それだからこそここまで生き残ってきたとも言えた。アスカが刺そうとしたとどめは、乱入してきた保安部員によって阻止されることとなった。薄れる意識の中、ハインツはポケットの中の押すことに成功していた。
いくら暴れてみたところで、二周りも大きな男に両側から取り押さえられ、アスカの動きは完全に封じ込まれた。そして、アスカを取り押さえているのとは別の保安部員がハインツの蘇生を行っていた。逆転したと思っていた形成は、再びハインツの方へと傾いていた。
よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がったハインツの瞳に、次第に怒りの炎が燃え上がってくる。両脇を保安部員に支えられながら、ハインツはアスカへと近づいていった。
「このアマ、なんてことをしてくれる!」
憎々しげに睨み付けてきたハインツの瞳を、アスカは睨み返した。両腕を拘束されていても、その瞳に宿る炎は消えていなかった。
「残念だったわね……あんたももう少しで楽になれたの……」
アスカの言葉が終わる前に、ハインツの顴骨がアスカの頬に飛んだ。一発、二発……口の中が切れたのか、口元から血を垂らしながらアスカはハインツを睨み付けた。
「自分じゃ何も出来ない……脅迫でしか女を物に出来ない卑怯者。
そんなことじゃ誰も自由にはならない……」
再びアスカの顔をハインツの拳が捉えた。そして自分の手が痛くなると、保安部員の持っていた特殊警棒を持ち、アスカの体をそれで殴りつけた。鎖骨の一本、あるいはあばら骨の一本は折れているかも知れない。それにかまうことなく、そしてアスカの意識がなくなってもハインツはその暴力を止めることはなかった。
殴ることに疲れた、ようやくハインツはアスカを特殊警棒で殴りつけることを止めた。しかし、彼自身煮えたぎっているはらわたはまだ収まらない。ハインツは力無く支えられているアスカの姿を見て、効果的な拷問の方法を思いつき、酷薄な笑みを浮かべた。
「おい、こいつをひん剥け」
ハインツはアスカを抱えている保安部員にそう命じた。しかし、彼らはその命令に当惑を感じ、動けないで居た。
「聞いているのか、命令だ。この女を裸にしろ」
渋々と彼らはアスカの服を脱がしに掛かった。下着も脱がされた体のあちこちにどす黒い痣が浮かび上がっている。すべては目の前の男によってたった今付けられた物だ。いくら共犯とは言え、相手は世界を救った英雄でもある。いくら何でもやりすぎだと言う気持ちが、彼らの中に生まれ始めていた。
ハインツは横たえられた裸のアスカを満足そうに眺めると、一人の保安部員に目を向けた。そして酷薄な表情から残酷な命令をその男に向けた。
「おい、お前……ここでこの女を犯せ!」
さすがにこの命令に、保安部員達も反発するしかなかった。向けられたハインツの瞳から目をそらし、彼らはその命令を拒絶した。しかし、それはハインツの怒りに油を注ぐ結果にしかならなかった。
「ならばいい、この俺がやる」
反抗すれば抗命罪だと宣言し、ハインツはアスカを取り囲むようにしている保安部員に、その場をどくように命じた。それでも何か反論しようとした男達が口を開くより前に、ドイツ支部を小さな揺れが襲った。そして警報音が鳴り響いた……第一種警戒警報、鳴るはずのない警報が支部中に響きわたった。
それと同時に、かかってきた電話は、ハインツの顔から一気に血の気を失わせた。
「使徒だ……」
その言葉に部屋にいた全員はアスカを見た。そこにあるのは、自分たちがぼろくずのように壊した、唯一の希望の変わり果てた姿だった。もはや誰の口からも言葉はなかった。希望は自分たちで壊してしまった。もはや人は使徒に勝つすべを失ってしまった……誰もが絶望を感じたとき、アスカが苦痛にあえぎながらも口を開いた。
「……せなさい……」
「アタシを乗せなさい……」
「アタシはパイロットよ……」
その毅然とした態度は、ハインツの側にいる保安部員さえ感動させるものだった。
アスカは全身を襲う激痛に耐え、エヴァンゲリオン9号機に乗り込んだ。久しぶりの使徒との戦闘、帰ってきた感覚……アスカは一つの決意のもとに9号機を起動させた……
「アスカ……いくわよ」
アスカは自分に言い聞かせると、エヴァの格納庫の扉をこじ開け表に出た。ドイツ支部は使徒迎撃を目的とした本部とは異なり、迎撃設備は皆無である。したがって、アスカは唯一の武器であるプログナイフを眼前に構え使徒を迎え撃った。
使徒の姿は第三使徒に酷似していた。胸に浮かんだ顔にあるうつろな瞳は、過去の悪夢の再現を人々に感じさせるのに十分だった。アスカの駆る白い9号機は身軽な動作で使徒に近づくと、右に左にと使徒の攻撃を避けた。そして使徒の背後に回り込みプログナイフで斬撃を加えていった。爬虫類の顔をした9号機は、使徒に対して互角以上の戦いをしていた。
逃げ出す準備をしていたハインツは、9号機の有利な姿に脱出を止め発令所へと来ていた。勝利の時、司令たる自分が居ないのは理由が着かないと考えたのである。
ある意味圧倒的な9号機の戦いに、ドイツ支部のスタッフは戦いの場が次第に本部へと近づいてくるのに気がつかなかった。そして2体の巨人が、まさにドイツ支部に接触しようと言うときになって、ようやく戦闘が目の前で行われていることに気がついた。だが、それに気づいてもハインツには逃げ出す時間は与えられなかった。アスカからの通信ウインドウが開いたのはその時だった。
「どうしてアタシがエヴァに乗ったのかわかる……」
ハインツはアスカの鬼気迫った表情に言葉を失った。
「アンタたち親子をここから逃がさないため……
もしアタシが乗らなければ、アンタたちは逃げ出していた。
あたしが有利に戦わなければ、逃げ出していた……
そうしたらアンタたちは日本へ行ってしまう……
そうしたらアンタたちはシンジを苦しめる……
そんな真似だけは絶対にさせない……」
アスカは苦痛に顔を歪めながら続けた。
「ここにはエヴァの爆発から逃れられる場所はないわ……
シェルターなんて無駄よ、たった今アタシが壊したから。
あきらめることね、アンタたちはここで死ぬのよ。
でも安心していいわよ、あたしも一緒に行ってあげるから……」
そう言うとアスカは一方的に通信を遮断した。そして使徒をドイツ支部の建物に押し付けるとエヴァの状態をホールドし、シート側面に設置された自爆装置を起動した。MODE-Dが表示され、装置の作動するタービン音を確認するとアスカはシートに座り直した。
「バカは私だったわね……」
「いつまでもこんなものにしがみついて……」
「もう泣かないって誓ったのに……」
アスカは蒼い瞳に溢れ出る涙を拭った。
アスカは死を覚悟した...その時アスカの乗るエントリープラグを激しい振動が襲った。外側から強制的にイクジットされようとしている。自爆へのカウントはまだゼロになってくれない。
「だめ……ATフィールドが消えてしまう
使徒が倒せない、早く爆発して……」
ATフィールドが消失したら使徒は倒せない。早く爆発しほしいというアスカの願いもむなしく、使徒の手によってエントリープラグは外部から強制的に排除された。使徒は9号機の張るATフィールドが消えると、自分の体を9号機の爆発からATフィールドで守った。アスカの記憶に残ったのは、目の前に迫るエントリープラグの壁と、記憶に残る少女の声だった。
「あなたは死なない、まだその時ではないから……」
9号機の爆発の後のすり鉢場の爆心地に残った物は、使徒に握りつぶされたエントリープラグだけだった。ほかには、動くものの何もない死の世界がそこにあった。
ドイツ支部の後、フランス、イギリスと立て続けに使徒に襲われネルフの施設は壊滅的な打撃を受けた……使徒再来のニュースはマスコミにはふせられたが、絶望だけは確実に広がっていった。
続く