そもそも奥手のシンジは、女の子と腕を組んで歩くというだけのことが、こんなにも人目が気になり照れくさいものだとは思わなかった。
道行く見知らぬ通行人達はほほえましそうに二人を見るだけだったが、同じ高校の生徒らしき人たちは、腕を組んで歩く二人に遭遇すると決まって同じ反応を示すのだ。
それは一言で「呆然とした表情」としか表現のしようがなかった。
口をあけぽかんと見つめるものもいれば、驚きのあまり二人に視線を向けたまま立ちすくむものもいれば、とにかく驚いて動きを止めてしまうのだ。
だがアスカはそんな周囲を一向に気にすることもなく、嬉しそうにあれこれと気のむくままシンジに話し掛け続け、シンジもそれに真面目に受け答えするものだから、まったく会話のとぎれぬまま二人は第一高校の校門にたどり着いていた。
そこには昨日の事件をまだ知らぬ恒例の男子生徒達が、思い思いの位置に控えてアスカの到着を待ちわびていて、シンジの身体が緊張のため一瞬震えた。
腕をぴったりとからめているアスカはそんなシンジの緊張を肌で感じ取り、なにごとかと自宅を出てから初めてシンジ以外の周囲に視線を配り、いつものように現れたアスカにとって何の価値もない男子達の姿に気が付いた。
幸せいっぱいという笑顔が瞬時に引き締まり、いつもの冷たい一瞥を周囲の男子達に向け、鞄を持った手をいつものように腰に当てて胸を張った。
「あんたたち。何度言ったら判るのよ!アタシにはあんた達と付き合うつもりは無いって言ってるでしょ。さっさと行きなさい。アタシ達の邪魔をしないで!」
それでもシンジの腕を放さないからいつもの迫力にも欠けていて、昨日の放課後とは違い一応の反応を見せたためか、朝の部のアスカファンクラブの面々はかろうじて自我の崩壊を免れていた。
彼らを代表してアスカの第一高校入学以来、一日とかかさずアスカの元に通い詰めていた3年生が勇気をだして話し掛けた。
その憎悪を込めた視線は、当然のようにアスカが寄り添うシンジに向けられる。
線の細い同性から見て特になんの魅力も感じられない女顔の男がなぜ?
そういう声が聞こえてきそうなほど強い意志が込められた視線だった。
「惣流さんは、いままで『誰とも付き合う気はない』と言ってたはずだけど。」
アスカはそんな男子生徒の態度に怒りをつのらせた。
シンジと楽しく歩いていたところを邪魔されたあげく、こいつはアタシのシンジに敵意を抱いている。瞬時にアスカの思考は戦闘モードに切り替わった。
さきほどのまでの笑顔から一点して強い怒りを表情に滲ませて言い放つ。
「あったりまえじゃない。なんでこのアタシが、あんた達みたいな何の取り柄も魅力も無い輩の誰かと付き合う必要があんのよ。
だいたいあんた達の誰か一人としてアタシに優るものを何か持ってんの?
あんた達には何も無いじゃない。
平々凡々と毎日を暮らしてるだけのその他大勢の一人のくせして、アタシ達の邪魔をしないで頂戴。アタシにはあんた達に何の用も無いのよ!」
アスカの突然の剣幕に、話し掛けた3年生の男子は驚きたじろいだが彼らの思いも軽くは無かった。かろうじてその場に踏みとどまって言葉をつないだ。
「・・・で、では、そこにいる彼は、僕にはまったく信じられないが、何か、惣流さんに優るものを持っていると言うんだね。」
「そんなこともわかんないなんて、あんた馬鹿ぁ?
このアタシがいっしょにいるんだから、そうに決まっているじゃない。
それぐらい言われなくたって判んないの?
まったく馬鹿はこれだから・・・」
「アスカ!」
まくしたてるように罵詈雑言を続けようとするアスカをシンジの言葉が止めた。
小さいが叱責の意を込めて自分を呼ぶシンジの声に、アスカがぴくっと身を震わせた。怒りの表情が再び一瞬で不安の表情に塗り替えられる。
アスカがあわててシンジの顔を見上げると、目の前の男子生徒を穏やかに見つめるシンジの顔があった。
「いくらアスカでも、言い過ぎだよ。」
「ご、ごめんなさい・・・」
消え入るように小さな声でアスカは答えた。シンジに怒られてしまった。ただそれだけで先ほどまでの威勢は影を潜め、おびえたようにシンジに絡めた腕にしがみつく力を強める。
そんなアスカの変貌ぶりを目前で見た3年生の男子はさすがに呆然となった。
最前までのアスカの激昂ぶりも初めてなら、こんな従順な態度のアスカを見るのも初めてであった。彼の心には既に敗北感が忍び寄っていたのだが、それは彼がそれとなく否定しようとしていたシンジの言葉によって確定的なものになった。
「この人もアスカのことがとても好きなんだね。
僕も同じ気持ちだから良く判るんだ。
好きな人の口からひどい事を言われると、とても辛いんだ。
自分を好いてくれる人を無条件に好きになる必要は確かに無いけれど、好いてくれている人に辛くあたる権利も無いんだよ。
この人はアスカのことが好きなんだから、アスカが幸せになることを邪魔したりしないと思うよ。だから僕たちのことも、きちんと話せば判ってもらえると思うんだ。そうだね、アスカ?」
「う・・うん。」
「貴方とは初対面なのでお名前も知りませんが、僕のことが気にさわったのなら申し訳ない、としか僕には言えません。
貴方もアスカのことが好きだから僕のことが気に入らないのでしょう。
それは理解できますが、やはり僕は申し訳ないとしか言えません。
僕はアスカが好きです。この気持ちは譲ることはできません。
万が一僕がアスカを不幸にすることがあれば、その時は貴方の好きなようにしてくださって結構です。もちろん僕にその気はありませんけど。
ただお願いしたいのは、アスカの気持ちを尊重して欲しいと言うことだけです。
生意気なことを言ってすみませんが、僕にはアスカより大事なものはありませんから、そのためにだったらどんな事でもするつもりです。
その上で何か僕にご用があれば、僕はいつでもお付き合いいたします。遠慮せずにおっしゃってください。」
自分の言いたいことを言い終えたシンジが視線をアスカに戻すと、自分をじっと見つめる碧い瞳に気付いて、ちょっと照れくさそうに微笑みを浮かべた。
そのシンジを見つめるアスカの頬は再び桜色に染まっていた。
3年生の男子はもう何も言えなくなっていた。完全に負けた。そう思っていた。
再び視線を正面に戻してその3年生の様子を見たシンジがアスカを促す。
「もう僕たちに用事は無いみたいだよ。
いこう、アスカ。」
「うん。」
強い思いをこめたシンジの言葉にアスカは幸せだった。まだ不安定なアスカの心は強い幸福感によって埋め尽くされ、もはや平静ではいられなくなっていた。
衆目の集まる中、いとしそうにシンジの腕に身を摺り寄せるアスカと、そんなアスカに赤面しつつもまっすぐに前をみてあるくシンジの二人を邪魔する者はもう誰も残っていなかった。
ただ、先ほどのトラブルを教室の窓から見て、あわやの状況となれば助けに入ろうと気をまわしたトウジとケンスケが玄関前まで二人を迎えにでていて、当然のようにDVDカメラを持参していたケンスケにとって、この光景は昨日の失態を補うに十分な撮影チャンスを提供することにつながった。
普段のアスカであれば即時鉄槌をくだすところだが、昨日と同様に舞い上がっているアスカの目には撮影のために自分達の周囲をうろうろするケンスケの姿など写るはずもなく、何のお咎めもなくケンスケは撮影に集中することができた。
この時の画像を編集しアスカの表情だけを収めたコピーディスクは第一高校内
にとどまらず市内全域の学校に飛ぶように売れていくこととなる。
結局、この日、アスカが自分を取り戻したのは3時間目の授業が終わった休憩時間だった。それまでの間、教室でも席が隣り合わせだったため、アスカは片時もシンジの側を離れず、幸せそうな表情でぼんやりシンジを見つめ続けていたのだ。ミサトから事前に注意を受けていた教師達はしぶしぶそれを見て見ぬふりをし、アスカの幸せは4時間目の体育の授業で男女別行動を取らねばならなくなる
まで保たれ続けたのである。
いかなNERVの最重要人物であるアスカとて、男女別行動という基本的カリキュラムには従うしかなく、シンジと離れると聞いた直後には若干取り乱したものの、シンジの説得によって現実復帰し無事4時間目の授業が開始されることになった。
「・・・ったく、なんで体育の授業が男女別行動なのよ・・・」
体育の授業のために更衣室で体操着に着替えていたアスカは、現実復帰こそしているものの、先ほどまで隣にいた少年と離れざるを得ない理由となった体育の授業への不満をぶつぶつとこぼし続けていた。
制服を脱いで体操着を身につけようとしているアスカを見たクラスメート達が思わずため息を着いた。
自分たちには到底身につけることをためらわれる素晴らしく美しいレースの下着をアスカが身にまとっていたことに気付いたからだ。
そこには完璧な美があった。いやらしさなど微塵もなかった。
日本人ばなれしたプロポーションに真っ白な肌。その白く美しい姿をさらに際立たせるかのように、大人の女性でもひるみそうなブラとショーツが控えめにアスカの身体を包んでいる。
同性と言えどもアスカのこの姿にはため息をつくしか無かったのだ。
「ア、アスカ・・・」
そんな周囲の視線に気付かず、愚痴をこぼし続けながらショートパンツを付け、半袖の体操着に頭を通したアスカに、ようやくヒカリが声をかけた。
「なに?ヒカリ。」
「あ、あのね・・・こんな事聞いて変に思わないでね。」
妙にもじもじと頬を赤らめるヒカリにアスカは不審そう首をかしげた。
着替えの手が途中で止まっているので、体操着は首を通したところで止まり、アスカの上半身は下着姿のままとなる。
少し震える指でアスカの胸元を指差したヒカリが恐る恐る問いを口にした。
「どうして、そういう下着を着てきたのかな・・・と疑問に思ったの。」
アスカは親友のヒカリの言葉に、あわてて体操着に袖を通して自分の裸体をみなの視線から隠した。
体育の授業があることなど今朝はまったく考えてなかったのだ。
帰ってきてくれたシンジとはじめて登校するのだから、知らず気合が入ってしまっただけなのだ。
お仕着せの制服ではいつもと違う自分を表現仕切れないと思った。
だからシンジに見てもらうためには、以前シンジに買ってもらったリボンを髪に付け、自分自身のためにミサトにもらった少し大人の雰囲気の下着を身につけてきたのだ。
今、着替えをしている間も、シンジと離れることへの愚痴をこぼすことに専念していたため、自分がそういう下着を身につけていたこともすっかり失念していて、何の躊躇もなくクラスメートの前でそれを披露してしまったのである。
「ど、どうしてって言われても・・・こ、これを着てきたい気分だっただけよ。」
おもわず頬を赤らめてヒカリの視線を外しながらアスカが答えた。
「ふうん。アスカって普段はこういう下着をしているの?」
「ば、ばかな事言わないでよ!ヒカリ!
こ、こんなのアタシだって初めてよ。
だいたいこれは自分で買ったんじゃなくって、ミ、ミサトにもらったものだからね。こんなの、これ一つっきりしか持っていないわよ。」
「へぇ・・・そうなの?」
「・・・そうよ・・・」
「ふうん・・・そんなに碇くんが帰ってきたことが嬉しかったのね?」
「な、なんで、そーなるのよ!」
図星をさされてうろたえるアスカを見て、うらやましいと思うヒカリだった。
自分も鈴原のためにこういう下着を身につける日がくるのだろうか?
そう考えたとたんヒカリの顔もこれ以上無いというほどに赤面してしまう。
目ざとくそれに気付いたアスカが逆襲した。
「ヒカリ・・・いったい何考えてるのよ。」
「え?べ、別にわたしは鈴原のことなんか考えてない・・・あっ」
すっかり妄想モードに入っていたヒカリはみごとに墓穴を掘っていた。
興味津々で二人の会話に耳をそばだてていたクラスメート達が唱和した。
「「「ヒ、ヒカリったら不潔よ~~~」」」
大騒ぎの後更衣室を出たアスカ達は、体育館に集合した。
体育館の入り口側に女子、奥のステージ側に男子と授業内容別に分けられる。
今日は女子はハーフコートでのバスケットボールで、男子はバレーボールというカリキュラムだった。
ボールが互いのエリアにはいると危険なため、体育館の中央はネットで仕切られ互いに行き来ができないようになっていた。
それがまたアスカの感に触りぶつぶつと文句を言っていたアスカは、ステージ前に集合している男子達の中にシンジの姿が無いことに気が付た。
第一高校の体育の授業は、基本的に生徒の自主性に任されている。授業に参加するだけで全員等しく単位がもらえる。
先週も同内容のカリキュラムであったため、授業の開始を宣言するだけで教師も職員室に帰ってしまっていた。
生徒達はそれぞれ気のあう者同士でチームを作り、コートに出て練習を始めていた。実際にゲームに入るかどうかは、その場の雰囲気次第である。
アスカはネットの側に立って、授業中だというのにDVDカメラを構えて、授業そっちのけで遊んでいるケンスケを呼びつけた。
「なんでシンジだけいないのよ。知ってるなら教えなさいよ。」
「なんだよ惣流。そんなにシンジのことが気になるかよ。」
「うるさいわね。いいから教えなさい。」
やれやれという調子で肩を竦めるケンスケだが、刺すようなアスカの視線におもわず引いてしまう。
ネットがあるから肉体的暴力に対しては安全なはずなのだが、身にしみた習性というのは恐ろしい。
「ほらシンジは転入してきたばかりで、体力測定してないだろ。
うちの学校って、そういうとこだけはうるさいよな。
シンジは別行動でグランドで100mと1500mの記録を取ってから、戻ってくるってさ。まぁその後もステージのとこで他の測定をするんだけどね。
これで情報は全部さ。もう行っていいだろ?」
「ええ。もういいわ。じゃね。」
自分の聞きたいことだけ聞いてしまうと、アスカはさっさときびすを返してヒ
カリのいるグループに戻っていった。
「アスカ、相田くんと何を話していたの?」
「別になんでもぉ・・・ちょっとシンジが居ないみたいだから。
あいつだけ体力測定なんだって。」
つまらなさそうに答えるアスカに少々の驚きを覚えるヒカリである。
以前のアスカだったら自分からシンジのことを気にするようなそぶりさえ見せなかった。ただシンジの姿が見えなかったりアスカ以外の女子と会話していると、機嫌が悪くなることから、いくら本人が否定していてもヒカリの目にはアスカの心の動きは明白だったのだが、今日のアスカは自分からシンジのことが気になると言い出したのだ。
先週までのアスカと比べると激変と言っても良いぐらいの変わりぶりだった。
昨日は突然の再会と思わぬシンジの発言で舞い上がってしまったのだろうから、アスカの思いを知っていたヒカリには昨日のアスカの振る舞いも無理からぬことと思っていた。
でも今のアスカを見ると碇シンジという少年の存在がどれほどアスカにとって重要か改めて認識させられる。
自己主張が強く自信過剰でいじっぱりなこの親友は、自分の心を他人に知られることを一番嫌っていたはずなのだ。それがこうしてたとえ相手が一番親しいはずのヒカリであろうと、他人に自分の思いを素直に口にしているのだ。
「今日はずっと別行動なの?」
「ううん。100mと1500mのタイムを取ったら、体育館に戻ってくるって相田が言ってた。」
「そう。良かったわね。」
「まぁね。ありがと、ヒカリ。さっさとゲーム始めようよ。」
きっと碇くんが戻ってくるまでに自分のゲームを終わらせて、あとは碇くんのこと見ていたいのね。とアスカの心のうちを察したヒカリだが、それを口に出すことをせずアスカの後を追ってハーフコートの中に進み出た。
そこでは既にアスカがB組のチームのひとつと交渉し終えて、ゲームの約束を取り付けていたので、ヒカリ達が全員集まるとすぐにゲームの開始となった。
ゲームがはじまると予想通りアスカの独壇場となる。
元々攻撃的な性格の上、幼いころからエヴァのパイロットとして選抜され、常人の想像のおよばない高度な訓練を受けて修練を重ねたアスカの身体は、根本的に同年代の平均的肉体とは機能も性能も違いすぎるのだ。
加えて柔軟な天才的頭脳も戦略戦術レベルの各種シュミレーションによって鍛えられている。
B組のチームには女子バスケット部のメンバーも加わっているのだが、アスカの攻撃を止めるどころか、その身体に触れることすらできなかった。
金色の髪を躍らせてアスカがコートを駆け抜けると必ずポイントが入る。
ディフェンスでは敵に一歩も譲らず金色の壁となって立ちふさがる。
手も足もでないとはこれを言うのだろうとゲームを見ている全員が思った。
約10分のミニゲームはダブルスコアでA組チームの勝利で終わった。
「あ~すっきりした。ヒカリ、いこ。」
アスカは汗をタオルで拭きながら、さっさと男子達のいる方向へ歩き出す。
女子はA組もB組もそれぞれ15人づついるから、先にゲームをプレーし終えたアスカ達は晴れて見学に専念できるわけだ。
だが、その見学は自分達女子の授業を見学するべきなのだが、ヒカリも注意する気にはなれなかったのだ。ヒカリ自身も実は鈴原のプレーが見たかったのだ。
二人が丁度ネットの側まできたとき、グラウンドでの測定を終えたシンジが体育館に戻ってきた。だが様子がおかしかった。フラフラとよろめいてステージの傍までくると力無く倒れ込んでそのまま動かなくなってしまった。
「シンジ!」
アスカが悲鳴をあげた。そして次の瞬間には素早くネットをたぐりあげると、アスカの声に驚いて動きの止まった体育館の中を一直線にシンジに向かって駆け抜けた。ヒカリが呆然と立ち尽くしている間にアスカはシンジに辿り着くと、その身体を抱き起こしてシンジの顔を覗き込みながら叫んでいた。
「ちょ、ちょっと、シンジ!あんたどーしたのよ!」
今日のシンジは手ぶらで学校に登校した。授業で使うノートパソコンはミサトが朝のSHRのときに用意してくれたが、体操着どころか制服もまだ揃えていなかったのだ。
4時間目の前の移動のときに購買部に寄ってそれらを買うことにしたので、体育の授業には遅れて参加することになった。
だが更衣室に遅れて入ろうとしていたシンジは、ちょうど通りかかった教師に呼び止められ、体力測定のメニュー表と記録用紙を手渡された。
「転入してきた碇くんだね。うちの学校では生徒の各種データを元にカリキュラムを作成しているんだ。体力測定もそのデータの一つでね。転校早々申し訳無いんだが今日はこのメニューに従って、記録を取ってくれないか?」
手渡されたメニューを見ると、100m走、1500m走、垂直飛び、反復横飛び、踏み台昇降、握力、背筋力、バランスと、まるで中学校のときと同じ単純な項目が並んでいて、そのいくつかは自分一人でできないものであることに気付いて教師に質問した。
「はい。え~と・・・このメニューだと誰かに手伝ってもらう必要があると思うんですが。」
「他の生徒に今日の授業内容を指示したら、わたしが付き合うから安心しなさい。
君は先にグラウンドに出て軽く準備体操でもしておくと良いな。」
「わかりました。」
ひとりグラウンドに出たシンジは6月の真夏のような太陽の光をあびて気持ちよさそうな表情でストレッチをはじめた。
ひとりっきりで別メニューというのは少し残念だったが、考えてみれば土曜の夜から始まった一連の激動の時間の中で、こんなにも落ち着いた気持ちで太陽の光を感じるのは始めてだった。本当に劇的な3日間だった。
ひとしきりストレッチを終えて自分の体の調子を確かめていると、体育館の方からさきほどの教師がやってきた。
「碇くん。準備はいいかな?」
「はい。柔軟体操は終わってます。」
「では説明しよう。」
中年も後半だろう年齢だが、気さくで感じの良い教師だった。
シンジはどことなく加持さんに雰囲気が似ているなと、この教師に対して好感を持った。信頼できそうなところや、生徒を子供と思ってあなどる様子が無いところが、加持を思い出させていた。
「先に100mを測定しよう。次に1500mだが、すぐに走るのは辛いだろうし身体に負担もかかって危険だから、休憩を3分挟むことにする。
1500mが終わったら、体育館に戻って5分ほど休憩してから残りの測定を行おう。何か質問はあるかね?」
「いいえ。判りました。何も質問はありません。」
「よろしい。では100mだ。判っていると思うが全力で走るんだよ。」
「はい。頑張ります。」
むろんシンジは本気で走った。100mで10秒22を記録した。
ストップウォッチを見た教師が目をまるくして驚いていた。
3分の休憩で呼吸が落ち着いたのを確認してから1500mを走った。
これもシンジは全力で走り、ゴールとともにコースの上に倒れこむようにあお向けに寝転んで貪るように空気を身体に取り込んだ。
タイムは3分47秒を記録した。ふたたび教師が目を丸くして驚いた。
どちらも高校1年生のタイムではなかった。
酸欠になりかけていたのだろうか。横たわったまま幾度か深呼吸をして、シンジは身体を起こしたが、さすがに呼吸は荒く足元もふらついているようだった。
「そこまで無理しなくても良かったんだが・・・大丈夫かね?」
「・・・はぁはぁ・・・大丈夫です・・・自分にできることを・・・やらずに後悔するのは・・・嫌なんです・・・次は・・・体育館ですね・・・」
そう答えるとふらつく足でシンジは体育館の方に歩いていった。
強い子だな・・・と教師も碇シンジという少年に好感を抱いた。
教師はシンジが忘れていった記録用紙とメニュー表を拾うと、自分でタイムを書込んでからシンジの後を追って体育館に向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと、シンジ!あんたどーしたのよ!」
人に抱き起こされたのを感じてシンジが目を開くと、間近に心配そうな表情のアスカの顔があった。どうやらアスカに抱きかかえられているらしい。
「・・・あ、あれ?アスカ、どうしたの?」
「それはこっちのセリフよ。あんた、どっか調子悪いんじゃないの?」
ああ・・・そうか、疲れて休んでいたのをアスカが心配してくれたんだ、とシンジは状況を理解した。
「大丈夫・・・ちょっと走って疲れただけだよ。心配しないで。」
「もう、いきなり倒れて動かなくなるから驚いちゃったじゃないの。」
「ごめん。」
二人の姿をA組のクラスメートは、さすがに3度目ともあって、やれやれまた始まったかという感じでそんな二人を見ていたが、事情が伝わってないB組の生徒達には動揺が走っていた。
あの唯我独尊天下無敵の惣流・アスカ・ラングレーが、見知らぬ転校生を心配して我も忘れて駆け寄った。どうみても恋人の様子を必死に心配している女の子にしか見えない。そして今もその転校生を抱きしめている(ように見える)。
あの惣流が!?その衝撃は昨日のA組が受けたそれに等しい威力を持っていた。
さっそくB組の男子が手近なA組の男子を捕まえて根掘り葉掘り事情を問いただし始めたし、女子のグループではアスカと一番仲の良いヒカリのところへ、B組の女子達が殺到することとなった。
ヒカリは応対に苦慮していた。昨日はシンジ本人の助けもあってA組生徒達は理解してくれたのだが、過去の事情も知らずまた教えることもできない他クラスの生徒に理解してもらうのは不可能というものだ。
体育館に戻ってきた教師は約束の休憩時間ののちにアスカからシンジを開放して残る体力測定を行ったのだが、結局授業が終わるまでアスカは女子の授業に戻ることなくシンジの側に居座り続けたし、男子も女子も授業にならずあちこちで二人の噂に華が咲くうちに4時間目の授業が終了することになった。
もちろんシンジとアスカが授業後の更衣室で質問攻めにあったことは言うまでもない。シンジはトウジとケンスケの助力もあって、どうにか無事に教室に戻ることができ、正直ほっとしていた。アスカもヒカリのフォローのおかげで、どうにか更衣室を脱出できたが、あの下着をB組の女子達にも気付かれてしまい、さすがにバツが悪くて逃げ出したに近い状況だった。
二人の仲が周知徹底するまでには、かなりの努力が必要であることを、アスカはこのとき始めて理解できたのかもしれない。
4時間目の体育の後は昼休みだった。昼食はアスカが作ってくれた弁当だった。
シンジは今朝アスカが一生懸命に作ってくれていたことを知っていたので、アスカがおずおずと差出した弁当箱を喜んで受取った。
アスカは楽しそうにしていてそんな親友の様子にヒカリも喜んでいた。
ヒカリがいつものように鈴原に弁当を手渡して、パンを買いにいっていたケンスケが戻るのを待って食事が始まった。
和やかな雰囲気で楽しい昼食だった。シンジが美味しいと誉めるたびに、アスカが嬉しそうに笑うから、ヒカリもトウジもケンスケもいつになく幸せな気持ちになって、微笑ましい光景をあわせてごちそうになったのである。
そんな楽しい昼食の後、午後の授業中にミサトの悪ふざけが少々あったぐらいでおおむね平穏のうちに放課後をむかえていた。
アスカの様子もずいぶんと普段の調子を取り戻してきたようで、シンジに対する態度とその他に対する態度の切り換えも、自分自身の中に確固たる基準を作りあげ、惣流・アスカ・ラングレーというパーソナリティを復活させつつあった。
「シンジ、そろそろ帰ろうよ。」
LHRも終わったというのに教室に居残ってトウジやケンスケと雑談しているシンジに、待つことにしびれを切らしたアスカが声をかけた。
以前のアスカを知る者にとって、このアスカの物言いだけでも驚きに値するのだが、この変化を引き出したのはシンジであるし、その恩恵をこうむるのもシンジただ一人である。
もとからその他大勢への処遇を変えるつもりは毛頭無いアスカだった。
最初にその事実を認識するのは例のごとくいつもの身近な存在の一人だった。
「なんや、惣流。おまえシンジを待っとんたんか?」
「ふん。あんたには関係無いの。アタシはシンジに言ってんの。」
「あのな、シンジは今日はわしらと遊びに行く約束なんや。」
「えぇ~。そんなのアタシ聞いてないわよ。」
「当たり前やろ。わしら惣流には何も言ってないわい。」
トウジも言葉を選べば良いものを感情を逆なでされてアスカが怒る。
「なぁんですってぇ~~~。」
「なんや?惣流は何を怒ってるんや?」
「き、き、決まってるじゃない!なんでアタシに一言もないのよ!」
「シンジを誘うのに、なんでいちいち惣流に断る必要があるんや?」
自ら餓えた雌豹の前に武器を持たず飛び出すに等しい決定打であった。
「鈴原のくせにアタシに逆らうとはいい度胸じゃない。覚悟しなさいよ!」
とたんにパァンとアスカの平手打ちがトウジの頬に炸裂した。
実に金曜日以来4日ぶりのアスカの攻撃だった。
椅子から転げ落ちるトウジを、苦笑しながらシンジが助け起こした。
トウジの口の悪さが招いた結果だから苦笑せざるを得ないのだ。
「な、なんやわれぇ。ええ根性しとるやないか!」
「あったりまえでしょ。アタシを誰だと思ってるのよ。
アタシに逆らうなんて100年早いわ!」
いつものように腰に手をあててポーズを作るアスカ。
クラスメート達にとってこれも4日ぶりの光景だった。
「ほんま、この女は根性ババ色やな。シンジ考え直せぇ。」
「ふんっだ!シンジはあんたなんかと違って、や・さ・し・い・の!
で、どこ行くの?連れてってくれないの?ん?」
シンジに向き直るなりとたんに表情が優しくなるアスカである。
もみじを頬につけたトウジが呆れてしまって二の句が継げないでると、それまで黙って苦笑していたシンジがようやく助け船を出した。
アスカが調子を取り戻したことが嬉しい。自分に甘えるアスカを可愛いと思うが、やはりアスカはアスカらしくなければいけない。
虚勢にも近い自己主張と気位の高さはアスカの構成要素のひとつで、決して切り離せるものではないし、そうすることで微妙なバランスを保つアスカの心の繊細さを知っていたから、できるだけ早くアスカが自分なりの心の落ち着きを取り戻してくれることをシンジは強く希望していた。
だから嬉しくてアスカが見とれてしまうほどの極上の笑顔をアスカに向けて、シンジはアスカの問いに応えるようにアスカに手を差し伸べた。
「おいで。いっしょに行こう。トウジもケンスケもいいよね?」
照れながらも素直にシンジの手を取って、ごく自然にシンジの傍らに自分の居場所をアスカは確保した。
そしてシンジの手をはなすと後ろ手にカバンを両手で持ち直して、腰を少しかががめると、トウジにむかって思いっきりしかめ面をして舌を出す。
「ほぉらごらんなさいよ。これがレディに対する扱いってもんよ。
あんたたちもこれを機会に覚えときなさい。」
「くぅ~~~。まったくおのれは腹の立つ女やな。」
地団太を踏むトウジにケンスケがつれないセリフを口にする。
「トウジ、お前の負けだよ。」
「なにぃ!ケンスケ、お前まで裏切るんか!」
「シンジが惣流を連れてくって言ってるんだから、俺達がとやかく言うことじゃないだろ?トウジ、あきらめろよ。」
「そんなことわいは認められん。男同士の友情が女の都合で左右されるんかぁ。
わしらの友情はそんな柔なもんじゃないはずやぁ~~~。」
絶叫するトウジを呆れたような表情でみてアスカが止めを刺した。
「ヒカリ。あんたは行かないの?」
それまでなり行きを見守っていたヒカリは、急に自分に声がかかったので、しばし逡巡してから小さな声でアスカに応えた。
「・・・だってわたしは誘われていないから・・・」
トウジが固まった。ヒカリはそんなトウジを悲しそうに見つめて佇んでいる。
どうしようかな、とシンジが考えているとアスカが肘でシンジに合図した。
ダメ、鈴原に自分で言わせるの。アスカの目がそう言っているので、シンジは了解したことを頬笑みでアスカに示し、トウジに見えないようにケンスケに合図を送った。
ケンスケもすぐにシンジの合図を了解して、トウジに見えないように身体の陰で親指を立てて了解の合図を送ってきた。
自分のおかれた状況をようやく理解したトウジだが、助けを求めて友人の顔をみるトウジに、シンジもケンスケも、自分のことは自分で始末しろ、とばかりにちらちらと視線をヒカリにむけるだけだった。
当然アスカは、さっさとヒカリを誘いなさいよ、ヒカリを泣かせたらあんた殺すわよ、といわんばかりの殺気をこめた視線をトウジに向けている。
観念したトウジがようやく口を開いた。照れて顔が真っ赤になってる。
「・・・委員長」
「な、なに?鈴原」
「すまんのやが今日もわしらに付き合ってくれんかなぁ?
そうしてもらえると嬉しいんやが・・・」
「そ、そう?あんまり遅くまでは無理だけど少しぐらいなら大丈夫よ。」
「そうか。すまんな、委員長。おおきにや。」
「ううん。わたしは全然構わないから・・・」
ヒカリが少しだけ頬を赤らめてうれしそうにトウジを見つめる。
とりあえず場が収束したころで、ケンスケが全員をうながした。
長い付き合いだけあってタイミングを良く心得ている。
「はやくしないと遊ぶ時間がなくなっちゃうよ。
委員長だけじゃなくシンジや惣流も遅くまでは遊べないんだろ?」
5人は教室を後にして学校を出ると、いつもの帰り道とは違う方向へ仲良く歩き始めた。
シンジとトウジとケンスケが前を歩き、アスカとヒカリがその後ろを歩く。
ふざけてじゃれあう三人を後ろからからかったり叱り付けたり、ずいぶんと久しぶりの懐かしい光景だった。
駅前のゲームセンターで遊んで、それから甘味所に立ち寄って、本屋に寄ったりファンシーショップを覗いたりして、楽しい時間が過ぎていった。
少し背がのびて互いに大人への階段を上りかけていることをのぞけば、全てが2年前のままだった。
やがて帰宅しなければならない時間がやってきた。
ヒカリとトウジが並んで手を振っていた。
もちろんアスカが、責任もって家まで送りなさい、と厳命したのだ。
ケンスケも途中までヒカリ達といっしょに帰ると言って手を振った。
アスカもシンジといっしょに手を振ってサヨナラした。
二人になるとすぐにアスカはシンジと腕を組んだ。シンジの体温が気持ちいい。
夕闇にのびる影が寄り添いひとつにまとまる。
アスカの表情が、さっきまでのはしゃいでいたときの明るい表情から、落ち着いた優しい表情に変り、シンジの肩にうれしそうに頬をすりよせた。
「久しぶりね、こうして遊んで帰るのって・・・」
懐かしむようにアスカがつぶやいた。
「そうだね。懐かしいよ。でも・・・」
「でも?」
「これからはずっといっしょだから・・・いつでも遊びにいけるから・・・」
シンジの声がやさしく響く。
アスカは何も応えずにシンジの肩に顔をうずめた。
言葉になんか出さなくても判ってくれる。だから今はこうしていたい。
ようやくつかんだ幸せだもの。ゆっくりと味わいたい。
取り戻せた日常。取り戻せた家族の絆。確かめ合った二人の気持ち。
そう、これからはずっといっしょにいられるから。
今はそれだけでいい。
夕日の中を歩きながら寄り添う二人の思いもひとつになっていた。
- 完 -