第七話 廊下にて

はたしてこの人は法定速度という言葉を知っているのだろうか、と疑問に思うほどのスピードで、青いルノーは第三新東京市を目指してハイウェイを激走していた。
ルノーの前後に他の車両の影は見えない。が、間違いなくガードの車がミサトの車と同じ速度で付き従っているはずだし、ここまで一般車両の姿が見えないということは交通規制をかけてハイウェイを優先使用しているのかもしれない。

「ちょっと急がないと間に合わないのよ。」

スピードを出しすぎですよと注意すると、ミサトがペロッと舌を出して笑った。

「何に間に合わないんですか?」

「お昼ご飯に時間使っちゃったからねぇ、飛ばさないと間に合わないのよ。」

「だから何に間に合わないんですか?まだ午後の1時になったばかりですよ。」

「6時間目の授業によ。」

「は?」

シンジが首をかしげて頭の上に?マークを浮かべていると、ミサトが苦笑しながら教えてくれた。

「シンちゃん。あなたの転入する高校、もう決めておいたから。
おうちで着替えを用意している間に電話しておいたの。
中学のときと同じで編入試験も何も必要ないから安心して。
新しい学校にはやく馴染んで欲しいから、今日の最後の授業でシンちゃんを紹介しちゃおうと思ってるの。だから急がないとならないってわけ。」

「・・・あのぉ。やっぱりなにがなんだか判らないんですけど。」

「あれ?言ってなかったっけ?」

「・・・何のことですか?」

「あははは。ごっめ~~ん。
シンちゃん。あたし、今、NERVから出向しててね。
第一高校ってとこの英語の教師してんのよ。
ついでに言っておくけど、シンちゃんの転入するクラスの担任もあたしよ。
月曜は2時間目が受け持ちの授業なんだけどね。
今日はお休みもらうつもりだったんだけど、あれやこれやで予定がすっかり狂っちゃったでしょう?
ここまで狂っちゃったから、ついでに6時間目のマヤの授業と2時間目のあたしの授業を入れ替えてもらっちゃったのよね。」

「マ、マヤさんも先生してるんですか?」

「そうよぉ。日向君も青葉君も非常勤講師してるしね。
リツコも非常勤の校医だったりして、怪しさ満点でしょう?」

「・・・なんでNERVの幹部の人がみんな学校にいるんですか?」

「だって暇なんだもん」

「は?」

「んもう。冗談に決まってるじゃない。
本当のことを言うとね。やっぱエヴァ絡みなのよね。
それもこれもアスカをガードするための手段の一つってわけ。」

「・・・」

「アスカに会うのが恐い?」

アスカの名前を出したとたんに沈黙するシンジにミサトは問い掛けた。

「昨日、自分の気持ちが判ったって言ってたわよね。」

「・・・はい。」

「なら、胸を張って。ちゃんと笑顔でアスカに会ってあげなさい。」

「・・・判りました。そうします。」

「そうそう。そうやって笑顔でね。」

「はい。」

気持ちの切り替えも早くなったし、他人の視線を恐れることも無くなってる。
シンジくんも2年という歳月でちゃんと成長しているのね。
でも・・・きっとアスカの今を知ったら驚くだろうな。
思春期の女の子の成長速度は男の子のそれをはるかに凌ぐものね。

でも・・・シンジくんの笑顔はものすごい武器よ。
おまけに透明でまっすぐなまなざし・・・楽しみだわぁ。

これはもうワクワクしちゃうわね。

アスカとの再会を考えて沈黙するシンジと、どうやって最後のフィナーレを飾ろうかと思案するミサトを乗せて、青いルノーはひたすらに走り続けた。

 

そして約1時間後。シンジの荷物を降ろし、ミサトもNERVの制服から教師としての服装に着替えるため、二人は懐かしいマンションの玄関に立っていた。

玄関を開けて先にミサトがはいる。
シンジは玄関の外で待っている。
靴を脱いだミサトが満面の笑みでシンジを迎えた。

「おかえりなさい。シンジくん。」

「ただいま。ミサトさん。」

もう涙はなかった。二人とも心からの微笑みを浮かべて見詰め合う。
帰ってきた。戻ってきた。遠回りしてしまったけど、ずいぶんと長い寄り道だったけど、シンジは帰ってきた。ミサトとアスカのいるこの家に。

「さってと。シンちゃんごめんね。部屋は前と同じあそこしか無いのよ。」

「仕方がないですよ。僕は男ですから持ち物も少ないし、僕もあの部屋に慣れてますから、不満はありません。でも、部屋は空いているんですか?」

「大丈夫よ。シンちゃんが出ていったときのままにしてあるから。」

「・・・ありがとうございます。」

シンジが帰ってくることを信じていたのか?
ミサトの言葉通り、シンジが最後に見渡したままの部屋の姿がそこにあった。
シンジは荷物を置いて、昨日から着たままのシャツとズボンを取りかえた。
無難な白いシャツに、グレーのパンツ。どことなく制服っぽく見えるだろう。
ミサトに制服のことを聞いておけば良かったとも思ったが、この程度の服装なら問題無いと勝手に納得することにした。

リビングに出て懐かしい室内を見渡す。2年前とほとんど変わっていなかった。
ソファと床に置いてあるクッションが新しくなり、カーテンの柄が変わっているぐらいで、他は記憶のままである。
台所にいってグラスを取って水を飲む。きれいに片付いていて、シンクもきれいに磨かれていた。初めてここに立ったときの壮絶な状態を覚えているだけに、自分がいたころと変わらぬキッチンに多少の感慨と驚きを同時に感じている。

「全部アスカがやってんのよ。」

いつのまにか着替えをおえたミサトがいた。

「・・・アスカ・・・頑張っているんですね。」

 

第一高校1年A組の教室はざわめいていた。
わざわざ時間割を変更してミサトが授業を行うはずの6時間目になっても、教師であるミサトが現れないのである。

「どうしたのかしらね。ミサト先生。」

「まぁたスピード出しすぎて警察官にしぼられてんじゃないのぉ?
無理してあわてて帰ってこなくたっていいのに。」

「アスカったら、またそんな言い方して。
ミサト先生のこと心配なんでしょ?」

「・・・まぁ少しは・・・心配だけどさ。」

「もう少し素直にならないと気持ちって伝わらないよ。」

「う~ん・・・そうなんだけど・・・難しいのよね。」

「どうして?」

「だって恥ずかしいじゃない。そーいうのって。」

「・・・アスカってかわいいのね。」

「ヒカリ!どーしてそーなるのよ!」

「だってわたしはそう思うんだもの。」

こういう時、アスカはヒカリにはかなわないと実感する。
真面目で素直で恥ずかしがりやのくせに、芯がつよくて人の世話が好きで、でもおせっかいではない。いっしょにいると心が落ち着くし楽しい。
アタシにはないものを持っている少女。

「アタシちょっとお手洗いいってくるね。」

「駄目よ。授業中じゃない。」

「大丈夫よ。お手洗いなんてすぐそこじゃない。ミサトなら音でわかるわよ。」

「それはそうだけど、あまり良いことじゃないわ。」

「まったくヒカリは固いんだから。そんなこと言うなら、ちゃんと鈴腹と相田が何やってるのか見てきた方がいいんじゃない?
また何やら男子達が集まって、こそこそやってるみたいよ。」

「え?本当?」

アスカの指摘にあわてて振り向くと確かにケンスケの席にトウジや多くの男子が集まって、ひそひそと何やら密談めいたことをやっている。
そのトウジの表情に何をおもったのか、ヒカリは唐突に彼らに向かって歩き始めていた。

それを確認してアスカは一人教室を抜け出した。
廊下の左右を確かめてトイレに向かう。
ちょうどトイレに入った時に、校庭の方からけたたましい、すぐにミサトのものと判る車のエンジン音とスキール音が聞こえてきた。
まったく・・・ミサトったら。授業中だってわかっているのかしら。

きれいに手を洗ってハンカチで手を拭きながらトイレを出ると、丁度廊下を歩くミサトの後姿が目に入った。背の高い私服姿の男の子を連れて、教室とは反対方向へ向かっている。
職員室にでも寄るのかな、と思ったのだが気付かぬうちにアスカの視線はミサトの横を歩く背の高い男の子の後ろ姿に吸い付けられてしまっていた。
そして遠ざかる二人を追うように、いつのまにか二人の後を歩きはじめていた。

さっぱりとした長さのさらさらの黒い髪。男の子らしいボリュームはあるけど、どことなく線の細い体つき。しっかりと握り締められた見覚えのある手の形。
記憶にある姿よりずっとたくましくなっているけど、あの男の子は・・・!?

 

ミサトが気配を感じて振り向くと、心ここにあらずといった雰囲気で後をついてくるアスカがそこにいた。
アスカの視線の先を確信すると、おもわずニヤリと笑って足を止める。
ミサトが立ち止まったのでシンジも立ち止まり、怪訝そうにミサトを見た。
ミサトがひじでシンジに注意を促した。
ようやくシンジも自分達の後ろに一人立ち尽くす少女の存在に気がつく。

夢にまで見た、碧い瞳を持つ少女。

記憶の中の少女は、より美しく成長していた。

腰まで届くしなやかな髪は、かつての赤みは抜け明るく輝く金色に変っていた。

そして折れそうに細い腰はそのままに、女性らしさを増したそのスタイル。

もとから奇麗だった顔立ちも、さらに美しく、大人の女性のそれへと変わりつつあり、2年の歳月がもたらした奇跡のような造形に少年の瞳は釘付けになる。

少年はただ少女の顔を見つめ続けた。

白い頬を桜色に染めて自分を見つめている少女。

知らず知らずの内に足が進み、伸ばした手の平が少女の頬に触れていた。

それでも少女は呆然としたまま、少年の瞳を見つめ続けている。

時が止まったかのように立ち尽くし見つめあう二人。

ミサトは心のなかで、それいけ、いまよ、なにやってのよ、とやきもきしながら見守っていたが、ここで手を出すと今までの苦労が水の泡になるし、想像もしてなかった絶好のシチュエーションが勝手に成立してくれたこの状況に、手を加えようなどという考え自体、彼女の思考の中からは欠落していた。

長い長い時間が過ぎたようだが、実際には10数秒だったのかもしれない。
沈黙をやぶったのはシンジだった。

「ただいま、アスカ・・・奇麗になったね。」

アスカの体がピクッと動いた。おずおずと自分の頬に当てられたシンジの手に自分の手を重ねる。

「・・・シンジ・・・ほんとに?」

「僕だよ・・・」

碧い瞳が見る見るうちに潤んで涙の粒があふれだす。

「・・・バカ・・・」

「おかえりって言ってくれないの?」

こぼれてもこぼれても涙が止まらない。どんどんあふれてくる。
頬を包む温もりに、添えた手の感触に感情が爆発する。

「・・・バカ・・・バカ・・・バカ、バカ、バカ!」

シンジの手がゆっくりとアスカの頬から離れ、あっと思った時にはもう、アスカはシンジの腕の中にいた。あまりに感情が高ぶっていたアスカは、抵抗もせずシンジの胸に顔を埋めて呪文のように叱責の言葉を繰り返す。

「・・・うっ・・・うう・・・ひっく・・・バカ・・・・・・・・・」

やがてアスカの叱責の声は押さえ切れず鳴咽となりそして号泣へと変わる。
授業中の人気のない廊下にアスカの泣き声だけが聞こえた。
シンジはそんなアスカをどうすることもできずただじっと抱きしめ続けていた。

どれだけの間そうして抱きしめられていたのだろう。
シンジの鼓動を聞いているうちに身体から力が抜けてゆき、いつのまにかアスカの身体はシンジに預けられるようにもたれかかっていた。
そんなアスカの身体をシンジはやさしく、しかししっかりと胸のうちに抱きとめ、アスカの美しい髪をいつくしむよう頬をアスカの髪に埋ずめていた。

「・・・おかえりなさい」

ようやく泣き止んだアスカが小さな声でいった。

「あっ・・・」

シンジの腕に力が入った。きゅっと音が聞こえたような気がした。
少し苦しかったけど・・・嬉しかった・・・とても嬉しかった・・・

「会いたかった・・・アスカに会いたかったんだ・・・」

シンジがささやいた。

「だから帰ってきたんだ・・・」

アスカの目から再び涙があふれだしてきた。

「もう放さない・・・僕は・・・アスカが好きだ。」

「・・・バカ・・・」

消え入るように応えたアスカの顔は、真っ赤に染まっていた。
シンジに抱きしめられていて良かった。こんな顔、見られたくない。
心地よい温かさに包まれてアスカは幸せだった。
そして判った。シンジのこと、こんなに好きだったんだ・・・

「アタシも・・・シンジが好きよ・・・」

そっと・・・シンジだけに聞こえるように・・・
シンジの胸のなかでアスカはつぶやいた。
さらに抱きしめる力を強めることでアスカの言葉にシンジが応えた。
ふたたび二人の時が止まった。

 

「ん・・・そろそろいいかしらぁ?」

二人の様子を幸せそうに見つめていたミサトだが、そろそろ時間だしと、申し分けなさそうに二人に声をかけた。

「「あっ」」X2

驚いたように離れる二人。並んで真っ赤な顔をしている。
シンジはバツが悪るそうに視線をさまよわせるが、無意識のうちに今まで腕の中にいた少女の方を気遣っている。
アスカは直前までの自分の言動を思い返して、真っ赤な顔のままうつむいてプルプルと肩を震わせている。

「・・・ミサト・・・あんたねぇ~~・・・」

「あら、あたし、何か悪いことした?
そりゃあたしはお邪魔だったかもしれないけど、アスカに怒られるようなことをした覚えはないわよ。」

「・・・」

いけしゃあしゃあとのたまうミサトに何も反論できないアスカだった。
そんなアスカの肩にシンジの腕がまわされそっと抱き寄せられた。

「僕の気持ち・・・アスカには迷惑だった?」

きっとシンジの顔、真っ赤になってるんだろうな。
シンジにされるがままに身をあずけながら、アスカはちからいっぱい左右に首を振ってこたえた。

「じゃぁ怒らないで。いいね。」

今度は首を縦に振る。恥ずかしくて言葉になんて出せない。

「ミサトさん。もう少し時間をもらえませんか?
アスカも顔を洗ってこようよ。このままじゃ教室に戻れないでしょ?」

「いいわよ。あたしは職員室に寄ってくるから少し時間をあげるわ。」

やれやれ・・・という感じでミサトが応えるのを確認して、シンジはアスカの肩を抱いたままアスカをトイレの前まで連れ戻した。

「さぁ。顔を洗ってきて。待っているから。」

「・・・うん。」

女子トイレの前に立っているというのは何となく居心地が悪いものだが、そんなシンジにニヤニヤ顔のままミサトが声をかける。

「シンちゃんたら、だ~~いたん。アスカのこと抱きしめちゃって。」

「・・・か、からかわないでくださいよ。」

「ふふふ。じゃ、あたしは職員室いってくるから、ここでちゃんと待ってんのよ。
アスカを一人で教室に返しちゃ駄目だからね。
いいわね。いっしょに居るのよ。わかった?」

なぜミサトがそんな事を言うのか理解に苦しむシンジだったが、ミサトの指示に素直に頷いて立ち去るミサトの姿を眺め続けていた。

 

アスカは、真っ赤に火照る自分のほおを冷やそうと何度も顔を洗っていた。
だがなかなか火照りが取れない。心臓の鼓動が、どきどきどきどきどきと自分の意志を無視して高鳴っているからだ。

シンジが帰ってきた。

待っていた。ずっと、ずっと、ずっと・・・待っていた。

シンジが抱きしめてくれた。

自分を包み込んでいた温もりを思い出してますます赤面する。
でも・・・嫌じゃない・・・ううん・・・とても気持ちいい・・・
暖かかった。気持ち良かった。ずっと抱きしめていて欲しかった。
ミサトの言葉がなければ離れることなくずっと抱きしめられていたのに・・・
でもいいんだ。大丈夫。

シンジが好きって言ってくれた。アタシのこと好きだって言ってくれた。
アタシに会いたかったって、アタシを放したくないって言ってくれた。

アタシも好き。シンジが好き・・・大好き・・・

 

「・・・バカシンジのくせに・・・なまいきなんだから・・・」

アスカは鏡の前で戦闘体制を取った。
腰に手をあて胸を張り毅然と顔をあげて、鏡に映る自分の姿をチェックする。

「さっきは突然だったから動揺しただけよ。負けないわ!」

なにを力んでいるのか本人も判っていないのだが、アスカは自分に気合を入れ直して、廊下で待っているであろうシンジの元に歩み出ていった。

「バカシンジ!おまたせ・・・」

せいいっぱい普通の表情を作って、いつものように腰に手をあてて胸を張る。
これがアタシなんだからとポーズを取ろうとしたアスカだったが、その虚勢は一瞬のうちに崩れ去っていた。

人気の無い廊下でアスカを待っていたシンジの顔いっぱいに広がる微笑み。
やさしくて柔らかくて昔と変らぬ暖かいシンジの微笑み。
おもわず目が吸い寄せられてしまい言葉を無くすアスカ。
そしてアスカに注がれる黒い透明な視線。シンジの瞳はまるでアスカの全てを焼き付けるかと思うほど、昔と違い微動だにせずアスカの瞳を見つめつづける。

アスカの意志に逆らい高鳴る胸。激しい鼓動に自分の頬が染まってゆくことを認識するがどうすることもできず立ち尽くす。
な・・・なんて目をして人をみるのよ・・・恥ずかしいやつね・・・
自分から視線をそらせば良いだけなのに、それも判っているのに、アスカは自分を見つめている黒い瞳が、自分だけを見詰めているその眼差しが嬉しくて、視線を外すことができなかった。

「まだ、バカシンジなんだね。でも・・・それでもいいよ。
僕はアスカさえ側にいてくれればそれでいいんだ。」

ふたたびシンジの腕が立ち尽くすアスカを抱き寄せた。
何の抵抗もせずにシンジの胸のなかに身を任せてしまうアスカ。
ようやくシンジの視線を感じなくなってアスカの思考回路が活動を再開した。

・・・なんで逆らえないんだろう・・・こんなに恥ずかしいのに・・・

・・・暖かくて気持ちいい・・・だから・・・かな・・・離れたくない・・・

・・・シンジ・・・側にいて・・・

だが、実際にはアスカの優秀な頭脳もシンジとの再会によりオーバーヒートしてしまい、自分では冷静なつもりでも既にシンジのことしか、シンジを感じるためだけにしか働いていないという事実を認識できなかったのである。